幕間一 『過去の記憶』

■幕間一 『過去の記憶』


 アイル孤児院、地下一階、懲罰房。

 多量の湿気を含んだ澱み切った空気と、身体に纏わりつくような重苦しい暗闇が、その部屋を支配していた。光源は、扉の上部にはめ込まれた鉄格子から漏れ出す、薄暗い廊下の灯りだけである。

 部屋の中心で、ダニエルは襤褸雑巾のような格好をして、丸まっていた。

(エミールが、死んだ……)

 先程、職員から聞かされた言葉が、呪詛のように頭の中で反響していた。

(エミールが……)

 数日前、会話を交わしたばかりなのに。また遊ぼうと約束したばかりなのに。もう、二度と会えないなんて。

(信じられない)

 ダニエルは失意のまま、寝返りを打った。人伝に聞いただけだから、現実感がまるでない。

(エミールが死んだなんていうのは、規則を破った俺への罰として、職員が聞かせた性質の悪い冗談で……)

 ここから出たらまた会える。元気な顔を見せてくれる。そんな、何の根拠もない妄想にすら、縋りたい気分だった。

(今、何時だろう)

 ふと、そんなことを思う。

 地下にあり、明り取り用の窓もない懲罰房内は、常に深い闇に包まれていて、昼も夜もわからない。長時間閉じ込められていると、体内時計は狂い、時間感覚は麻痺する。職員が持ってくる食事も、不定期で、都合次第で時間が大幅にずれたりするから、現在時刻を知る指針にはならない。ダニエルが時間を見失うのも、無理からぬことだった。

(喉、渇いたな……)

 劣悪な環境の所為か、食欲はあまり湧かなかったが、喉の渇きは強烈だった。乾燥した咽喉の粘膜が張り付いて、ひりひりと痛む。

 職員が前に食事――パンとスープだったか――を持ってきてから、丸一日以上経っている気がする。分厚い鉄扉の前に、空になったコップと、スープの器が置かれたままになっているのが、ぼんやりと見えた。

 と、その時、遠くから誰かの足音が聞こえた。食事を持ってきてくれたのかもしれない。ダニエルは立ち上がる気力もなく、赤子のように這いずって、扉へと向かった。扉の下部に設置された、高さ二十センチ、幅五十センチ程度の食事差し入れ口の前に陣取る。

(まるで、刑務所だ)

 このハッチを見る度、そう思った。脱走防止の措置なのだろうが、孤児院の設備としては、明らかに度が過ぎている。

 足音が近付いてくると同時に、話し声が漏れ聞こえてきて、ダニエルは聞き耳を立てた。足音は……二人分。片方は男、片方は女。二人はどうやら、激しく言い争っているようだった。女が、大きな声で何事かまくしたてている。

(ああ、この声は――)

 ダニエルは、女の声に聞き覚えがあった。孤児院の医務室に常駐している、医師のソフィーである。いつも気怠そうな表情を浮かべていて、くしゃくしゃの白衣と、口に咥えたパイプがトレードマーク。彼女は、職員の中で唯一、ダニエルが信を置く人物だった。

 声を聞いて、すぐにソフィーだと気付けなかったのは、彼女にしては珍しく声を荒げていたせいかもしれない。

 足音は揃って、鉄扉の前で立ち止まった。鍵穴に鍵が差し込まれたらしい。開錠を示す、小さな金属音が響いた。

 鉄扉が物々しい音を立てて、開く。廊下の灯りが、懲罰房内に差し込んでくる。

 ダニエルは目を細め、顔を上げた。開き切った扉の向こうに、職員とソフィーが並んで立っていた。互いに、不機嫌そうな表情を隠そうともしない。

「出ろ」

 扉を開けるなり、職員が吐き捨てるように言った。その職員を押し退けるようにして、ソフィーが前に進み出た。

「ダニエル、無事か」

 ソフィーはダニエルの傍らに跪いて、声をかける。ダニエルは黙って頷いた。その様子を一瞥してから、舌打ちを残して、職員は立ち去った。


 ダニエルは、ソフィーに肩を借りて、医務室へと向かった。

 孤児院に戻ってすぐに懲罰房に入れられたから、服は泥だらけのままだった。身体を拭いてもらい、新しい服に着替えてから、手当てを受ける。

「何故、森の中なんかに入った?」

 折れた左手の指に添え木をあてがい、包帯を巻きながら、ソフィーは尋ねる。

「……規則で、入ってはいけないと言われているから。反抗の、つもりでした」

「気持ちはわかるが……あまり波風を立ててくれるな。あんたは不器用過ぎるんだ。少しは処世術ってものを身に付けてくれないと、危なっかしくて見ていられない」

 言ってから、ソフィーは気まずそうに視線を逸らす。

「まあ……そんなこと、あたしに言われたくはないかもしれないがね」

 ダニエルは、懲罰房へ向かう途中、ソフィーと職員が言い争っていたのを思い出す。おそらくソフィーは、ダニエルの体調を気遣い、一刻も早く懲罰房から出すよう、進言してくれたのだろう。

 ソフィーは職員の中では一番年若く、ダニエルといくつも違わない。それ故、孤児院専属の医師という立場でありながら、所詮は小娘、と見下されており、孤児院内での発言力も無に等しかった。そのあたりの『大人の事情』は、ダニエルも知るところである。

 にも関わらず、ソフィーは、職員に噛み付いてまで、ダニエルを懲罰房から出してくれた――その事実が、ダニエルには何より嬉しかった。

(ソフィー先生……ありがとう)

 面と向かって言葉にするのは、あまりにも照れ臭かったから。ダニエルは心の中で、ソフィーに頭を下げ、礼を言った。

「よし、次は足だ」

 ソフィーは指の処置を終えると、徐に席を立った。ソファーの脇に置かれていたオットマンを、ダニエルの座る椅子の正面まで運んで来て、足を伸ばすよう指示する。

 簡単な触診と問診の後、応急処置を施す。一通りの処置を済ませてから、ソフィーは机に置かれていたパイプを咥え、一息ついた。

「ふうん。中度の内反捻挫だな。炎症が治まるまで――そうだな、最低でも数日間――医務室で安静にしているといい」

「しかし……」

 ダニエルは目を伏せる。そもそも、捻挫程度での療養を許可するような環境であれば、ダニエルは怪我の治療も受けられないまま、懲罰房に放り込まれたりしなかっただろう。

「問題ない。職員連中には、あたしから言っておく」

 ダニエルの不安を打ち払うように、ソフィーは自信に満ちた口調で言った。

 医務室の奥にあるスペースまで歩いて、カーテンを引く。その向こう側に、パイプベッドが一組、並んで配置されているのが見えた。

「ほらほら、怪我人は余計な気を遣わない。ベッドまで付き添ってやるから、無理せず寝ていろ」

 ダニエルはソフィーの介助を受けて立ち上がり、促されるまま、ベッドに横になった。何日も固い石造りの床で寝かされていたものだから、柔らかなマットレスの感触が背に心地良い。

 ソフィーはダニエルの胸元あたりまで、そっとキルトを引き上げると、足首の下に折り畳んで重ねたタオルを敷いた。

「皮下出血と膨張がみられるから、抹消循環促進の為にも、足は身体より上げておくといい。あたしは、先の机で事務処理の続きをしているから、何かあったら呼ぶんだぞ」

 言いながら、ソフィーはダニエルに背を向け、カーテンに手をかける。

「あの……ま、待って下さい! ソフィー先生!」

 そこで慌てて、ダニエルはソフィーを呼び止めた。

「どうした? ダニエル君は、添い寝がご所望か?」

 悪戯っぽく微笑を浮かべながら、ソフィーは振り向く。いつもなら真っ赤になってどぎまぎするところだが、今はそれどころではなかった。

(エミールの安否を、聞かなければ)

 本来であれば、ソフィーと顔を合わせて最初に確認しておくべき事柄だった。しかしダニエルは、それを今の今まで、聞くことが出来ずにいた。

 信頼するソフィーから直接『エミールが死んだ』と聞かされたなら……その瞬間、一欠片だけ残っていた希望は、粉々に砕け散ってしまう。ダニエルは自身の中で『エミールが死んだ』という事実を確定させてしまうのが、どうしようもなく怖かったのだ。残酷な真実と正面から向き合うことを恐れ、事実確認を先送りにしてしまうのが、ダニエルの悪癖だった。

 ダニエルは勇気を奮い立たせて、喉の奥から言葉を搾り出す。

「エミールが……エミールが、死んだっていうのは、本当なんですか」

 金縛りにでも遭ったように、ソフィーの動きが止まった。涼しげな微笑は一転して、憮然とした表情に変わる。その反応だけで十分だった。発言を待つまでもなく、ダニエルはエミールの死を確信する。

「……残念ながら」

 ソフィーは短く、それだけ口にした。

「誰から聞いた、と問うまでもないか。……ろくでなしどもが。いつ切り出すべきか、機を窺っていたあたしが、まるで道化のようじゃないか」

 そう言って、憎々しげに眉根を寄せる。胸の前で組み合わせた両腕は、僅かに震えていた。

「昨日の早朝……怪我人が出たから診るようにと職員に呼ばれて、懲罰房に向かった。エミールは、懲罰房の奥、壁に凭れ掛り、ぐったりとしていた。意識が朦朧としているようで、一目見て危険な状態だとわかった。急いで担架を用意させて、医務室まで運んだが……ベッドに寝かせた時には、もう息はなかった。頭頂部と側頭部に外傷があり、そこから出血した痕跡がみられたが、生命に別状のあるようなものではなかった。推測だが、崖から落ちた時に頭を強く打っていて……脳内出血か何かを起こしていたのだろう。仮に、すぐに医務室へ運ばれて来たとしても、助けられたかどうかはわからない」

 煙と一緒に大きく息を吐き出して、ソフィーは続ける。

「しかし、それでも、最期はベッドの上で休ませてやりたかった。あんな場所で……何日も……」

 言葉に詰まり、ソフィーは床に視線を落とした。そのまま、無言の時間が過ぎる。ベッドの横に吊るされた時計が時を刻む音だけが、部屋に響く。

「……エミールは今、どこに?」

 ダニエルは、ベッドから上半身を起こしながら聞いた。

「孤児院の、裏手だ」

「そこへ、連れて行ってもらえませんか?」

 ソフィーは少々逡巡してから、わかった、と頷いた。古びた棚をごそごそと弄くり、中から松葉杖を取り出して、ダニエルに手渡す。

「無理はするなよ?」

「はい」

 松葉杖片手に、ダニエルは覚束無い足取りで立ち上がる。

 医務室には、直接孤児院の庭に出ることができる扉がある。その扉を通って、二人は外に出た。外は、丁度日が沈んでいくところだった。ダニエルは空を見上げ、ああ、夕暮なのだ、と認識する。数日振りに、時間の感覚を取り戻す。ヴェールのように薄い雲の切れ間を縫って地面に降り注ぐ真紅の光は、どこか神秘的に感じられた。

 霧雨がちらつく中、外周を辿るようにして、孤児院の裏手に回る。大きな木の下で、ソフィーは立ち止まった。その視線の先には、土砂が小さな山を作っていた。

「ここが……?」

 ダニエルの問いかけに、ソフィーは静かに首肯する。

 献花どころか、墓標すらなかった。土の掘り返された痕跡だけが、エミールがその場所に眠る証だった。

 今日までの、エミールと過ごした日々が、走馬燈のように過ぎっては消える。耐え切れず、その場に崩れ落ちて、ダニエルはぼろぼろと涙をこぼした。せめて、ソフィーと一緒にいる時だけは気丈を装っていたかったが、もう限界だった。ソフィーはダニエルに寄り添い、肩を抱いてくれた。ソフィーに縋り付くようにして、ダニエルは涙が枯れるまで泣いた。


「あたしはもう、ここを辞めようと思っている」

 医務室に戻ってしばらくして、ソフィーはぽつりと漏らした。

「今までだって、何度辞めようと思ったかわからない。だが、辞めることは逃げることと同義だと考えて、何とか踏み止まってきた。しかし、今回ばかりは、愛想が尽きた……元々、尽きる愛想など持ち合わせていないつもりだったんだがね」

 ソフィーはパイプに火を入れた。憔悴し切った表情だった。多分、ダニエルも似たような表情をしているに違いない。

「あたしが医者を目指すようになった切欠は、両親を病気で亡くしたことだった。当時、我が家の財政は逼迫していてね、生活だけで精一杯、エンゲル係数120パーセント。おかげで二人とも、医者に診て貰えず、満足な治療を受けられないどころか、死因となった病名すらはっきりしない有様だった。それが、何より悔しかった。こんな理不尽があって堪るか、と思った。そういう事情もあって、あたしは、恵まれない者、貧しい者を助ける医者になろうと決意したわけだ。ふふ、理想だけは高いだろう? そして、あたしは、ここ――アイル孤児院で働くことになった」

 ソフィー先生が、プライベートな話をするなんて珍しい。そう思いながらも、ダニエルは黙って耳を傾けた。

「ここであたしは、理想と現実の落差というものを見せ付けられた。孤児院の目を覆いたくなるような現状は、ダニエルも知っての通り。潤沢な筈の予算は本来の目的に使われることなく闇に消え、医務室と常勤医は体面を取り繕う為だけのお飾りだ。これでも最初は、色々と抵抗した。この腐った構造を、どうにか打ち壊してやろうと思ってね。しかし、老獪な院長や幹部連中を相手に、そうそう上手く事が運ぶわけもない。目論みは尽く失敗に終わり……その度、無力感に苛まれた。結局、あたしは、大仰な理想を掲げながら、一人では何もできない、誰も救えない、ただの小娘だったということだ」

 ソフィーは机に肘をついて、手の平を額に当てた。

(そんなことない。ソフィー先生は、俺を救ってくれたじゃないか)

 そう思いながら、ソフィーの横顔を見つめる。エミールがいなくなり、その上、ソフィーまでこの孤児院を離れてしまったら……それを考えると、心細くて堪らなかった。

(――辞めるなんて、言わないでください)

 そんな台詞が喉まで出かかったが、素直に言えるわけもない。と、不意に、ソフィーがダニエルを見た。視線が交差する。

「どうした?」

 その、憂いを帯びた笑顔に――こんな時だと言うのに――ダニエルの心臓は跳ね上がった。何を言えばいいのかわからなくなり、条件反射で、目を逸らしてしまう。

 そうして、所在なさげに視線を彷徨わせる内、偶然、机の上に置かれた『あるもの』に目が留まった。ダニエルは内心の動揺を悟られまいとして、無理矢理話題を切り替える。

「あれは、何ですか?」

 そう言って、机の上を指差す。

「ああ、パイプだよ」

 と、ソフィー。

「パイプ? ソフィー先生がいつも咥えている?」

 ダニエルは首を傾げた。机に転がっている穴の開いた歪な木片と、ソフィー愛用の艶やかな色合いのパイプが頭の中で繋がらない。

「そう。製作途中のベントパイプだ。パイプは主に、ブライヤと言う木の根を原料として作られる。これはその原木。もう旋盤で穴を開けてあるから、後は、彫刻刀で形を作り、鑢で削って、染料と蝋を塗る……それで完成だ」

 ソフィーは机の引き出しから彫刻刀を取り出し、彫るような仕草をしてみせる。

「先生、彫刻の趣味があったんですか」

 ダニエルが聞くと、ソフィーは頷いた。

「まあね。元々は、今後、外科治療の基礎――創傷処置など――を学ぶことを意識しつつ、手技の訓練も兼ねて始めたものだったんだが、それが思いの外、奥深く、面白かった。何の変哲もない木片があたしの手を通して様々に形を変える。パイプになったり、オブジェになったり、オカリナになったりする。ダニエルも興味があるなら、何か作ってみるか? あたしが一から教えるから。いい気晴らしになるぞ」

 正直言って、彫刻には、別段興味はなかった。外で身体を動かしている方が楽しいと思った。それでも、答えは既に決まっていたから、迷ったりはしなかった。

「彫刻、教えてほしいです」

 引き止めるなら、この瞬間しかないと確信して、ダニエルは、ソフィーの瞳を正面から見据える。

「その……よければ、俺が、卒業するまで」

 それは、遠回しな告白だった。同時に、ソフィーへの『辞めないでください』というメッセージでもあった。

 ソフィーは最初、ぽかんとした顔をしていたが、やがてダニエルの意を汲んだのか、くすりと笑んだ。

「そうだな……卒業するまで、あたしが責任を持って教える。そうと決まれば、自由時間は返上だ。だから……もう無茶な真似はしてくれるなよ?」

「は、はい!」

 ダニエルは上擦った声で答えた。気恥ずかしかったけれど、今度はもう、目を逸らしたりはしなかった。

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