九 …… 十月四日、夕刻
◆九 …… 十月四日、夕刻
「今帰った」
声と共に、小屋の扉が開く。ダニエルが、沢山の荷物を抱えて帰ってきた。セリーヌはぺこりと頭を下げ、それを迎えた。
「とりあえず、日用品と、その他必要そうな物を、適当に見繕って買って来た」
ダニエルは、荷物の入った麻袋を一旦床に置いてから、中の物を取り出して、順々にテーブルの上に並べていった。セリーヌはテーブルを挟み、ダニエルの向かいに立って、買って来た品々を眺める。
「いつまでもそのローブ一着というわけにはいかんだろうから、服を買って来たが……これくらいしかなくてな」
ダニエルは両手で服を広げて、セリーヌに見せた。それは小さめの――それでも、セリーヌには大き過ぎるくらいの――作業着だった。ポケットが沢山付いていて、腰周りのベルトには、ドライバー等の工具を留めておくホルダーがあった。それらの付属品は全て、セリーヌには無用の長物であったが、ダニエルが怪しまれず購入するには、こういった服以外なかったのだろう。
「それから……後は、靴だな」
と、ダニエルは荷物を漁り、いくつかの品物と同時に、今度は靴を取り出した。
ダニエルが靴について話している最中、セリーヌはテーブルに、何枚重ねにもなった小さな用紙が置かれているのに気付いた。御誂え向きに、隣には羽ペンと、インクの入った瓶まである。
(……紙と、ペンがある)
これを使わせてもらえれば、筆談による意志の疎通が図れるかもしれない。セリアとも、そうして会話を交わしていたのだ。
「――そういうわけで、サイズは若干大きいかもしれないが……おっと、なんだ?」
セリーヌはダニエルの腕をつんつんと突付いてから、用紙を指差す。
「ああ、この紙か? これは、仕事関係の備忘録として使うものだ。一度に使うわけではないが、買い溜めておくと何かと便利だからな」
ダニエルは靴を置くと、そうだ、と言って麻袋の中に手を突っ込む。
「果物も買って来た。小腹が空いた時にでも食べるといい」
ダニエルが差し出したのは、林檎だった。まるで、滴り落ちる鮮血のように真っ赤な色をしていた。
それを目にした途端、セリーヌは激しい恐怖に襲われた。手足が小刻みに震え、制御できなくなる。
(落ち着くんだ、これはただの林檎で、血なんか付いていない……!)
思いとは裏腹に、震えは手足から、全身にまで伝染する。発作めいた過呼吸で、息が苦しくなる。キッチンでの惨劇、その断片が、フラッシュバックのように蘇った。
「どうした!?」
ダニエルが異変を察して、慌てた声をあげる。
セリーヌの動揺がダニエルにも伝播したのか、ダニエルは手にしていた林檎を取り落とした。
鈍麻した時間感覚の中を、スローモーションで、林檎は床へと落ちていく。
(あ……)
声は出ないのに、口だけがぽかんと開いた。足元がぐらついて、床に膝をつきそうになった。
林檎は乾いた音を立てながら床を転がり、壁にぶつかって動きを止めた。
(このままじゃ、駄目。早く、なんとかしないと)
セリーヌはテーブルに掴まるようにして立ちながら、用紙を一枚抜き出した。震える右手でペンを取り、用紙に文字を綴る。
『林檎は 怖い 嫌い』
やっとの思いで、それだけ書いた。
「あ、ああ……そうなのか、悪かった」
ダニエルは急いで林檎を拾うと、裏口から外へと駆け出した。
数分くらい経ってから、ダニエルは戻ってきた。その頃には、セリーヌの震えも治まりかけていた。
「林檎は、外の、目の触れない場所に置いてきた」
セリーヌは頷くと、先の用紙にペンを走らせ、ダニエルに見せる。
『ごめんなさい 落ち着きました もう大丈夫です』
「そうか。ならいいんだが……それより、文字が書けるとは驚いた。アミアンの識字率は高いとは言えない。だから、書けないものと思い込んでいた」
セリーヌとセリアは、子供の頃から、専属の教師に読み書きの基礎を教わっていた。気品と教養を兼ね備えた女性に育ってほしい、というアルテュールの教育方針からだった。
それが一般家庭からかけ離れた、特殊な環境だったと知ったのは、両親を亡くし、リュシーの屋敷に引き取られてからである。
「ついで、と言っては何だが、一つ聞いておきたいことがある。昨日、梟の彫刻を持って……その、泣いていたが、あれにも何かあるのか? 詮索するわけではないが、何かしらの理由で見たくない、不快になると言うのなら、目の届かない場所に置くなり、対処するが」
『違うんです』
と、そこまで書いて、ペンが止まる。そこから先は、あまり書きたくなかった。でも、今更誤魔化したって仕方がない。正直に白状する。
『梟が ひとりぼっちで 寂しそうだったから』
用紙を目の前に翳して、顔を隠す。この理由は、ちょっと、いやかなり、恥ずかしいものがあった。
「そ、そういうものなのか。わかった。ともかく、そのままにしておいていいと言うことだな」
ダニエルが若干、引いているように見えて、セリーヌは赤面する。続いて、言い訳の一つも書き足したい衝動に駆られたが、フェルマーが書き残した定理の如く、用紙に残された余白は狭すぎた。
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