第32話

 おれは午後の授業を前に早引きし、あさりの家へ自転車で飛んで行った。

 鍵のかかっていない玄関扉を素早く開け、階段をどすどすと二段ずつ踏み上がる。

「あさり、どういうつもりだよ。こんな急に、かすかを発売しやがって」

 声を張り上げながら薄暗く散らかった部屋に上がり込むと、あさりはチェアに座ってPCモニタに向かい合いこちらに背を向けたまま、振り向く気配がない。

「朝見草さんを売ったんじゃない、あたしのオリジナル。似すぎてるだけでしょ」

「ああ。おれの妄想から生まれ出て、本人まで認めたそっくりさんだよ」

「まあ先方のチェックも通ったし、さくっと印刷所の色校も出て、そろそろ予約受付始めるかって状態だったわけで。朝見草さんと初めて会ったとき、あの子アニメキャラと同じような存在になるって覚悟決めてたじゃん。さすがにあたしが悪者みたいで、気が引けてストップしてもらってたんだけど」

 あさりはストローを差した紙パックからお茶を吸うと、はあ、と息をついた。

「あの子はあんたのどろどろしたものを全部受け止めてあげたのに、あんたはあの子も、夜来さんのことも、受け止めてやれないみたいだったからさ。呆れてね」

 あさりはモニタに表示させたかすか似の抱き枕絵の原画を眺めていた。

「一昨日あんたが帰った後、夜来さんはいつの間にか帰ってたけど、朝見草さんはしばらく座り込んじゃってて。そんで重ねて教えてやったの、あいつと付き合うってのは結局そういうことだって。重度の二次元オタはあなたみたいな重い子、一時的に面白がりはしても、ずっと愛し続けてくれたりはしないって。アニメキャラを本当に演じるつもりなら、自分なんか消すべきだって」

「お前、そんなこと本気でかすかに言ったのか……」

「あのとき、あんたがそう決めて突き放したんでしょ。だからお互いようやく本当にスタンス決まったんだと思って、あたしも安心して朝見草さんをキャラクターと同じようなものとして扱うことができた。印刷所に頼み込んで夜通し回してもらって、販売サイトにも即注文できるようにしてもらったよ。あたしが信頼のある神絵師じゃなかったら業界干されるレベルの無茶したわ、危ない危ない」

「そんな信用なくす真似までして……かすかは、もうあの身体から出ていってしまって」

「知ってるよ。良かったじゃん、これで朝見草さんはあんたの好きなアニメキャラの抱き枕と本当に同じになった。オタの欲望の上にしか生きられない肉体だけの存在、その人格は実在せずオタの妄想の中に浮かんでは消える虚像。あの子はもうあんただけの彼女じゃない、多くのオタと共有するセクサロイド。そしてそれは、あんた自身が望んだこと」

「やめてくれ!」

 おれは彼女の背を掴んで、あさりの身体をこちらに振り向かせた。

「触るんじゃねえよ。汚ねえな」

 あさりは長い前髪を頭上に縛ってあらわにした顔面を軽蔑に歪めておれを睨んだ。

「あんた、単なるクソオタなのか、あの子の彼氏なのか、どっちなんだよ」

 答えられなかった。

 今のおれという人間は、間違いなくオタとして生きた七年間の上に立っている。

 かすかの恋人として彼女に操を立てて生きるには、あまりに難しい人間としてあるのだ。

 かすかもアニメキャラも同等に尊く思われ、両者を同時に愛そうとして、失敗した。

 そしておれは、自分と同じように捨てがたき過去を背負ったしずむさんという女性と心を惹かれ合った。今のおれはオタにも誰かの彼氏にもなれない、ただの浮気者だった。

「あの子ね、昨日の夜、ここに来たの」

「……え?」

「ビニール傘さして来た。ちょうどあたしが電話越しに各方面に頭下げまくってたとき。これでかすかは本当にアニメの女の子とひとつになれるんだ、って笑ってた」

「駅で別れた後、おれがしずむさんを探してる最中、あさりの家に……」

「颯太くんがしずむちゃんと付き合っても、たまにでいいから、かすかの抱き枕に浮気してほしいな、って言ってた。朝見草さんはあんたの望む存在になれるって、喜んでアニメキャラと同じ存在になったんだよ。納得して、消えたんだ」

 あさりはチェアから立ち上がり、立ちすくむおれに激しく掴みかかった。

「なんで現実の女の子が、作り物の女の子にならなきゃいけないのよ」

 おれの胸を握りこぶしで殴りつけながら、嗚咽とともに声を漏らした。

「なんで作り物のために犠牲にならなきゃいけないの」

 ほっそりと繊細な白い指が赤くなるほどに強く握りしめた拳を、おれの胸に叩きつける。

「作り物の美少女なんて、あたしがいくらでも作って、金に変えてやるだけなのに」

「……あさり、泣いてるのか?」

「こっちが作ってやってる側なのに、なんで作り物ばっかり、大事にされてっ」

 思わずあさりの肩に手をやるが、すぐさま払いのけられる。

「触るなっつってんだろっ」

 おれはあさりの暴れる手を掴んで無理に身を寄せると、その肩を力ずくで抱いた。ついで頭を抱き寄せ、おれの胸に埋めさせる。あさりはなんとか離れようと足掻きながらもごもごと何か言っていたが、しばらくするとおとなしくなった。

「お前の描いた抱き枕カバー、四〇枚買うよ」

「……何言ってんの?」

「抱き枕カバーなんて結局は消耗品だからさ。どんなに気をつけて使ってても、傷付いたり汚れたりするだろ。耐久性が上がった2Wayトリコットの新生地が早く開発されればいいんだけどなあ……だから四〇枚を二年ごとに交換するとして八〇年、一〇〇歳手前まで末永くおれはかすかを抱くことができるだろ。あ、部長に一枚もらったからちょうど一〇〇歳まで持ちそうだな。カメラ用防湿庫も買って、湿気対策も本格的にしなきゃ」

 あさりはおれの手を押しのけて頭を上げると、毒気の抜かれた表情をしていた。

「おれの貯金じゃそれだけ買うのが精一杯だけど、勘弁してくれよな」

「……」

 そこでおれは力んだままだった腕を解いて、あさりの身体を離してやった。あさりは汚れてしまったとでもいうように肩や胸を手でぱっぱっと払い、そのままの動きで目尻をちょっと拭った。

「あんた、それで納得できるの?」

「いや、かすかとは今夜これから会って話してくる。抱き枕買うのはおれの生き方の問題なんだ。あと、お前がこれで大失敗したら本当に業界干されそうだしな。受注じゃなくて在庫販売だろ、これ」

「そうだよ。無駄な気、回すな」

「一段落ついたら、またちょくちょく寄ってやるよ。あと同人誌のベタ塗りでも掃除でも雑用でもバイト色々回せよな。新作も出したら買ってやる」

「新作買ったら、朝見草さんのカバーと取り替えんの?」

「あー、そろそろ中綿へたってきたし、買い替えついでに本体買い増しするかな。そんで二本同時に抱く。寝苦しくなりそうだけどな、しょうがない」

「……はあ」

 あさりは相変わらずのよれよれな寝間着姿で頭を掻きながら、よっこらとチェアに腰掛けた。話は終わったというように、こちらに背を向けてモニタに再び向かい合う。

「お前の事情なんざよく知らんが、引きこもりに疲れたら近所に散歩でも旅行でも行けよな。面倒だけど、そのときは一緒してやるから」

「かったるいやつ」

 あさりはちょっと振り向いて、胡散臭そうに目を細めると、ため息をついた。

「分かったから、早く朝見草さんのとこ行ってきなさいよ。どうやって会うのかは知らないけど……最後なんでしょ、たぶん」

 おれはあさりの目を見て頷いて、部屋を後にした。

 廊下に出たところで、「はあ」ともう一度大きくため息をつくのが聞こえた。

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