第3章 砂の月は鈍く輝く

☆砂月

第10話 臆病者

 目の前で起きた出来事を信じたくなかった。そんなことはないって信じたかった。だから僕は、事実をけいに伝えられなかったんだ。だって僕は、臆病者だから――。


『自分が何したのかわからない間は、あの事故を忘れられない間は、乗らない方がいいよ』


 戸惑う慧の顔は、とても見ていられなかった。どんぐり眼をいつも以上に見開いて、ぽかんと口を開けて。でも、その金色の瞳は何も映していなかった。これ以上慧に欲しくない。その一心だったんだ。



 店内の試乗スペースでは、天井の高さまでだけどスカイボードに乗って空を飛べる。慣れない子は僕が店員としてサポートするし、慣れている子ならある程度の高さを維持してパーツの使い心地を試す。だけど、今回の慧は違った。


 持参したのは、使い古したオレンジ色のスカイボード。その上に乗ろうとするけど一人では乗れなかった慧。僕の肩を借りてどうにかスカイボードに乗っても、その異変は続いた。


 スカイボードはリモコンと体重移動で操作する。アクセルボタンを押し続ければ上昇するし、ブレーキボタンを押せば止まる。そんなこと、スカイボードに乗り慣れているはずの慧なら出来て当たり前だったんだ。なのに、現実は違った。


 慧がアクセルボタンを押せばプロペラが回転して、スカイボードが少しずつ浮き上がる。だけど、プロペラの音にびっくりしたのかな。慧はスカイボードが完全に宙に浮く前に、アクセルボタンから指を離してしまった。


 驚いたのは、慧がそれに気づいていないことだった。リモコンから指を離すなんて選手としては致命的なミス。なのに慧は、そんな初歩的なミスに気付かないまま、泣きそうな顔をしていた。


 プロペラ音が止まり、カタリと音を立てるスカイボード。その上では顔をしわくちゃにして両目を閉じる慧の姿。ついでにそんな慧の隣には、が一つ。


「俺のせい、か」


 いるはずのない人影の声を聞かなかったことにして、慧の手からリモコンを引き抜く。淡い水色の髪は、そんなに暑くないはずなのに汗まみれで。額には玉のような雫がいくつも浮かんでいる。


 慧がサンドムーンに来ること自体は珍しくない。だけど、持参したスカイボードに自分から乗ろうとしたのは、あの事故以来初めてだ。


 慧はスカイボードの選手だった。多くのメディアに「天才」と呼ばれ、常にスカイボードの第一線にいた、将来有望な選手。そんな慧がスカイボードに乗れないはずがなくて。


 慧がスカイボードに乗らなくなったのは、一年前に起きた事故から。スカイボードに乗らなくてもスカイボードを持ち歩いて、何かある度に僕の店に来ていた。乗ろうとしたのは、事故の後だと今日が初めてだけど、経験者であることに変わりはない。


 天才と呼ばれていた慧がスカイボードに乗れなくなった。スカイボードを操作出来なくなった。その事実が、他のどんなことより衝撃的だった。


 慧、無理して笑わなくていいよ。無理して飛ばなくていいよ。もう、誰かのために飛ぶのなんてやめてしまえばいいよ。いっそ、スカイボードの世界から離れてしまえばいい。


 口に出したかった本心はグッと胸の内に抑え込んで、客観的な意見だけを述べる。これ以上慧に壊れて欲しくなくて。これ以上苦しんで欲しくなくて。だけど僕は、慧にそんなに強くものを言えない。僕は、慧に対して取り返しのつかないことをしてしまったから。



 結局、スカイボードで上手く飛べなくなった慧を、無理やり店から追い出した。慧がいなくなっても、いるはずのない人影は消えてくれない。スーッと背筋が冷たくなるのを感じる。


 その人影は本来いるはずのない、いてはいけない人。見えてはいけないもの。見えるはずのないもの。そして、あの事故以来ずっと、ここサンドムーンに出入りし続けている者。


 染色が難しいとされる紫色の髪。琥珀色の鋭い眼差しは僕を睨みつける。ありえない方向に折れ曲がっていたはずの四肢は、不思議と元通り。血の跡もない。


 透き通った体が僕に笑いかける。懐かしいその笑顔に、声をかけずにはいられなくて。聞こえるかもわからないのに気持ちを音に乗せる。


「どうしてここにいるの、陽向ひなた?」


 それは、その人影は……慧の目の前で死んだはずの幼馴染の姿をしていた。生前と変わらない笑顔を僕に見せ、彼は口を開いた。


「砂月は、俺がのか?」

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