第27話

 いつの間にか日が沈んで、夕刻を過ぎていた。

 この街唯一のアニメショップは、駅前にひっそりと佇む五階建てのビルに入っている。

 最上階のアダルト系中心のコーナーをうろつきながら、おれは所狭しと陳列されたパッケージ群に描かれた美少女たちの痴態をぼんやりと眺めていた。

 誰かを選べないならば、架空の美少女キャラと元の鞘に収まるしかなかったのだ。

 少々浮気が過ぎたようだが、彼女たちの中に包まれてさえいれば、何も不安はない。

 フロアの隅から隅まで並んだ美少女ゲームや萌えアニメのパッケージが目に眩しく、天井を埋めるほど無節操に何十枚も重ねて貼られた販促ポスターが色鮮やかだ。

 店内スピーカーが数年前に流行った騒がしいアニメソングを延々と流し続けている。

 せき止められることを知らないこの濁流に沈んでさえいれば、ずっと夢を見ていられる。

 おれが実在の女性に操を立てられるわけがなかった。この永遠に続く豊穣を享受し、電波と回線を通じて与えられた閉鎖された祝祭空間の中で孤独ながらも満ち足りた美少女たちとの乱交を演じ続けるほかに道はなかったのだ。

 フロアの片隅のガラスケースに飾られた、抱き枕カバーの美少女と目が合った。

 中古販売なのであろう、値札に記された価格は新品よりも安めだ。

 すでに他の男に抱かれた女など誰が抱くものか。

「ふっ、ふっ。おっ、そこにいるのは八木氏ではあるまいか?」

「ん、んふ、ヤッギーは今日も抱き枕漁りにご熱心なようで、ふっ、ふう」

「あ、八王子。それに青木も」

 フロアの入口から黒づくめのファッションでキメた八王子と、横縞半袖シャツと古びたジーパンを着こなした青木が現れた。狭い階段で、息が上がっている。

「まままままあ奇遇というか、場所的に会うべくして会ったという感じでござるな」

「せっかくだし今日は飲み行きませんか? みんなも来てるんでしょ」

「オッ、飲み! 高校生の癖にスレた言い方、たまりませんな八木氏」

「ふふ、他のメンバーも一階でうろうろしてる、んふ」

「じゃ向かいの居酒屋行きましょうや、あそこ安いらしいんで」

「いやいやいや八木氏、意外と世慣れてる? 部長としては形無しでござるな」

 他のメンバーと合流してチェーン店の大衆居酒屋に入ると、結構話が盛り上がった。

 この前まで顔と名前も一致しなかったアニ研部員たちも、ちょっと腰を落ち着けてこっちが心を開いてみると意外と話せるやつらで、みんなおれと同じように気苦労が絶えない生活を送っていることが分かった。

「いやだから? 何であんなスポ根ノリでミリタリ+萌えを安直に爽やか肯定しちゃうあれが流行ってんだよみたいな? ミリ描写こだわってて、は、だからどうしたみたいな」

「偉そうに大口叩いてるやつに限って男児向けアニメとか玩具販促だけだろってタカくくって見てねえわけよ? テメ、コトリンマジブヒれるってんのにマジ見ねえでやんの」

「ま、ま、男児向けと言えばこうチャッ、チャージ三回で? スピンゴーで?」

「ん、んふ、ニチアサだけ見てドアサ見てないやつとかも、ふっ、ハアッて感じで、ふふ」

「ままままま我らがVVV先生を安易にネタ扱いする輩も度し難いですな? これだからロボアニメファンは保守的でそりゃ衰退もするわってまったく」

「はは、何言ってるか分かんねっす」

 彼らは彼らなりに主義主張があり、必死に濁流の中を藻掻いているらしい。

 学生の時分で何を頼むか迷った挙句に注文した烏龍茶をおかわりし、中華麺をずるずるとすすりながら、薄汚くもがやがやと賑やかな店内の雰囲気におれの心は安らいでいった。

「なんか大変そうっすよね、実際みんな」

「八木クーン、そっちこそ最近調子どうよ」

「なんか全然駄目で、気分転換に街出てきて。おれには抱えきれなかったっつか」

「んふ、抱き枕だけに、ふ、抱えきれない?」

「ままままま最近の八木氏は何やら我々にははかり知れぬ懸案があるようで」

「八木クンなら女抱いて寝て起きたらなんもかんも忘れそうなイメージあっけどね」

「おれそんなイメージすか?」

「でもまあ些細な悩みなんて実際そんなもんっしょ、朝になれば消えてなくなるっしょ」

「そうかもなあ」

 その後も取り留めもなく様々に話題が絶えず、興が乗ったおれたちは居酒屋を出た後、部長の家でアニメ鑑賞会と洒落込むこととなった。

 今期アニメをざっと消化しながらわいわいやって、鑑賞会は深夜まで続いた。


 気が付くと、おれはカーペットの敷かれた床に寝転がって、淡い朝日を浴びていた。

 部長が大枚はたいて揃えたらしいオーディオシステムから、早朝のニュース番組の音声が流れていた。ニュースキャスターが淡々と告げた時刻は、午前四時四五分。

 部屋のそこら中に散らばって眠りこけている部員たちを横目に、おれは部長の家を出た。

 床寝で身体の節々に若干の痛みを覚えたが、気分は昨日よりも随分晴れやかだった。

 一人寝の夜も久々に思われるが、何かを抱かずとも何とかなるものである。

 習慣的に毎日抱いて、無くてはならないもののように感じていても、実際そんなものだ。

 自転車に乗って自宅に向かいながら、かすかはどうしたのだろうかと今更に気になった。

 あさりの家に泊まったか、合鍵は渡しておいたのでひとりで家に帰ったかであろう。

 オタとして露悪的に振る舞うおれを見て、どれほどのショックを受けただろうか。

 かすかとアニメキャラを平等に愛するなど儚い約束で、混乱した感情を一時的に整理するだけの綺麗事に過ぎなかった。かすかがあんな脆く半端なあわいの存在であり続けていれば、遅かれ早かれおれたちの関係は破綻をきたしていたはずだ。

 もっと単純に物事を考えなければいけなかった。死んだ幼馴染みとの運命的な再会、心と身体の乖離、憑霊現象の密教的解釈、厄介なことに思考を撹乱されっぱなしだったが、元を正せばおれのオタとしての生き方が一番の問題だったのだ。

 架空の美少女に人格を認めようなんて、無駄な足掻きがすべての元凶だった。

 彼女たちを消費物として割り切って一元化すれば、かすかとの関係だってすっきりする。

 おれはかすかに人格を認めず、アニメキャラを演じることだけを要求すればいいのだ。

 本人だって、死してなお自我を保つよう求められることにある種の悲しみを抱いていた。

 軽薄に千変万化する架空人物の肉体に、おれへの強い執着を抱いたかすかの魂は釣り合わない。それに、霊的で観念的な恋愛関係だけを結び直すのも、今更忍び難いものがある。

 どこにでもいる、ありふれた恋人同士になればいい。

 自分たちがかけがえのない運命のふたりだなんて幻想は捨てればいい。

 世にはこんなにも同じようなカップル、同じような恋愛、同じような物語が溢れている。

 どんな姿形であろうと、まして、どんな人格を持っていようと、本質に変わりはない。

 おれは平凡な高校生で、彼女はそんなおれだけを見てくれる、可愛い理想の女の子で。

 そう、理想像なんて決まりきっていて、その模倣が連鎖して濁流となって横溢している。

 オフィーリアの如くその川面に漂う美しき亡骸たちを、永劫に演じ続けていればいい。

 いつの間にかおれは自宅の入ったボロアパート前にたどり着いている。

 階段を上がって自宅の扉を開ける。鍵は開けっ放しになっていた。

 カーテンの閉じきった暗い六畳間の奥に、テレビに釘付けになっているかすかがいた。

 脳天気なハーレムアニメを垂れ流すテレビモニタの光を浴びるかすかは、柔らかな緑色の髪をヘッドドレスで飾り、さりげないアレンジの入ったメイド服でめかしこんでいた。

 とびきりおれの好きなアニメキャラだ。

 BD購入者限定通販だがアニメーターさんらしい荒い鉛筆画の主線で印刷品質も悪く、せっかくの抱き枕化だから買ったはいいものの、一度しか使わず押入れにしまっていた。

「あ、颯太くん、おかえりなさい」

 聞く者すべてを癒すような舌足らずの愛らしい声を上げると、出迎えのつもりか、かすかは立ち上がってとことことおれに近づいてきた。

「ね、かすか、徹夜でアニメの女の子のこと、勉強してたんだよ。かすか、偉いかな?」

「成果が出てない。そのキャラは、そんな口調じゃないだろ」

 焦点の合っていない瞳をぱちくりと瞬かせてから、かすかは微笑んだ。

「お帰りなさいませ、だんな様」

 スカートの両端を持ち上げて作法通りに礼をするかすかを見て、おれは満足を覚えた。

 きっとこれでいいのだと頷き、おれはかすかをそっと抱き寄せた。

「……だんな様、嬉しゅうございます」

 かすかはアニメキャラ通りの声音で耳元に感謝を囁き、アニメキャラ通りの顔貌に大きな瞳を潤ませ、アニメキャラ通りの細い腰をおれに押し付けてくる。アニメキャラ通りの綺麗な指先をゆっくりと上げて、恋人じみた仕草でおれの首に手を回そうとして、

 かすかはがくりと膝を折って、おれの足元に崩れ落ちた。


「……おい、どうしたんだよ」

 床に倒れ伏したまま微動だにしないかすかを見下ろす。

「これからようやく、お前と正しい付き合いができるっていうのに」

 屈んで抱え起こしてやると、眠ってしまったように目を閉じて、何の反応も返さない。

 ふと頬を撫でてみると、その肌の触り心地が、人肌とは異なっていることに気付く。

「なあ、お前の頬、柔らかくて、本当に2Wayトリコットみたいだな……しかもこれ、最近発表された新生地の、ライクトロンみたいにふよふよで」

 かすかの皮膚がずるりと剥けて、その下から色合いの異なる別の皮膚が現れた。

「うわあ!」

 腰を抜かしておれが背後に倒れた拍子、べりりりべちゃと音を立てて神経が破れ筋肉が引き千切れ皮膚が一気にめくれ上がったかと思うとそれは頭髪や衣服を巻き込んでいつの間にか一枚の縦長の大きな布となっておれの手に握られている。かすかのほうを再び見やると緑髪メイドの面影はなくロングストレートの青髪の下にいかにもエロゲキャラらしい黒目がちの大きな瞳を輝かせる、なで肩に巫女服をまとった女の子の姿がある。おれは手に握った抱き枕カバーの感触に気付いて恐怖しそれを放り投げ、少しでもここから離れようと腰を上げて足を踏み出すとかすかの身体に思いきりつまづいてしまう。ぐちゃりぷつつと音が聞こえて振り向くとおれの足先には巫女キャラの抱き枕カバーが引っかかっており、その下には鮮やかな橙色の髪をふさふさと伸ばし頭頂から犬の耳のようなものを垂れ下げている小さな女の子が寝転がっていた。

「ど、どうなってるんだよ一体!」

 叫び声に反応して犬耳少女は目を見開きおもむろに上体を這わせておれの足首を掴む。

「颯太くん、痛いよ」満面に明るい笑みを繕いながら切なげな声を漏らす少女の手指がおれの下腿部にぐっと食い込む。このわずかに起毛したような肌触りはスムース生地。腰を引きずって必死に逃れようとするとおれの足に掴まった少女はずるずると床に引きずられ、接地する下半身のほうに全身の皮膚が引っ張られていく。くりんとした丸い瞳が粘液とともに頭蓋から零れ落ちたように見えたが、少女は透き通った桃色の髪を海藻のように腰まで伸ばした小学校低学年ほどの幼げな凹凸の少ない裸体を再び皮膚の下に現す。

「颯太くん。颯太くん。あれ、おにいちゃん、だったっけ?」

 小動物のように愛くるしい幼顔を困ったように微笑ませて呆然と座り込んだおれの膝の上にうんしょと乗ると、懇願するように差し伸ばされたちんまいお手々の爪先からぼろぼろと角質が落ちるように肌がふやけて溶け爛れていく。

「アアア」

 頭頂から腐って血の滲んだピンク色の髪が毛根ごとばさりと溶け落ちたように見えたところにきらきらと瑠璃色に光る長髪が生えている。爛れきったかと思われた小学生の全裸はつるりと元通りになり膝上に乗っている太腿の感触はやや肉感的になっただろうか。持ち上げた手はようやくたどり着いたとばかりにおれの頬から首筋にかけてを撫で回す。それはパールロイカ編みのような通常の2Wayトリコットよりも清涼感のある肌触り。

「颯太くん、わからないよ。こんなに好きなのに、自分がわからないの」

 悲しげに歪んだ少女の笑顔が泥沼をかき混ぜたようにぐにゃりと崩れて別の少女の顔が現れる。犬歯の見え隠れする小さな口からかすれた声で何度もおれの名前を呼ぶ。

「ね、わからないの。颯太くん、なんで」

 あやふやな笑った顔が壊れかける。

「かすか!」


 おれは少女を抱き締めていた。


「いいんだ、おれが悪かった、もうそんなことしないでいい」

 いつまた腐り落ちるかも分からないその身体を、全身を使ってしっかりと包み込む。

 抱き心地は伸縮性のないスエード生地のように硬質。

「かす、か……?」

「そうだよ、かすか。お前は、かすかだ」

「そっか、そうだよね。ね、颯太くん。なんだか、止まらないの。苦しい」

 おれは目を瞑っていた。一瞬ごとにかすかの髪型や体型が変わっていることがあちこちに伝わる感触から分かる。何も考えずにおれは腕に込める力をひたすらに強くする。

「ね、今だけでいい。今だけでいいから、かすかだけを、ぎゅってしてくれる?」

 耳のすぐそばで、懐かしい声が聞こえたような気がした。

「大丈夫。大丈夫だから、今日はもう寝よう」

「うん」

 おれたちはひしと抱き締め合ったまま、その場に横たわった。

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