十五 …… 十月六日、朝
◆十五 …… 十月六日、朝
セリーヌは目を開くと、ベッドから起き上がった。ダニエルは、と見ると、椅子に座ったまま眠っていた。手には彫刻刀が握られている。
(あれから、何か作っていたのかもしれない)
セリーヌはそっとダニエルに近付いて、覗き込む。膝掛けの上に、何かが乗っていた。それは、首に掛けるような紐が付いた、小さな笛だった。
(……オカリナ?)
声は出ないのに、思わず口を動かしてしまう。すると、気配に気付いたのか、ダニエルが目を覚ます。
「む、おはよう」
ダニエルは目頭に指を当て、会釈する。セリーヌは頷くと、オカリナを指差して、首を傾げる仕草をした。
「ああ、このオカリナか。昨夜、作りながら眠ってしまったらしい」
言いながら、ダニエルは未だ握ったままの彫刻刀に気付いて、テーブルの上に置く。
「一生懸命、彫刻に取り組む姿を見ていたら、俺も久々に何か作りたくなってな。もし良ければ、吹いてみてくれ」
オカリナを手に取り、セリーヌに差し出す。
セリーヌは受け取ったオカリナを、繁々と眺めた。梟の彫刻を見た時も思ったが、一晩で作ったとは思えない出来栄えである。森に住む小人がダニエルの仕事を手伝っていると言われても、信じてしまうかもしれない。
『外で吹いてみて いいですか』
「ああ」
オカリナを首から提げ、作業着のホルダーに用紙と羽ペンを挟み、セリーヌは裏口の扉を開く。
切り株の椅子に座り、オカリナを吹こうとして……思い当たる。
(……どうしよう)
丁度、ダニエルも裏口から外に出て来ていた。困り顔をして、ダニエルを見る。
「どうした?」
『曲を 吹けません』
書いて、力なく肩を落とす。それは、オカリナを上手に吹く技術がないというだけの意味ではなかった。そう、セリーヌには耳に親しんだ、馴染みの音楽がないのである。
最後に音楽を聴いたのは、いつだっただろう。セリーヌがそれを思い出すには、十数年も記憶を遡らねばならなかった。
遠い昔――家族で出かけた、小劇場でのコンサート。パイプオルガン、ヴィオール、クラリネット……様々な楽器たちの奏でる重厚な音楽と、その見事な調和に、子供ながら、深い感銘を受けたことを覚えている。
だが、時間の経過と共に、一度聞いただけのそのメロディは色褪せて、記憶の彼方に消えてしまった。今となっては、思い出そうとしても思い出せない。
『知っている曲が ないんです』
「そうか……俺の知っている曲で良いなら、教えるが」
微妙に暗い気分になってしまったセリーヌに、ダニエルが助け舟を出してくれた。
『お願いします』
と、セリーヌは頷く。どちらにしても、オカリナの扱いは教えてもらわなければならないのだから、一石二鳥だった。
「ここと、ここを押えて、吹く。次は、ここと、ここになる」
ダニエルの言う通りに、指を動かす。思っていたより意外と簡単だったから、経験のないセリーヌでも、すぐにそれなりの演奏ができるようになった。
オカリナから途切れ途切れに、森の夜明けをイメージさせるような、透明感のあるメロディが紡がれる。
『素敵な曲ですね』
「実は、俺もこの曲の正確な曲名は知らない。ただ……このメロディだけが、とても印象に残っている。忘れようとしても、忘れられない」
何も、忘れようとすることはないのに、と思いながら、セリーヌはオカリナを口に当てる。
それから、一、二時間の練習を経て。セリーヌは大分、オカリナが上手くなった。ダニエルの教えてくれた曲も、もうつっかえずに吹ける。
「なかなか上達が早いな。楽器演奏が初めてとは思えない」
ダニエルに褒められ、セリーヌは照れ笑いを浮かべる。
『何故かわかりませんが…… オカリナって どことなく 親しみ易いように思います』
「そうだな。オカリナは、楽器の中では比較的、取っ付き易い部類に入るだろう」
『はい 素朴で耳に馴染む音色ですから 私みたいな初心者が吹いても そこそこ味わいが出ます ……そういえば 以前読んだ少年少女向けの冒険物語にも オカリナが出てきました』
セリーヌは、オカリナを手に、空を見上げる。
『確か 主人公のお姫様がオカリナを吹くと どこからともなく愛馬に乗った王子様が駆けつけて…… 危機から救い出してくれる そんな物語でした』
「やはり、そういう物語に、憧れを抱くものか?」
ダニエルが聞く。セリーヌは少しだけ考えてから、ペンを動かした。
『これでも 女の子ですから』
颯爽と現れて、姫君の危機を救う王子……というシチュエーションは、全国の少女の内面に潜んでいる、普遍的な理想ではないかと、セリーヌは思っている。
でも、年を重ねるに従って、少女は気付く。甘い夢想から覚めて、苦い現実を噛み締める。自分はただの下民で、姫君でも何でもない。洗練された王子なんて、妄想の中にしかいない。どんなに困っても、どんなに苦しんでも……誰も救ってなんか、くれない。
きっと、それを知る痛みが、子供が大人になる為の、通過儀礼。
『いくら憧れていても 空想と現実の区別はつけないと駄目ですけどね 当たり前ですが…… どれだけオカリナを吹いても 現実には 王子様は駆けつけてくれない』
セリーヌの物憂げな横顔を見て、何か思うところがあったのか。ダニエルは、薄く笑った。
「王子は駆けつけないが……護衛なら駆けつけるぞ」
『どういう意味ですか?』
「言葉通りの意味だ。外で、オカリナを吹いたら……どこにいても、俺が駆けつけよう」
そう言うダニエルは、いつになく楽しそうだった。セリーヌは、彼のパーソナリティの一端を垣間見たような気がした。
『そして 危機を救ってくれる?』
「必要とあれば」
ダニエルに釣られるように、セリーヌの表情も自然と柔らかいものになる。
『約束してくれますか?』
「任せてくれ」
ダニエルは力強く答えると、胸の前で、拳をぐっと握り締めた。
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