第30話
しずむさんの家は留守だった。
夜は遅く、学校の正門はすでに閉まっている。
他に思い当たるただひとつの場所に向かうと、予想通り彼女はそこにいた。
「こんばんは、しずむさん」
暗闇の中になお暗い河川敷の架橋下に、しずむさんは俯いて体育座りになっていた。
「そういえば、魔術研究部の活動っていつもここでしてたんですか?」
しずむさんはほんの少し顔を上向かせて、黒い水面を見下ろした。
「はい。ここが、なぜだか落ち着くんです」
「ここで毎回金粉ショーとかやってたら、近所の人に噂されないっすか?」
「あれは、颯太さんがいるからやろうと思ったんです。いつもはしません」
しずむさんの隣におれも座ると、びしょびしょのズボンがコンクリの地面に張り付いた。
「ひとりで踊るよりも誰かに見せて踊ったほうが、神降ろしが成功する確率は高くなるのではないかと思って、まずは颯太さんにだけ、見てもらいました」
「いきなりだったから……正直、困ったけども」
「すみません、人との距離感をはかるのが苦手なので。でも、見てもらいたかったんです。あなたの闇を本当に受け入れられる身体は、ここにあるのだと、気付いてほしかった」
お互いに濡れ鼠で、制服姿に肌を透かしたしずむさんの震える肩に気付いても、おれにはそれを温めてやれる手段はなく、縮こまっているほかにない。
「しずむさん。もしかして、かすかの魂を違う容れ物に入れるって」
「はい。かすかさんの魂を現世に繋ぎ止める方法は、冥婚呪術しかありません」
「冥婚?」
「青森に伝わる、亡くなった未婚者を供養する風習です。花嫁と花婿をあらわす供養人形、それに死者の写真と位牌を添えてお寺の人形堂に奉納します。山形のほうでは死者の婚礼の様子を描いたムカサリ絵馬の奉納が知られています。もとは中国などに古くから……」
そこまで言ってからしずむさんはおれをちらと見、こほんと小さく咳をした。
「そうした習俗にまつわる呪術、ということです」
「死霊と結婚する儀式ってことか……」
「はい。具体的な方法についてですが、かすかさんの元の肉体、つまり死体が必要です。かすかさんのお母様から、夜伽を頼まれたということでしたね」
「ああ、明日の晩。見守っていてやってほしいって……」
「私もご一緒できないか、ご家族の方にお訊ねいただけますか?」
「聞いてみます」
そこまで言って、くしゅ、としずむさんがくしゃみをした。
「このままだと風邪引くから、そこから先は明日聞きますよ」
「……すみません。あの、連絡用に、携帯を」
慌てた様子で、鞄の中からシンプルな黒いスマートフォンを取り出す。
「そういえば、交換してなかったっすね。うっかりしてた」
おれもズボンのポケットから携帯を抜いて水気を拭い、番号を交換した。
「家族以外の登録、颯太さんが初めてです」
「おれも似たようなものですよ。家族とあさりとアニ研の奴らぐらい」
しずむさんは折りたたんだ携帯を大切そうに撫でて、ほんの少しだけ笑顔を見せた。
「私、ずるいですね。かすかさんが大変なときなのに、こんなことして」
ちょっと鼻をすすってから、しずむさんは立ち上がった。
「颯太さんが格好いいのが、悪いんです」
「褒められたもんじゃないでしょう、おれの顔なんて」
「いえ、きっと格好いいです。そう信じています」
見上げると、こちらを見下ろすしずむさんの瞳が闇と同じ色彩をたたえていた。
「私、人の顔が分からない、相貌失認なんです。重度の」
おれはしずむさんの視線に釘付けにされたように、その場を動けなかった。
「イタコは麻疹などで半盲や全盲になった子供が、本人の意志以上に周囲の勧めによって目指すケースがほとんどなんです。私は目自体は大丈夫なのですが、変わった例でして」
「……なんで、そんな、教えてくれなかったんですか」
問いかけてから、意味のないことを訊いたと後悔した。
「変に気遣われるのもなんですから。それに、日常生活には何の支障もありません。人の顔はほとんど認識できませんが、声の感じや服装や身長、動作などで誰かは分かります。颯太さんもかすかさんもあさりさんも、分かります」
川面を殴りつけるような雨音がおさまってきている。
「初めて会ったとき、私を優しく抱きとめてくれたときから、颯太さんは格好いいです」
しずむさんは識別もできないはずのおれの顔をじっと見つめて、頬を染めた。
「……逃げてしまって、すみませんでした。早くかすかさんの元に帰ってあげてください」
しずむさんは小降りになった雨空の下に出て、雲間からわずかに差す月光を浴びた。
「冥婚呪術、颯太さんとかすかさんのため、あと、私のために、きっと成功させます」
おれは冷えきった身体をようやく立ち上がらせて、しずむさんを見送った。
帰り道を歩きながら、連絡先を教えてもらっていたかすかの母親に電話をかけた。
もうひとり親しい友人と夜伽に付き添いたい旨を伝えると、母親は少し困惑した様子だったが、おれを信用してくれたのだろう、最後には快く了承してくれた。
家に帰ると、布団の上に抱き枕があった。
エクリプスが裸ワイシャツで寝転がった絵柄の抱き枕カバーが装着されている。
おれはシャワーを浴びて着替え、歯を磨き、無精髭を剃り、洗顔し、かすかが来てから手入れしていなかった伸びきった爪を切り、皮がめくれて少し血の滲んでいた唇を舐めた。
抱き枕との共寝に臨む際の礼儀として、以前は習慣化していたことだった。
だが、今夜ばかりはそれを抱くつもりも起こらない。
部屋に散乱したままだった抱き枕カバーを集めて畳み、薄い掛け布団に抱き枕と一緒にくるまると、エクリプスの嬌態に背を向けて、壁を見つめながらひとりで眠った。
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