第2話
二回目の進路希望調査から二週間。
白紙で提出した進路調査票のことで、先生にはたっぷり怒られたけれど、未だに何を進路調査票に書けばいいのかわからない。
もちろん、どこの高校にも行かないというつもりはない。ただ、どこへ行けばいいのかわからないのだ。
どこか遠くの高校へ行きたいけれど、それは現実的じゃない。この町から離れた高校を選ぶ理由がないのに、どこか遠くへ行くという漠然とした願いを叶えてくれるほど裕福な家ではない。
成績も普通なら、運動神経も普通。
近くの高校で事足りるだけの能力しかない。
この町を離れ、どこか遠くへ行くことを大人たちに納得させるだけの理由が見つからない。
自慢できるものがあるとすれば、人よりも白い肌と人よりも少しだけ整った顔くらいだ。
私にとっては扱いにくく面倒な天然パーマの髪も、人から見れば羨むべき対象のようで、容姿を褒められることは珍しいことじゃなかった。
でも、私自身はどれも好きにはなれないものだった。
「少し可愛いからっていい気になって」なんて常套句と共に先輩に呼び出されることはよくあることだったし、生まれつきの髪が原因で職員室に呼ばれたことも何度もある。
学校なんて、面倒なことしかないと思う。
特に三年生になってから、面倒なことばかりだ。
私は、額に浮かんだ汗を拭う。
十月に入ったというのに、夏のように暑い日が続いていた。
さすがに蝉は鳴いていないけれど、拭っても拭っても額に汗が浮かぶ。
衣替えは、間違いだったとしか思えない。
朝から、学校へ向かうこと自体が憂鬱になる。
重苦しい紺色のセーラー服に包まれた身体で、海沿いの道を歩くことは苦行でしかなかった。
でも、コンビニまで歩かないわけにはいかない。
それは、同じクラスの友人、
寂れた田舎町とはいえ、コンビニくらいある。
今、向かっているコンビニは、町で一番最初にできたコンビニで、町の人たちからは一号店と呼ばれている。と言っても、この町には、二号店までしかコンビニがないのだけれど。
私は浜辺から飛んでくる砂と戦いながら、いつもよりも早足で一号店へ向かう。二度寝したせいで、すでに待ち合わせの時間が過ぎていた。のんびり歩いていたら、学校にも遅刻してしまう。
多香美は、昔から十分前には待ち合わせの場所に着いている。転校してきた多香美と友達になった小学五年生のときから、一度だって待ち合わせの時間に遅れたことはない。だから、今日だってきっと、私を待っている。
私は歩幅を広げ、足を運ぶスピードを上げる。でも、てくてくてくと駆け足になりそうなくらいの速度で歩く私に向かって、生暖かい風がびゅうっと吹く。
長い髪が風に流され、おでこに砂浜から出張してきた砂が当たる。目にも入りそうになって思わずぎゅっと目をつぶると、背後から、きゃあ、という短い悲鳴が聞こえてきた。
目を開いて声のした方向を見ると、風で捲れそうになったスカートを押さえた亜利沙ちゃんがいた。
二歳上の幼馴染みで、私の記憶のほとんどに映り込んでいる
コンビニへ向かう道の途中にある古めかしい家の奥の奥、ご近所と言うには少しばかり離れたところに、亜利沙ちゃんは住んでいる。
最近は、こんなところでばったり会うなんてことはなくなっていたけれど、二度寝したせいか、亜利沙ちゃんが目の前にいた。見知らぬ男の人と一緒に。
私は小さなため息を一つついて、亜利沙ちゃんを見る。
だらしなくゆるめたネクタイに、ボタンを二つ外したブラウス。
茶色く染めた髪によく似合う、ブラウンのブレザーと短くしたチェックのスカート。
お世辞にも真面目とは言えない格好だけれど、よく似合っているし、亜利沙ちゃんらしい。
亜利沙ちゃんは、子どもの頃からお洒落だった。高校に入ってからも大人しく決められた格好をするつもりはないようで、中学時代、制服を着崩して先生に怒られていたように、高校二年生になった今も、相変わらず先生を困らせているらしい。
「あ、里穂!」
悪戯な風がスカートめくりに飽きた頃、亜利沙ちゃんがようやく私の存在に気がついて、手を振ってくる。ついでに、亜利沙ちゃんの隣にいる背の高い男の人も手を振っていた。
きっとあの人は、最近噂になっている大学生の彼に違いない。顎のラインで切り揃えられた亜利沙ちゃんの茶色い髪は、彼の髪とお揃いの色だから。
亜利沙ちゃんは、一言で言えば美人だ。子どもの頃は気がつかなかったけれど、亜利沙ちゃんは目立つ。着崩した制服のせいだけじゃなくて、そこにいるだけで目を惹くタイプだ。
そして、そんな彼女は、彼氏を取っ替え引っ替えしていると噂されている。でも、噂ほど付き合っていない。私が知っている限り、あの大学生で三人目だ。六人目、七人目という噂は、多分間違っている。
私はもう一つため息をついてから、亜利沙ちゃんに軽く手を振った。そして、てくてくと歩いて彼女の隣へ行く。
「亜利沙ちゃん、おはよう」
「おはよ。今日、いつもより遅いみたいだけど寝坊でもした?」
「ん、寝坊した」
「多香美と待ち合わせしてるんじゃないの?」
「してるよ。だから、こんなところで、亜利沙ちゃんなんかと話してる場合じゃないだよね」
「なんか、ってなに。なんかって。私と話せるなんて光栄でしょうが」
「今日は、亜利沙ちゃんの冗談に付き合ってる暇ないから。もう行くよ」
「うわ、冷たい。子どもの頃は、亜利沙ちゃん、亜利沙ちゃんって、私の後を付いてきて可愛かったのに。どうして、こんなに生意気になっちゃったのか。お姉さんは悲しいよ」
生意気というのはともかく、亜利沙ちゃんの後を付いて回っていたのは本当だ。初めて見たものを親だと思うカルガモの子のように、私の脳には亜利沙ちゃんが刷り込まれていた。
子どもの頃、亜利沙ちゃんは私が泣いたら撫でてくれて、袖を引っ張ったら待っていてくれた。口を開けたら、黙っておやつを分けてくれたりもした。
きっと、今だって、私が頼めば大抵のことはしてくれると思う。
亜利沙ちゃんは、私にとても甘い。
そして、私はそんな亜利沙ちゃんに懐いていていた。いや、懐きすぎていた。
私は、ふう、と息を吐き出すと、風で舞い上がり、絡まりそうになっていた髪を梳いた。黒と言うよりは茶色っぽい髪が何本か抜けて、風に乗って消える。鞄をぎゅっと握り直し、亜利沙ちゃんに言った。
「成長したって言って」
「成長ねえ」
亜利沙ちゃんが頭のてっぺんから足の先まで、値踏みするように私を見た。
不躾な視線だけれど、亜利沙ちゃんに見られるのは嫌いじゃない。もっと、亜利沙ちゃんといられるなら、ずっと見られていてもいいくらいだ。でも、多香美を待たせているからそうもいかない。それに、そろそろ行かないと学校に遅刻してしまう。
私は亜利沙ちゃんに、もう行くね、と声をかけようとした。けれど、その前に、亜利沙ちゃんの隣に立っていた男の人から声をかけられた。
「おはよう、里穂ちゃん」
亜利沙ちゃんの彼らしき人が、馴れ馴れしく名前を呼んでくる。初めて会った人だけれど、この人のことは好きになれそうにない。と言うよりも、好きになるつもりがない。私はいつだって、亜利沙ちゃんの彼氏が気に入らないのだ。
それでも、された挨拶を返さないほど子どもじゃないから、一応、頭を下げた。
「……おはようございます」
「亜利沙から話を聞いてたけど、本当に色が白くて、可愛くて、人形みたいだね」
「良く言われます」
素っ気なくそう返すと、亜利沙ちゃんが小さく笑い、男の人もつられたように笑った。
「モテるでしょ?」
とてもつまらないよく聞く質問だった。私は手短に言葉を返す。
「いいえ」
「えー、嘘でしょ。それ」
「嘘じゃないです。あと、急いでいるので、すみません」
私はぺこりと頭を下げてから、にこにこと口角を上げて話を続けようとする名前も知らない男の人の横を通り抜ける。
亜利沙ちゃんが私の名前を呼ぶ。それに、またね、とおざなりに返事をして駆け出す。
小さなカルガモのような私は、人には言えないぐらい亜利沙ちゃんを好きになっていた。もちろん、亜利沙ちゃんに自分の気持ちを伝えたことはない。好きだと伝えたところで、想いが正しく伝わるとも思えなかったから、無駄な努力はしなかった。
きっと、亜利沙ちゃんに好きだと言えば、好きだと返してくれる。でも、それは私が欲しい好きじゃない。
私は、夏の太陽ほどではないけれど熱を持った日差しの中、足を運ぶスピードを上げる。
モテる、というのかどうかは知らないけれど、告白なら一つや二つくらいされたことがあった。でも、私が欲しい『好き』は亜利沙ちゃんからのもので、他の誰かからのものじゃなかったから、告白はすべて断った。
いつからかは覚えていないけれど、亜利沙ちゃん以外は目にはいらない。
すぐ側にある青い海も、見上げればそこにある青い空も、目に映るだけ。一人で見ても、何の感慨もない。
キラキラと光る海を横目に、私はコンビニに向かう。
家を出たときは十分の遅れだったけれど、亜利沙ちゃんに五分費やしたから、多香美を随分待たせてしまっていた。
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