十六 …… 十月六日、昼
◆十六 …… 十月六日、昼
力一杯振るわれた斧が、幹に深々と刻まれた追い口に突き刺さる。大木は、嗄れた老人の断末魔のような音を立てながら傾いで、ダニエルの狙い通り、開けた場所へと倒れた。辺りに轟音が響き、鳥たちが一斉に飛び立つ。
枝払いをしようと、足元に注意しつつ、地面に横たわった大木に近付く。そこで、額を冷たいものが打ち、ダニエルは天を仰いだ。
間を置かず、ダニエルの顔を無数の雨粒が叩く。空は何時の間にか、灰色の雨雲に覆われていた。
(……雨か)
ダニエルは、中に雨水が溜まらないよう台車を横倒しにしてから、小走りで木の下へと向かう。
(雨脚が激しいな……通り雨だといいが)
雨宿りをしながら、雨に濡れていく森を見る。不意に、ダニエルは遠い昔の記憶を思い出した。
(そうだった。あの日も、今のように、急に雨が降り出して……)
ダニエルは、孤児だった。両親の顔も知らないまま、幼少期をアイル孤児院で過ごした。
御大層にも『翼』の名を冠した孤児院は、お世辞にも良い環境とは言えなかった。上役はいかにして国から助成金を搾り取るか、それしか考えておらず、職員の程度も悪かった。孤児たちは、まるで物のような粗末な扱いを受けており、誰々が過度の労働で倒れたとか、誰々が職員に乱暴されたとか、聞こえてくる黒い噂は跡を絶たなかった。
しかし、現状を憂い孤児院を飛び出したところで、一人で生きていく術などありはしない。最後には道端で野垂れ死んでしまうのが関の山である。それがわかっていたから、彼等は忸怩たる思いで、粗末な扱いを受け入れざるを得なかった。
アイル孤児院でダニエルと最も仲が良かったのは、エミールという少年だった。エミールはダニエルにとって、一番の遊び相手であり、親友だった。
ダニエルとエミールは、午後の労働を終えてから夕食までの間、僅かばかり与えられる自由時間、孤児院裏手にある森で遊ぶのを日課にしていた。
日頃から、森は危ないから入ってはいけないと言われていたが、二人は言いつけを守らなかった。孤児を奴隷と勘違いしているような、横暴な職員へのささやかな反抗のつもりだった。
「……雨だ」
天候の変化に、最初に気付いたのはダニエルだった。濡れた髪を掻上げて、天を睨む。
「なんだよ、ちょっと前までは、あんなに晴れてたのに……」
エミールが口惜しそうに言う。確かにその通り、つい先程まで、空は青く晴れ渡っていた。それが、ものの数分足らずで、青空はその面積の半分以上を灰色の雨雲に侵食されてしまっている。
「これは……本降りになるかもしれない」
「まずいぞ、調子に乗って、随分孤児院から離れちゃったから」
規則では、自由時間における行動範囲は、孤児院の中庭とその周辺までと定められていた。中庭なら、孤児院の中からでも、そこそこ監視の目が行き届くというのが理由らしい。それを抜け出して森で遊んでいるのが露見すれば、懲罰は免れない。だから二人は、衣服、靴が泥で汚れないよう気を遣ったり、天気が崩れそうな時は森に入らないようにしたりと、それなりに知恵を働かせていた。
でも、そこは所詮子供の浅知恵。今日のような、天候の急変は想定外。対応策など、ある筈もない。
「とにかく、急いで戻ろう!」
ダニエルが言い、エミールは即座に頷く。二人は弾かれるように、孤児院の方向を目指して走り出した。
二人が走り出すと同時に、雨雲は空一面に広がり、雨は小降りから土砂降りへと変わる。雲間から顔を覗かせていた太陽も姿を隠してしまい、夜と見紛うような闇が森を包んだ。
方向感覚を失いそうになりながらも、ダニエルは我武者羅に走る。その背中を追い、エミールも走る。
……と、突然、エミールが叫んだ。
「ダニエル! 気をつけて……!」
「……え!?」
その声に振り向いた時には、既にダニエルの左足は宙を蹴っていた。走るのに夢中で、すぐ左手が崖になっているのを気付けなかったのだ。
しまった、と思ったが、どうしようもなかった。左半身は崖側に大きく傾いていて、もう体勢は立て直せない。
一瞬の浮遊感。直後、世界が回転する。ダニエルは身体を丸める暇も与えられないまま、急勾配を転がり落ちた。
ダニエルは、崖の下で目を覚ました。地面に直接横たわり、冷たい雨に打たれているというのに、身体が焼けるように熱い。確認するまでもなく、全身が擦過傷だらけになっているのがわかる。
「……う……あぁ……」
立ち上がろうとして、ダニエルは呻く。痛みの所為で、すぐには身体が動かせない。
「……ダニエル、大丈夫?」
隣で、弱々しい声がした。見ると、エミールがダニエルの真横に倒れていた。頭から流れた血が、口元まで伝っている。
「……手、伸ばしたんだけど、間に合わなかった」
どうやら、ダニエルを助けようとして、エミールもバランスを崩してしまったらしい。
「動けるかい?」
ふらつきながら立ち上がり、エミールはダニエルに手を差し伸べる。
「無理すれば、なんとか」
ダニエルは答え、エミールの手を掴んだ。介助してもらい、やっとの思いで身を起こす。
「……戻ろう」
降り頻る雨の中に、消えてしまいそうな声で。そう言ったのは、ダニエルだったか、エミールだったか。帰ろう、ではなく、戻ろう、なのが、今は無性に寂しかった。
二人は傷ついた身体を引き摺りながら歩く。走る気力も体力も、もう残っていなかった。
一歩、一歩と歩を進める度に、ダニエルの左足を激痛が襲った。崖から落ちた時、捻ってしまったのだろう。自然と、足を引いて歩くような格好になる。
この足で、今まで歩いてきた道のりを、引き返せるだろうか……そんな不安に駆られながら視線を下げる。よく見ると、左手の薬指と小指も、あらぬ方向に折れ曲がっていた。
満身創痍もいいところだった。思うように足が上がらず、小石や木の根といった、大したことのない段差で躓きかけてしまう。
そんなダニエルの様子を見て、エミールが声をかける。
「肩、貸すよ」
エミールは返事を待たず、ダニエルの左肩を支えた。
「悪い」
そのまま、二人は無言で歩いた。雑木林と積乱雲が織り成す不安定な暗闇の中、雨音だけが嫌に大きく響いていた。
どのくらい歩いただろうか。ようやく、鬱蒼と茂った木々の向こう側から、紗幕を通したように、孤児院の明かりが見えてくる。
「……着いた」
抑揚のない声で、エミールが言う。
ダニエルは安堵すると同時に、今後の処遇を思い憂鬱にもなった。そっと首を動かして、エミールの顔を覗き込む。その微妙な表情を見る限りでは、エミールもダニエルと同じ気持ちらしかった。
「自由時間が終わって、どのくらい経ったかな」
「多分……二、三十分は経ってると思う」
答えて、エミールは、はぁ、と息を吐く。
「懲罰はどうなるのかな。夕飯抜きは間違いないとして、その後は、模擬刀で百叩きか、それとも――」
考えるのも嫌になって、そこで言葉を切る。ダニエルは、懲罰の詳細な内容までは知らなかったが、以前、職員に反抗した孤児が訓練用の模擬刀で滅多打ちにされるのは間近で見ていた。それと同様の理不尽な仕打ちが自分たちにも降りかかるのかと思うと、胸が悪くなった。
未だに雨は止む気配を見せなかったが、孤児院の明かりが近付くに連れて、大分視界は良くなった。建物の輪郭が、はっきりと見えるようになる。闇の中に浮かび上がるその威容は、昼間よりも一層、不気味な印象を与えた。
「ごめん」
唐突に、エミールが謝る。
「何が」
驚いて、ダニエルは目を丸くした。
「僕が、今日、誘ったりなんかしたから。雨が降る前、遠くまで走ってみよう、なんて言ったから……」
「何言ってる。今日天気が悪くなることなんて、誰にもわからなかった。そんなこと言い出したら、不注意で崖から足を踏み外した俺にだって責任があることになる」
ダニエルは、エミールの目を見据え、努めて明るい声で続ける。
「これは偶然が重なって起きた事故だ、だから……」
「だから?」
「誰が悪いなんてことは、最初からない」
「……ありがとう、ダニエル」
「くすぐったくなるようなこと、言うなよ」
ダニエルはそう言って、わざとらしく視線を逸らす。エミールはそれを見て、にこりと笑った。
「これに懲りずに、また、一緒に遊ぼうね」
「ああ、約束だ」
互いに、手を握り合う。そして、二人は意を決して、孤児院の正面扉を叩いた。
それが、二人の交わした、最後の会話だった。それから数日後、ダニエルは懲罰房の中で、エミールの死を知った。
空が白く光る。数秒の間を置いて、雷鳴が轟く。空気が引き裂かれる大音響が、ダニエルを回想から引き戻す。
遠いあの日と今日という日が『雨』という現象を通して、繋がり、重なった。それは、本人が驚く程に、鮮烈な記憶であり、鮮明な記録だった。ダニエルは、記憶の海原から意識を引き上げても尚、余韻に浸るように、時を忘れて茫然と森を眺めていた。
仕事中、急に雨が降り出した――そんな日なら、あれから今までにいくらでもあった筈だった。何故、今日に限って、こんなことを思い出したのだろう。
(決まっている。考えるまでもない)
頭に浮かんだ疑問は、しかしすぐに打ち消される。
その答えは、ダニエル自身が、一番良く知っていたのだから。
(この降りでは、今日はもう仕事を続けるのは無理だな)
雨宿りを諦め、木陰から出る。横倒しにした台車は、ここに置いて行くしかなさそうだった。
(――帰ろう)
ダニエルは背に付いた木片を払い、雨の中、小屋へ向かって歩き出した。
――――※――――
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