十一 …… 十月五日、朝

◆十一 …… 十月五日、朝


 小屋裏手から見える川で、セリアは桶に水を汲み、汚れた作業着を洗濯していた。

 後ろに気配を感じて振り向くと、丁度、小屋の裏口からダニエルが出てくるところだった。

「おはようございます」

 と、セリアは手を振った。

「おお、おはよう。今日は早いな」

 ダニエルも、右手を挙げて応じる。そのまま、セリアの方へ歩いてくる。

「昨日は、早く寝てしまいましたから。ダニエルさんは……眠そうですね」

 近くで見て気付いたが、ダニエルの目は、何だかしょぼついている。昨夜は、あまり眠っていないのかもしれない。

「夜遅くまで、彫刻を弄っていたみたいですが、それで?」

「まあな。起こしてしまったか?」

「いえ、目が開いたと思ったら、また何時の間にか寝てしまっていました」

 桶の中から作業服を取り上げ、両手で広げる。前、後、共に目立った汚れはない。洗濯の成果を確認して、セリアは満足そうに頷く。

「ところで、いつも、服はどこに干しているんですか?」

 セリアが聞くと、ダニエルは一本の木を指差した。その木は、セリアの胸元くらいの高さから、案山子の両腕のような形で太い枝が伸びていて、日当たりも良好。衣服を掛けておくにはもってこいの木である。

「あの木を、物干竿の代わりに使っている。今日のような上天気なら、昼過ぎまでには完全に乾くだろう」

 そう言って、ダニエルは空を見上げた。作業服を木の枝にかけながら、セリアもそれに倣う。

 空は青く澄み渡っており、雲一つない。

「昔……子供の頃。よく、川で水遊びをしました」

 抜けるような青空と澄み切った清流を見て、セリアは思い出す。今日のような、天気の良い日。よく、家族総出で屋敷の近くにある森に遊びに出かけた。その森での恒例行事が、川での水遊びだった。

 舞い散る水飛沫……無邪気な嬌声……両親の笑顔……すべては遠い過去の記憶だというのに、つい先日のことのように回想することができた。

 家族が全員揃っていたのは、たったの数年間だったが、しかし、その数年間はセリアにとって最も大切で、掛替えのない時間だった。

「――するか?」

「え?」

 唐突な言葉の意味をはかりかねて、セリアはきょとんとした顔でダニエルを見る。

「水遊びを」

「あ、その、今のは、昔を思い出しての独り言みたいなもので、この年になって、そんな……」

 つい感傷的になって、子供染みたことを言ってしまった。セリアは真っ赤になってあわあわと手を振る。照れているのが一目瞭然、そんな仕草だった。

「照れる必要などなかろう。童心を忘れない、というのは、悪いことではない。それどころか、良いことだ」

 ダニエルはそう言いながら、靴を脱ぐ。服の袖と裾を捲り、川に入っていく。

「さあ、遠慮なくこい。俺もたまには息抜きをしなくてはな」

「その……でも……」

 困り顔で指先を弄る。ダニエルの気持ちは嬉しかった。でも、まだ心のどこかに照れが残っていて、それがセリアの足を地面に縫い付けている。

「こないなら、こちらから行くぞ?」

 掬い上げた水を、両腕を薙ぐようにして撒く。水飛沫が綺麗な曲線を描き、宙を踊った。

「わふっ!」

 ばしゃりと派手な音を立てて、セリアの顔面に水が直撃する。

「や……やりましたね!」

 濡れた前髪が額に貼り付いて、幽霊のような髪形になってしまっている。ダニエルはそれを見て、呵呵大笑した。そんな砕けた遣り取りのおかげで、セリアの照れが拭い去られる。

「ダニエルさんがそのつもりなら、私だって!」

 靴を脱ぎ捨て、服の裾を膝のあたりまで上げて川に入る。水温は予想以上に低く、爪先が痺れたが、今のセリアには些事に過ぎなかった。

「えい! やっ! とうっ!」

 セリアは掛け声と一緒に両手で水を跳ね上げ、ダニエルにかけようとする。先程のお返しとばかり顔のあたりを狙うのだが、尽く避けられてしまい、顔どころか上半身には殆ど水がかからない。

「ぜ、全然当たらない……何かコツとか、あるんですか?」

 水面で忙しなく手を動かしながら、セリアは聞く。

「ははは、腕の動きをようく観察すれば、水が飛んでくる軌道も見極められる」

 絶え間なく跳ね上がる水飛沫を無駄のない体捌きで避けながら、ダニエルは答える。

「腕の動き、ですか」

 言われるまま、セリアはダニエルの腕を見る。日頃から力仕事をしているだけあり、太く逞しい腕だ。

「腕が動くのと同時に、身をかわせば……って、きゃふっ!」

 見事なカウンターだった。ダニエルが両指を組み合わせて放った水鉄砲が、またもセリアの顔に直撃する。ダニエルの腕に動きがなかったものだから、油断していた。

「――しかし、腕ばかりに意識を集中してしまい、他を全く見ていないようでは駄目だぞ?」

 そう言って、ダニエルは豪快に笑う。

「うう、一回でもいいから、ダニエルさんに水を当てたい……」

「ふ、それは無理というものだろう」

 ダニエルは指を咥え、口笛を吹いてみせた。涼やかな音色が辺りに響く。憎らしくなるくらい余裕綽々である。

「むー……」

 セリアは唇を尖らせて考え込み、徐に川縁に置かれた桶を手に取った。

「ちょ、ちょっと待った」

 不穏な気配を察知して、ダニエルはじりじりと後退る。セリアは聞こえない振りで桶に水を汲み、大きく振りかぶる。

「お、おい、桶は、桶は反則――うわばっ!」

 桶で水を撒かれては、流石のダニエルもどうしようもない。頭から水を被り、瞬く間に濡れ鼠となった。


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