第26話

 食卓にはカレーやら肉じゃがやら茄子の煮浸しやらあさり入りの味噌汁やら昆布のサラダやらパスタやら、量は多いがわりあい簡素なメニューが並んでいたように思う。

 ガラステーブルを囲んでソファに座った女性陣の訝しげな視線に晒されながら、それらのほとんど全てをおれが食したはずだ。

 おそらく十八年の人生で初めて訪れた強い胃痛の感覚を、しみじみと噛み締めていた。

 極度の満腹感と場の空気の重さからか、先ほどから意識が朦朧としている。

「ななななんで下着姿のあさりちゃんと颯太くんが一緒にいたのかって聞いてるのっ」

 今のかすかは色白なオッドアイの眼帯キャラで、黒色がかった辛気臭い学校制服を着ている。無口無表情な元のキャラとはかけ離れた狼狽ぶりであさりに食ってかかっている。

「朝見草さんと上手くいかないあいつが獣になって襲ってきた、って言ったら信じる?」

「う、うそだよね? 颯太くんは、アニメの女の子とかすかを一緒に愛してくれるって言ったもん。上手くいってないなんて、そんなわけ……」

「うそだけど、あいつが朝見草さんとのことで相談してきたから、半分本当かな」

「颯太くん、あさりちゃんが着替えてるところにかすかとのこと相談しに行ったの?」

「おそらく、私に告白してしまったことも含めて、気に病んでいたのでしょう」

「しずむちゃんに告白って……なにそれ、かすか、聞いてないよ」

「颯太さん、私の作った茄子の煮浸しはどうでしたか。得意料理なんです」

「どういうことなの、しずむちゃん。煮浸しで得意料理なんて言って、粋がらないで」

「粋がってないです。颯太さんは昨晩、一線を越えようと勇み足なかすかさんに戸惑って逃走した先で、私と魂の奥底で繋がる体験をしました。その結果だと思われます」

「自信があるなんて言っといて、お粗末だってこと。なに、魂の奥底で繋がるって……」

「そこまでお粗末様ではないです。心の深い部分、それと肌を重ね合ったということです」

「は、肌って……かすかにだって、まだそんなことしてくれないのに……」

「この場合、肌よりも心が通じ合っていないほうに問題があると思われます」

「しずむちゃん、もう黙ってよ。ねえ、颯太くん、今の話、ぜんぶ嘘だよね」

 おれに返答する気力は残っていなかった。

「だいたい本当らしいよ、すごい形相で下着姿のあたしに詰め寄ってきたもんね?」

「肌を重ね合ったり、下着姿に詰め寄ったり、どうしてふたりとそんな大胆なこと……でもでも、かすかだって、一緒にお風呂入って、手洗いしてもらったもん……」

「エマールで?」

「ちがうもん、普通のボディソープだもん。かすかそこまで抱き枕じゃないもん……」

「かすかさんは、自分の本当の身体を失くしたコンプレックスから、いささか男女の肉体的接触に敏感になりすぎているのでは」

「そ、そんなこと……」

「精神だけの自分と、肉体だけの抱き枕キャラ。両者の存在をともに尊重しあって颯太さんとお付き合いしていくというようなことを、以前おっしゃっていましたね」

「そうだよ。だから、颯太くんがやらしい目的だけで買った女の子の姿で迫ったの。それがその子の存在理由で、かすかも、颯太くんだって、そうしたかったんだから……」

「そこに無理があったというか、急ぎすぎたのではないかと」

「しずむちゃんうるさいよ、何も知らないくせに」

「知っています。少なくともかすかさんよりは、颯太さんの感情を、より深く」

「嘘つかないでよ」

「颯太さんは、かすかさんへの抑えきれない獣欲を持て余しています」

 目の前に漂っている一触即発の空気がたまらず、おれは猛烈な息苦しさに見舞われる。

「長年恋い焦がれたアニメキャラの嬌態を前に、彼の欲望は想像を絶する域に達しています。その臨界点を超えれば、恋人同士の陶然とした戯れでは決して済まされない。人間が誘惑の女神に取り込まれて正気を失うような、破滅のエクスタシーの渦が待ち受けている。その悲劇を予感して、颯太さんは自分を抑えこみ、かすかさんから逃げ出したのです」

「……そんな、やだよ、なにそれ」

「颯太さんは、ご自分とかすかさんの安全のために、あなたを遠ざけたのです」

「だって、せっかく颯太くんの好きな女の子の姿で、ずっと好きだった颯太くんと一緒にいることができるのに、なのになんで、触れ合うことができないの」

「あなたたちの恋は、情熱的に過ぎたのだと、思われます」

「分かったようなこと言わないでよ」

「ですから、きっとかすかさんの精神は、何か別の憑代に移ったほうが良いのだと思い」

「うるさい!」

 かすかが立ち上り、テーブルの向かいに座るしずむさんの頬を叩いた。

 横っ面を張る鋭く細い音が、いやに耳に刺さった。

「……かすかさんは、アニメキャラの肉体に痛みや快さを感じます?」

「感じるよ。颯太くんに抱き締められれば、あったかくて、気持ちよくて、強くぎゅっとされると、ちょっと痛くて。そんなの、当然だよ」

「それが自分ではない女性の肉体が感じたものだとしても?」

「かすかは、アニメの女の子の気持ちになって、本当に一心同体になろうと……」

「そんなもの、本当はないのに?」

「あるもん。颯太くんが信じてくれる限り本当にあるの。だからかすかも存在できる」

「颯太さんがアニメキャラを想い続けたがために生まれた憑代に宿って?」

「颯太くんは、アニメの女の子のなかに、昔のかすかを探して……」

「要するに、アニメキャラより自分が優位だと?」

「そんなこと言ってない」

「そういうことでしょう。本当はいないもの同士、同じ気持ちなのだと嘯いて、することは毎日アニメキャラの身体を着替えて使い捨て、そこに精神があると信じてなどいない」

「そんなの、しかたないのに」

「本当はどっちが求められているのでしょうね。心か、身体か」

「両方あってこそだもん、分けられるものじゃないんだから……」

「さて、それはどうなのでしょう」

「あたしは朝見草さんの身体にしか興味ないよ」

 しばらく黙っていたあさりが低く手を挙げた。睨み合っているかすかとしずむさんとは異なり、あさりは先ほどからずっと向かいからおれの目を見据えている。

「今日ここに呼んだのも、アニメキャラの精巧な似姿を同人誌の参考にできるからだしね。憑依現象とか変身が本当かって興味もあったけど、それ以外はどうでもいいかな」

「あさりちゃん、なんでそんなに冷たいの……」

「朝見草さんも夜来さんも、うちに来たついでにちょっと一緒に騒ぐぐらいなら気分転換にいいけどさ、痴話喧嘩ならよそでやってほしいかな」

「あさりちゃんだって着替え中に颯太くんに迫られて、ずるいのに……」

「こんなやつ、願い下げ。こいつとは美少女イラストと金を提供しあうだけの関係だから。つか、何でこいつを取り合う雰囲気になってるの? 朝見草さんと夜来さんがどうこうの前に、こいつはアニメの美少女にしか勃たないクズだって前提忘れてない?」

「颯太くんをそんな悪く言わないでよ。それに、颯太くんがアニメにはまったのは」

「朝見草さんとの初恋が忘れられなかったから? どうなんだかね。それがきっかけだとして、八年の間に手段と目的が逆転したりさ、不思議はないというより、自然でしょ」

「かすかは、あさりちゃんやアニメの子より、颯太くんを昔から知ってるもん……」

「実際に付き合ってる時間は長いんじゃない? 中学で一緒になってから何かと縁があるから、五、六年ぐらいか。朝見草さんは小学校低学年の三年間程度でしょ」

「それでも颯太くんのことは、かすかが一番よくわかってるんだから……」

「まあ、本人に聞いてみればいいことだけど」

 かすかの不安げに潤んだ赤い瞳、しずむさんの静かな怒りに細められた両眼、あさりのうんざりしたような半眼。三者三様の視線がおれの顔に集中している。

 それを真正面から受け止めると、おれは胃痛を押して立ち上がった。

「かすか。今かすかがなってるそのアニメキャラなんだけどさ」

「う、うん。どうしたの?」

「もっと静かで雰囲気あるキャラだからさ、あんましぎゃあぎゃあ騒がないでくれよ」

「……え」

「BD全巻購入者限定通販だから結構高くついたんだよ、その子。値段に見合った演技とまではいかなくとも、フリぐらいはする努力してくれないか」

「……ごめんね、まだこのアニメ見てなくて」

「元々そんな豚向けのキャラデじゃねえけど、だからこそ実体化したら味が出ると思うんだよな。陰鬱な話だし、そういうアニメのキャラ抱くのって結構良いんだぜ? 作品の世界観から取り出して、それこそ寝床で独占してる気分が出るっていうかさ」

「そう、だね。颯太くんがひとりじめしてるような気持ちになれるよう、頑張るね」

「なあ、それよかこっちの子になってくれね? 朝やってた小さい女の子向けアニメのヒロインだけど、いいんだよな。スエード製で抱き心地悪いけど、こうして公式抱き枕も出たぐらいだ」

「か、かわいい子だね、ちっちゃくて」

「かすかの今の姿の子と声優同じなんだけどさ、ギャップがあるよな。最近出た十八禁すれすれのOVAでも出演してて、冒頭三分で乳絞られて喘いでるんだぜ?」

「あ、あう、そうなの……?」

「ああ、そう、そういう感じの声。やればできるじゃん、かすか。甘ったるくておどおどしたそれ……声まで再現するんだからすごいよな。性格までは再現されないのか?」

「……されないよ」

「そっかあ。そういや片面ずつ違うキャラ印刷された抱き枕だとどうなるんだろうな」

「変身するとき、表面と裏面どっちかの格好を選べるから、きっとそれと同じ……」

「じゃあ表と裏に別の顔がついた化物にはならなくて済むのか。はは、便利だなそれ」

「ねえ、颯太くん、どうしたの?」

「あとは解像度も再現されるかどうかだよな。偽造抱き枕で変身したら、やっぱあのきったねえ印刷品質で具現化するのか? やべえな、現実って解像度高すぎるし超怖いぞ」

「そんな話、今はどうでもいいよ、ねえ……」

「どうでもよくねえよ、今までうっかり確認し損ねてただけだ。よし、そうと分かったら京アニの版権枕でも買っておくかな。あの会社のアニメ、オタ好きする白痴キャラをハイクオリティで提供してくれるくせして、抱き枕はろくな絵柄の出しやがらねえんだよ。ポスターとかと勘違いしてんのか、両面別キャラで単なる等身大の立ち絵だったりな」

「ねえ、やめてよ。颯太くん、やめてよ」

 かすかがよろよろと立ち上がり、震えながらおれの肩を掴んだ。

「同人アニメ枕はどうなるかなあ、絵師ごとのタッチも反映されるかな? そういやまだ一度も使ってないエクリプスちゃんの同人枕があったな。あれ小道具がないとキャラ識別させる自信がないのか、両手に双剣持ってるんだぜ? しかも寝てる間に阿部定されそうな位置に手があってよ、もうちょいユーザー目線で抱き枕絵を描いてほしいよな」

「ねえ、なんでこっち見て喋ってくれないの? かすかを、見てよ」

「だから、その子はそんなキャラじゃないって言っただろ」

 軽く胸を小突いてやると、かすかはふらふらと力なく後ろに引いた。

 その弾みだろうか、かすかの左目を覆っていた眼帯がはらりと解けて、右側の赤い瞳と対照的な緑色の目があらわになった。

「……そうだ。新作のエロゲ買うから、ちょっと出てくるわ」

 かすかは何かを言いかけて口を半分開き、目を見開いたまま呆然と立ちすくんでいた。

 おれが玄関に向かっても、三人ともその場から動かず、引き止める言葉もなかった。

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