第28話

 その日は学校を休んで、一日中ずっとかすかを抱き続けていた。

 途切れ途切れの意識がはっきりと覚醒したときには、すでに外は暗く、空は曇っていた。

 安らかに寝息を立てるかすかの寝転がった辺りには、何十何百もの抱き枕カバーが散乱していた。すべて、おれの所有している抱き枕たちである。

 身体を起こすと、長時間同じ姿勢を取っていたためであろう、手足が痺れきっていた。

 かすかへの抱擁を解いても、今のところ別のキャラに変貌する様子はない。

「……あ、おはよう、颯太くん」

 かすかが目を醒ました。今現在はエクリプスの姿で安定している。

「ね、かすか、颯太くんと一緒に行きたいところがあるの」

 かすかは眠たげに目をこすりながら、裸ワイシャツ姿で起き上がる。

「最後に、颯太くんとの思い出の場所、見て回りたい」

「最後って、かすか、お前」

「うん。たぶんもう、長くないから」


 身支度を整えると、おれたちは夜の街に出て、電車に乗った。

 がら空きの車内で座席に座り、お互い無言のまま身を寄せ合って窓外の景色を見ていた。

 一時間ほど電車を乗り継いだ先には、幼いころにおれの暮らしていた街並みがあった。

「四年生のときにかすかが引っ越して……おれは中学に上がる前にここを移ったんだ」

「うん。ね、駅前のアイス屋さんで、よく買ってもらったよね。今もあるんだよ」

 小学生の時分によく母親と歩いた駅前のアーケード商店街に、目当ての店を見つける。バニラとストロベリーのアイスを一緒に買うと、かすかは薄灰色に汚れたアーチ越しに夜空を見上げながら「何も変わってないでしょ」とくすくす笑い、苺色のアイスを舐めた。

 商店街を外れて住宅街にちょっと入ると、古びた棟が立ち並ぶ団地があった。広い舗道と植え込みの続く敷地を歩いていくと、錆びかけた遊具と小さな滑り台と砂場が並んだ猫の額ほどの児童公園が見つかる。その近くの棟を見ると、クレヨンで描かれた稚拙なイラストや動物の形に切り抜かれたカラー厚紙がいくつも戸口に飾られていた。

「ほら、学童クラブまだあるんだよ。高校の帰りにね、たまにここに寄ってたの」

 かすかはうさぎ型の遊具に跨ってぐらぐらと揺られると、すぐに飽きてしまったように立ち上がり、敷地を抜けた先の道路を指した。

 歩いて五分も経たないところに、おれたちの通っていた小学校の校舎はあった。閉じられた正門から覗いてみると人の気配はなく、どの教室にも明かりのついている様子はない。「颯太くん、これ」とかすかに呼ばれたほうに行くと、施設取り壊しの日程が記されたプラ看板が張り付けられていた。

「ちょっと前に廃校が決まっちゃったんだ。さみしくなるから、いつもは寄らないの」

 かすかは闇にひっそりと佇む校舎を名残惜しそうに見上げて、再び歩き出した。

 それから近所のスーパー、よく家族で行った中華料理店、一時期通っていた水泳教室などをふたりで巡ったが、取り立てて特徴もない小さな街に培った三年間の思い出なんてこの程度のささやかなものなのだと、哀れにすら思ってしまう灰色の景色ばかりだった。

 小さく古びた町工場ばかり、こんなに多かっただろうか。

 駅前に戻ってきたところでかすかの足取りが怪しくなり、ふらと電柱に寄りかかった。

「おいかすかっ、大丈夫か!?」

「……ごめん、颯太くん。あのね、手だけ、繋いでてくれる?」

 おれはかすかの肩を掴んで正面に向き直らせると、その身体を両腕で抱き締めた。

「ひゃっ、だめだよ。人に見られちゃう、恥ずかしいよ」

「こうして抱かれていないと、もう意識が続かないんだろ?」

「……うん。なんだか視界がぼやけて、ふらふらしてね、だんだん眠くなってくるの」

 かすかは一昨晩からこのような意識の異常を訴えるようになっている。

 状況から見て、おれがかすかを抱かない時間が長く続くだけ、状態が悪化するようだ。

 毎晩抱き続けられた抱き枕の肉体が、呪的なまでに熱い抱擁の記憶に飢えているのだ。

 一人の夜が長引くごとに呪力は弱まり、かすかの霊魂を引き止め難くなっている。

 呪いはかすかの秘した激情と共振し、あのような幻覚をおれに見せたのか。

 おれの七年間の穢れた欲望が形作った呪的肉体が、復讐をはじめたとでもいうのか。

「ね、颯太くん、懐かしいね、この街」

 懐かしいけど、懐かしいほかには何もない場所じゃないか。そんなことを言いかける。

「でもね、退屈だった。かすかが変わっちゃったのかな。特別だと思ってた場所なのに、どこにでもある景色しかなくて、なんだか冷たい。そんなものなのかな」

 体重を預けてくるかすかの体温が、やけに低い。

「ねえ、これで本当に終わりなんだって思ったらね、お母さんの顔が浮かんできたの」

 通りすぎる人々の視線を浴びながら、かすかはおれの肩に顎を乗せて喋る。

「悲しい顔、見たくなかったのに。かすか、やっぱりだめな子だね」


 二〇分ほど再び電車に揺られた先で、古びた駅のホームに降り立った。

 田んぼの多い田舎じみた風景の中、手を繋ぎ合ったかすかの案内で歩いていくと、小さな市営図書館に差しかかったあたりから古い民家の立ち並ぶ一角に入った。

 その中でも大きめながらひときわ古びた一軒の前で、かすかは立ち止まった。

 低い竹垣を隔てた軒先に、女性が立っている。

 かすかがそっとおれの手を離した。歯を食いしばる音が聞こえた気がする。

 その女性は、亡くなった娘と生前仲の良かったという同級生と幼馴染みの訪問を、人の良さそうな笑顔で歓迎した。十畳ほどの手広な畳部屋にふたりの客人を招き入れる。

 榊の葉や注連縄とともに誂えられた神棚が、部屋の壁に設置されている。葬儀は神式で執り行うらしく、喪中につき神棚には白い和紙が下げられていた。

 立ち居振る舞いの節々にくたびれた様子が見られるかすかの母親は、娘と生前どんな付き合いがあったか、娘は学校でどんなふうに過ごしていたかなどをおれたちに訊ね、わざわざ訪ねてきてくれたことへのねぎらいを口にすると、母子家庭で娘を育ててきた苦労や、内気で大人しめな娘との母娘関係の悩みについて、とうとうと語って聞かせてくれた。

 アニメキャラの姿で俯いて座布団に座るかすかはたまに相づちを打つばかりで、母親の話が終わって玄関先まで見送られるにいたってなお、口を開くことはなかった。

「遺体に損傷が少ないことだけでも、奇跡だと言われました。……遠戚の都合もあって神葬祭は明後日になるのですが、もしよければ、通夜祭からお越しになってください」

 母親はため息をついて、おれを見つめた。

「通夜振る舞いの後、翌日の葬儀まで、娘の傍に付いていてやってくれませんか。私よりも、八木さんがいてあげたほうが、あの子も喜ぶと思いますから」

 葬儀まで夜通しで蝋燭を絶やさずに故人を見守る、夜伽というお通夜の一環だそうだ。

 おれは謹んで引き受け、礼を交わすと、かすかとともに歩き出した。

 垣根のあたりまで来たところでかすかは振り返り、玄関扉の奥に消えていく母の背中をじっと見つめていた。

「ごめんね、お母さん」

 駅に戻る道の途中で、かすかは涙を流した。

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