三
第10話
あさりに理想の抱き枕キャラについて訊ねられたとき、おれは無意識下に刻まれていた想い人の成長した姿を思い描き、そのことに気が付かないまま、その通りの特徴をあさりに返答してしまっていたのだ。
おれが抱き枕を抱いてきた意味は、そこに初恋のかすかの幻を仮託することにあったのだと、我が心の内でのみ証明され、はっきりと自覚させられた。
そして、追い求めていたかすかの幻影に気が付いた途端、それはおれ一人の理想の恋人像ではなくなり、商品として市場に流通し、多くのオタ達と共有することになるのだ。
どうして、こんなことになったんだ?
「颯太くん、ね、早く起きて? 起きてってば、ねー」
落ち着きのあるお姉さんのような声とは不釣り合いな子供っぽい言葉遣いが耳元に聞こえた。続いて、背中を控えめに揺すられる感覚。
「やっぱり、アニメの女の子と同じふうにならないと、起きてくれないの……?」
節々の痛む身体をゆっくりと起こす。どうやら座卓に突っ伏して寝てしまったらしい。
「……かすか?」
「あっ、やっと起きてくれた! ね、ね、颯太くんのために朝ご飯作ってみたの」
今朝のかすかは眼鏡をかけていた。淡黄色のスーツに、二十歳少し過ぎの若い女性のふっくらしたボディラインを浮き上がらせている。
にへらと気の抜けたような笑顔を近づけてくる。おれが見つめ返すと、かすかは緑色のボブヘアを指で梳きながら、えへへ、とさらにだらしなく口元を緩めた。
「きょ、今日はちょっとおとなな人の姿になってみたよ。こうしてると、新婚さんみたいで、ちょっと恥ずかしいね?」
「かすか、そのキャラ、確か学校の先生で……また緑髪?」
「あ、先生なんだ、ごめんね。もっとこう、こらっ、授業中に寝ちゃいけません! って起こしたほうがよかった? 颯太くんの好きなアニメのこと、これから勉強しなきゃ」
「かすか、何言って……」
「でも、また颯太くんの好きな髪の子になったから、今日は許して? ほら、早く食べないとご飯、冷めちゃうよ」
朝食は、ハムトーストとスクランブルエッグとコンソメスープ、それと牛乳が並んでいる。
「料理、少しはできるようになったんだな……」
「やだ、かすかが颯太くんのママにお呼ばれしたときのこと、憶えてたの? 颯太くんにお料理作ってあげようとしたら、失敗してお台所めちゃくちゃにしちゃって、恥ずかしいから、そんなこと思い出さないでいいのに、もう」
「あんなこともあったなって、昨日から色々、頭に浮かんでくるんだ……」
「ね、この女の人は、もっとお料理上手なの?」
「……え?」
「だから、今かすかが入ってる身体の、アニメの女の人は、お料理上手だった?」
「あ、いや、原作読んでないし、確かアニメでも料理してる場面は、なかったな……ごめん、分からない」
「そうなの? うーん、こまっちゃうな」
「でも、あの手のキャラは婚期を逃して合コンでも失敗続きのがっつき淋しげ独身女性ってネタが多いから、一人暮らしでまったく自炊しないわけもないだろうし……とは言っても普段は仕事で疲れてるから、簡単なもので済ましてる感じで」
思い出し思い出し、おれはいったい何を説明しているのだろうか。
「じゃあ、今のかすかとそんなに変わらない、ってことなのかな?」
「……なんでそんなこと気にするんだよ」
「え? もう、そんなこと、聞かないでよ」
かすかはアニメキャラの身体を恥ずかしげに縮こまらせて、もじもじと言った。
「颯太くんの、理想の女の子になりたいからに、決まってるでしょ?」
瞬間、側頭部が鈍器で殴られたような錯覚に襲われた。
「もう、かすかは死んじゃったから、かすかの身体は電車に轢かれてもうばらばらだから」
寝ぼけた頭が、昨晩届いたあさりからのメッセージの文面を、ようやく明確に思い出した。
「かすかは、颯太くんの好きなアニメの女の子みたいにならないと、だめだと思うんだ」
床に転がっていた携帯電話を引っ掴み、あさりの番号に電話をかける。
数秒も経たないうちに、あさりに繋がった。
『ああ八木、あんた昨晩送ったの気付かなかった? 反応なかったけど』
「おい、もうあれ仕上げ終わって先方に渡したのか?」
『気付いてたんじゃん、何か言えよな。さっきまで寝ちゃってて、これから手直し』
「するな、印刷所にも渡すな、他の仕事やっててくれ。いいな、絶対だぞ!?」
『は、はあ? そんなにダメだった? ねえ、ちょっ』
電話で詳しく事情を説明するのは難しいと判断し、それだけ伝えて電話を切った。
「颯太くん、誰と電話してたの。女の人?」
不安げに笑顔を歪めるかすかを直視できない。心臓が早鐘を打っている。
「何でもない。そろそろ学校行くから、留守番頼むな」
「え、もうそんな時間なの? やだ、さみしいよ、一緒にいてよ、颯太くん」
かすかの作った朝食を口に詰め込んで牛乳とスープで飲み下し、昨日から着替えていない制服のワイシャツに寄った皺を気にする暇もなく、おれは早足で玄関に向かった。
「待って、待ってよ。もうどこにもいかないって、ひとりにしないって、言ったのに」
かすかがおれの背中に必死にしがみついて、引き止めようとする。
「ごめんな、なるべく早く帰る。財布置いとくから、飯でも菓子でも買って食べてくれ」
「ひとりで食べてもおいしくないよ、颯太くんと一緒がいいの……」
べそをかいているかすかのふやけた表情は、かすかの顔であって、かすかの顔でない。
「気持ちを整理する時間が欲しいんだ。お前だって、まだ混乱してるだろ?」
「……うん」
甘えるように腕にしがみつく仕草が、キャラのイメージにやけに合っていた。
おれは仕方なくかすかに振り向くと、朝の陽射しに輝く淡い緑髪を撫でてやった。
「無理してアニメキャラの真似なんてしなくていいから、な? 待っててくれ」
「…………」
かすかはおれの好きなアニメキャラの顔を曇らせながら、無言でおれの登校を見送った。
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