第12話

 よく分からないまま女生徒についてくるよう促され、部室棟四階の教室前にやってきた。

「魔術研究部の部長、夜来やらいしずむです。ここ、部室」

 教室入口の戸を引く。室内は黒い遮光カーテンが掛かり、電気も付けず薄暗かった。

 床の中央には魔法陣じみた紋様が白線で描かれ、間隔を空けて設置されたアンティークじみたウォールランプの薄明かりだけが辺りを照らしている。

 部屋の奥には白骨模型、ミニチュアの釈迦如来像、古代ギリシャ人だかローマ人の胸像、七十年代の新宿の巨大地図、梵字が筆書きされた垂れ幕、『私家版セフィロトの樹』と銘打たれたうねうねした系統樹の手描きポスターなど、様々に怪しげなものが飾られている。

「どうぞ」と勧められ、そこら辺に無造作に置かれていた椅子に腰を下ろした。

 夜来さんもその辺の椅子を引いてきて、おれの手前にあった机を挟み、向い合って座る。

「魔術を研究してるんですか」

 コメントに困ってそう聞いてみると、夜来さんは「はい」とこくりと頭を上下させてから一拍置いて、「それはそうです」と呟いた。表情をよく見ると、少し唇を尖らせている。

「興味を持ってもらいやすいよう表向きそう言っているだけで、厳密には魔術とは違うのですが」

 補足してから、さて、と椅子に座るぴんと姿勢を正した。

「では、霊障を取り除いて差し上げます」

「霊障って……おれの周りで今起こってること、分かるんですか?」

「はい」反射的に頷いてから、「ええと」と詰まり、「なんですか?」と首をかしげた。

「……おれに抱かれたとき、何かそういう霊的なものを感じたんでしたよね」

「抱かれた、って」夜来さんは目を丸くして、「その言い方は、だめです」語尾が弱々しい。

「すみません……えっと、一応、事情というのは」

 ある朝抱き枕に霊魂が宿って人体化したこと、その霊が死んだ初恋相手であること、彼女は今でもおれを慕って、アニメキャラを演じてまでも尽くしてくれること。

 そして、彼女の発育した姿が抱き枕カバーとなって流通してしまうかもしれないこと。

 心の中を整理したい気もあり、昨日から今日にかけてのことを一気にまくし立てた。

 夜来さんはうんうんと頷いて、不可解かつ猥雑で下卑た話を最後まで聞いてくれたあと、

「よくわからないです」

「おれもです……」

 少し考え込んだ様子を見せてから、何か納得したのか「ふむ」とひとつ頷いた。

「八木さん、かすかさんとアニメのキャラ、どちらのほうがお好きです?」

「はっ……それは」

「どちらもお好きなら、いいとこ取りでふたつ合わさって、便利でよいのでは」

 そこまでのんきに構えられるはずもなかった。

「便利って、そういうことじゃないんです。何の因果か、せっかく再会できたのに、あいつが外見だけでなく中身までアニメキャラになりきってしまったら、本当の本当にあいつが消えてなくなってしまいそうで、怖いんです。それを本人が良かれと思って……」

 自我を殺そうとしている。そうとしか思えない言動をしていた。

「アニメの女の子より、かすかさんがお好きです?」

 おそらくそうである。そうとしか言えない状況でもあったが、罪悪感や責任感、唐突に突き付けられた喪失感などの混じり合った感情を除いても、それは断言できるはずである。

「……結局、おれは可愛い女の子の身体だけが目的だったんです。長い間、心のどこかでかすかが忘れられなくて、他の現実の女子とか比べ物にならなかった。見てらんね、二次元のほうがいいじゃんっつってたら、気が付きゃ童貞こじらせてアニメの抱き枕抱いてた。あいつ、見た目も性格も本当にアニメキャラみたいなやつで、おれの理想で」

 吐き出してみてはじめて、両者の相似性に肝が冷える思いがした。

「アニメキャラはかすかさんの代わりにすぎない?」

「今思えばそうでしかなかった……それを愛だの恋だの、特別視しようと」

「八木さんの一番欲しいものは、一体なんなのですか」

 しずむさんの視線がやけに鋭く感じられ、自然と俯きがちになってしまう。

「かすかと、ちゃんとやり直したいんです。あいつが死んで霊になっても、今でもおれはあいつが好きだから……」

「霊になっても愛せるなら、今のままでも十分幸せでは?」

 無邪気なしずむさんの質問が、じわじわと胸に痛い。

「だけど、あいつの身体は……」

「アニメキャラの身体では後ろめたい? 身体だけの関係だったアニメキャラの身体では、心からの関係だったかすかさんの魂の容れ物として相応しくない?」

 とっさに言葉が出なかった。返答をどうにか絞り出す。

「そう、です……それに、アニメキャラの内面なんて、どうせ男に都合の良い、軽薄な」

「今まで探し求めていたかすかさんが、アニメキャラと同じような、男に都合の良い心と身体を持った女性だったと認めたくない? どころか、商業製品であるアニメキャラの身体では都合の良さが不足だと? 自分だけを見てくれる、自分だけに都合の良い女性が欲しいのに、そのかすかさんは誰にでも股を開くアニメキャラの身体でしか生きられない。その上、自分だけが抱けるはずのかすかさん本来の身体は、逆に抱き枕として商品化され、買われた男性に痴態を晒す、結局はアニメキャラと同じ存在になってしまうと?」

 異様な喉の乾きを感じる。

「八木さんはアニメキャラに身体だけではない、心からの関係を架空の恋愛対象として求めていたつもりだったのに、いつの間にか身体が優先してしまっていた。その行動の本質はかすかさんの代わりを探求することにあって、かすかさんの偽物であるアニメキャラと身体だけの関係に堕してしまったということは、かすかさんに求めている関係も、所詮は身体が優先してしまうような下卑たものなのだと、決して特別なものではない、清らかで尊い初恋でもなんでもない、当たり前の感情によるものなのだと、自覚してしまったと? 今までそこに愛はあると信じていたアニメキャラとの関わりを、所詮は代償行為だったのだと認めた途端、彼女達と過ごした幸せな日々は色褪せ、自分の身勝手さと醜さに気付いて自己否定に走り、無意味なことに多くの時間を費やしてしまったのだと、初恋のみならず、自己を、全ての恋を、思春期の情熱を、失ってしまったように思われると……」

 言葉を重ねるにつれて饒舌になる夜来さんを前に、おれは絶句した。

「かなしい話です」

 夜来さんは終始感情のない平淡な声で喋り、最後は同情するように、しかし大したことではないとでも言いたげなふうに語尾を落とし、椅子の背もたれにだらりと背中を預けた。

 すべてを見通したような夜来さんの静かな長舌に打ちのめされて、おれの心臓はどくどくと音を立て、刺すような痛みに震えていた。身体中に冷や汗をかいて体温が下がり、筋肉が硬直したように四肢が動かず、薄闇の中にうっすらと浮かび上がる夜来さんの顔から、眠たげな瞳から目が離せない。自分のことを何もかも見透かされ、強い不快と恥辱と緊張に晒された心はしかし、時間が経つにつれて、不思議にすっきりと晴れ渡っていく。

 この感情は、初めて抱き枕を抱いた夜に、少し似ていた。

「夜来さん……どうして、そんなこと、分かったんですか?」

 おれがかすれた声で聞くと、夜来さんは右手の人差し指を唇の前に立てて、微笑んだ。

「人生の先輩ですので。私、ひとつ留年してるんです」

 その仕草と表情に見惚れながら、おれは深く息を吸い込んで、大きく吐いた。

「夜来先輩……」

「しずむ、でいいです」

「しずむさん、おれ、これからどうすればいいんだろう?」 

 なおさら情けない気持ちになったが、訊ねずにはいられなかった。

 しずむさんはふわあ、とひとつあくびを漏らして、目元をわずかに潤ませてから言った。

「……明日、学校にかすかさんを連れてきてください」

「学校に、ですか?」

「八木さんが最後にどんな選択をするにしろ、まずは健康で楽しい学校生活を送るのが一番です。手を回しておくので、朝から教室に連れてきてください。私も、かすかさんがどんな人か、興味がありますし」

「はあ、先輩もうちのクラスに来るんですか?」

「私……八木さんと一緒のクラスです」

「え? すみません、クラス替えしたばかりで気付かなかった……」

「普段はなばりの術を使っているので、仕方ないです」

「しずむさん、本当に魔術使えるんですか?」

「魔術ではないですが、少しだけ、です」

 霊障を見抜かれ、妙な物の揃った仄暗い部室に連れて来られて、おれ自身抱えきれない悩みを相談した途端にその問題を言い当ててみせられた後である。しずむさんが言うことは、冗談には聞こえない。

「しずむさんみたいな綺麗な人がクラスメイトなら、気付かないわけないしな……」

「……」

 言いつつ椅子から立ち上がると、しずむさんがおれの脇腹をぼす、と突いてきた。

「や、なんすか?」

「……なんでもないです。ちょっと寝てから、帰ります」

 しずむさんはまたひとつあくびをすると、両腕を枕にして机に突っ伏してしまった。

「じゃあ、色々ありがとう。しずむさん、また明日」

「……はい」

 出入口の戸を引いて、しずむさんの丸まった背中にふと振り向いてから、おれは魔術研究部部室を後にした。

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