第8話

 腕時計を確認すると、時刻は午後五時をまわっていた。

 自宅アパートに着き、部屋を見ると窓から明かりが漏れていた。玄関に上がると、奥から人の気配がする。

「あっ……おかえりなさい」

 あれ、木叢の声じゃない? おれのダメ絶対音感が反応した。

 困惑するおれのもとに、ダークグリーンの長い髪を背中に流した小さな女の子がぱたぱたと走り寄ってきた。頭には猫耳のような形のヘッドドレスがついている。

「えっ、誰? お嬢ちゃん、勝手に人のお家はいっちゃだめだよ」

「お嬢ちゃんじゃないです、かすかです。こういう色の髪の子が好きって言ってたから、この子の姿になって待ってたのに……」

「それ何のキャラだっけ……あっ、緑ロリちゃんだ!」

 ほかに青ロリちゃんと黄ロリちゃんがいて、三人で探偵のようなことをしたり、異能力バトルをするアニメのヒロインだ。まさかこのアニメの抱き枕が出ているとは思わなかったから、見つけたときは本当に驚いた。

「……運命の人でも、忘れちゃうんですか?」

「え?」

 黒いショートドレスを翻して、緑ロリ姿のかすかはおれに背中を向けた。

「帰ってきたとき、表札を見たんですけど、あなたの名前って」

「言ってなかったっけ。颯太だけど、八木颯太」

 かすかの小さな肩が一瞬、震えた。

「颯太、颯太さん……颯太くん、って呼んでもいいですか?」

「ああ、好きに呼べばいいよ。それよりお前、夕飯まだ食べてないなら一緒に食おうぜ」

「お前じゃなくて、かすかって呼んでくれますか?」

「……じゃあ、かすか?」

 かすかは俯きがちのままくるりと踵を返すと、素早くおれの胸に飛び込んできた。

 態度が朝とぜんぜん違う。

 自分の置かれた状況を理解して、唯一頼れるおれに嫌われないように振る舞っている、というのが妥当な線だろうか。

「あ、ごめんね……いきなり抱きついたりなんかして。でも、もう、何も言わずにどこかにいったりしないで」

「ご、ごめんな。学校遅刻で急いでたから、言い忘れてた」

「絶対だよ? もう、二度と、ぜったい」

 そのまましばらく、かすかはおれの胸に顔をうずめたまま動こうとしなかった。


 身体を離したあと、ふと見ると、かすかの目元が少し腫れていた。

「えへへ、ごめんね。ちょっと、気分が悪くなっちゃって。もう落ち着いたから」

「お、おう。きついなら無理して食うなよ……」

 言いつつ、牛丼と親子丼を用意してこたつ机に腰を下ろすと、かすかは当然のように隣に座ってきた。肩や二の腕がぶつかるぐらい、密着した距離である。

 さっきからどうもかすかの振る舞いに違和感があった。

「颯太くん、ほっぺにご飯粒ついてるよ?」

「うっお! いやいやいいから、舌で舐め取らなくていいから」

「遠慮しなくていいのに」という不満げな呟きが、吐息とともにおれの首筋をくすぐる。

「あの、ごめんね……いきなりこんなことして、はしたないよね、かすか」

 不可解さに固まったおれの表情に何を読み取ったのか、恥ずかしげに頬を掻いている。

「本当に朝と同一人物か? 怪人抱き枕人間が急増してて別人だったりしない?」

「え、かすかはかすかだよ? それとも、朝起きたときの女の子の姿のほうがよかった?」

「いや、それはまずい。エクリプスちゃんにこういうことされたら、どうにかなる……」

「そうなんだ……かすかは、颯太くんに好かれてるあの子よりは、押入れの隅でカビの生えかけてたこの子のほうが、ちょっとだけだけど、好きかな」

「カビ生えてるほうがいいのか、変わってるな……」

 そろそろ防湿剤を替えておいたほうがよさそうである。

「そ、そういうことじゃないもんっ。颯太くんの、いじわる」

「えっ、ほんとなにそれ、怖……」

 口が悪く、抱きつかれると嫌がり、おれの好きなアニメキャラを汚すことに熱心な、彼氏持ちの鬱陶しい女子高生が入っているはずなのだが、一体何が起きたというのだろうか。

「怖くないもん、かすかみたいに可愛い幽霊、ほかにいないもん」

「あ、そう……じゃあ飯も食ったし、おれはシャワー浴びるから」

「一緒にはいって、いい?」

「小首傾げながら何言ってんだお前……緑ロリちゃんそんなキャラじゃないんだけど」

「うぅ~っ、颯太くんのいじわる……やっぱり、アニメの女の子しか見てくれないの?」

 発言の意図をはかりかねて振り向くと、涙ぐんで制服の裾を掴んでくるかすかの尻の下あたりに、ぬいぐるみか何かのようなものが転がっていることに気が付いた。

「それ、なんだ? どこかで見た覚えがあるような」

「え? ……これね。颯太くんが出かけてるとき、押入れを漁ってたら見つけたの」

「漁らないで?」

「ご、ごめんね。でもでも、これのおかげで思い出せたの。よく見て?」

 かすかが立ち上がって、それをこちらに掲げる。

 ほこりを被って灰色に汚れた、ちょっと大きめなうさぎのぬいぐるみだった。

「憶えてない? かすかが小さい頃、お母さんに買ってもらった、うさぎさんの抱き人形。かすか、この子がお気に入りで、さみしいときはいつもこの子と一緒だった」

「……なんでお前の遺品が、おれの部屋の押入れにあるんだよ?」

「ね、お前じゃない……かすかって、お願いだから、もう一度、呼んでみて?」

 かすかはへたれきった綿が詰まったうさぎの人形を、目を閉じてぎゅっと抱いてみせた。

「……え」

 その仕草、その表情、その人形を甘えるように抱く姿に、どこかで見覚えがあった。

 身長はもう少し小さかった。髪も緑色ではなく、茶色がかっていたはずである。

 短いドレスは黒ではなくピンク色のフリル付きで、走るたびにふわふわと揺れていた。

 自分のことを名前で呼んでいるのを、からかってやったことがある。

 泣くのを耐えて閉じられた瞳が開くと、青い湖面のように澄んでいて。

 それでも真っ白な肌を少し紅潮させながら、おれの後ろにいつもくっついてきていた。

 幼稚園、ではないだろう。あれは小学校低学年の頃。

 彼女の名前は、たしか。

「朝見草……か……すか……」


 かすかはゆっくりと目を開け、うさぎ人形を身体から離し、手を握って床に垂らした。その拙い立ち姿が、忘却の彼方にあったあの少女の、霞がかっていたシルエットと重なる。

「久しぶり、颯太くん」

 かすかの目元から涙が零れている。

 そうだった。

 彼女は泣き虫だったのだ。

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