五 …… 十月三日、夜

◆五 …… 十月三日、夜


 仕事を終えて、小屋に戻る。

「今日は色々あって疲れただろう。風呂に入って、夕飯を食べたら、早めに寝てしまうといい」

 玄関口で衣服に着いた埃を払い落としながら、ダニエルが言う。

「お風呂……」

 こくりと頷いて、セリアは表情を綻ばせた。どうやら、この小屋に風呂があったことは嬉しい誤算だったらしい。

 ダニエルは小屋の奥にある三つの扉の、右端を指差す。

「風呂はその扉の向こうにある。風呂と言っても、鉄屑を少々加工しただけの粗末な物だが」

 セリアは右端の扉を開く。部屋の半分を占めるくらい大きな横長の浴槽が、正面右手に設置されていた。

 塗装が剥げて所々錆が浮いているものの、山奥の小屋にしては立派な代物である。

 浴槽の縁に手をかけて、中を覗き込む。浴槽内は澄んだ水で満たされていた。おそらく、近くを流れる川から汲み上げたものだろう。

「すぐに沸く。沸かしてくるから、少し待っていてくれ」

 ダニエルは棚に置かれたマッチ箱を手に取ると、一度外に出た。

 小屋の裏手に回り、規則正しく積み重ねられた薪の上に枯葉を乗せて、箱から取り出したマッチを擦り、風呂に火を入れる。


 セリアは泥と汗で汚れた作業服を脱いで、浴槽に足を入れた。

 木製の敷板が敷いてあるので、浴槽の底に足を着いたりしても熱くはない。

 胸元までお湯に浸かり、手足を伸ばす。強張っていた身体が解れていくような感覚がして、セリアは大きく息を吐いた。

 お湯の中で両手を組み合わせ、目を瞑る。

(私は、これからどうすればいいの)

 とりあえず今日のところは、これでいいのかもしれない。彼の親切に、甘えていてもいいのかもしれない。でも、明日は? 明後日は? 明々後日は? それを考えると、不安で堪らなかった。

(私にはもう、帰る場所がない……)

 ゆっくりと目を開く。水面には、今にも泣き出しそうな顔が映り込んでいる。

(しっかりしろ、私。泣いちゃ駄目だ、私)

 セリアは手の平でお湯を掬い上げ、ぱしゃりと自分の顔にかけた。


 暖炉の左脇に据え付けられた、手狭な調理場。

 ダニエルは馴れた手つきで、玉葱、人参を薄切りにしていた。傍らでは、水の入った鍋が暖炉に吊るされている。

 切り終えた玉葱、人参を、無造作に鍋に放り込む。続いて鯖の塩漬けを一口大に切り分け、それもまた鍋に放り込んだ。

 食器棚から塩の入った小瓶を手に取る。泡立ち始めた鍋にふりかけ、味を調整する。

 と、扉の開く音がした。セリアが、タオルで顔を拭いながら風呂場から出て来る。

「もうすぐ夕飯だ。適当に座って待っているといい」

 ダニエルは木製のレードルで鍋をかき回しながら、テーブル横の椅子に視線を投げた。

「あの、ありがとうございます。何から何まで……」

 椅子に座り、セリアは申し訳なさそうに言った。

「そう畏まらなくていい。俺がお節介でやっていることだ」

 ダニエルは麻袋から小麦粉を一撮み鍋に入れて、とろみをつけた。食器棚から一組のスプーンと二枚の皿を取り出して、完成したシチューを盛り付ける。

 最後の仕上げに、ブルーチーズをナイフで切り分け、皿に添える。

 シチューをテーブルに並べ、ダニエルとセリアは向き合う形で座った。

「いただきます」

 セリアが言うと、ダニエルは少々驚いたように顔を上げた。が、すぐに何事もなかったように食事を始める。

「口に合うか?」

 食事が始まって暫くして、ダニエルが聞いた。

「はい、とても」

 セリアは笑顔で頷く。

「そうか。よかった」

 そう言ってダニエルは立ち上がった。ヤカンを手に取り、カップに紅茶を注ぐ。

 両手にカップを持って振り返り、ダニエルは自分の目を疑った。

 セリアは声を殺して泣いていた。大粒の涙がいくつも、瞳から溢れ出している。

「……どうした? やはり、口に合わなかったか?」

「いえ……ごめんなさい……なんだか、懐かしい味がして、それで……」

 セリアは服の袖で目元を拭った。汚れた服で拭いたものだから、眦が黒ずんでしまっている。

 瞬間。ダニエルの手から、カップが一つ滑り落ちた。カップは床に落ちて粉々に砕け、紅茶が放射状に飛び散った。

「ああ、すまない。急に泣き出すものだから、俺が何か不味いことでもしでかしたのかと思って――」

 ダニエルは取り繕うように笑い、もう一つのカップをセリアの前に置いた。部屋の隅に立てかけられていた箒を手に、カップの破片を片付ける。

「そんなことないです、ダニエルさんには、これ以上ないくらい優しくしてもらって。本当に、ごめんなさい……」

 セリアは落涙の余韻に肩をひくつかせながら、もう一度謝った。

「謝らなくていい。人間誰だって、泣きたくなる時ぐらいある。そういう時は、誰に遠慮することもない。心のままに、泣けばいいんだ」

「は、はい……」

 ダニエルの言葉が引鉄になったのか、セリアは一瞬安堵の表情を浮かべてから、堰を切ったように泣き出した。

 拭っても拭っても、涙は止まる気配を見せない。服の袖はあっという間に雨に打たれたみたいにびしょ濡れになった。

 ひとしきり泣いて、セリアは落ち着きを取り戻した。ダニエルの顔を見て、照れたように笑う。それに釣られて、ダニエルも笑った。

 気を取り直して、残ったシチューを口に運ぶ。最後の一口は、心なしか塩辛かった。


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