第20話
気がつけば、おれは自転車を必死にこいで川沿いの道を疾走していた。
数瞬前の記憶が飛んでいる。
爆発寸前だった少年の煌めきは、いまや不思議なほどに静まり返っている。
ただ、腹の奥でぷすぷすと烟る熾火が、わずかに揺らめいておれを後悔に焼いている。
女に恥をかかせてどうするだとか、そういう男女の湿った話の倫理からではない。
かすかの気持ちからも、抱き枕キャラの存在理由からも、おれは逃げてしまった。
獣になることを恐れるあまり、結局は彼女を傷つけてしまったのだ。
「ほんと……どうすりゃいいんだよっ」
バイクの排気音が遠く聞こえるだけの、黙りこくった深夜の街が、おれを見ていた。
「くっ、そぉおおおおおオオ!!…………」
リビドーを呪って夜空へ叫んだ。
車輪が地面の段差を踏んで、自転車ががくんと大きく上下した。
夜に沈んだ黒い川面には、さざなみも立っていない。
「はあ……はあ、はぁ……」
おれは走り疲れて、道沿いにえんえんと連なる常夜灯のひとつの下に車体を止めた。
風呂に入ったばかりなのに、まとわりつくような嫌な汗が全身を濡らしている。
曇った夜の空に星は出ていない。
「むなしい」
自転車を一時路駐して、おれは芝生の敷き詰まった河川敷に降りた。
ぬるい風が、今は心地良い。
「
「ん?」
ふと、対岸に向かって伸びるコンクリ架橋の下、夜闇になお暗い陰のほうから何事かを小さく唱える声が聞こえ、そこに舞うように激しく手足を動かしている人影を見つけた。
「南無諸大菩薩五番善神諸天等
近づいてよく見てみると、制服姿のしずむさんである。
「
「しずむさん、何やってるんですかこんなところで」
「
「うわっ」
かっ、と迫真の形相を向けてこちらに掌底を打ってきた。
その手のひらから、はらりと一枚の紙が落ちた。
長方形の紙面にびっしりと漢字が書き込まれた、これはおそらく符であろう。
「……あ、颯太さん」
そこでようやくおれに気が付いたらしく、へなり、といつもの眠たげな無表情に戻る。
「あ、あの、こんばんは」
「こんばんは」
姿勢をただして、めくれかけたスカートを払い、乱れた黒髪を背中に流すと、怪しい踊りを踊って何かの呪文を唱えていたさっきまでの様子は見る影もなく、淑やかである。
「今夜は、日蓮宗系の霊気加持を参考に、狐落としの舞踏を研究していました」
「狐の憑き物を落とすんですか?」
「はい。かすかさんの霊魂にいかにアプローチするか、というのが最近の私の課題です」
「もしかしてかすかのために、今みたいなことを夜ごと……」
「かすかさんのため、というわけではないです。これは魔術研究部の普段通りの活動で、その活動の射程内にたまたまかすかさんの問題があったので、ちょうどいいので優先してそれに取り組んでいただけのことです。個人的な興味範囲にも含まれますので」
「は、はあ」
しずむさんは基本はのんびり喋るのだが、たまに予期せず早口になるので驚いてしまう。
「でも、かすかは髑髏本尊に似た呪術のかかったおれの抱き枕に呼び寄せられたんですよね? 狐憑き、あんま関係あるように見えないですけど」
「私なりに自信はありますが、髑髏本尊が云々はあくまで仮説です。生きた人間に死者の霊が取り憑くことはあっても、架空の人間に取り憑くなどという例は管見の及ぶ限りでは見当たりませんので、まずはその原因について説明付けてみたまでです」
「まあ聞いたことないもんな……」
「そして現在、仮説をもとにして、かすかさんの霊魂を浄化したり、操作したり、もとの肉体に戻したりする方法がないものかと、模索している最中なのです。その手がかりとして憑霊現象の歴史を参照したところ、やはり日本古来より伝わる狐憑きに何かヒントが隠されているのではないかと」
「しずむさん、おれたちのためにそこまでしてくれてるだなんて……」
「だから、かすかさんや、まして颯太さんのためではなく」
「いいんだそういうことは。あの、何かおれにも手伝わせてくれませんか?」
「それは……構わないですが」
「おれ、気持ちの整理はつけたつもりだったのに、やっぱりだめなんだ。いざアニメキャラ姿のかすかを抱こうとすると、ありえないぐらいめちゃくちゃな煩悩が湧き出てきて、自分が何をしでかすか分からなくて、色んなこと不安になって、逃げてしまった」
いつの間にかおれはしずむさんの肩に両手でしがみついて、うなだれていた。
「颯太さん」
「こんな下世話な問題、当人同士で時間をかけて解決すべきだと思う。でも、あんなことが毎日続いたらおれ、耐えられなくておかしくなる。だから、根っこからこの状況を改善する方法がもし見つかるなら何かしたいんだ。そうでもしてないと、なんだろうな、かすかのしたたかさに、甘えるなんてものじゃない、呑まれてしまうような、押し潰されてしまうような、そんな気がして……」
勢いにまかせて、どろどろと零れ出るままに、しずむさんに弱音を吐き出してしまった。
「颯太さん、大丈夫です」
しずむさんの声に顔を上げると、不意に懐がふわりと温かい感触に包まれた。
おれよりも頭ひとつ小さいしずむさんが、おれの胸を抱き、背中を撫でさすっている。
「大丈夫です」
優しげな上目遣いで、赤子をあやすように繰り返した。
目が合うと、しずむさんは身じろいで、少しためらいながら、おれの頭を撫でた。
情けなさで泣きそうになった。
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