Scene3
俺は飛び起きた。
動悸がする。息が苦しい。掻き上げた前髪は湿って冷たい。額と頬には滝のような汗。しかもまだ流れ続けて止まらない。
未だに早鐘のように鳴り続ける鼓動を聴きながら、落ち着け、落ち着けと言い聞かせる。
あれは夢か?
いや、何が夢なんだ。どこからが夢だ。それともまだ、夢の中なのか。
「それに、あの言葉……」
答えの出ないことを考えていると、不意に部屋の扉がコンコンと音を立てた。しかしそれは、俺の返事を待つこともなく開けられる。
「大変です! 姫様が!」
現れたのは、血の気をなくした顔のメイドだった。彼女は叫ぶ。
「姫様が! お部屋にいらっしゃらないのです!!」
「…………殿下が?」
殿下がいないというメイド。妹が、あの子が、いない? 待て、待て。これは違う。
いつもと、違う。
「……今日の日付を教えてくれないか」
思い至った結論を確かめるように問う。
「え?」
「今日は」
「は、はい」
戸惑いつつもメイドが口にした日付は、繰り返される一日の【翌日】だった。
翌日。つまり。
「時間が、動いた?」
確かな事実を口にする。
「あ、あの!?」
混乱するメイドが視界の端に入る。
告げられた日付、慌てて入ってきたメイド、消えた妹──起きてからこれまで、全てが今までと違う。
刹那あの、硝子のような姿をしたあの子の言葉が脳裏を過る。
あれがもし、夢でないのなら。
点でしかなかった記憶が全て繋がった瞬間、俺は、弾かれるようにして部屋を飛び出した。
息を切らして走りながら、ひたすら考える。
動き出した時間の中で、あの子が部屋にいないというのなら、あの子は間違いなくあの花園にいる。一族の王冠を身につけ、王冠と同じクリスタルに変わりゆく身体で待っているはずだ。俺がやってくるのを。
あの夢は、願いだ。
歪な世界を終わらせてほしいという、あの子の、妹の、本当の、願い。
ならば、あの繰り返される一日は?
止まりそうな足を必死に動かしながら、自問のそれに答える。
あれも、妹の願いだ。
あの子は生きたかったはずだ。元気に、すくすくと、普通に。しかしそれが叶わなかった。病気がそれを許さなかった。だから妹は……ああ、殿下は。あのささやかな戴冠式で願ったのか。
病気が治りますように、と。
そしてもしかしたら、もうひとつ願ったのだろう。今日がずっと続けばいいのに、と。
俺だってあの日、同じことを思った。思ってしまった。
だが、それも終わらせなければならない。あの子が朽ちてしまう前に。俺が、終わらせなければならない。
これは俺にしか、できないことなのだから。
花園は、いつになく甘い香りがした。
よく見る花から名も姿もまるで知らない花まで、ここにはたくさんの花が咲いている。それらを選り好みするように、ひらひらと無数の蝶が舞う。
その、真ん中に──妹はいた。
遠目からでもわかる。あれは間違いなく妹だ。まるで動かないあの子の周りを、蝶が行き来する。どこからか差す陽の光が、優しく、温かく照らす。
未だ呼吸も整わないまま、一目散に駆け寄る。
愛おしい妹が、クリスタルの王冠を抱きながらそこにいた。もとより病弱で、細く小さかったが、座っていることで余計に小さく感じた。
だがその身は、もう人間のそれではなかった。
繰り返す一日の終わりに現れる妹は、回を増すごとに身体が王冠の如くクリスタルに変貌していった。それに気付いたのは、いつの頃からだっただろうか。
しかし今は、もうほとんど人の形を残していない。いや、人の形は取っているが、構成するほとんどのものが人間のものではなくなっていた。
妹にそっと触れる。滑らかな髪も、柔らかな頬も、今では硬く透明な結晶。その事実を、俺は、妹に触れたことでようやく実感した。
生まれてからずっと命を病に蝕まれ、それがようやく終わったかと思えば、今度は願いの代償に身体が晶化されてしまったのだ。
「こんなになるまで……辛かっただろう」
応えなどないとわかりつつも、語りかけるように囁く。
目を瞑れば、優しく穏やかな笑顔を湛えた妹がそこにいる。お願い、お兄ちゃん、わたしを。
「ああ、そうだな」
幻聴のような、起きる直前に見た夢のようなその声を受け、決意とともに目を開く。
ひたすら繰り返される一日の中で調べた術式を展開し、右手の親指の腹を嚙み切る。途端、溢れ出た血は意志を持ったかのように蠢き、やがて剣としては歪な形の、紅い片手剣に成った。
「俺が、終わらせてやる」
そうすれば終わるのだ。この子の願いが叶うのだ。わたしを殺して。わたしとは、目の前の、人ではなくなってしまった、クリスタルの妹。これを殺せば、壊せば、全てが終わる。妹は人として戻ってくる。たとえそれで、再び裏切りの一族が生まれ得ても、たかがそれだけ。命が消えるものではない。
そう言い聞かせ、溢れそうな感情を殺す。そしてそれが迷いを生む前に、一思いに、最愛の妹の心臓がある位置を血の剣で貫いた。
刹那、晶化した妹が音を立てて砕け散る。わかってはいたがあまりの光景に目を背けることすらできず──しかし。
たった一度の瞬き。その須臾の間に、砕け散ったはずの妹が人として座り込んでいた。俺は呆然としつつも、妹が倒れ込む前に慌てて抱き寄せる。
永い一瞬の後。
ゆっくり、ゆっくりと妹が目を開いた。
「お、にい……ちゃん」
「殿下……!」
目を瞠り、息を呑む。ああ、妹が、人として帰って──
いや。そんな優しい光景は己の手に、腕に感じた嫌な熱で掻き消えた。
血だ。俺のではない、妹の血。
甘ったるい花の香りと鉄臭さが一緒くたになって、むせ返るほどの匂いが鼻腔をくすぐる。
裏切りの一族である血を媒体にした剣によって、クリスタルの王冠の願いは砕け散る。
「ああ……あああ……そんな……」
言い伝えは、そういうことだったのか。
理解したところで、もうすべてが手遅れだった。王冠の歪な願いの具現化は終わった。しかしその代償は裏切りの汚名ではなく願った者の死だ。
「……ああ……すまない……すまない……!」
俺は小さな妹の体に顔をうずめ、謝ることしかできなかった。だが、妹から出た言葉は、予想だにしないものだった。
「お兄ちゃん、わたしのお願い、叶えてくれたんだね」
驚いて顔を上げると、微笑みを湛えた妹と目が合った。
「わたしを殺してくれて、ありがとう」
その瞬間、殺したはずの感情が、涙と一緒に溢れ出た。
「いいや……! もっと! もっとなにか方法があれば、救うことだってできたはずなのに! それすら!」
「ううん、いいの」
目を伏せて妹は小さくかぶりを振る。しかし直後、「でも……そうだね」と続けた。
「もしかなうなら、もうすこしだけ、いっしょにいたかったな……」
わがままだよねと笑うその声は、涙に濡れていた。だかその声音とは裏腹に、妹は笑っていた。そして──
「だいすきだよ、おにいちゃん」
幸せいっぱいの満面の笑みで最期の言葉を告げ、妹は息を引き取った。
俺は──初めて声を上げて泣いた。
救えなかった命を、最愛の存在をなくしたことを、今更ながらに実感して。
そして強く思った。
ともに生きることができないのなら、せめて。
後日。一国の姫君の追悼式が、盛大に、しかし厳かな雰囲気の中で執り行われた。
城にはその日、姫を悼む者が大勢集まった。この都に住む者、少し離れた街に住む者、遠く離れた小さな村に住む者──この国のあらゆる場所から、姫の最後を見届けるために集まってきたのだ。それだけあの子は愛されていた。本当に、国そのものに愛されていた。
それから数日、都はまたたくさんの人でごった返していた。しかし今度は喧騒という言葉で片付けるには余るような、怒号や罵声が響き渡っていた。
裏切り者。
姫様を返せ。
人殺し。
国そのものに愛されていた妹を殺した俺は、従者から一転、反逆者、いや、大罪人となったのだ。
俺は広場の中央の高い所で、正しく見せしめとしてギロチンに寝かされている。下から飛んでくる怒声と冷たい視線は確かに痛いが、不思議と心は落ち着いていた。
しばらくして、ぎしぎしと木の板が軋む音が鳴り響き、合わせるように足音が聞こえた。それは段々と近づき、ついに俺の隣に至り、止まる。
「遺言はあるか」
低い男の声だった。
「いや」
「そうか」
いつの間にか、広場は静まり返っていた。時折床が軋む音が小さく響く以外、聞こえるものは何もない。
どれくらい経っただろうか。
終焉の鐘が鳴り響く。普段よく聞く鐘の音が、今はやけに重く、荘厳に聞こえた。
頭の上で男が何かを言っているが、もうその言葉を聴くことすら意味を成さない。俺はただひたすら、頭の中で言葉を繰り返す。
ああ早く、はやく。
待っていてくれ、もうすぐだ。
刹那、かつてないほどの爆音が鼓膜を揺さぶった。それが集まった人々の大声の集合体だと気付き、俺は目を閉じた。
これで、やっと。
直後、一瞬だけ鉄が擦れる音が聞こえ──
ぶつりと、意識が途切れた。
ともに生きることができないのなら、せめて、最後の願いくらい叶えてやりたい。
俺と一緒にいたいというささやかな願い。それくらいなら叶えてやれる。
気が付けば、俺達はまたあの花園にいた。穏やかで、優しくて、甘い香りが広がる花園に。
元気に駆け寄ってくる妹に手を差し伸べる。
さあ、いこう。
これからはいつまでも二人で幸せな時を、覚めない夢の中で見続けよう。
【合作小説】Resurrection 高城 真言 @kR_at
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