第34話

 二、三時間も経っただろうか。

 部屋の外に人の動く気配はなく、みな寝てしまったようである。

 そのとき、かすかの納棺された棺のほうから、物音が聞こえた。

 見ると、棺の蓋が嵌め込みから浮き上がり、わずかにずれている。それを覆う白い布も寄っていた。

「やはり、ここにいるのはかすかさんの霊魂だけではないようです」

 おれの胸の中で半分眠っていたしずむさんも何かに勘付いて、上体を起こした。

「時間があまり残っていません。颯太さん、はじめましょう」

 しずむさんは立ち上がって、棺に被さった白い布を剥ぎ取ると、蓋を両手で持ち上げて床にそっと置いた。おれが驚いて近寄ると、棺の中にはかすかの死顔があった。

 着物のような白い死装束を着て、硬直した両手に扇を握っている。

 あさりの描いた抱き枕カバーと、寸分違わぬ美貌であった。

「思った通り、儀式を終えてなお霊璽れいじに移ることなく、かすかさんの魂はここにあります」

「なあ……しずむさん。一体、これから何をしようって言うんだ?」

「颯太さん。私は、罰当たりな人間なんです」

 しずむさんはそう言うと、ゆっくりと身をかがめて、長い黒髪を死顔に落とさないよう掻き上げながら、かすかの唇にその唇を重ねた。

 身体を起こしておれに振り返る。

「私は、あなただけの巫女でありたい」

 やおらしずむさんが制服のブレザーを脱ぎ捨て、ワイシャツのボタンを外しはじめた。

「な、こんなところで何して……!」

「本来はイタコの口寄せと同じです。ただ霊的存在を身に宿す目的がより原始的なだけ。つまり、未婚の娘の魂を降ろした巫娼ふしょうが、想い人の男性と交わり、契りを結ぶ」

 ワイシャツが肩から落ちて、生白い肌を覆う下着があらわになった。

「それが、私の冥婚呪術です」

 あまりの衝撃に、頭がふらついた。

「かすかさんの御名と御霊の下に、私は……私の肉体は、あなたと結ばれます」

 すらりと整っていながらも肉感的な太腿とふくらはぎを滑って、スカートが畳に落ちる。

「しずむさん駄目だ! 何言ってるんだよ、そんなのまるで、」

 かすかがアニメキャラの肉体に入っていたときと同じじゃないか。

「かすかさんの魂がこれを良しとせず、最悪、悪霊となって暴走する恐れはあります。また、かすかさんが狂おしいまでに颯太さんを求めた場合、ともに颯太さんの魂を幽世かくりよに連れて行ってしまう危険もある。それでも、きっと大丈夫です」

 月の隠れたあの晩に見たのと同じ、清らかながらも淫らな裸体が、目の前に近付く。

「私の身体は、あなたをこんなにも求めている。きっとかすかさんは降りてくれます。巫女に心は要りません。かすかさんの魂と私の肉体だけが、ずっとあなたに寄り添います」

 しずむさんがおれの胸に飛び込む。

 立ちすくむおれを捕まえるように密着し、剥き出しの手足を絡めてくる。

 うっすらとした桃色の唇、かすかの唇と重ね合わせたその唇を、一度何かに耐えるように口元をきゅっと引き締めてから、熱い吐息とともに半分開く。

 んっ、と喉を鳴らす音がしたかと思うと、舌の上に蜜が流れた。

 どくどく、どくどくと、耳に鈍く伝わる心臓の音がどちらのものかも分からない。

 おれの鼻先に見開かれたままのしずむさんの瞳が、穴の開いたように深い。

「あなたを、愛しています」

 眼球が裂けるような強烈な痛みとともに視界が赤く滲んだ。

 おれの身体を包むしずむさんの肌の柔らかな感触が、とろりと溶けて水分を含んだ。おれの背中を撫でているはずのしずむさんの手のひらが、顔や肩や太腿にも触れている。身体から流れ落ちる冷や汗がぬるぬると粘り気を増す。あまりの痛みに眉をしかめて瞼を閉じると、瞼一枚を隔てて目玉を舐められた。

「あなたを愛しています」

 両耳が幾重もの女の絶叫に貫かれる。

 はっとして瞼を上げると、そこにしずむさんはいなかった。鼻先には小さな口からべろりと垂らされたサーモンピンクの舌。ふと見上げると、黒髪をポニーテールにした綺麗な顔の女の子たちが三〇人ほどにっこりと微笑んでおれを取り囲んでいる。うわっ、と叫んで手前のひとりを突き飛ばし、一歩下がると畳ではなくふにゃふにゃしたクッションかなにかの感触で、見下ろすと血のように赤い髪の色をした女性が数えきれないほど折り重なっておれの足元を覆い尽くしている。おれに腹部を踏まれた女性はうっとりと艶かしいため息をつくと、裸体を起こしておれの足首をそっと優しく撫でた。肩にぴちゃりと生ぬるい液体が落ちたので視線を上げると、天井であったはずのそこにきらびやかな金色の長い髪をした西洋人形のような少女たちが裸体を密着させて押し合いへし合い、透き通った瞳を嬉しそうに細めて笑っており、洞窟に潜む蝙蝠の群れのように垂れ下がった四肢を宙に遊ばせ何人かぼとぼとと下に落ち、足下を埋め尽くす肉色の海へ揉みくちゃに吸い込まれた。四方八方からぞろぞろと押し寄せ、何かを求めるようにおれに群がるその少女たちは、みな一様に汗か唾液か何かの粘液に濡れた肢体をてらてらと光らせながら、動くたびにねちゃりと淫靡な音を立ててただ笑う。

「あなたを愛しています」

 海面を割って何本もの細い腕が伸びると、紫色の髪をした少女たちが頬肉の上がらない疲れたような笑みを浮かべながら、髪束が皮膚に食い込むのも構わず這い上がって十指を踊らせた。おれは悲鳴を上げて彼女たちを引き剥がし、ずるずると滑る肉質を踏みにじって走り出すと靴下が脱げており、彼女たちの柔らかな胸や頭や背中や尻や下腹を裸足で踏み抜けば、わけのわからない甘い快楽が全身を刺し貫いた。立ちはだかる幼い少女が首筋を吸うのを振りほどき、見回すと辺りは三六〇度すべて見目麗しく蠕動ぜんどうする内臓のような肉壁。畳部屋の出口はどこにも見えず、ねっとりと甘い菓子のような香りが喉まで満ちて息苦しい。足の裏にぞわぞわする睫毛と彫りの浅い顔立ちを感じ、おれを撫ぜる少女たちの手付きは愛おしむように執拗で、地には見渡す限り無数に咲き誇る絶世の美貌と嫋やかな肉の峰。

「あなたを愛しています」

「やめろ!」

 声が嗄れた。同じ言葉が耳元に幾度も囁く。あなたを愛しています。ぼとり。金髪の少女がまた落ちる。長い黒髪を三つ編みやサイドポニーやツーサイドアップにした少女たちが立ち並ぶ林のような一帯を力任せに掻き分ける。未知の触感だけで構築された迷宮に全身の感覚神経が敏感になり柔肉と柔肉が融解して原形を留めないただ哀しい何かに触れたとき自分の指先までがそれに取り込まれそうになってわけもなく胸が痛い。ぼとり。前髪が長く目元の隠れた少女たちの一群におどおどと控えめな仕草で手を引かれるのを強く跳ね除けると少女は勢い倒れ伏し深淵にずぶずぶと溺れていく。愛しています。唇が動いた。ぼとぼとり。落下した金髪少女がおれの上に重なって切なげな息を吹きかける。ずっとお慕い申しておりました。積年の思いの丈をぶつけるように腰をむずむずと振る少女を振り落として立ち上がるとおかっぱ頭の中学生ぐらいの女子が背後からおれに寄り添い先輩が好きです。ぼとり。感極まったように目を潤ませて顔を近づける少女があまりに可憐で横っ面を殴ると本当は君のことが好きだったの、中腰になったベタ塗りピンク髪の高校生にぎくっと腰が砕けてなぜだかとても悔しく檸檬の香りに目が滲みながら淫肉を踏み越えると雪の肌の美しい銀髪の少女たちの深い森。私と付き合ってくれませんか、にちゃりにちゃりと毒色の海が蠢動しゅんどうする。ぼとぼとぼとぼと。いつもあなたを見ていました。ぼと。好き。結婚して。抱いてほしいの。熱いんです。お願い。キスして。嫌いにならないで。私だけを見て。大きいほうが好きですか。ぼと。一緒にいて。優しくして。ぼと。甘えさせてください。どんな子がタイプ。どうして。ぼと。やめて。見ないでぼとぼとぼとぼとぼと愛していますぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼと。おれは自分の肉体の輪郭を失わないように怒涛の中を藻掻きながら泣いた。どうしようもなく胸が詰まって張り裂けそうになり低い呻きを漏らした。耳の中に祈りにも似た愛の告白がえんえんとこだまして頭蓋を揺さぶり脳漿が飛沫を上げた。全身をくちづけに串刺されて猥雑な轟音と痛みに等しい掻痒感。ただ愛しさだけが夏の瀑布のように流れ込んでは胸の中に弾けて消える。空から溢れる少女たちの飛瀑が極彩色の水簾となって愛のような何かを曖昧に訴えかける。ケーキのような脳天気な甘みが喉を滑って尾骨でとろける。身体の中心に炎が迸ってはぷすぷすと黒煙を残し燃え滓を吐き出す。胆汁に湿る肉質の土中へ、おれは果てしなく深いどこかへ埋葬されていく。

「もう、やめてくれ」

 濁流に呑み込まれながらおれは夢中で手を伸ばした。

 白光が炸裂する。

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