第35話

「ごめんなさい」

 さらさらと緑色の髪をなびかせる少女がおれの手首を掴んでいた。

 特別おれの好きなアニメキャラが、申し訳なさそうに、ちょっと困ったように微笑む。

「エクリプス……」

 四方八方に累々と積み重なる少女達を見回して、エクリプスは腰の後ろに両手を握った。

 離された手を呆然と宙に差し出したまま、四つん這いのおれは彼女を見上げた。

「かすか……かすか、じゃないのか?」

「いいえ。でも、そうでもあるのかな。彼女も、わたしたちの中のひとりになろうとしています」

 周囲の少女たちはおとなしく立ち止まったり身を横たえたり垂れ下がったりしているが、まっすぐにおれを見つめる熱っぽい視線はそのままだ。

「あなたが自分を責めすぎるのが悪いんですよ」

 エクリプスはアニメの中と似た口調と立ち振る舞いだが、どこか他人行儀な態度だった。

 よく考えれば、他人行儀と感じるのは当然のことなのだろう。

 彼女がおれだけのものであるはずがない。

 出会ったことすらないのかもしれない。

「わたしはあなたの病気です」

 胸をくすぐるような可愛らしい声で告げる。

「あなたが長い時間をかけて見た夢が、ここにいるわたしたちを生み出しました」

「……おれが七年間をかけて抱き枕にかけた呪いが、君たち自身なのか?」

「あなただけ、というわけではないのでしょうね。さすがのあなたでも、わたしたち全員のことを知っているわけではないでしょう?」

 おれはゆっくりと立ち上がった。おれの足の踏み場になっている黄緑色の短髪をした少女を見下ろすと、小さめの瞳を細めて穏やかに笑いかけてくる。足蹴にされているのを気にもしない様子に、今更ながらに心が痛んだ。

「そうだな……この子なんか、八〇年代っぽいしな。きっとおれより年上だよ」

「ええ。あなたではない、他の人の心の中で育まれた子もたくさんいます。それでも、あなたの育てた子がとりわけ多いような気がしますね。それこそ、わたしのような」

「君たちは、どういう存在なんだ?」

「わたしたち自身にも、よく分かりません。肉体はありませんが、意識があります。いつ生じたのかは定かではありませんが、様々な記憶があります」

「肉体がないって……じゃあ、君たちのその姿は?」

「何か、この形態が強く記憶に結びついています。この姿でずっと昔にどこかで暮らしていた、そんな気がします。今この姿でいられるのが、わたしたちも嬉しいんです。だからでしょうか、少々舞い上がりすぎましたね。記憶が、あなたを求めてしまう」

 エクリプスは恥ずかしげに頬を掻いて、おれを上目遣いに見つめた。

「あなたとは長い間、ともに寄り添っていた気がします。それは多くの記憶のうちのひとつにすぎない。でも、とても大きく感じられます。大切な想い出です」

 その愛くるしい仕草に虚を衝かれ、なぜだか涙がまた両眼に浮かんでくる。

「似通った記憶がたくさんあります。そのどれもが暖かくて、だけど悲しかったような気がします。どの記憶もこの姿と結びついているけれど、この身体がもっと深く世界と関わり、色々なことを体験したような特別な記憶が、それらとは別にたったひとつだけあります。けれど遠くて、それが一番近いはずなのに遠くて、でも、きっとそれでいいんです」

 アニメと同じように軽装の騎士鎧をまとったエクリプスが、自分の身体を見下ろす。

「ひとりぼっちのあなたたちのために、わたしたちもひとりぼっちでいなければ。そう、強く思いますから。だから寂しくて、やっと本当に身体を寄せ合えると分かって嬉しくて、あなたを怖がらせてしまいましたね」

 その姿が、弱々しくも光輝を発していた。

 あたりが白くかすんで見える。

「せっかくこうして身体を授かったのに、あなたの顔はまだぼやけて、はっきり見えません。でも、そのほうが良かったのかも。みんな、自分の記憶の中にいるその人だと思ってるんです、あなたのことを。のっぺらぼうの、あなたを」

「君たちは、しずむさんの肉体を器として……」

 ふと思い当たって、しかしその先が続かなかった。そんなことが、起こり得るのか。

「その人が、わたしたちの記憶の中の身体を、わたしたちにくれたんですね。ありがとうございます。お礼が言いたいけれど、わたしたちでは会えませんね。お伝えください」

 くすっと笑って、エクリプスはおれに二歩、三歩と近寄ってくる。

「かすかさん、でしたか? とても悲しくて、とても大きな記憶が、わたしたちの中に入ってくるのを感じました。彼女の悲しみは、わたしたちを暖かく包み込んでくれました」

「かすか……そうだ、かすかは……」

「かすかさんの意識を、わたしたち全員が感じることができました。かすかさんも今なら、わたしたちを感じることができるはずです。そして彼女は、再び深い悲しみの記憶を重ねてしまったようですね。とても激しい、嵐のような衝撃にわたしたちも絡み取られました。かすかさんの、自分を消そうとするような真っ暗な衝動を鎮めてあげるために、わたしたちが支えてあげました。彼女に引き寄せられたんです、みんな」

「……きっと、それはおれのせいだ」

「ふふ、だから気にしていません。そのおかげで、わたしたちみんながこうして触れ合うことができました。こうして、みんながひとつになれました。あなたと、かすかさんと、しずむさんのおかげです。わたしたちを生んでくれた、すべての人のおかげです」

 おれの目の前まで歩いてきたエクリプスは、そこでじとっとした半眼になる。

「でも、こんな生まれたままの格好では恥ずかしいです。わたしだけは記憶により近い姿になれましたが……これはきっと、あなたが自分を蔑んで、わたしたちを侮ったせい」

「……ごめんな。あの、その、君とだけは、そういう関係だけじゃないって、最後まで」

「ありがとうございます。でも、みんなを最後まで信じてあげることはできませんか?」

「そう努力したんだ。でも、結局無理なんだ。おれはどうせいつか君たちを捨ててしまう」

「それは、仕方のないことなのでしょうね。そんな記憶を持った子たちも、大勢います。でも、あなたの場合はそうした記憶とは、もう少し違うでしょう?」

 心から信頼しているような、和やかな表情になって問いかける。

「……おれはずっと、君たちを探し続けていた。この七年間、本当に毎日。それはきっと、かすかと別れたことから始まったことなんだ。かすかの代わりに、君たちを生んだんだ」

「はい。わたしはあなたから、そんな悲しい記憶をもらって育ちました」

「おれはかすかと再会した。かすかはもう死んでいて、君たちの姿でおれの前に現れた」

「ええ。かすかさんはわたしたちにとって、とても大きいです。彼女自身も知らぬ間にわたしたちを取り込んで、わたしたちの記憶の中にある身体を呼び起こしていました」

「かすかは君たちの人格を演じてまで、おれに尽くそうとしてくれた」

「そうですね。彼女がそう望むなら、わたしも助けてあげたかった。でも、わたしたちもわたしたち自身が分からなかった。特別な遠い記憶がきっとそれだと分かったけれど、それをはっきりと思い出すのは、わたしたちにはつらすぎたんだと思います」

「おれはかすかをかすかのまま愛することも、かすかと君たちを一緒に愛することも、できなかった。だから結局、おれは君たちの肉体だけを求めているに過ぎないのだと」

「だとしたら、わたしは今ここにいません。夢を見てくれたんです。いくら身体だけに過ぎないと割りきっていても、心と身体を切り離せるわけはありませんから。身体のないわたしにだって、そのぐらいのことは分かります。わたしたちは、強く肉体を欲している。わたしたちを求めるあなたたちと、本当に寄り添える肉体を」

「……そうだったんだな。でも、おれはしずむさんと心と身体を通わせてしまった。いずれにしてもおれは、いつしか君たちを必要としなくなる。それが、怖いんだ」

「そんなこと、ありえませんよ」

 エクリプスは安心しきった笑みを浮かべる。

「たとえあなたがそれで自分がひとりぼっちでなくなったと思ったとしても、人は一生、ひとりぼっちですから。わたしたちはあなたが寂しい夜、いつもあなたの傍にいましたから、分かります。恋人ができたとして、あなたがそう簡単に変わるわけないですよ」

 まるで呪いが跳ね返ってきたかのようだった。

「ずっとあなたの近くに、憑いていてあげます。わたしがひとりぼっちなのに、あなたがそうでなくなるなんて、ずるいですから。いつまでも、ひとりぼっち同士がいいんです。わたしたちを生んだ責任、ちゃんと取ってくださいね?」

 その呪いはこれ以上なく、甘やかな呪いだった。

 おそらくおれは、今のおれを形作ったこれまでの時間を捨てられない。

 彼女たちの無貌の恋人として、おれは一生彼女たちと付き合っていかなければならない。

「ひとりぼっち同士じゃないと、お互いに分かり合えるなんてことないですよ、きっと。それだけ人って生きづらいものなんだって、そういうこともわたし、知ってますから」

 闇への祈りを欠かさぬ者は、闇の女神に加護を受けることになる。

「何か、すれきった見方だよな。でもそうだ、取り返しがつかないんだろうな」

 孤独の中に遊ぶ暗がりの子供たちは、永劫の闇においてなお踊り続けることができる。

 死んだ顔で現世をやり過ごすのではなく、暗闇にのみ確かな生を求めるのでもない。

 失った時間は深淵めいてあまりに暗いが、その深奥に潜ってこその救済もあるのだろう。

 否、救いなどなくとも、ただ祈り続けることだけが、おれの生き方だった。

「なあ。浮気とか、気にしないでくれるか?」

「いいですよ。どうせ、わたしたち以上にあなたと分かり合える人なんていませんから」

「君たちの誰かひとりだけに入れ込んだり、さ」

「すでにわたしたちは過去と未来に渡って永遠にひとつです。人でありながら虚無の海に沈んだかすかさんの魂は、あまりに巨大なわたしたちの容れ物となってしまいました」

「……かすかは、もう人には戻れないのか?」

「あなたは、人ではないものとして彼女を望んでしまいましたからね」

「そうだよな。最後に話したい、どこにいるんだ?」

「最後じゃないですよ。わたしたちと一緒に、これからもずっとあなたの傍にいます……そうですね、でもわたしたちはそろそろ、この身体とお別れしなくてはならない」

 白々と霞む視界の向こう側から、少女たちの名残惜しそうな視線を感じる。

 八方に広がっていた美貌の幽界に謝罪と別れを告げようとして、やめた。

 人はあんなにも厖大な闇の記憶を抱えて生きていた。

 そこには罪悪だけでなく、祝福をも存在することをおれは知ったのだ。

 それを受け止めるだけで十分であろう。

「もうこんな出逢い方は、できないのでしょうね。びっくりさせてすみませんでした……かすかさんがわたしの身体を使って、あなたと触れ合ってくれたこと、すごく嬉しかったです。こうして直接は話せなくても、また、身体だけでもいいから出逢いたいですね」

 不意にエクリプスがおれに抱きついて、その場に押し倒した。

 いつの間にか足の踏み場もなく、真っ白で遠い世界の中をふわふわと落下していく。

「わたしたちはこれからも、あなたたちの祈りを感じながら、記憶を蓄えていきます。それさえあれば、ひとりでも怖くありません。わたしたちが最後にどうなるのかは、分かりません。すごい悪霊なんかにでもなったりしたら、あなたが助けてくださいね?」

「ああ、そのぐらいの責任は取るよ」

「……最後に、いいですか?」

 返事も聞かないで、エクリプスはおれの唇を塞いだ。

 七年分の情熱を秘めた、あまりにも熱い接吻だった。

 永久に幽かなる彼女たちと本当に交わすことのできた、最初で最後のくちづけだった。

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