第36話
目を覚ますと、おれはしずむさんを抱きかかえて畳に寝転がっていた。
いまだ夜闇の深い中、しずむさんは裸のまま荒く息を吐いている。
「しずむさん、大丈夫か!?」
「…………ん……ぁ」
ほんの少し、瞼が上がる。
「ん、んう……」
しずむさんが濡羽色の長髪をその裸体に流しながら、ゆっくりと上体を起こした。見ていられず、とっさに制服のブレザーを羽織らせる。
「……あ」
「良かった、しずむさん。実際、どうなることかと」
「……颯太くん、おはよう」
しずむさんの透き通った声が、独特の幼さを帯びて甘ったるく響いた。
いつも眠たげに細められたその両眼が、今はぱっちりと見開かれている。
深紫色の瞳も心なしかうっすらと光をたたえ、たまにしか笑わない薄い唇の口角が上がり、頬を上げてにっこりと満面に笑みを形作っている。
「あれ。かすか、なんでこんなところにいるの?」
とぼけるように首をかしげた。
「かすか!」
たまらず、おれはしずむさんの身体に入ったかすかを抱き締めた。
「ひゃっ……だめだよ颯太くん。いきなりそんなの、困っちゃうよ」
かすかはしずむさんの姿で恥ずかしそうに腰をくねらせ、じりじりと後ずさる。
「あれっ? なにこれ、かすか、しずむちゃんになっちゃってるよ?」
「ああ……しずむさんが、身を挺してかすかの魂を降ろしてくれたんだ」
かすかが慣れなさそうに長い黒髪を掻き上げてから、うーん、とひとつ唸る。
「……うん。そういうことだったんだね。今、みんながこれまでのこと教えてくれた」
「みんな?」
「うん、みんなだよ。かすかの中にいるの、アニメの女の子たちが。それもたくさん、数えきれないぐらい。ふふ、みんな颯太くんとお話ししたがってる」
彼女たちの言っていたことは本当だった。
かすかの魂は幾度もの彷徨を重ねた末に、おれの七年分の呪いと融合していた。
「ふふ、やだもう、そんなことないよ。颯太くんとかすかは、そんなのじゃないよ」
「か、かすか?」
「あ、ごめんね。えっと、みんながそのままかすかと入れ替わることはできないの。でも、かすかは頭の中でみんなとお話しできるみたい。みんないっぺんに喋るから困っちゃうんだ…………うん。え? そんな、そんなのだめだよ」
「ど、どうした、何かあったのか?」
「……かすかたちがこのまましずむちゃんの中にいたら、しずむちゃんの心がおかしくなっちゃう。かすかの魂はもうかすかだけのものじゃなくなってるから、人ひとりの身体には収まりきらなくなってる。最悪、しずむちゃんが消えちゃう、って」
心配していた通りのことが起ころうとしていた。
かすかは口を引き結んで、深刻そうな表情でおれを見上げた。
「ね、颯太くん」
「……かすか」
「なんでしずむちゃんは、服着てないの?」
「そ、それはしずむさんが自分から脱いだんだ。神降ろしの冥婚呪術だよ」
「かすかが寝てる間に、しずむちゃんにえっちなことしなかった?」
「してないよ!」
「してくれても……よかったのに」
かすかは肩にかけられたブレザーを引っ張って胸元に寄せながら、俯いて言った。
「これからしてほしい、なんて言ったら……いやらしい子みたいになっちゃう」
指で髪先をくるくると弄び、かすかは頬を紅潮させながらおれを上目遣いに見上げた。
「……ね、颯太くんは、かすかのこと、嫌いになった?」
「なるわけ、ないだろ」
「じゃ、じゃあ、しずむちゃんのことは、どう? 好き、なの?」
「……好きだよ」
「じゃあ、かすかとしずむちゃん、どっちのほうが好き?」
「………………」
「アニメの女の子たちと、どっちがいい? 好きな子に心からなりきることも……今なら、ほんの少しだけど、できるんだよ」
こんなときに至ってまで、かすかは昔と何も変わっていなかった。
このような拙い問答を、あの頃のかすかにもよく仕掛けられていたように思う。
「……今、気付いた。しずむちゃんの意識は眠ってるけど、今のかすかならしずむちゃんの記憶を覗くことができる。ね、しずむちゃんもやっぱり、心から望んでたんだね。でも、かすかたちのために、自分の気持ちを無視してかすかを降ろそうとしてくれた。でも、そのために自分の心ごと消えちゃってもいいなんて、おかしいよ」
一拍置いてから、かすかは顔を上げた。瞳は静かな決意に満ちている。
「……これがきっと、本当に最後。あと数十分も、かすかたちはしずむちゃんの中にいられない。しずむちゃんが消えちゃうなんて、絶対にだめだから。ね、かすかは抱き枕の女の子の気持ちになるために、ちょっとだけ急ぎすぎて失敗しちゃったでしょ? しずむちゃんは……わ、本当に金粉なんて塗ってもらったんだ。でも、かすかだって手洗いしてもらったから、同点だよね? みんなが一番ずるいかな、七年間も颯太くんに抱いてもらって……でも、みんながいたから、かすかは颯太くんとまた逢えたんだよね」
かすかは肩からブレザーを落として、ゆっくりと立ち上がった。
その痩身が何か、ごうごうと燃えて、光を発しているかのように見える。
「でもね、颯太くんの顔がよく分からないの。しずむちゃんは、ずっとこんな世界で生きてたんだね。もう最後なのに颯太くんがよく見えないなんて、すごくいやだけど、悔しいけど……しずむちゃんは顔の分からない颯太くんを好きになって、アニメの女の子のみんなも、あやふやな記憶の中で色んなたくさんの知らない男の人と一緒になってた。たったひとりの運命の人が分からないのを耐えてたのは、しずむちゃんもみんなも同じだったんだね。そしてそれは、颯太くんだって、これまでずっと、同じだったんだ」
かすかはじっと目をこらすようにして、おれの顔を凝視した。やっぱりだめだね、とため息をつく。
「それなら、かすかだけわがまま言っちゃだめだよね。みんなとひとつになって、そしてしずむちゃんの中に入って、かすかは今すごく嬉しい。やっと分かり合うことができた」
感極まったように声を震わせながら、ひたすら言葉を紡ぐかすかに、おれは圧倒されていた。最後のときが刻々と近付いている今、ぼっとしている暇などないというのに。
かすかは、棺に納められている自分の元々の身体を見下ろした。
「じつはね、かすかも似たような感じだったの。颯太くんみたいな素敵な男の子、いくら探しても見つからなかった。ずっとあなたの面影だけを追っていた。想い出にしがみついてみても、私もあなたも本当の本当に普通で、ごく平凡な女の子と男の子だったってことを確認するだけに終わっちゃった。それでも、何でか分からないけど、だめなの。あなたじゃないとだめだった。かすかにだけは特別だった。さみしかったけど、いつまでもこんなんじゃだめだって思ったけど、でも、忘れられなかった」
とことこと、かすからしい軽い足取りで棺に近付き、自分の遺体に視線を落とす。
「かすかはずっとうじうじしてたの。それなのに、かすかがそうしてる間に、颯太くんは毎日アニメの子を取っ替え引っ替えしてた。最初はひどいって思ったよ。かすかがあなたのことだけを想ってるとき、あなたは違う女の子ばかり見つめていた。悔しかった。かすかの幻を追いかけてのことだった、なんて言われても、じつは半信半疑だった。それでもあなたのために頑張ってアニメの女の子と一緒になろうとしたとき、かすかはかすかのままでいていいって言ってくれて、すごく安心した。だけど、それに甘えちゃってたんだね。この前あなたが、かすかじゃなくてアニメの子だけを見ようとしたとき、いやになっちゃったの。本当は最初から分かってたのに、かすかなんて邪魔なだけだってこと。あなたは昔から優しかったから、気を遣ってくれてただけだったんだなって……みんな、みんな消えちゃえばいいって思った。この世界は空っぽのかすかを置き去りにして、みんなすぐに変わっていっちゃう。めまぐるしくて、かすかには無理なんだって思った。あのときかな、心の底から本当の本当にアニメの子になりきってみようとした瞬間、身体の内側から何かが壊れていった気がしたの。すごく痛くて、つらくて、ぐちゃぐちゃになって、かすかはもう一度死んじゃったんだ、って思った。次に起きたときには、もう意識がぐねぐねで、もうすぐ終わりなんだなって分かった」
かすかは膝を折って、自分の死顔をそっと撫でた。
「最後にあなたと昔過ごした街を見て回って、なおさらつらくなった。あんなに輝いてた、かけがえのない、人生で一番幸せだった時間を積み重ねた場所のはずなのに、学校は廃校になって、団地の公園はあんなに小さくて、商店街はほこりっぽくて、アイスはあまりにも早く溶けてしまう。あなたとの想い出の場所はこんなにも空っぽだった。なら、それにしがみついてるかすかが空っぽなのは当たり前だったんだ、って。お母さんと会っても同じ。お父さんが死んじゃってからもひとりで頑張ってかすかを育ててくれて、ありがとうって最後に言いたかった。でも、それだけ。もう死んじゃったかすかは親不孝だから、また会っても、ただ悲しいだけだった。くたびれたお母さんを見るのがいやだった。他人としてお母さんと会うって、こんな冷たいことなんだって知った。空っぽのかすかを育ててくれたお母さんはやっぱり空っぽで」
かすかは死んだ自分の額に手をやって、指で弾いた。
「ごめんね、なんだかまとまらない。まとまらないけど、言わせて。かすかをアニメの女の子の抱き枕の中に喚んでくれて、ありがとう。かすかに居場所をくれてありがとう。空っぽのかすかなのに、かすかのままでいて欲しいと言ってくれてありがとう。空っぽのかすかを、アニメの女の子たちと出会わせてくれてありがとう。おかげさまで、もうかすかは空っぽじゃなくなりました。みんなとひとつになれたから、もうさみしくないです」
かつて自分だったものの額に、唇を当てるだけのキスをして、かすかは立ち上がった。
「みんなには、記憶がある。誰かから愛してもらった記憶が。遠いどこかで旅をしていた記憶が。空っぽのかすかとは比べものにならないぐらい、たくさんの幸福な記憶がある。みんなの記憶は、あなたたちの記憶。本当はいないはずのみんなを想ってくれた、あなたたちの長い、とても長い記憶。あなたたちのおかげで、かすかたちはひとつになれました」
おれに振り返ったその微笑みは慈愛に満ちて、あまりに眩しく、常闇を照らしていた。
「……おれの七年間は、無駄じゃ、なかったのか」
「うんっ」
「おれの七年間は、かすかを幸せにすることが、できたのか」
「ふふ、そうだよ」
「あんな醜くて、臭くて、不衛生で、閉鎖的で、孤独なだけの、七年間が」
「そんなこと言っちゃだめだよ?」
しょうがないな、とあきれたように息をつくと、胸に手を当てて、おれに近付く。
「ね、結婚式。しよっか」
おれの目の前にあるしずむさんの顔は、しずむさんにしてはあどけなく、かすかにしては大人びている。その印象が、はっきりと明確に言葉にならない。
「めいこん、だったっけ? もう死んじゃったかすかだけど、本当はいないみんなだけど、これからもずっとあなたの傍にいます。最後に約束、させてください」
頬にかかる長い髪の一房を掻き上げる仕草が可憐で、しかしそれは果たして誰を可憐に思われるのか、自分のことながらよく分からない。
「たとえ心を殺しても、身体だけの存在になってでも、あなたと契りを結ぶことを願ったしずむちゃんの分。心のないものを愛したいと願われたがため生まれた、みんなの分。空っぽの心だけなのに、あなたが求めてくれた、かすかの分」
不意に目元がなぜか熱っぽく、手で触れてみると、涙が滂沱として流れている。
ぼやける視界の中で、かすかもやはり目尻に雫を溜めていた。
「あらためて、訊いていいですか」
目の前にふわりと微笑む彼女は、ただ美しく、ただ愛おしい。
すでに答えは決まっていた。
おれたちは今、痛々しく涙しながらも、幸せな恋人たちのように笑い合っている。
ならば、きっとこれでよかったんだ。
暖かな抱擁に、身を包まれた。
「みんなまとめて、一緒に愛してくれますか?」
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