第22話

 金粉を塗る作業が終わってほっとしたのもつかの間、いざしずむさんが金色に塗られた半裸で踊りをはじめると、最初は奇矯な印象だけが強かったのが、だんだんとそれは巫女の舞にも通ずるような美しさと厳かさを帯び、格調高い身体芸術としての舞踏に変貌していった。

 問題なのはそこからで、その踊りは手足の振りや重心の移動といった一挙手一投足がいちいち洗練されており、指先の動きにまで神経が行き届いた立派なものなのだとぼんやり理解できてなお、先ほどのしずむさんの艶めいた姿態の数々が脳裏に焼き付いて離れず、金色に輝いてしなやかに伸びる四肢、余計な脂肪のない引き締まった美貌の裸身、その内奥から薫る生々しい肉体のエロティシズムにばかり意識が行ってしまうのだ。

 奥というほどのものでもない。むしろ、一番表層的なものかもしれない。

「思えども 人の業には限りあり 力を添えよ 天地の神」

 狐憑きを退散させるという和歌を静かに詠いながら、しずむさんは上品かつ大胆な動きで弓なりに身体を反らし、顎を高く上げて胸から喉元へのラインを強調し、視線を彷徨わせずどこか一点に集中させたまま、今は見えぬ月の形をなぞるように手指を夜に舞わせ、常人では数秒も持続できないその姿勢を両足の爪先立ちで維持している。

すぐなるを 守ると聞けば何事も 神に任する 身こそ安けれ」

 詠じる唇と顎の動きひとつを取っても、見惚れるほどに美麗で、同時に淫猥なのである。

 そこからゆらりと前のめりの体勢になり、腰を深く落として地面を踏みしめ、両手を顔の前で合わせ、親指と人差し指同士で輪を作り、中指と薬指同士は折ったまま、小指同士を立てて指先を合わせるという、何かの印のようなものを結びはじめたかと思うと、

「オンマカヤシャ・バザラサトバ・ジャクウン・バンコク・ハラベイシャヤウン」

 先ほど和歌を詠じていたのはどうしたのか、真言らしき呪文を唱える。

「ノウマクサンマンタ・ボダナン・アラハチカタ・シャサナウナン・タニヤタ・オンシャクダ・マカシャクダ・ビタダハキシャ・サラバハノウ・ギャナウキャ・キャキャキャキヨキャ・サンマヤ・マドサンマラ・ムチシュタボウヂサトバ・キジャハヤチ・ソワカ」

 おれは呆然として、高速で口元を動かし続けるしずむさんをただ見つめていた。

「ソウマリバキャバチマカボナギ・カタラシキチリ・シギチリ・ロサジイジャ・ジュハバテイ・ソワカ」

 早口でまくし立てられる謎めいた呪文も、しずむさんのほろ甘く清明な声質に奏でられると、耳に心地良く、身体の中にまで染み渡っていくようである。

 ふと、しずむさんと目が合った。

「…………ふう」

 その瞬間、どこか張り詰めたようなあたりの空気が、変わっていくような感覚があった。

 しずむさんはそのまま腰をへなへなと落としきって、ぺたんとその場に座り込んだ。

「つかれました」

 目尻をとろんと眠たげに下げて、いつものしずむさんが戻ってきたようである。

「お疲れ様です。立てますか?」

 おれが近寄って手を差し伸べると、しずむさんは顔をそむけて「いいです」と断った。

「颯太さん、手付きもでしたけど……目がいやらしかったので」

 そこだけ金粉の塗られていない顔を赤らめて、俯いた。

「ちょっと、恥ずかしかったです」


 おれは踊りの疲れがまだ抜けきらないしずむさんと一緒に、河川敷の芝生の上に腰を下ろして、雲間から月が見え隠れしはじめた夜空を見上げていた。

 異性に己の獣欲を見透かされて、それを試されるような機会が続いている。

 しずむさんは、一体何を考えておれにこんなことをさせて、あんな姿を見せたんだ?

「やはり、今日も失敗でした」

 しずむさんは金粉油も乾いたとみて、制服を着用していた。家に帰って洗い落とすつもりのようで、ブレザーの袖口に覗く手指とスカートから伸びる脚は金色のままである。

「今日は少し興が乗ったので、あらかた試し終わった狐落としの法を終えたあと、金剛夜叉明王こんごうやしゃみょうおう阿尾舎法あびしゃほうを参考に神憑りの舞踏を行なってみたのですが……術の細かな段階を踏まえずに真言を一回唱えて踊るぐらいでは、やはり効果はないのでしょうか」

「え、ちゃんとした方法でやってるわけじゃなかったんですか?」

「はい、私なりに理論付けて組み立ててはいますが……密教についても舞踏についても、未だ浅学甚だしいです」

「すっごい詳しそうに見えるけどなあ」

「宗教や呪術への信仰が失われた現代において、いかにそれを蘇生させるかが私の研究課題ですので。歴史や伝統といった縦軸を踏まえつつ、一見無関係なものを繋ぎ合わせて新たな呪術を生み出す横軸に応用を効かせて、色々と模索している最中なのですが……最近、頭打ちというか、まともに研究成果が出せていない状況です」

 しずむさんはきらめきの残る首筋を撫でながら、そう語る横顔に憂いの影を落とした。

「何でそういう呪術とかの研究してるんですか?」

「知りたいです?」

 おれが頷くと、しずむさんはこちらを見ずに、ふわ、と小さなあくびを漏らした。

「私は青森のほうの出身で、小さい頃から恐山で修行をしていたんです」

「青森県の恐山……それって」

「はい。イタコの血筋なので」

 テレビの心霊番組で見たことがあった。口寄せとかシャーマニズムのあれだ。

「すっげーな、しずむさんイタコなんだ!」

「すごくないです。霊的感受性が低いということで、一人前とは認められませんでした」

「霊力みたいなのが弱いって? そうは見えないけどなあ」

「私はイタコの生業を継ぎたかったのですが、今の時代にそれで暮らしていけるわけもないと、現職の祖母からも会社員の両親からも、都会でまともな職に就けと説得されまして」

「世知辛いんだ……」

「それでこっちの学校に通って大学進学を目標としているのですが、どうしても霊的なものへの憧れを振り払えず、こうして夜な夜な独自に呪術研究を進めている次第なのです」

「本当にいつもこうやって、ひとりでやってたんすか?」

「はい。同好の士でもいれば研究も捗るかと思って魔術研究部を開いてみましたが、うちの高校が真面目な生徒の多い進学校ということも関係あるのでしょうか、怪しげな部室の様子を見ただけで飛んで逃げてしまう方ばかりで、ずっと部員は私ひとりです」

「よく廃部にならないっすね……」

「研究しているうち、そのぐらいの問題なら片付けられる呪術が見つかりましたので」

「ああ……隠りの術とか、かすかを入学させたのとか、あれも研究成果で?」

「はい。だてに、恐山で修行していませんので」

「そっか、すごいなあ……」

「すごくはないです」

「おれはそういうの、羨ましいよ」

 芝生に体育座りになったしずむさんが、はじめてこちらに振り向いた。

 おれは夜空に見え隠れする月を仰いで、深くため息をついた。

「おれなんか普通の家に生まれて、普通に暮らして、何か特別打ち込めるものもないから、普通にアニメとか漫画とかゲームとかにはまってさ。それで自然とオタになって、ありふれた孤独とか特別意識とか自我っぽいものを持った気になって。そういうのが別にそんな大したことでもないごく普通のことだったんだって今更に自覚するうち、極端に走るんだよな。たまたまちょっと機会に恵まれたエロガキだったから、小さい頃から抱き枕って誰にも言えない薄暗い趣味を持っちゃってて、そんなものがおれだけの特別なものなんだって気に、いつの間にかなっちゃってたんだよ。それってよりにもよって、特別どころかとことんまで平凡な人間の本能に根ざしたもので、可愛い女の子と一緒にいたいとか、誰かを好きになりたいとか、そんな子とそういうことをしたいとか、一人だと寂しいとか、そんな本質めいたものに皮一枚たりとも隔たれてない、限りなく近くにある。だからこそ下品で、直接的で、丸出しで、恥ずかしくて、身も蓋もなくて、どうしようもなくて、結局は誰かと分かち合えるものじゃない、最後の最後には極めて個人的なもので」

 しずむさんがじっとこちらを見つめている。

「なんて言うのかな。それが愚にもつかないまったく下らないものだとしても、おれのなかではもう一番大事なものになってしまってたんだ。本能っつか原始的すぎて、文化的じゃないんだよな。現代的じゃない。本当に一人でやってろって話なんだよ、抱き枕なんてな。そんなもんしか人に誇れそうなものがないって、どうかしてるんだよ。どう自慢しろっていうんだ。『昨晩はあんないい女を抱いたんだぜ、あいつはいい塩梅だった』ってさ、これじゃ風俗通いのおっさんとどこが違うっていうんだよ。そんなことしか人生の楽しみとかないのかよ、生きる意味とかないのかよってなるだろ。でも、しょうがないよなあ。アニメってテレビさえあればタダで見られるだろ? そんで、今のアニメには可愛い女の子がいっぱい出てくるじゃん? これじゃな、無知で貧乏でほかに大した楽しみもないさみしんぼの男の子なんかは、それが生きる楽しみの全てになっちゃったりもするよな。それは誰も悪くはない、悲劇ってわけでもない、それはそれで幸せだもんな。ただ、それで一生をだらだらと、アニメキャラの可愛さだけを生きる糧にして、薄ぼんやりと過ごしていて本当にいいのかって、やっぱりなるんだよ。そこで芽生える誇りとかプライドとか競争心なんて、似たもの同士で寄り集まったアニオタとどんぐりの背比べして、心の中で見下して満足する程度のさもしいものでさ。それもアホらしいってんで一番マシなのは何かと言ったら、やっぱり抱き枕キャラを嫁とか呼んで脳内恋愛の追求だよ。どん詰まってる」

 言葉を区切ると、横顔にまだしずむさんの視線が突き刺さってくる気配がある。

「要するに、人様に威張れないような、自分でもそれを誇りに思えないようなことでも、何も気にせずそれに打ち込めるような強さっつか、馬鹿っぽさっつか、矜持っつか……そういうのが欲しいんだよ。しずむさんは、いいよな。イタコの家系で呪文とか密教とか詳しくて、よく分からないけどその手のことには誰にも負けないって感じがする。今どき誰も暗誦したりできねえよ、密教のナントカ様の陀羅尼だとか。それも全部独学で、こっちの学校に来てからずっと一人で研究とか、誰とも比べず、誰にも邪魔されず、何より死霊とか呪術なんて格好良すぎるもんな。おれじゃ絶対できない。すごいんだよな……」

 言い終わると、おれは芝生に寝転がった。

 またしずむさんに弱音を吐き出してしまった。それもとびきり、長々と。

 さすがに軽蔑されたり、鬱陶しがられたりしただろうか。

 しずむさんのほうに顔を横向かせると、草露が頬に当たった。

「すごい、ですか」

 しずむさんはもじもじと身じろぎ、金ぴかの両手のひらを頬に当てていた。

「そういうことを言われたのは、初めてです」

 わずかに月明かりを反射している川面を見つめて、ほうぅ、と息をついている。

「やっぱり、颯太さんは私と同じです」

「え?」

 しずむさんはぼそりと呟いたかと思うと、こほんとひとつ咳をして、語り出した。

「霊能力とか呪術も、そんな人に誇れるようなものではないです。一見謎めいていて怪しげで大仰なのが魅力だとしても、そうであることを求められるものだから、そうなっているに過ぎません。所詮その多くは、原始社会に土着した民間信仰の産物です。人間の本能が生への不安に満ちた明日を生きるために何か大いなる存在を必要とし、それを信じたり信じさせたりするために厳格かつ煩雑な作法や言葉や儀式が規定されたものです。そんなものでもなければどうしようもなかったんです。汚くて、生々しくて、弱々しくて、無知で、空っぽで、貧しくて、嘘つきで、そんな人間たちのどろどろした欲望から生まれてきたものに過ぎないです。歴史や伝統や格式や、遥かな古代への憧憬から特権的に捉えられているだけ。でも私は、そうは思いつつも、そうした古びて忘れ去られていくようなものにしか、自分のすべきことや生きる意味を見出せなかった」

 おもむろに金色の脚を伸ばして、しずむさんが立ち上がった。

「シャーマニズムも呪術も、その本質は闇への祈りです」

「闇への祈り?」

「実際には起こり得ないこと、ありえないもの、新月の海にゆらめく不知火のような幻。あまりにも巨大でありながら虚ろなもの、茫漠なる幽冥」

 架橋の上を車が走り抜けていく音が聞こえた。

「そうしたものにすがることでしか自分を保てない。そんな人が秘める祈りです」

 気まぐれにも、月がまた雲に隠れはじめている。

「颯太さんが持つ闇への祈りは、あまりに強い。颯太さんにとっての闇そのものである抱き枕に呪力が宿って死霊を引き寄せたのは、今考え直すと、必然だったのでしょう」

「しずむさん……」

「かすかさんが現れたことで、その祈りがどうなるのかはまだ分かりません。さっぱり解消されてしまうか、より深淵へと接近するか。私は、現代に蘇る呪術に興味があります」

「なあ、おれ、魔術研究部に入部してもいいか?」

 夜闇に目が慣れてきたのか、こちらを見下ろすしずむさんの驚いた表情が鮮明に見える。

「でも、それは私にとっても、颯太さんにとっても、よくないです」

「豊かな今の時代に闇への祈りを咲かせるには、孤独が一番効くってことは分かる。おれが立ち入ったら、きっとしずむさんの祈りを曇らせる。でも、さっきの金粉ダンスとか、あんまり強烈な祈りを見せられたら、気になるのは当然だろ」

「……気になるのはお互い様ですが、不干渉であるべきです」

「しずむさんがおれの闇を見抜けたのは、おれの闇そのものに似てるからなんだと思う」

 しずむさんがおれのことを見透かしたような態度を取るたびに、おれはそこに抱き枕と寝るという行為の原初に眠る感情を思い起こしていた。

 何を考えているか分からない無表情でも、熟寝うまいの時を求めるように瞳はいつも眠たげで。

 薄明かりの下でしか息づくことのできないような、白昼には影の薄い、幽かな女性。

 なにより、初めて会ったときに胸に抱いたあの感触に、とても安らいでしまったのだ。

「……それは?」

「おれの好みの女の人だ、ってことです」

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