第11話

 おれは自転車でいつもの通学路を走り、ぼんやりと薫る初春の風を切っていた。

 とにかく今は、アニメキャラの顔貌で微笑むかすかを見ていたくなかった。

 頭の中がぐちゃぐちゃで、脳味噌が撹拌されたような不快感がずっと続いている。

 考えるべきことが山ほどあるはずなのに、思考の筋道は混線し、理路整然といかない。

 気がつくと学校に到着していた。いつの間にか授業が終わっている。ふと時間を確認すると、すでに放課後を迎えていた。

 習慣に従って自動的に動く身体に、頭が追いついていないのだ。

 油断すると、また目の前の景色が変わっている。ここは、アニ研の部室のようだ。

「八木氏、どうしたでござるか、座り込んだままぼーっとして」

「ん、んふ? ナルコレプシ? んふ、ナルコレプっちゃいましたか、You?」

「な、な、それバッドエンド確定みたいな? 他の女全員抱いてから出直して来いみたいな?」

「んふ、それよか、あさり先生のブログ、ん、もう更新されてましたよ、んふっ」

「そそそそそ、ホレ八木氏、例の新作抱き枕、サンプル絵が既に掲載されてましたぞ。いつもながらあまりにも手が速い。あさり氏、恐るべしでござるな。拙者、戦慄……」

 部員が自前のノートPCを開いて、こちらに液晶画面を向けてきた。

 そこには、おれの無意識と空想の中にしか存在しなかったはずの、かすかが成長したらこうであっただろうという姿が、あさりの個人ブログを開いたブラウザに表示されていた。

「童顔巨乳、はだけた甘ロリ風のドレス……いささかあざとすぎるきらいはありますな」

「ロ、ロリ巨乳は邪道でしょみたいな? 悪魔に魂売っちゃってるみたいな?」

「んふ、ん、でででも、いいな……んふ、ボクはアリ、アリだな、ん、ん……」

「桃色の唇、吸い込まれそうな碧眼、羞恥に染まったこの表情! いいよ? いいんでね? いや俺ぐらいになっとな? こういうのでいいんだって、ての分かるんだよ」

「ヒョ、個人的には? 個人的にはマア手癖で無難で? 商売上手なことでって感じで? マア評価するとすればナイスおっぱいで?」

「拙者、青髪ヒロインを待望しているのでござるが、ンーン、無念無念」

「んふ、ちゅーかちっぱい派っしょ? んふ? ん?」

「ままままま、そうよ? モチそうでござるよ? ま、デカすぎっちゃデカすぎ?」

「にゅふ、にゅ、この乳輪はッ、乳輪エロすぎ、みたいな?」

「八王寺クーン、下品だね。下品、だけど、本質、本質っつか、そこがよくねっつか?」

「んふふ、ん、むむむひょ、む、しゃぶりつきたくな、なる、アリ、アリ、んふ、ふ」

「ちょちょちょ、拙者的にはちょーっとそこも大きすぎ? までも乳首の書き込みはお見事? さすが女子高生エロゲンガー、ここは流石の拙者も認めざるを得ない? まま、言い方あれだけど? とりまセンズリこくにゃまあアリ? 拙者貧乳でアオが至高でありつつも、ま、このレベルなら一回抱いてやってもいいっつかゴフ」

 気が付くとおれは立ち上がり、部員の顔を殴っていた。

「ウッ、ウゲフォ……な、ややややや八木氏? 一体、な、なにが」

「好き勝手、言いやがって」

 部員達は、わけが分からずにただ目を白黒させて、おれに視線を集中させている。

 そこでようやく、おれは自分が何をしてしまったのかに気付いた。

「……ごめん」

 おれは部室の引き戸を開け放ち、廊下に飛び出した。


 おれは、彼らと同じ人種なのだ。

 抱き枕をダッチワイフのような性玩具として消費する、不可視の濁流に沈むオタなのだ。

 結局、理想の恋人だの、初恋がどうの、性欲を単に小綺麗に言い換えただけだった。

 幼く純朴で気恥ずかしいあの頃の感情はもはや穢れてしまって、その曖昧な面影を取り戻そうとする衝動すら、未成熟な愛欲という名の下に薄ら笑いで一元化されてしまう。

 おぼろなる追憶から構築したおれの想い人の成長像は、肉欲による理想化だった。

 何もかも、今のおれに割り切れる問題ではなかった。

「くっ……そぉおおおおおオオ!!」

 走りながら我知らず雄叫びを上げたそのとき、廊下の曲がり角から突然、人影が現れた。

 足が止まらない。激突する。

「あっ……」

 互いの身体がぶつかり合い、足が絡み合ってもつれ、ふたりして勢いよく床に倒れ込んだ。

 リノリウムの床に強打した肩がずきり、と痛む。

「すっ、すみません! 大丈夫ですか!?」

 声をかけつつぶつかってしまった相手を見やると、背中から床に倒れたおれの胸の上に身体を重ねていた。

 咄嗟に庇うことができたのだろう。少なくとも、倒れたときの衝撃はおれが受け止めきったはずだ。すぐに起こしてあげようと、目の前にあるその人の肩を掴む。

「はい」

 華奢で丸い肩だった。

 おれの胸に伏せっていた頭が持ち上がると、艶めく黒髪がとろりと垂れた。

 眠たげに細められた眼が、長い睫毛の下で濃紫色に光って、こちらを見つめる。

 初めて見る顔の女生徒であった。

 普段から女子の顔などろくに直視できていないのだが、それでもこんな美人がいたら嫌でも目につくはずだ。

 至近距離で見つめてくるので気恥ずかしく、実際以上に美しく感じられるだけだろうか。

 その視線は何かを求めるように力強く、全体としてとぼけたような表情の中で浮いた印象を与える、切迫した色を秘めていた。

「あの、そろそろどいてくれませんか?」

 黙っておれの上に乗っかったままなので、目を逸らしながらそう言うと、女生徒はこくりと頷く。おれの胸に手をついてゆっくりと身体を起こし、立ち上がった。

「女性を抱くのに、慣れてらっしゃる?」

「えっ」

 なんで分かるのか。

「ぶつかったとき、優しく抱きとめてくれましたから」

 小さく言って、女生徒は無表情のまま軽く頬を染めた。

 なんと返していいか分からず、無言でおれも続いて立ち上がる。

「霊障、ありません?」

「はい?」

「身体を重ね合わせたとき、感じました」

「……」

 呟くように言ってから、ひとつ間を置いて、女生徒は再び真顔で赤面した。

「そういう意味じゃ、ないです」

 廊下は窓から西日が差し込んで、オレンジ色にぼやけていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る