第9話

 再会に感極まったかすかは再びおれの胸に顔を埋め、複雑にもつれた諸々の思いが涙となって溢れ続けるのを止められないままに、泣き疲れて眠ってしまった。

 おれの身体に寄りかかったまま寝息をすうすうと立てるかすかに、毛布をかけてやる。

 そろそろ日付が変わる時刻である。

 おれは自分の甲斐性の無さにあきれ返っていた。

 初恋の相手のことを、どうして今の今まで忘れていたのだろうか。

 出会ったのは、小学校に入学してすぐのことだったと思う。クラスが一緒になり、家が近所だったことから親同士の付き合いが生まれ、自然と一緒に遊ぶ時間が増えていった。

 腕白だったあの頃のおれが、臆病で引っ込み思案な同い年の少女と何をしていたかなど大体想像がつく。スカートをめくったり、虫を近づけて怖がらせたり、意味もなく暴力をふるって困らせたり、そうしたやんちゃを告げ口され親にひっぱたかれて謝りに行ったりと、語るにも値しない他愛ない幼少期があったのだろう。

 いつの間にかお遊びは男女のグループに分かれ、クラスも別々になると話す機会も少なくなり、関係が自然消滅していく過程もすんなりと思い浮かぶ。

 思春期に入った男子にとって、小学生時分の思い出など、実際に経った時間以上に遥かに遠く感じられ、思い返すだけで白々しい記憶として薄れていく。

 であるからして、名前すら忘れてしまっていても、別に不自然なことはないのだろう。

 それでも、彼女と過ごした時間には、確かに初恋と呼べる感情が芽生えていたと思う。

 そして、その彼女はおれの与り知らぬところで、既に他界してしまったというのだ。

 行き場のない怒りや悲しみは湧き上がるが、死した昔日の想い人は、姿形は変わっていようと、今もこうしておれの胸の中で安心しきった表情で眠りについており、確かな体温を感じることすらできる。

 これは幸せなことなのであろうか。

 否、姿形が変わっていることが一番の問題なのだ。


 かすかは今、おれが彼女の存在をすっぱりと忘れ去った結果として取りこぼしてしまった恋愛の代償行為を引き受け続ける架空の恋人、アニメキャラそのものの姿でここにいる。

 白状するまでもなく、おれが小学校高学年から中学高校と異性にまったく接点の無い学生生活を送ってしまったのは、二次元に浸りきっていたからに他ならない。

 忘却した初恋は無意識下で理想化され、それを取り戻すためにおれは無限に続く仮想恋愛の回廊に踏み込んだ。繰り返される物語や増殖するキャラクターの中に、失われた初恋を求めていた。我ながら不可解なほどの二次元への熱情の契機は、かすかにあったのだ。

 今にして思うと、そうとしか説明できないのである。

 失われた初恋は、果たして初恋を取り戻し得なかった模造品の姿を取り、ここに蘇った。

 肉体を喪失した現実の想い人が、架空の恋人の肉体を借りて現れる。悪い冗談である。

 消費される複製品の中に唯一的な恋人を見出そうなどという愚行を繰り返したのも、かすかの影を追っていただけだったのだ。そんな結論に行き着いて、おれは呻いた。

 それじゃあ、おれの青春は一体、何だったんだ?



 憔悴しきった頭を切り替えなければならない。

 おれは輪郭を取り戻しはじめた記憶から、かすかの容姿を少しずつ再構築していった。

 彼女の髪は長くさらさらで茶色味の強い黒髪だった。あの頃、編み込んだ髪を一本にまとめて片方の肩に落とす髪型をしていたはずだ。

 肌は人形みたいに真っ白で、瞳も青みがかっており、お母さんが外国で育ったハーフなんだと言っていた覚えがある。

 整った美しさのなかに幼さも感じさせる顔立ち。唇が厚く、たれ目がちで、頬はいつも照れたように少し赤らんでいた。身長は低めだが発育はよく、同い年の女子と並んでいるときは、膨らみかけというには大きすぎる胸が目立っていた。

 背が低いこと、胸のこと、目が青いこと、本人も気にしているであろう見た目について馬鹿にされるのは、口さがない子供同士である、ままあったことだ。そうした嫌なことがあって泣きそうになっても、負けん気はあるようで、笑顔を崩さないように頑張っていた。

 口の端をちょっと上げるだけの拙い微笑が、うっすらと印象に残っている。

 はにかみ屋で、気が弱くて、あまり人に強くものを言えず、いざとなると他の女子の陰に隠れてしまう、見た目のわりに目立たない生徒だった。でも、ひとつのことに集中して打ち込める性格で、図画工作なんかでは褒められることが多かった。

 さっきまですっかり忘れていたというのに、よくこれだけ思い出せるものである。

 当然、あの頃の小さなかすかも、生前にはおれと同じように高校三年生にまで成長していたのだ。

 その姿を想像してみるならば、例えばこんな感じだろうか……。


 空想に入っていたそのとき、スマートフォンから通知音が鳴った。

 あさりから、メッセージが届いている。


  asari : 日付変わっちゃったけど、夕方言ってた抱き枕絵の第一稿送る

  asari : 希望を忠実に再現してやったので、意見求む


 荒いサムネイル画像をタップして、高解像度の元データをダウンロードした。

 ベッドに倒れて正面を向いている半裸の美少女。

 一般的な抱き枕イラストの体裁である。

 言葉を失った。


(その姿を、想像してみるならば)

 栗色の長髪をフィッシュボーンに編み込み、右肩に落としたお下げ髪。

(例えば、こんな感じだろうか)

 雪の肌、たれ目がちの青く澄んだ瞳、あどけない顔立ちに浮かぶ微笑、ほのかに赤い頬。

(こんな感じ、なんじゃないのか……?)

 中学生女子ほどの低めの身長、程良く肉付いたボディライン、豊満な乳房。

(なんで、おれが今想像していた、かすかの成長した姿が、かすかにそっくりな顔立ちが)


  asari : わりと筆が乗ったんで、さくっと先方にチェックもらって

  asari : この方向で早めに印刷所に色校頼む予定


(かすかの成長した姿が、あられもない格好で、抱き枕カバーとして、オタに流通する?)

 そう考えた瞬間、意識が、ふっ、と遠のいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る