D …… 二十にして二重

◆D …… 二十にして二重


 森の奥深くにある小屋までは、監視の目も行き届かない。そんな楽観を裏切っての、騎士団による、突然の奇襲だった。ダニエルとセリアは数秒間、思考停止を余儀なくされる。

「開けろと言っている! 聞こえないか!」

 もう一度、ノックの音が響いて、ようやく二人は我に返った。ダニエルは棚から地図を掴み取り、壁に掛けられた斧を背負う。

「裏口から、逃げるぞ」

 ダニエルは扉の外にいる騎士たちに聞こえないよう、小声で囁く。そして、セリアの手を引いて、廊下を抜け裏口へと向かう。

 裏口の扉を開いた瞬間、後ろで何かが弾け、砕ける音がした。続いて、複数人の靴が床を踏み鳴らす音。玄関扉が破壊されて、騎士たちが小屋の中へ踏み込んできたのだろう。

「裏口だ! 逃がすな!」

 騎士の一人が叫ぶ声が聞こえた。それが合図だったかのように、ダニエルとセリアは小屋を飛び出して、走り出す。

(どこに逃げる?)

 走りながら、ダニエルは考える。選択肢は一つしかなかった。国境を越え、リールに逃げるしかない。幸い、昨日の偵察で、国境警備が笊なのは確認済みである。

 だからと言って、無策での強行突破には一抹の不安が残るが、最早、贅沢を言っていられる状況ではない。

「いたぞ! 追え!」

 鋭い声に、ダニエルは振り向く。背後から、騎士が追ってくる。

(人数は……三人、か)

 全員が全員、いつでも抜剣できるよう、腰に提げた剣に手をかけている。それは、抵抗すれば問答無用で斬り殺すという意思表示に他ならない。

 重々しい甲冑に身を包んでいるせいだろう、騎士たちの走る速度はそう速くはない。だが、ダニエルも伐採用の斧を持って、セリアの手を引いて走っている。

 ダニエル、セリアと騎士たちの距離は、じわじわと縮まっていった。

(このままでは、逃げ切れない)

 そう判断して、ダニエルは決断を下す。懐から地図を取り出して、セリアに手渡す。

「……これは?」

「地図を渡しておく。先に行ってくれ。俺が、奴等を足止めする」

「そんなの、いくらダニエルさんでも無茶です! 相手は、三人もいるんですから……!」

 即座にセリアが反論する。

「△のマーク……見張り小屋の手前付近で、落ち合おう」

 それを無視して、ダニエルは続けた。無茶なのは百も承知だった。しかし、他にこの窮地を脱する手段など思い浮かばない。

「心配するな。無事、追い着いてみせる」

「でも……!」

「時間が惜しい! 早く!」

「は、はい!」

 ダニエルの気迫に圧されるようにして、セリアは頷く。

「どうか、無事でいて下さいね。……約束です」

 言って、今にも泣き出してしまいそうな表情で、ダニエルを見る。

「ああ。大船に乗ったつもりで待っていてくれ」

 ダニエルとセリアの手が、離れる。ダニエルはその場で立ち止まって、仁王立ちになり、騎士たちの行く手を遮る。セリアは走りながら、一度ダニエルを振り向いて、祈るように頭を下げた。


 ダニエルが身構えるのを見て、二人の騎士が、剣を抜き、構えた。残る一人の騎士は、ダニエルの横をすり抜けて、セリアを追おうとする。

「俺の命に代えても、ここから先には進ませない」

 ダニエルが大きな動作で斧を振るい、それを牽制した。騎士は舌打ちをして後方に跳び退り、剣を抜く。

(三対一、か……)

 絶望的とも言える戦力差だった。それでも、絶対に諦めるわけにはいかない。約束を違えるわけにはいかない。

「魔女の手先が、小癪な真似をする……その鈍重な斧で、剣に勝てるとでも思っているのか?」

 言いながら、騎士の一人が、じりじりと間合いを詰めてくる。得物である斧を警戒しつつ、剣の射程圏内に、ダニエルを捉えようとしているのだ。全身から漲る殺気が、目に見えるようだった。

 ダニエルは騎士の、剣を握っているその腕に、全神経を集中する。

(そう、腕の動きをようく観察すれば)

 騎士の腕が、動いた。一気にダニエルの懐へと踏み込み、全体重を乗せて、剣を振り下ろす。

(斬撃の軌道も、見極められる……!)

 ダニエルは軽やかな身のこなしで、その一撃を回避する。攻撃を空振りして、体制を崩した騎士の脇腹に、斧の柄を打ち込む。

「ぐっ……!」

 怯んだ隙に、斧を振り上げ、横薙ぎに切り払う。斧は狙い通り、騎士の側頭部に命中した。甲冑に守られているとは言っても、重量のある斧である。インパクトの衝撃は大きい。騎士はもんどり打って、地面に倒れ伏した。

「何だと!」

 思わぬ反撃に、騎士二人は歯噛みする。脳震盪でも起こしたのだろう、騎士は倒れたまま、ぴくりとも動かない。

 騎士たちは、一度ダニエルから距離を置いた。一人はダニエルの正面に、もう一人は背後に回り、挟み撃ちの陣形を取る。

「ただの木こりと見くびっていたが、そこそこできるな。……万全を期す。同時にかかるぞ」

「了解した」

 二人は頷き合い、攻撃の機会を窺う。

(参ったな)

 倒れた騎士が『鈍重』と評していたように、元々、剣と斧とでは攻撃速度に差があり過ぎる。先程の一対一にしても、回避を念頭に置いた上でカウンターを叩き込まなければ、勝ち目はなかった。

 つまり。剣による、前後からの同時攻撃など受けようものなら、成す術がないのである。

(肉を切らせて骨を断つ。厳しいが、それしかないか)

 ダニエルは再度、騎士の、剣を握る腕に神経を集中。カウンターを仕掛けようと試みる。

(とりあえずは、正面にいる騎士の攻撃を見切ることだけに全力を注ぐ。そして、それをなるべく大きな動作で回避する。背後にいる騎士の攻撃は、致命傷にならなければそれでいい……!)

 覚悟を決めた瞬間、正面の騎士が、背後の気配が、同時に動く。ダニエルは、斧を持つ手に力を込めた。



 ダニエルから受け取った地図を頼りに、セリアは森の中を進み、何とか国境――見張り小屋付近まで辿り着いていた。

 見張り小屋からは死角となる、大きな木の裏に座り込んで、ダニエルを待つ。

(ここで、いいのかな……)

 地図を見返す。△マークのある地点、と言われても、地図は思ったより大雑把な代物で、セリアの現在位置がその地点なのかは確信が持てない。

 ただ、地図上で、△マークの隣に記してある見張り小屋が目視で確認できることから、ここは少なくともマークの近くであり、見当違いな場所にはいないだろう、と判断しただけだった。

(ダニエルさんは……無事でいるだろうか)

 水遊びの一件から、ダニエルが人並み外れた身体能力を持っているのは知っていた。それでも、相手は騎士三人である。心配で、心配で、生きた心地がしない。

(私が、走るのが遅いから、二人では追っ手を振り切れなかった。かと言って、あの場に残っても、ダニエルさんの足手纏いになるだけだった)

 結局、逃げる以外にどうしようもなかった。セリアが余計な手出しをしたら、事態が悪化するだけだった。それは理解している。しかし、感情は理性では割り切れない。

 見張り小屋に向かっている時は、兎に角必死で、何も考える余裕などなかったのだが、一箇所に腰を落ち着けて、息を整えた途端、色々な思いが入り乱れて、頭がぐしゃぐしゃになる。

 そのせいだろうか。セリアは注意力を欠いた。見張り小屋の扉が開いて、男がこちらに向かって歩いてくるのを、気付けなかった。

「……そこに、誰かいるのか?」

 背を預けている木の裏側から聞こえたその声で、セリアは初めて、自分の存在が何者かに勘付かれたことを自覚する。

 枯葉を踏み締める音がした。気配が近付いてくるのがわかる。

 セリアは足を縺れさせながら立ち上がり、脱兎の如く逃げ出した。

「おい! 待て!」

 後ろから声が追いかけてくる。セリアは振り返らない。正面だけを見て、ただひたすらに走った。



 ダニエルは息を切らしながら、合流地点へと急いでいた。その左肩には深い裂傷があり、流れ出した血が左腕全体を赤く染めている。

 ダニエルの命を賭けたカウンターは、辛くも成功。斧の一撃をまともに喰らい、同時攻撃を仕掛けた騎士二人は沈黙した。掴み取った勝利の代償が、左肩の負傷だった。

(この程度なら、問題ない。何の治療もしないまま、何日も放っておいたら流石に危ないだろうが……今すぐに死ぬような怪我ではない)

 一先ず、致命傷を負わない、という当初の目標は達成出来た。三対一の戦力差を考慮すれば、それだけで上出来と言えた。

(今は、肩の痛みに気を取られている場合ではない。万が一にも、道を間違えたり、迷ったりすることのないよう、細心の注意を払わなくては)

 小屋から国境までの地図はセリアに渡してしまったから、以前一度往復した時の記憶を辿りながら進まなければならない。

 余計な情報を意識から排除して、思考をクリアにする。無事合流地点に到着することだけを考えて、ダニエルは無心で足を動かし続けた。



 セリーヌは、応急処置キットが入ったリュックを背負い、おぼつかない足取りで森を歩いていた。

(もう、時間がない)

 空を見上げる。太陽は既に、高く昇っている。あの日見た『未来』が現実のものになるまで、時間はあまり残されていない。

 一年前の今日。国境監視員に見付かり、崖に追い詰められながら。セリーヌは魔女の異能により、一年後の未来を目にしていた。

 セリーヌを追い詰めていた筈の、国境監視員。今度は、彼が崖の縁に立っていた。彼は、遠く、何かを指差して、驚愕の表情で後退り……崖から足を踏み外した。

 声が出せないから、口だけを動かして、気をつけて、と警告した。しかし、そんな気休めで、運命は変わりはしない。今日、彼は間違いなく、崖から落ちる。

(あの崖から落ちれば、無事では済まない)

 セリーヌが、重傷を負いながらも助かったのは、落下地点の草叢が緩衝材の役目を果たし、頭部、内臓などの損傷を免れたからだと聞いた。すぐ隣には岩肌が張り出しており、そこに落ちていたら、命はなかったらしい。

(私の時のような、偶然の幸運――或いは悪運――は、そうそう起こらない。放っておいたら、あの人は、死ぬ)

 名前も知らない上、自分の敵である国境監視員を助ける為に危険を冒すなんて、馬鹿馬鹿しい……そういう思いが、なかったわけではない。

(でも、だからと言って、見て見ぬ振りなんてできない。例え誰であっても、予め決められた、運命と言う名の未来に呑み込まれて消えるだなんて気に入らない。それに何より……名前も知らない私を、口も利けない私を、何も言わず助けてくれた優しい人が二人もいるのだから)

 森を進むこと数十分。やがてセリーヌは、目的の場所に辿り着いた。

(間違いない。ここが、私が落ちた崖)

 丸一年振りだと言うのに、自分でも驚くくらい、はっきりと記憶していた。

 額に手を翳し、上を向いて、崖の天辺を見つめる。ここから落ちて、よく助かったものだと改めて思う。

(早速始めよう。のんびりしている余裕は、もうない)

 セリーヌはリュックをその場に置いて、中から小さなスコップを取り出した。そして、周囲の土を掘り返し始める。

 前以て、落下予想地点付近の草叢、岩肌に柔らかな土をかけ、草を被せておく。そうして山になった大量の土や草が、落下の衝撃を吸収、最小限に抑える。

 実に消極的な作戦だったが、仕方がない。直接会って、崖に近付かないよう説得したところで、魔女の戯言と信用されないだろう。今度こそ捕まって、牢屋に逆戻りするのが関の山だった。



 セリアは追っ手を振り切ろうと、故意に道なき道を選び、藪の中を掻き分けるようにして走った。身体中が擦り傷、切り傷だらけになったが、今は構っていられない。

 それでもやはり、地の利は向こうにあるらしい。藪が目隠しになり、振り向いても相手の姿こそ見えないが、徐々に距離を詰められているのがわかった。

(どうしよう、このままじゃ……!)

 捕まるのは時間の問題だった。それに、これ以上走ったら、合流地点から遠く離れてしまう。

(一旦、隠れよう。そして、隙を見計らってその場を離れよう)

 決断するが早いか、いちかばちか、セリアは近くにある草叢に飛び込み、身を隠した。


 不審者の後を追い、藪の中を突っ切って走り抜けた、その直後。地面が途切れているのに気付いて、ミシェルは慌てて足を止めた。

 勢い余って、崖から落ちるところだった。足元に目を遣り、思わず肝を冷やす。

「見失ったか?」

 呟いて、周囲を見回す。確かにここまで追い詰めた筈だったが、誰の姿も見当らない。

「消えた、というわけもないだろうが……」

 そこまで言って、ミシェルはここが一年前、あの『魔女』が落ちた崖であることを思い出す。

 偶然にしては出来過ぎた、気味の悪い合致に顔を顰めたその時、がさり、という音と共に、近くの草叢が動いた。

「誰だ!?」


 セリアは歯噛みした。僅かに身体を動かした拍子に小枝が肩に当たり、予想以上に大きな音を立ててしまったのである。

(よりにもよって、こんな時に)

 今の物音で、セリアの隠れている位置は完全に露呈した。藪の隙間から、国境監視員とみられる男が、こちらに鋭い眼光を向けているのが見える。

 位置を知られてしまった以上、隙を見計らってその場を離れると言う当初の予定はご破算だった。そして、これ以上鬼ごっこを続ける体力も、セリアには残っていない。

 しかし、それでもセリアは、最後の最後まで、諦めるつもりはなかった。

(こうなったら、何とか……話をして、見逃してもらうよう、頼むしかない。無理だと思うけれど、それしかない)

 無理矢理、引き攣った笑みを浮かべ、セリアは立ち上がった。


 草叢から立ち上がった少女を一目見て、ミシェルは戦慄した。何故なら、その顔は、一年前、自分の目の前で崖から落ちた『魔女』そのものだったから。

 一年前、この崖から落ちて死んだ筈の人間が、何故ここにいる……?

 仮に、奇跡的に生還していたとしても、何故再びここに来なければならない……?

 動揺し、平静を失ったミシェルには、答えは一つしか思い浮かばなかった。少女が、普通の人間とは違う存在だから。人智を超越した、魔女だから。


『気をつけて』


『魔女は死に抗う力すら身につけていると言われています。洗礼を受けた専用の処刑器具でなければ、完全には息の根を止められないとか』


『用心して下さいよ。魔女の、報復にです』


 あの時の、少女の警告が、ジュリアンの言葉が、一瞬の内に頭を駆け巡り、掻き乱す。

「そんな、馬鹿な話が……ありえない……」

 少女の、人形のような無機質な笑顔が恐怖を煽る。少女が、ミシェルに向かって一歩を踏み出す。

「く、来るな!」

 反射的に、その場で一歩後退る。と、不意に地面の感触が消え失せ、踵が宙に浮いた。

 傾いだ背中を、冷たい風が一撫でする。我に返ったミシェルは後ろを振り向いたが、時既に遅く、その両足は空を切っていた。



 粗方の作業を終え、セリーヌが、スコップ片手に汗を拭ったその時、上空に影が差した。上を向くなり、逆光の中を人影が落下してくる。

(あ……)

 何かしら、考えを巡らせる暇すらなく、人影はセリーヌの近くに墜落した。鈍く、重い音と共に、土が吹き飛び、草が舞い上がる。

 心の準備はできていたとは言え、数秒、頭が真っ白になる。からからと、崖の上から小石が転がり落ちる音を聞いて、ようやくセリーヌは動き出した。慌てふためきながら、落下地点へと駆け寄る。

(この人は――)

 盛られた土に半身を埋め、仰向けになって倒れているその人物は、間違いなく、一年前に会った国境監視員だった。左腕が派手に折れており、意識を失っているようだったが、呼吸はしっかりしている。

 作戦が功を奏してか、彼は即死を免れたらしい。怪我の程度も、セリーヌの時よりは軽いように見える。だが、安心してばかりもいられない。

(えっと、先ずは応急処置を施して、他に異常があるようなら、診療所まで連れて行かないと……)

 セリーヌが応急処置キットが入ったリュックを取りに走り出した瞬間、崖の上から、微かに声が聞こえた。

「…………! ……か!?」



「セリア! 無事か!?」

 後ろから声がかかり、セリアは振り向く。そこには、ダニエルが立っていた。

「はい……なんとか。それより、ダニエルさん、怪我を……」

「俺なら大丈夫だ。見た目ほどの重傷ではない。そう言うそっちも、傷だらけじゃあないか」

「合流地点で、待機している途中……国境監視員に見付かって、追いかけられたんです」

「何!? 監視員に?」

 言いながら、ダニエルは周辺に目を配る。

「ですが、監視員は、何かわかりませんが、驚いたみたいで、この崖から……」

 セリアは目で、後方の崖を示した。

「そうか。その監視員には悪いが、運が良かったと言うべきだろうな」

 ダニエルは安心したのか、息を吐いて、引き摺っていた斧を背負い直す。

「他の監視員が様子を見に来るかもしれない。長居は無用だ。行くぞ」

 セリアは頷いた。二人は、早足で先を急ぐ。

 が、数歩、歩くか歩かないかというあたりで、セリアは急に立ち止まった。

「どうした?」

「何か、聞こえませんか?」

 セリアは耳を澄ました。木の葉が揺れる音や、鳥の鳴き声などに混じり、途切れ途切れ、どこかで聞いたメロディが聞こえてくる。

(そう、確かこれは……一緒に水遊びをしていた時、ダニエルさんが口笛で吹いていたメロディ)

 ダニエルにも、それは聞こえたらしく、大きく目を見開く。

「セリアにも聞こえた、と言うことは……俺の幻聴ではないらしい」

 ダニエルはそう呟くなり、セリアの手を引いて駆け出した。崖を大きく迂回して、メロディの流れてくる場所へと向かう。



 崖の上から聞こえた声がダニエルのものだと気付いて、セリーヌは雷に打たれたような衝撃を受けた。

(どうして、ダニエルさんがここに……? ううん、細かい事情なんてどうでもいい――)

 今すぐ名前を呼びたい。私はここにいると叫びたい。そして……もう一度、会いたい。

 けれど、叫ぶどころか、声を出すことすらままならないセリーヌには、崖に隔てられた数十メートルの距離は、絶望すら覚えるくらいに、遠い。

(どうしよう)

 途方に暮れたのはしかし、ほんの僅かな時間だった。無意識の内、胸元に伸びていた手が、首から提げたオカリナに触れる。


『外で、オカリナを吹いたら……どこにいても、俺が駆けつけよう』


 まるで、オカリナから思い出が流れ込んでくるみたいに、一年前の、ダニエルとの遣り取りが鮮やかに蘇った。

(そうだ……私には、言葉はない。でも、代わりに、ダニエルさんから貰った音楽がある)

 そうと決まったら、早く。彼が、行ってしまう前に。

 セリーヌは目を閉じると、緊張と焦燥で指を震わせながら、演奏を開始した。

 思い出すと感傷に浸ってしまうから、ダニエルの元を離れて以来、滅多に吹く機会がなかった。だから、上手く吹けるかどうか不安だった。

 それでも、大丈夫、腕は落ちていない。序盤こそたどたどしかったものの、一度流れに乗れば、指先は踊るように軽やかに動いて、あの、透明で美しいメロディを紡ぎ出す。



 耳に響く音楽に、ミシェルは目を覚ました。

 魔女の容貌を見て、驚いて、崖から落ちたが……まだ、生きている。

 はっきりとしない意識の中、生を確かめるように、手に力を込める。耕された畑を思わせる柔らかな土が、手の内側でくしゃりと潰れた。

 どうやらミシェルは、幸運にも柔らかい地面に落下し、助かったらしい。

 と言っても、手放しで無事を喜ぶわけにもいかない。左腕は折れて動かせないし、肋骨もいかれている。

 一旦見張り小屋に戻って、応急処置を施したら、しかるべき場所で治療を受けなければ……そう思いながら、よろよろと身体を起こす。

 それにしても、この音楽は……?

 立ち上がり、正面を向いて、ミシェルはまた、その場に倒れこみそうになった。

 ミシェルが動転するのも無理はなかった。何せ、つい先程まで崖の上にいた魔女が、今度は崖の下にいて……何食わぬ顔で、オカリナを吹いているのだから。

 きっと、この、心を捉えて離さない音楽も、何かの呪いに違いない――

 もう、ミシェルは魔女の、恐るべき異能を疑わなかった。真剣に魔女の話をしているジュリアンに対して、悪い冗談だ、と否定したことを、申し訳ないとすら思った。

 崖から落ちて何事もないような魔女を前にしては、最早成す術はない。

 いや、まだ、諦めて膝を折るのは早い――ミシェルは必死に、自らを鼓舞する。

 崖から落ちてボロボロのミシェルではあるが、その両足は無傷である。何とかして魔女の隙さえ作り出せれば、この場から逃げ果せ、小屋に戻れるかもしれない。

 ミシェルは腰から警棒を抜くと、魔女に近付く。この警棒も城からの支給品だ。柄には教会の聖なる紋章が刻まれている。一撃でも当てることが出来たなら、足止め程度にはなってくれる、そう信じたい。

 ミシェルが警棒を思い切り振り上げたその時、魔女の目が開いた。そして、彼女は、これ以上ないくらいの、満面の笑みを浮かべる。

 まただ。理解できない。意味がわからない。何故笑う。ミシェルは惑乱の極致に達した。得体の知れぬ恐怖に突き動かされ、魔女の脳天目掛けて警棒を振り下ろす。

 警棒は、魔女の頭を叩く直前で止まった。ミシェルの腕が、何者かに掴まれていた。

 誰だ、と叫んで振り向こうとした瞬間、首筋に何か重いものが落ちて、ミシェルの意識は闇に沈んだ。



 首筋への手刀で、監視員はあっけなく崩れ落ちた。持っていた警棒が、地面に転がる。

 演奏が軌道に乗り、目を開けた直後。監視員が目の前で警棒を振り上げていても、セリーヌは恐くなかった。それどころか、嬉しくて、ひとりでに笑みが零れた。

 セリーヌの瞳は最初から、監視員なんて見ていなかった。その後ろに立っている、木こりだけを映していた。

「セリーヌ……無事で――」

 言い終わる前に、セリーヌはダニエルの胸に飛び込む。ダニエルは斧を手放し、セリーヌを抱きとめた。

 しばらくの間、そうしていると。遠くから、誰かが駆けてくる音がした。セリーヌはそっと身体を離し、ダニエルの顔を見上げる。そして、その視線の先を目で追う。

「途中で崖から飛び降りるなんて……ダニエルさん、無茶し過ぎです……!」

 言いながら、ダニエルに駆け寄ろうとして、その傍らにいる人物と目が合い――セリアは硬直した。

「セリーヌ……?」

 セリアは、信じられない、といった表情で問いかける。セリーヌは、静かに頷いた。

 凍りついたまま止まっていた彼女たちの時計が、一年の時を経て動き出す。二人は、互いの存在を確かめるかのようにゆっくりと歩み寄り、抱擁を交わした。

 途端、感情が堰を切って、涙と共に溢れ出す。セリアはセリーヌの頭を抱いて、嗚咽を上げる。セリーヌはセリアの胸に顔を埋め、幼子のように泣く。


「やはり、二人は……」

 二人が泣き止んだのを見計らい、ダニエルは聞いた。

「そうです。双子です」

 セリーヌの髪を撫でながら、セリアは答える。

「あの……ダニエルさん」

「なんだ」

「私……夢を見ているんじゃないんですよね? 私も、セリーヌも、生きて、ここにいるんですよね?」

「ああ――」

 言いかけて、ダニエルは息を呑んだ。その視線は、一点に釘付けになっている。

「いや、ひょっとすると」

 ダニエルの声は掠れ、震えていた。セリアも、セリーヌも、ダニエルがこんな声を出すのを、初めて聞いた。

「これは……夢かもしれん……」

 気怠そうな表情……くしゃくしゃの白衣……口に咥えたパイプ……全ては、ダニエルが孤児院を卒業した、あの日から変わっていない。

 行く当てもないのに孤児院を辞めた、と風の噂で聞いた。もう二度と、会えないだろうと思っていた。

 その、ソフィーが、こちらに向かって歩いてくる。

 彼女は一年前、崖から落ちて動けないでいるセリーヌを救い、以来、自身の経営する診療所で面倒を見てきた。今朝からどこか様子のおかしかったセリーヌを心配して、この森まで追って来たのだ。

 ソフィーは探るように、ぐるりと辺りを見回す。

 抱き合っている二人の少女。その足元に転がる伐採用の斧。重傷を負い倒れている国境監視員。忘我の表情でソフィーを見つめる男。

「お、おい。これは、どういう……」

 セリーヌは何の為に、危険地帯である国境近くの森に足を踏み入れたのか。この場所で、一体何があったというのか。まるで状況が把握出来ず、ソフィーは戸惑う。

 そんな中。

「ソフィー、先生」

 ダニエルが、ぽつりと零す。

「え」

 と、ソフィーは振り向く。そして絶句する。

「……ダニエル、なのか……? 本当に……?」

 近付いて、やっとの思いでそれだけ言う。

「はい」

 我ながら情けない顔、情けない声だ、とダニエルは自嘲する。どうも、彼女を前にすると、ダニエルは孤児院時代に戻ってしまうらしい。

「あ……う……その……久しい、な」

 ソフィーもソフィーで、負けてはいなかった。久々の再会で、積もる話もある筈だったが、突然の出来事に言葉が出て来ない。感慨に目元を潤ませ、何をするでもなく立ち尽くす。

 世界が呼吸を止めたような静寂の中、二人の時間だけが、緩やかに流れる。

「そ、それより、怪我人の手当てだ! 細かい事情は、それから聞く。そこの国境監視員はあたしが診る! セリーヌは、彼の――ダニエルの応急処置を頼む!」

 矢庭に早口で捲し立てて、ソフィーはダニエルに背を向けた。この年をして、小娘のように頬を紅潮させている自分の顔を、見られたくなかった。

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