第19話

「ああああぁ……」

 湯船に浸かって、ゆっくりと大きく息を吐いた。

「まいった」

 抱き枕には、精神的な孤独を解消する役割と肉体的な渇望を潤す役割、欲望の充足装置としてふたつの側面がある。

 家でかすかとふたりきりでいる間中、おれの中の少年はずっとめらめらと燃えている。

 隙を見てひとりになって、灼熱を鎮める時間を作らなければならない。

 すぐに終わることでもあるし、無心である。

 こんな生活を続けていたら、おかしくなってしまうのではないか。

「颯太くん、着替えここに置いておくね?」

 洗面所と風呂場を区切る曇りガラス戸の向こうに、かすからしきシルエットが見えた。

「っ、ああ、ありがと」

 炎への凝念に没入する直前だったので、声が少し裏返ってしまった。

 かすかのシルエットが、ガラス戸にゆらゆらと動いている。

「あれ?」かすかが呟くのが聞こえ、「颯太くん、顔洗いたいんだけど洗顔料か石鹸、そっちにない?」と訊ねる声がおれに向けられた。

「ああ、あるよ。ちょっと待って……」

 手近にあった固形石鹸を掴み、「ごめんねー」という声とともに開きかけたガラス戸の向こうへ石鹸を差し出す。

 次の瞬間、にゅるんと音がして、石鹸が胸の谷間に挟まれていた。

「――――――!?」

「やあっ……颯太くん、もう、なにしてるのかな?」

 全身の神経が焼けるような衝撃に言葉が出なかった。

 かすかは、先ほどドライボックスにしまった抱き枕カバーに描かれていた、エロゲキャラの姿に変わっていた。

 ふわりとボリュームの多い銀髪が透き通って長く、ふくよかな体つきが形作る蠱惑的なボディラインに落ちて、あまりにも大きなバストの前を申し訳程度に隠している。

 羞恥に染まった丸い頬に、ぱっちりと開いた睫毛の長い瞳。いたずらっぽく口角をほんの少し上げた桃色の唇。

 身体中のどこを触っても極上の柔らかみが味わえそうなお姉さん体型なのだが、身長はおれと同じか少し下で、そのうえこの、ぽやんとした童顔である。

 エロゲキャラらしいといえばあまりにもそれらしい。

「そんなところ洗っても、しょうがないよ? んぅっ……」

 神経の焦げたようなおれの石鹸を持つ手が震え、それを包む柔肉もふるふると揺れる。慌てて手を引っ込めると「ふあっ」と吐息が漏れ、石鹸だけがその双丘に取り残された。

「――なんで入ってきてんすか」

「ふふ、びっくりした? 颯太くんの買った抱き枕、思った以上に、エッチだったから……これなら、その気になってくれるかなって」

「――はあそうですか」

 脳がうまく働かず、声を出すまでに三秒ほどタイムラグができるし、喉が潰れてしまったかのように低くしわがれた地を這うような声しか出てこない。

「どうしたの、元気になるどころか死にそうな声になってるし、ものすごい真顔だよ? 焦点が合ってないし……かすかが背中流してあげるから、元気出して」

 背中に何かとんでもないものの当たる触感を味わいながら、風呂いすに座らされる。

「どこか、かゆいところない?」

「――ああ」

 ボディソープの染みたスポンジで背や脇腹や肩や腕を順番ずつごしごしと洗われる感触。

「颯太くん、運動してないでしょ? 二の腕もお腹も、ぷにぷにしてる」

 小さな手が直接おれの素肌に触れて、あちこちを撫でさすって、揉んでくる。

 どんどん、視界に白いもやがかかり、意識が朦朧となっていく。

「ねえねえ。抱き枕カバーも、洗ったりするんだよね?」

「――とう、ぜん、そうとも」

 抱き枕の話を振られて、少し意識が戻ってきた。

「――最近の洗濯機なら裏返してファスナーを閉じ洗濯ネットに入れて手洗いモードにすれば生地が痛むこともなく問題なく洗えるが、おれは洗面台にぬるま湯を張って優しく手洗いしてやるのも抱き枕の楽しみのひとつだと思っている、毎夜の酷使に耐えて頑張ってくれている彼女達へのねぎらいというわけだ。あと立体縫製ゆえ生地に挟まりがちな顎ひげなどの細かい体毛をピンセットで抜いてやる作業もあるし、でき物が潰れたり唇が切れたりして気付かぬうちに血を付着させてしまうこともある、これはお湯洗い時に凝固する危険もあるし、ともかくホクロを作らないよう気をつけて、理想的には皮脂や角質がカバーを通して枕本体の染みにならないよう自分の肌の手入れもしたいところだが、それが一体なんだってんだ」

 一気にまくしたててみると、だいぶ視界が明るくなってきた。

「そうなんだ。なるほど、颯太くんは手洗いするのが好きなんだね」

「――そうだなあ」

「じゃあ、かすかのからだも手洗いしてくれる?」

「は?」

「だから、抱き枕カバーみたいに、かすかのことも優しく手洗いしてほしいなって……」

 意味がよく分からないのでうまく動かない首をどうにか後ろに回してみると、かすかはなんだかもうそこに存在するだけで一大事なエロゲキャラの肉体を恥ずかしそうにきゅっと縮めて浴室の床に女の子座り、そのおかげであちこちの肉付きの良さが強調されていてすでにこの世にあってはならないはずの何かになっているのだが、おれはそれを直視せず虚空に浮かぶ湯気を見つめてだらしなく開けっぱなしの口元から垂れ落ちるよだれをおさえるのに必死である。

「ね、お願い?」

 おれが何も言えないまま思わず風呂いすから滑り落ちると、かすかはこちらに背を向けてでかい尻を突き出すと空いた風呂いすに腰掛けて、長い銀髪を肩の高さですくって身体の前に退ける。色白な背中のすっと落ちるラインがあらわになった。

「洗ってくれないと、怒るからね?」

 怒られてしまうのか。

 ならしょうがないのかな。

 おれは濡れた床に片膝をつき、手のひらにボディソープをいくらか落とすと、かすかの背中に両手を当てた。そのまま上下に少し力を入れて撫でると、ぬるりぬるりと音が立った。

「はぁ……ふふ、これ、くすぐったいけど、気持ちいいかも……ね、これが終わったら、かすかのうさぎのぬいぐるみも洗ってくれる?」

「――う、さ、ぎ」

 なんでどうぶつさん?

「うん。たしか、かすかが小学四年生に上がる直前だったかな。三年生になっても学校にいつもうさぎさん持って行ってて、かすか、クラスの男の子にバカにされてたの」

 視界を埋める白いもやのようなものの中に、何かの情景が浮かんでくる。

「憶えてる? そのとき、颯太くんがかばってくれたの。こんなのべつに恥ずかしくないだろって、かすかからうさぎさんをもぎ取って、男の子たちの前で自分でぎゅっと抱いてみせたりしてね? かすか、すごく嬉しかったの」

 そんなこともあったかなあ。

「でもね、颯太くん格好よかったけどなんだかおかしくって、かすか笑っちゃったの。助けてやったのに人のこと笑って、うさぎさん返してやらないぞって颯太くん怒ったんだけど、うさぎさんも颯太くんに抱きしめられて幸せそうに見えたから、颯太くんにそのままあげたんだ。それからかすか、すぐ転校しちゃって」

 そうだった。あの時期からかすかを見かけなくなって。

「颯太くんの家の押入れで見つけたとき、すごく嬉しかった。うさぎさんのこと、かすかだと思って大切にしてくれてたのかな、そうだったらいいな、って」

 かすかの肩から二の腕にかけてを手洗いしながら、だんだんと意識がはっきりしてくる。

「でも、押入れでホコリ被ってたうさぎさんより、抱き枕のほうがいいんだよね。男の子だもん、しかたないよね。それでも、捨てないでいてくれただけで、すごく嬉しいの」

「かすか……」

 ボディソープに濡れて艶かしいかすかの背中の、その生白さが目に突き刺さる。

「……分かった。ぬいぐるみも、あとでしっかり洗うよ」

「ほんと? ありがとう、やっぱりあの頃と変わってない。優しい、ね」

 子供の頃と同じように無邪気に喜色を浮かべるかすかの横顔を、見ていられなかった。

「じゃ、じゃあ……それならごほうびに、前も、手洗いしていいよ?」

「はっ?」

 かすかは風呂いすの上で尻をずらして身体をこちらに向けた。大胆すぎるようにも思えるが、肩を前に寄せて腕を落とし、すらりと長い脚の間に両手を添えて、さすがにさすがな部分はしっかりと隠している。しかしそのぶん腕に挟まれて寄せ上げられた胸が。

「かすか……はしたないかな? この女の子は、こんなことしない、のかな?」

「いや、そのキャラは、確か、原作ゲームやってないけど、エロいから、とりあえず、買ってみた、やつだったと、おもう、ので、よく、わからないな」

「やだ……その子のことよく知らなくても、エッチなだけで買ったりもするの……?」

 こんな事態になると分かっていれば、予約なんてしていなかった。

「でも、それならなおさら……エッチなこと、したほうがいいよね? そのためだけに、この子をお迎えしたんだもんね?」

 顔中を真っ赤にしたかすかが、左手をそっと上げて、おれの右手を取った。

「いい、よ? かすかも、してほしいし……この子に、してあげるべきだから……」

 かすかの手に導かれるまま、おれの右手はそろそろと伸びて、かすかの胸に吸い付いた。

「あんっ」

 悩ましげな息が漏れた。

「――――――――――!!」

 目の前で巨大な火の玉が弾ける。

 瞬間、世界が回転した。

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