フィストの丘
フィストの丘と呼ばれるこのだだっ広い草原は町が近くて見渡しが良いためか大型魔物の繁殖も少なく、たまにエサが少なくなった際に山脈から飛行系の大型魔物が姿を見せるくらいの話らしい。
俺個人ででも対応できるくらいの極々弱い、そう、僻地の村であれば子供でさえも倒すことが可能な小型魔物しかいない。だが俺には魔物よりも余程怖いものがある。
「あ~、来た。やばいなぁ」
町のおいては呪いと称されている俺のこの症状だ。
強い不安感、胸が重く感じるこの感覚。思考能力が落ちてしまい、直情径行が強くなる。そう、現代人に御馴染みの鬱症状だ。
「よりによって今来るかぁ」
現代社会では、医者に掛かれば長ったらしい診察の後に漢方から始まって化学合成薬を処方してくれるために、苦しい聞き込みさえ終われば薬である程度楽になれる。医者にかからなくても、コンビニで置かれているサプリ一つだけでだいぶ違う。
だが、
襲ってくる心理的圧迫に俺一人で立ち向かわなければならない。
医者も居なければ支えてくれる家族もいない。
ここは地獄だ。
――でも大丈夫
俺はまだ壊れてない、こわれてない
体だって動く、今だって動いている
考えることもできる、ほら、リバル草はあの岩陰とかによく群生している――
自分に言い聞かせるように、ゆっくりと呼吸を繰り返し頭の中で大丈夫だと言い聞かせる。
日本にいたときも、パニック症候群や過呼吸などの症状は発症していなかったが、何しろ生活環境が違いすぎる。何がきっかけで一気に進行するか分かったものじゃない。自分で自分を騙して意識レベルを少しでもクリアにする。
「よし、リバル草だけでも回収しておくか」
わざわざこれからの自分の行動を口にするのも、その一環だ。
一人しかいないのになぜ声に出すのかと現地人によく不思議がられているが、これも俺にとっては一種の防衛行動なのだ。
「ここいらのリバル草はそろそろ休ませなきゃいけないかなぁ」
雑草にしか見えない薬草の回収は少しばかり面倒なものだ。薬効があるのは葉の部分なのだが、根から切り離すとあっという間に効能が落ちてしまうのだ。土から根毎回収する事になるのだが、この時に根を少しだけ切り落として土の中に残しておかないと次の回収が出来なくなってしまう。
よくギルドでトラブルになっているのは葉の部分だけ回収して買い取り不可になっているか、丸ごと根を引き抜いて今度から採れなくなるだろうがと叱られているかのどちらかである。
「あれ、リクじゃない。どうしたの?仕事?」
無心になって回収作業を行っている背中に声がかかる。
俺のどよんと沈み込んだ心に風でも起きたかのような清涼感が広がる。心にドスンと選挙した重たい石みたいなものが少しだけ軽く、小さくなる。
「おはよう、リーラ。
リーラは討伐依頼かい?」
「?大丈夫?顔色が悪いけど、また呪いが出てるの?」
ポニーテイルにバサッとまとめられた違和感を感じさせない長いオレンジの髪に、被った土埃も返り血もお構いなしで整った小顔がちょこんと覗く。ゲームやアニメでおなじみの露出の高い防具なんて物は存在しないらしく、硬く煮詰めた革鎧が全身を覆っている。
装備のせいで余計に小顔に見えるんだろうなあ、とか益体無い事を考えられるくらいには頭の中が回復したようだ。元々他人の前では意地を張って少しでも普通に見せようとしてきた。
自分一人では難しくても、誰か他の人が近くにいるなら少しは騙せる筈だ、他ならぬ自分自身を。
「まったく、あなたもどこで冒険者してたのか知らないけど、厄介なものをもらったわね」
腰に手を当てて首を傾げる姿は、現代日本を知る身としては下手なアイドルよりよほど可愛いし不自然さの無い美女といえた。
俺は表情筋を総動員して笑みを浮かべると、何でもないかのように装って必死に自分の弱い部分を覆い隠す。
「まぁ、気長に付き合っていくしかないさ。
呪いの中には自然に
まぁ、精神科の医師が居ない状態でどこまで治るのかは分からないけど。
自分に対する自虐は自分だけに漏らして、決して他人には漏らさない。
「何かあったらすぐ言いなさい。私もそれなりに冒険者家業は長いけど、こんなに長く続く呪いなんてどんな高位悪魔かしら」
そう言いながらも、俺自身を怖がったりはしないのがリーラの良い所だろう。
自分自身が美人でモテることは多少なりとも意識できているようだが、ギルドの酒場では新人冒険者たちに混ざって酒を樽単位で呷りながら叱咤激励する姉御肌な女傑なのだ。
歳は怖くて聞けやしないが、見かけ年齢で言うならきっと俺より年下なんだろう。冒険者たちの平均就労年月は僅か10年そこそこだ。大半の人間は辞めてしまうか野垂れ死んでしまう。4年も続けば長い方と言えてしまうのが現実なのだ。
「リーラがこの辺にいるなんて珍しいな。普段はもっと奥地に行ってるだろ?」
「あ~、それ聞いちゃう?」
苦虫をつぶしたような顔でリーラは答えた。
「機嫌が悪いみたいだけど何かあったのかい?」
「領主からの直接依頼なんだけどね、この辺りの薬草群生地帯に紛れ込んだ大型魔物の掃討よ」
「え?大型魔物って言ったって、そんなの居なかっただろう?」
先ほどまで続けていた薬草の回収作業中に、大型魔物が表れようものなら俺なんて物の数分で腹の中に納まって現世にサヨナラな状態になっていただろう。今目の前にいるリーラの様な上位冒険者であればただの獲物なんだろうが。
「あ~、心配しなくていいわよ。私が狩って来たのはここから山一つ分先に進んだところだから」
「あぁ、それなら。って随分と離れてるんだな」
「あのクソ領主、下位向けフィールドに対する依頼だからって依頼料値切りやがって…」
依頼の難易度と報酬が比例関係にあるのは当たり前の話だ。
どうやら、街の領主が上位冒険者であるリーラに対して下位冒険者の報酬に毛が生えた程度の報酬で仕事を依頼したらしい。
町の徴税額で一番大きいタイミングはやはり秋の収穫期で回収した物税を金銭に変えた瞬間だ。その直前ともなると色々と使える金銭も限られてくるものらしい。世知辛い世の中ではあるが、金が無ければ回らないのは日本も
「はぁ、まあ収穫期を越えたらまた割のいい仕事を回すって言ってるけど」
「まぁ、リーラが居なくなったら困るのは領主だからね」
当然、せこい真似をすれば回りまわって自分の首を絞めてしまう。あくまで一時的な領主からの借りみたいなものなんだろう。
そんな言葉を返すと、リーラはニンマリと笑って見せて揶揄うように俺に応えた。
「あれ?リクは私が居なくなっても困らないの?」
「リーラが俺の目の前から消えてしまったら、生きる気力を失ってしまうよ。リーラは俺にとっての全てであって、他の人では変え様のない世界でただ一人だけの運命の人なんだ。そもそもリーラは……」
現代日本には夜の蝶が星の数ほど居る。俺の財布はいつも空っ風が吹いていたが、そういった場で盛り上げ役を行わなければならないのが会社の下っ端というものだ。仕事と割り切って必死に道化を演じ続けた俺を揶揄うにはリーラの経験値が足りないだろう。
言ってて悲しくなるのだが、腕っぷしで敵う筈もないが舌の回転で俺に敵う冒険者もそうはいないと思う。商人になればまた分からないが。
「あ…うぅ…」
案の定、リーラは滅多に変わる事のない顔色を少し赤く染めながら二の句を告げずに黙り込んで下を向いてしまった。
「意外とリーラって口説かれ慣れてないよなぁ…」
多分、本人の性格やら周りの男衆の性格やらで婉曲に口説かれる事があまりないんだろう。俺の周りにはよくそんなに口が回るなと感心すらする男たちが山ほどいた。そして、そんな男たちを教材に必死に勉強していた社会人の俺って何だったんだろう。海外から見た日本のサラリーマンはどこかおかしい人間が多いと聞くが、きっと俺もその一人だろう。
「あ~、もう本当にリクは調子が狂う!」
「ごめんなぁ、あふれる俺の気持ちを伝えようとすると…」
「あー、もーそれなし、いーからなし!!」
慌てて遮るリーラはどこから見ても真っ赤に照れる年頃の女の子といった調子だ。俺の標準的なモンゴロイド顔はリーラの世界からしてのっぺらとしたブ男のはずなんだが、どこまで免疫がないんだろうか。
「とりあえず、一仕事終わったから私は街に帰るよ。リクはどれくらいかかるんだい?」
「俺の方は取り掛かったばっかりだからねぇ、しばらく掛かるから先に帰りなよ」
人の良いリーラの事だ。
呪い《鬱症状》発症中らしき俺を見て護送してやろうと考えたのだろう。正式にリーラに護衛なんて頼んだ日には俺の平均報酬の一月分を支払ってもまだ足りないはずだ。たまたま帰りが一緒になった、くらいなら面倒な護衛だの依頼だの考えなくて済む。
「そう?無理はしないでね」
何度もこちらの様子を伺いながら、いつもの倍以上の遅さでのんびりと歩いていくリーラ。あそこまで露骨だと、流石に笑ってしまいそうになる。
「ありがとう、リーラ」
ポツリとつぶやいて、俺は膝から崩れ落ちる。
――とりあえず、限界か
頭を抱えて、震える膝を抱え込むようにして丸まってただ、合わない歯をガタガタと音を立てて打ち鳴らす。
頭の中は真っ白にスパークしそうになり、今の自分の状況やこれからの展望、リーラやジェイクへの感謝の気持ち。生活ができるのか、この世界のお金を稼いで行くにはどうすればよいのか、まとまらない考えをまとめれない頭で何度も何度もこねくり回して自然とあふれ出てくる涙が頬を伝う。
吐き出しそうになるが、そもそもろくに食事も取れていない胃では胃液しか出てこない。締め付けられる胸の痛みに大事に抱えていた薬草の運搬袋も投げ出してただ震える膝を抱きしめる。
――あぁ、やっぱりこの世界は地獄だ。
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