第29話
帰りの電車に乗り込むと、座席の隅にしずむさんを見つけた。
目顔で挨拶を交わし、おれはその隣に座った。やや遅れてかすかがおれの横に座る。
「以前颯太さんが言っていた抱き枕の聖地、立川市のゲーム屋さんに行っていました」
「……もしかして、かすかの魂をどうにかする方法が分かったんですか?」
おれが今朝から続くかすかの異常について説明すると、しずむさんは何か確証を得たというように深く頷いて、「なんとかなるかもしれません」とおれの目を見て言った。
「でも、この方法は危険です。最悪、颯太さんの命にかかわります」
おれと手を握り合ったまま座るかすかの身体が、びくりと震える気配がした。
「それでもいい。何でもいいんだ、かすかが助かるなら、おれは」
「だめだよ、そんなの。颯太くんが死んじゃうなんて、心中じゃないんだから」
語調も荒く否定の意をあらわすかすかの手のひらが、じわじわと湿り気を増していく。
「そうですね。私の見つけた方法は一歩間違えればかすかさんの霊魂を悪霊に堕としかねない禁じられた呪術です。かといって、こうして手をこまねいているままだと、いずれかすかさんの魂は必ずその憑代から離れてしまう。神葬祭が無事に済んだ暁には、かすかさんは祖霊となってご実家に祀られるでしょうが……決定は、おふたりの意志に任せます」
「もう、この身体はだめになっちゃったの?」
「おそらく。颯太さんの購入した
「言わないで。かすか、この身体がいい。どんな呪いがかかってても気にしない。この身体は颯太くんの想いが込もってるの。アニメの女の子と、かすかへの想いが」
「……その身体を維持している呪術は、颯太さんとかすかさんが内に秘めた、闇への祈りによって支えられています。かすかさんは良くとも、今の颯太さんは、どうでしょうか」
「今の颯太くんは、かすかは消えちゃったほうがいいって思ってるってこと……?」
かすかが握った手に力を込めて、信じられないというような目付きでおれを見上げる。
「かすか……結局、どうなればお前は、救われたことになるんだ?」
「決まってるよ。ずっとこのまま、かすかはアニメの女の子として、颯太くんの傍に」
「できないんだよ、お前がアニメキャラに完全になりきるなんて。そんなことしようとして、おれもお前も、昨日から何もかもぼろぼろになってるじゃないか」
「じゃあ、かすかもアニメの女の子も、一緒に愛して? 約束、してくれたもんね」
「それも無理なんだ。かすかは強いから我慢できるかもしれないけど、おれにはそんなの、耐えられないんだ。きっとまたかすかと、アニメキャラと、それにしずむさんとの間でまでおれは揺れて、ずっと揺れ続けて、またみんなを昨日のように傷つけてしまう」
「……じゃあ颯太くんは、どうすればいいと思うの?」
「もともとこんな、何かの間違いだったんだ。かすか、お母さんのところにいてやれよ」
かすかの手汗が冷たくなっている。
「お葬式してもらえば御霊とか祖霊とかそういうのになって、ずっとおれたちを見守り続けてくれるんだろ? 話せなくても、目には見えなくても、一緒にいてくれるんだろ? アニメキャラを演じておれだけのものになるなんて馬鹿げたこと、しなくていいんだよ」
そのとき突然、かすかが激しく咳き込んで床にうずくまった。
「かすか!」
おれは乗客の目も気にせず、かすかを抱きかかえてやった。
電車が駅に到着するころになって、ようやくかすかの様子は落ち着いた。降車後も大事を取ってベンチで休憩する。辺りの闇は深まり、駅前の広場にも人通りは少ない。
おれはかすかと一緒に座って背中を抱いてやり、しずむさんはベンチの横に立っている。
「颯太くんはかすかのこと、嫌いになったの? もう、どうしようもないのかな」
「そうじゃない。けど、もうこのままじゃいられないんだ」
「せっかく、また会えたのに……なんで、こんなことになっちゃうの?」
かすかは全身から力が抜けきったように、ゆらゆらとおれの胸に顔を埋めてくる。
しまいに嗚咽を漏らし、おれのシャツを濡らしはじめた。
「……しずむさん。さっき言ってた方法なら、かすかはこのままでいられるのか?」
「このままというわけにはいきませんが、魂を別の容れ物に移し替えることならば」
「だ、だめ、だよ。颯太くんが、死んじゃうかも、しれないんでしょ」
「やってみなきゃ分からないだろ。しずむさん、どうすればいいんだ?」
「だめ、言わないで。そんな怖いこと、やめてよ、もうやだよ」
「そうですね。私もいやです」
わずかに震えた声を聞き、おれはそこではじめてしずむさんのほうに顔を上げた。
表情のないしずむさんの両眼から頬にかけて、涙の雫がまっすぐに伝っている。
「しずむ、さん」
言葉を紡ぐ乾いた唇の動きが、やけにゆっくりと感じられた。
「颯太さん。私は、あなたを愛しています」
おれの胸の中で、かすかの泣きやんだ気配がある。
「颯太さんにそこまで想われて、かすかさんはずるいです。私、妬いていました。颯太さんの孤独を本当に理解できるのは私なのに、かすかさんのような普通の女の子では彼の闇を引き受けられるわけないのに、そう思っていました。颯太さんと出会って、かすかさんと出会って、苦悩するおふたりの姿と出会ってから、私も自分のことを顧みてみたんです」
しずむさんは言葉を区切ると、すん、と小さく鼻をすすった。
「霊能力者の家系として私は、神や霊といったこの世ならざるもの、神聖なるもの、それゆえに触れ得ざるものに祈り続け、瞑想し続けることに幼少期を費やしました。しかし、ついにその祈りは師である祖母に認められることはありませんでした。私は、後継者の不在に滅びゆくイタコの将来を憂える祖母を、安心させたかったのですけれど」
その声はだんだんとかすれていって、心細げに耳に響いてくる。
「私にイタコの修行をつけるとき、祖母はとても厳格でした。両親が共働きでお祖母ちゃん子だった私は、優しかった祖母の豹変に戸惑いました。掃除や料理といった一日の雑務を済ませた後、唱え事、経文、オシラ祭文、般若心経、諸々の巫術を盲目の祖母から口伝されました。私は祖母に見離されるのが怖くて、必死に神降ろしの習得に努力しましたが、イタコの最終試験である身上がりの儀式を終えても、私の肉体に仏は降りませんでした」
そう言いながらも、それこそ神の降りたようにしずむさんの泣き顔は幽しく、眩しい。
「そのコンプレックスからでしょうか、お寺に頭を垂れて恐山に間借りして、細々と口寄せ料を稼ぐ祖母の生活が不意にとても見すぼらしく思えました。イタコは神聖で誇り高き巫女などではなく、進歩もなしに僅かな既得権益にしがみつき、神様や死者に頼るしかない心弱い人々を騙すような、汚れきった賤業なのだと思い込みました。私は祖母に反発し、真に気高く慈悲深い、自分だけの現代巫術の探求を始めました。でもそれは、祖母や、祖母を訪ねる人々と同じで、曖昧模糊な存在に取りすがっているだけの逃避行為でした」
気が付くと身体に雨粒の当たる感触があり、はっとした。
「キャラクターであれ、恋人であれ、神仏であれ。私達はなぜ、
おれはベンチに座る位置をずらして、駅ビルから突き出た雨避けの庇の下にかすかをかばったが、しずむさんはその場から数歩下がって、雨の中に身を晒した。
激しくなる雨脚に夜空を見上げる暇もなく、おれはしずむさんが濡れゆく様を見つめる。
「しずむちゃん、かすか、かすかは」
かすかがおれの腕を解くように身じろぎして、しずむさんに向かって手を伸ばした。
「なにも、いわないでください」
震えきった声を喉から絞り出すと、しずむさんは身を翻して雨の街に駆け出した。
ぱしゃぱしゃと水たまりを踏みながら、曲がり角に消えていく。
夜闇はただ雨音に満ちて、湿った夜気がおれの肌に冷たい汗を滴らせていた。
「颯太くん、追いかけてあげて」
かすかはおれから少し身体を離して、顔を上げた。
「でも、お前を置いていくわけには」
「いいの。先、帰ってるから」
かすかは立ち上がり、「そこのコンビニで傘買ってくるね」と笑顔を作った。
「あと、しずむさんに聞いておいて。かすかの魂を助けてくれる方法」
背筋を正して、おぼつかない足取りを誤魔化しながら、かすかはおれから離れていく。
「……納得して、くれたのか?」
「わからない。けど、このまま颯太くんやしずむちゃんとお別れするのは、やだから」
かすかは背中を向けたまま、こちらに振り返らない。
「ね、かすかがもし迷子になっても、どこにいても見つけてくれるよね」
雨粒にわずか湿った緑色の髪を手で梳いて、駅ビルの入口前で立ち止まった。
「家までの道、ちゃんと分かるだろ?」
「うん。そっか、道、覚えてる。じゃあ大丈夫だね」
おれは立ち上がって、かすかから目を離し、夜の街を見た。
「颯太くんも傘、いるよね?」
「いや、いいよ。走っていくから」
「そっか」
まだ迷っている両足に無理矢理に力を込めて、振り向かず、おれは雨の中へ踏み出した。
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