第3話
流石に今日は飲みすぎた。
戻ってきた小松に強固に支払いの折半を申し出られたが、残念ながら会計済みの飲み代を請求する様な気にはなれない。
しきりに気にする小松を電車に乗せ、俺自身も自宅へと戻り始めた。
少しずつ、頭の中を高校時代から現実世界へとシフトしていく。あの頃はあまりにも記憶の中で色付きすぎてどっぷり漬かってしまうと中々帰って来られない。当時からの友人たちと飲んだ日には次の日の出勤が憂鬱でしょうがない。
今日に関しては飲んだ相手的に気分はどん底まで落ち込むことだろう。
「あ~、ったく
引きずってんなぁ」
自分自身の中で何年も前に整理して片付けたはずの感情だった。
今の奥さんに対しての愛情は新婚時と変わりなくあるし、生まれた子供たちだって愛している。それでも、やっぱり高校時代のそれはまた別物なのだろうか。
自分自身がひどく浮気性に思えてさえしまうのだが、今回は全てが全て不意打ちだったのだ。何とか今回だけは見逃してほしい。
都市部から若干離れてはいるが会社への通勤時間はおよそ三十分といったところだろうか。ぼちぼちの場所でぼちぼちの物件を手に入れたと自負している。新築で工事が始まったばかりのマンションだったが、幾つかの候補の中で悩みぬいてここに決めた。二十代後半で購入に踏み切った際には数日間夜も眠れなかったものだが、いざ新居に住まい始めればそんな心配も気にならなくなった。
賃貸とほぼ同じくらいの金額を支払えばローンと共益費が賄えて広さも設備も綺麗さも賃貸のそれを上回るのだ。いざ住んでみれば、どうということはなかった。
むしろ同僚に物件購入を勧めてしまい、不動産にまでお前は手を伸ばすのか?と揶揄されてしまったくらいだ。
「ただいまぁ…」
短針が真上を指す時間だ。流石に皆寝ているだろうと小声でこっそりとドアを開ける。
「ありゃ?」
廊下の先に明かりが灯っている。
リビングにつながるドアのガラスに暖色光が映り、小さな擦りガラスの向こうに黒い影が動くのが見えた。
「智花、まだねてなかったのか?」
「あ、裕君おかえり~」
にっこりと笑って俺を出迎えたのが俺の生涯初の彼女にして、たぶん最後の相手になるはずの智花だ。
「飲みに出るから先に寝ときなって言っただろう?」
「え~、でも裕君の飲みって半分仕事なわけだし~」
のんびりとした口調で朗らかに笑う彼女は俺が仕事についてしばらくしてから知り合った。あまり自分を物理的に飾るという事をしない彼女は、くたくたのパジャマを愛用しては俺から新しい物を早く買えと言われている。
外行き用の服すら俺から催促しないと買おうとしない辺り筋金入りだ。服を選ぶのがとにかく苦手なんだとか。
「それでも飲みは飲みだろう?
明日も子供たちは幼稚園があるだろうに」
「まぁ、大丈夫だよ
朝だけ起きればお昼寝出来るしね」
「体調、崩さないでくれよ?」
別に嘘はついてない筈だ。
『クライアントの担当者と飲みに出るから、今日の帰りは遅くなる。先に寝ていてくれ』
間違いない、文面に嘘はない。
裏表の無い智花に微妙に後ろめたい気分を抱きながら、スーツを脱いでハンガーにかける。瞬間、小松の付けていたコロンの香りがした気がして何となく消臭剤を吹き付けた。
「あれ?」
智花の声にビクッと震えてしまった体に内心で舌打ちしながら智花に振り返る。
「どうした?」
「いや、裕君シャツ持って帰り忘れた?」
目敏く俺が着替えたことに気が付いたのだろう。
そういえば、狼狽えた俺は着替えはしたがロッカールームに今日のシャツを放り込んだままだ。どれだけ地に足がついていなかったのかと今更ながらに自分が情けなくなる。
「あ~、ごめん
明日持って帰るよ」
「汗臭くなっちゃうから必ずだよ?」
そう言って指さして通告してくる智花の頭を撫でて洗面所に向かう。
「ありゃ?なんか良い事あったの?
なんだか機嫌良さそうだけど」
「!、そうか?」
歯磨き粉を歯ブラシに出した直後で落としそうになりながら平静を装って答える。
そんなに俺は態度が出やすかっただろうか。あえて、そのまま歯ブラシを口に突っ込んでリビングへと戻る。
「あ~、裕君子供が真似するから止めてって言ってるでしょ?」
「ごへん」
そういえばそうだった。
俺は会社から持ち帰った資料を机に広げるとパソコンを起動させる。しゃこしゃこと気怠い思いをしながら歯磨きを動かしつつログインを終えると、ソフトをいくつか立ち上げて洗面所に戻る。
「あれぇ?裕君まだ仕事なの?」
「あ~、
「――昔なじみの人ぉ?」
コテンと首をかしげる智花がそんなことを聞いてくる。
背中に何か冷たいものが流れていく感覚がするが、それを押し殺してにっこりと笑って見せる。
「なにが?」
「え?裕君の口調が戻ってるから
私はそっちの方が好きだよ?何て言うか遠慮がない感じで」
いつまで引きずってる田辺裕!
そんなお叱りを自分に与えながら、頭の中で猛スピードで志向が流れていく。
「あぁ、久しぶりに高校時代の知人と会いましてね」
「あれぇ?戻っちゃった」
いつからか、俺は私に変わり、口調もそれに合わせて柔らかく優しく変えていった。何が原因という事もないのだろうが、営業口調が自然に出るころには家庭の中でもこんな感じが主になっていった気がする。
私の中のオンとオフが次第に壊れていったというのが正しいのかもしれない。
「まぁ、どっちでもいいんだけどね
じゃあ、私は寝ま~す」
そういうと、智花は俺の頬に口づけするとにこにこと寝室に下がっていく。
パタン
そんな周りに配慮した小さな音が聞こえた後、俺は机に座って頭を抱えていた。
やましい思いも、そんな事をするつもりも一切ない。
今の生活にももちろん智花にも不満はない。そりゃあ、小さなすれ違いはあるかもしれないが精々が口喧嘩にもならない程度のちょっとした衝突だけだ。
そんな満ち足りた生活を俺は、いや私は手にした筈だ。
重くなってしまった気持ちを誤魔化す様に、持ち帰った仕事を片付けていく。
そんな誤魔化しの対象すら小松の会社の仕事であることには目を瞑って。
「あ~、田辺君」
「はい課長、何かございましたか?」
外回りに出かける用意を終えてそろそろ出るかという時だった。
後ろめたさと戦いながら書類を仕上げて床についたと思ったら、その数瞬後に起こされた気分だった。思いの他飲みすぎていたらしく、書類の作成には時間がかかるし、終わったと思って横になった瞬間には、そのまますっと寝てしまったようだ。
「いや、恒例の奴だよ
何か変更希望はあるか?」
手渡された書類は、現状の担当先がずらっと列記されている。
うちの会社は半年に一度自分の担当先の変更希望を出せるようになっていた。無理に相手先と付き合った所で効率も悪いし、相手にもあまり良い感情を抱かれない。そんな考えがあるそうだ。
「そうですね、特に今の所問題は…
あれ?こちらは」
小松の会社の欄にチェックが入ってうちの社員の名前が入っている。
「あぁ、そこか
武藤の奴が担当替え希望を出しててな、そこって確かお前がやる前まで武藤だっただろう」
「あ~、相手先の担当者が変わって飲み
驚くほどスムーズに否定の言葉が出た。
「そうなのか?
それなら、いきなりの担当替えは流石にまずいか」
「昨日の今日でそれはないです」
言い切って他の担当会社を幾つか挙げると、課長はじゃあそっちにするかと修正を加えていく。淡々とその後もチェックを続けていく課長に、何となく席に戻ってその作業が終わるのを待ってしまう。
いや、だから特に俺にやましい思いはない筈。
「そろそろ出なくて大丈夫か?」
「え?あ、はい
えっと、そろそろ出ますね」
まとめた資料をあたかも今チェックしているかのようにファイリングし直してカバンに入れなおす。昨夜作って仕上げただけに本当に不安な部分もあるのだが。まぁ、
「え~っと、もうちょっと下げれない?」
言って来たよ。
作成した見積もり自体は、最低限の手間賃を除いてほぼほぼ調達費に近いところまで落とし込んでいる。正直あまり褒められた数字管理ではないのだが、気が付けば甘くなってしまっていた。
「さすがにこれ以上は
御社に卸させていただいた商品群の中でも今回は特に割安な物が用意できたかと思いますが」
「あぁ、でもこの数字かぁ
ちょっと上からの要求額がねぇ」
多少数字や内容で相談しあうところはあったが、それなりの所で両者合意に至る。もともとこの取引先はこちらで用意したものに対してさほど要求をしてくる事が無かっただけに少しばかり油断していたようだ。
「では小松さん、作業自体は翌週月曜に入らせていただきますので」
「はい、立ち合いとかはいつもどうしていたの?」
「その時々ですね
設置作業自体が時間がかかる事もありますので、作業完了後にご確認いただいてサインを頂くという事も多いです」
作業員や私自身もずっと見続けられて作業するよりは最後にだけ確認してもらった方が気が楽だ。
配線なんてペタペタとモールを貼ってケーブルを這わすだけを延々と行うだけだし。パソコンの操作設定なんて画面に向かって動かないもんだから、後ろに立たれると気になってしょうがない。
「それじゃあ、今回もそうしてもらおうかしら」
小松は手元の書類をチェックしながら他の書類に書き込みを行っていく。うちからの見積書と社内申告書を同時進行で消化しているらしい。前任者の
まぁ、取引先の人間を相手しながら自社書類をまとめるのが良いかどうかは別の話として。
「当日には私の他、技術スタッフが一名同行いたしますのでよろしくお願いいたします」
そう言って、俺は作業工程予定をプリントした物を手渡す。
うちの会社でフォームとして使用しているものではないが、私は作業状況が外目である程度分かるように大雑把な工程表をいつも渡している。当日作業中に作業状況を聞かれるのが面倒で始めたことなのだが、割かし好評いただいている。
「なるほど、配線回しを変えたから少し時間がかかるのか」
「皆様の動線確保のために少しばかり遠回りさせていただこうかと思いまして」
当初小松から渡されていたケーブル長だと、少しばかり足に引っかかる危険性があったために変更させてもらっている。費用対効果で考えるなら問題ないレベルの話だろう。
「あ~、話は変わるけど
ここの清掃会社さんが田辺の所の親会社なの?」
「?ええ、そうですよ
元々うちは清掃会社の一部門だったのですが、その後独立いたしまして」
清掃会社として発足した親会社は、総合管理サービスを謳うために警備や設備管理の仕事も手掛けたのだが、今はそれぞれ独立した別会社だ。まぁ、最終的にグループ会社なわけだから一つの会社と言えなくもないが。
「じゃあ、今度言っといてくれる?
掃除するのはいいんだけど、サーバー室に水を持ち込まれると少し困るのよ」
「え?サーバー室に?」
「ん~、新人さんなのかは知らないけど流石にバケツに水汲んで入られると」
モップが搾れる大型バケツに水がたっぷり入った状態でサーバー室に入っていく清掃員。うん、普通に事案だ。
「大変申し訳ございません
直ちに持ち帰って対処させていただきます」
席を立ちあがり垂直に頭を下げる。
そんな私の様子にポカンとした顔をして見上げていたが、慌てて手を振りながら謝罪を否定する。
「あぁ、別に田辺にどうこう言う事じゃないから!
サーバー室って言ったって、サーバーが剥き出しで置いてる訳じゃないし」
「ええ、あそこのサーバーも弊社で手配させて頂いておりますので」
小型ブレードサーバーを一機ここは納品させてもらっている。
当然防水処置なんてされていない代物で、専用の金属ケースに入ってはいるが湿度が高いだけでもあまりよろしくない。こいつ一機で軽く五、六十万はかかっているのだ。中に入っているデータが飛んだ際の損害賠償なんて考えたくもない。
「まぁ、そういう訳だからちょっと言っておいてくれると助かるかなぁって
あんまりうちのスタッフも機械系強く無くて」
今まで普通に掃除してるんだな、くらいの気持ちでバケツを持ってサーバー室に入る清掃員をここの会社員たちは見ていたのだろうか。
頭が痛くなる思いだが、緊急メンテナンスを一回この会社に入れた方が良いなと手帳に書き込む。
「すぐにどうこうなるものでありませんが、お詫びがてら一度メンテナンスに入らせて頂きますね」
「そこまでして貰わなくても大丈夫だとは思うんだけど」
「大丈夫だという事を確認することも大事な作業ですから」
主に責任問題的なところで。
「まぁ、じゃあそういう事で」
「はい、サーバーの方は技師が空き次第予定を組みますので」
流石にサーバーまで私で確認するのはちょっと怖い。動いているから問題は出ていないが、異常検出シールが変色でもしてた場合何かあったら責任問題になりかねない。
「業務終了後から翌朝迄には再稼働致しますので、立ち合いのみお願いできますでしょうか?」
正直、担当清掃員の知識不足には唖然とした。衛生士の資格は持ってても、機械に対する知識はあやふやだったらしい。
サーバーに関しては何かのメーター位のつもりで居たらしい。大事なサーバー室に鍵を付けてない時点でどうかとは思うが、その辺はクライアント側の自由だ。
「はい、では以後は特定の揮発性溶剤を除き厳に持込を謹んでください」
会社に帰ってまず
最初は今一理解できていなかったようだが、話を進めると相手先も何をやっていたか理解できたようで、
「誠に申し訳ございません」
と、こうなる。
もうちょっと電子機器に対しての水の恐怖を考えて欲しい。
今後の対策と指導をお願いして、一旦電話を置く。
「課長、例の緊急メンテ技師取れましたか?」
「あぁ、取り急ぎ一人確保した
明日にも動けるぞ」
「では明日21時からの作業を提示してみます」
「くれぐれも先方次第だからな
分かっているとは思うが」
真夏や真冬にサーバー室の空調止めて駄目にする分には、相手先の問題だからどうでも良いがよりによって
部屋内の湿気が空調システムの許容量を超えた時点で、ブレードサーバー稼働時と省電力時での温度差から結露が生じる可能性がある。
常時ファンが最低限回っているはずだが、確実な話ではない。
「まさか、サーバー室の掃除を水拭きしてるとか……」
「いや、話を聞いた時はなんの冗談かと思いました」
課長と顔を突き合わせてため息をつくと、寧ろ何か問題が発生する前に発覚した事を喜ぶしかないだろう。
「とりあえず、しばらくお前はあそこの担当のままな」
「えぇ、今の状況で誰かに引き継ぐとか怖くてできませんよ」
そう、あくまで仕事上必要だからこういった判断をしているだけだ。
決して個人的な感情のもと判断を下している訳ではない。
「どうしましょう、あちらさんの上役に一言お詫びをした方がよいでしょうか?」
「まぁ、するとしてもこちらで動くのは筋が通らん
一応
そう、上司からも指示されたこれはれっきとした社命だ。
誰に後ろ指さされる事のないきっちりとした仕事なんだ。
誰に対しての自己弁護なのか、そもそもそこまで考える必要があるのかすら分からない自分自身で説明のできない衝動と感情を押し隠しながら私は課長とのすり合わせを行っていた。
智花は私には出来過ぎた妻だと思う。
「あぁ、お帰り~裕君」
のほほんとした生来の性格もあるのだが、やんちゃ盛りの子供相手にも滅多に声を荒げるような事はない。私であればついつい怒鳴り散らしてしまいそうな子供の悪ふざけにもにこにこと笑いながら注意している。
「ただいま帰りました」
「今日のご飯はお魚と酢の物だよ?もう食べる?」
「先にお風呂を頂けますか?」
「は~い」
いつものくたくたのパジャマ姿で私を出迎えた智花は、浴槽の追い炊きボタンを押すと真新しいバスタオルをタオル掛けに改めて掛けてくれる。
「お風呂上がりでそのままご飯でいい?」
「あぁ、ありがとう」
キッチンへ向かいながら声をかけてくる智花に礼を言いながら、手早く服を脱ぎ捨ててバスルームへと入る。
カランを捻って噴出してくるシャワーを頭から浴びると、冷たい水にびくりとなるがそうなる事すら気にせず浴びていた。一呼吸遅れて暖かくなっていくシャワーに頭の中を空っぽにして、自然と零れ落ちるため息に自分の考えすぎだと自己弁護を行う。
手抜きで大雑把に体を洗うと、洗い流して消えていく泡を何となく目で追ってしまう。
「疲れてるな…」
浴槽に足を延ばして浸かると、いつも以上に感じる倦怠感にぐるぐると頭を回る智花と小松の笑い顔。
別に、浮気願望があるとかそういう事ではないと思う。
高校時代にやり残した
今はそう思うしかない。
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