九 …… 十月四日、夕刻
◆九 …… 十月四日、夕刻
「今帰った」
ダニエルの声がして、小屋の扉が開くと同時、セリアは弾かれたように立ち上がった。
小屋に入って来たダニエルの後ろに誰もいないのを見て、ほっと胸を撫で下ろす。
「服やら、靴やら、色々と買って来たぞ」
そんなセリアの様子に、気付いているのかいないのか。ダニエルはそう言って、肩に掛けていた衣服をテーブルの上に広げる。今セリアが着ているものと似たような、上下揃いの作業着だった。
「森でスカートを穿くのは無理があるとしても、せめて上衣くらいは気の効いたものを買って来てやりたかったんだが……俺が女物を買うわけにはいかんしな」
ダニエルは苦笑しつつ、頭を掻く。
「そんなわけで、味気のない服になってしまったが、いかんせん洗い替えがないというのは困るからな。風呂場で着替えて来るといい」
「はい。その――」
「礼ならいらん」
ダニエルは開いた掌をセリアの方に向け、片目を瞑ってみせた。どうやら、ウインクのつもりらしい。
「う……」
ダニエルの制止に、セリアは言いかけていた言葉を喉の奥に引っ込める。
「そ、それじゃあ早速、着替えてきますねっ」
セリアは一時逡巡してから、テーブルの上にある作業着を抱きかかえ、風呂場へと走っていった。
後ろ手で風呂場の扉を閉め、セリアは着ていた作業着を脱いだ。ダニエルの買って来た新しい作業着に袖を通す。
(全部私の、取り越し苦労だった。ダニエルさんは純粋に、私を心配して……それで、小屋を出る前に声をかけてくれたんだ)
リュシーの一件で人間不信気味になっていたとはいえ、善意を邪推で返した挙句、神経を磨り減らしていた自分が、ひどく滑稽で、恥ずかしい存在のように思えてくる。
(悪いことばかり考えても、良いことなんてあるわけない。もっと、しっかりしないと)
着替えを終え、セリアは両手を開いて、軽く頬を叩いた。笑顔を作り、風呂場の扉を開ける。
風呂場の扉とシンクロするように裏口の扉が開いて、ダニエルが顔を出す。その手には、水に濡れて艶やかな光沢を放つ、真っ赤な林檎が握られていた。
「川で、林檎を洗って来た。どうだ……食べない、か?」
ダニエルの表情は固く、何だか緊張しているように見えた。ウインクをしてみせた時のような明るい雰囲気は影を潜めてしまっている。慣れないだろう行為――ウインクのことだ――までして、セリアの反応が芳しくなかったから、意気消沈してしまったのかもしれない。
「はい! いただきます」
澱みかけた空気を吹き飛ばすように、セリアは元気よく答える。結局あれから昼食は摂らなかったから、空腹で仕方がなかったのだ。
「そ、そうか。では、皮を剥こう。食べるとしよう」
ダニエルは錆び付いた螺子みたいなぎくしゃくとした動きで調理場に向かい、林檎の皮を剥き始める。セリアは横に立ち、それを覗き込んだ。
「いい色ですね。美味しそう」
一瞬だけ、ダニエルの手の動きが止まった。しかしすぐに、何事もなかったかのように振り向く。
「だろう?」
そう言って笑うダニエルは、もういつものダニエルだった。
ダニエルは林檎を食べ易い大きさに切り、皿に盛った。そして二人は、他愛もない話をしながら林檎を齧った。
(何か……何かが、おかしい)
談笑の最中、セリアは自身の内側に蟠る違和感に気付いた。だが、その正体は漠然としていて、掴みどころがなく……何に『違和感』を覚えているのかすら判然としなかった。
(こうして、話をしていても分かる。ダニエルさんが信頼に足る人物であることは間違いない。でも――)
「随分と話し込んでしまったな。もう夜だ」
言いながら、ダニエルは窓の外に目を遣った。セリアも釣られるように、答えの出そうにない思考を放棄して、窓を見た。窓の外は、ペンキで塗り潰したような黒に染まっていた。
――――※――――
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