Scene2

 朝目覚めると、どうにも体が重い。なんだか長い夢を見ていた気がする。しかし、如何せん重たい瞼の前では思考もままならなかった。

 肌に貼り付いた寝巻きを脱ぎ散らし、格子付きの窓を開け放てば、清々しい風が舞い込む。そうすることで目が覚めるのだ。城下に拡がる青々とした街並みに、今日も溜息が漏れた。


「失礼、殿下がお呼びです」


 そんなひと時を砕いてくれるのは、小間使いの無感情な声だ。ああ、今日は寝過ぎたな。愛すべき殿下のためにも、公務へ向かう足は軽い。



「お兄ちゃん!」


 弾む殿下の声に、顔を綻ばせるのは俺だけではないだろう。すっかりと顔色を良くした殿下は、ゆったりとしたドレスを揺らして、水晶の王冠を跳ねさせて、転がるように駆けてくる。公で兄と呼ぶなと告げると、へそを曲げてしまうのだけが厄介だが、それすらも愛らしく思う。この国の姫君は、この国の美しさの体現だ。


「あのね、庭師のお爺さんが、お花を用意してくれたのよ」


 手を引かれるがまま、姫のワガママに付き合うことができる自分の特権を噛み締める。

 城の庭園は美しい。庭師が入念に手入れをしているし、これは殿下のためのものだ。色とりどりの花が咲き乱れ、まるで楽園たらしめている。


「おはようございます、姫様」


 いつもならば俺と顔を合わせようともしない庭師。殿下と並んでいるからか、にこりと微笑まれた。

 この城で、この国で、俺の立場は低い。一応は姫君の兄、という肩書きが付随するが、それも「一応」だ。母は国王の妾で、俺が産まれたことにより立場を一層悪くし、その命を絶たれた。そうだから、俺は「国王をたぶらかした悪魔の子」であるとされる。俺を俺として見て、愛してくれるのは、今や妹である殿下だけなのだ。

 恭しく頭を下げて、剪定へと戻る彼に手を振る姫。雲ひとつない空を仰いでから、再び俺の手を取った。


「今日はお兄ちゃんとわたし、ふたりだけのお庭なのよ」


 そう言えば、庭師はもうどこかへと立ち去っていた。穏やかだ。実に穏やかだ。


「……殿下の思うがままに」


 先の庭師を真似て頭を下げる。少し頬を膨らめたが、殿下は満足そうだ。花壇の合間を掻き分けて、姫は踊る。舞い上がる花びらと共に、風を吹かせて、香りを漂わせて。


「あれ」


 何かの影が脳裏を掠めた。どこかで、以前にも。見た気がする。この美しい光景を。


『お兄ちゃん』


 殿下の声が、重なって聞こえた。ホーミー、二つの声が同時に響く。耳の奥が煩い。


『ねえ、お兄ちゃん』


 花畑で踊る姫、その体は細く美しく。まるでガラス細工のようで。


『わたしは、ここよ』


 声が掠れる。視界が明滅して、姫の姿が弾けた。血管が、収縮する感覚だ。ああ、俺はこの情景を知っている。


『早く、来て』


 そうだ、昨夜の夢だ。きっとそうだ。最後に見えたのはなんだったか。踊る少女の肌は、白く透き通って。欠けていた。



 朝は体が重い。夢心地のまま、凝り固まった瞼を無理矢理にこじ開けて、寝巻きを脱ぎ捨てる。格子付きの窓を開け放ち、そういえば昨日もこうしたな、と思い出して笑った。また同じ夢を見た気がする。そうだから、窓の外の城下を見渡し、息を吐いたところで──


「失礼、殿下がお呼びです」


 ほら、これだ。小間使いの声は、昨日と同じ声。そうして殿下の元へと向かえば、転がるようにして駆けてくるんだ。


「お兄ちゃん!」


 これも同じ。どうしてか居心地が悪かった。

 昨日と同じ寝巻きを脱ぎ捨て、昨日と同じ小間使いに呼び出され、昨日と同じ笑みを姫から向けられる。いや、ここまではよくあることだ。彼女が俺を呼ぶのも、この華やかな笑顔も。これが俺の心を満たすのだから。


「あのね、庭師のお爺さんが、お花を用意してくれたのよ」


 思考がままならない。未だに夢心地なのか、それともこれは夢なのか。視界が明滅する。恐ろしくなって、俺は姫の呼び掛けに、初めての拒絶を示した。



 城内を忙しなく動く小間使いたち。昨日の彼らも、今日と同じことをしていたのだろうか。夕餉の支度に勤しむ食堂を覗けば、その献立に頭を抱えた。俺は確かに、あの料理を食べた覚えがある。あの給仕が入れる紅茶は不味かった。あそこで冷やされたドルチェは絶品だった。全て知っているのだ。偶然同じものなのか、いや、それはない。城内で今まで続けて同じ食事を出されたことは一度だって無いのだから。


「夢……」


 そうだ、あれは夢だったのだ。そうでなければ、おかしな話だ。そうだとしたら、殿下には悪いことをした。まだ、庭園にいるだろうか。きっと膝を抱えているに違いない。あの子は、とてもか弱い子だから。

 庭園へと向かう足は、どこか重かった。きっと道中で耳にした大臣らの言葉のせいだ。


「姫様はまたあの男のところか」

「本当に好きね、悪魔の血が流れているというのに」

「ああ、母親はあの一族だろう?」

「そう、裏切りの一族」


 好き勝手を言ってくれる。母が違うからなんだという。殿下は麗しく、間違いなく俺の妹であるのだ。だから俺はあの子を愛するし、あの子も俺を慕ってくれる。これは揺るぎないことなのだから。



『お兄ちゃん』


 夢の中の少女は、花畑に立ち尽くしていた。昨日は踊っていなかっただろうか。いや、それは現実の話で。夢の中の少女は、それよりも随分と弱々しい。脆く崩れてしまいそうな表情は、そういえばこの子は病がちだったと思い起こす。


「大丈夫、俺はここにいるよ」


 抱き締めてやれば、その細さに驚いた。俺が知っているよりも、ずっとか細く、そして硬い。俺に触れる手のひらは、掠れてヒビが入っていた。そこへ触れれば、壊れてしまいそうで。


『ねえ、お兄ちゃん』


 次に呼ばれた時には肌が透けていた。光を透かす、クリスタルのような。


『お願いがあるの』


 少女の頭を飾る、王冠の色によく似ていた。



 目覚めるたびに重い体は、彼女の夢を見ていたからだ。掠れた声に、ひび割れた肌。その全てが苦しくて、悪夢が疲弊を呼んでいる。


「失礼、殿下がお呼びです」


 この言葉から始まる一日に、やはり夢ではないのだと思い知る。俺を呼ぶ、クリスタルの姫君の願い。目の前で笑う少女との懸け隔てに、焦燥が胸を蹴る。


「殿下、庭園はまた今度。少し調べ物がありますので」

「あら、どうしてお庭に行くってわかったの? うーん、じゃあ、それが終わったらお庭に行こう? ね? いいでしょう?」


 目を輝かせて言われれば、拒絶できるはずもない。妹の望み、口約束を果たすためにも、俺は早く、見つけ出さなければ。

 どうして俺以外の者は、昨日と同じ言葉と行動を繰り返すのか。どうして俺だけが、この日常から取り残されているのか。そう思考したときに、思い出したのは昨日俺が常軌を逸したときに聞いた言葉だった。


「裏切りの一族……」


 母は、父である王の気まぐれに遊ばれた。俺が産まれたから、たったそれだけのために、命を絶つ必要はあったのだろうか。「裏切りの一族」たるものが関わっているとすれば、その疑問の解決は早い。格子付きの自室に眠る、母の遺品はあまりに少なかった。手記、チーフ、ナイフ。奇妙な取り合わせだ。母は、何を思ってこれを遺したのか。それらに手を触れた瞬間、耳の奥がじわりと熱を帯びた。


『願いの王冠を宿すもの、秘密の花園にて鉄の剣を受け、終焉を遂げる』


 ホーミー、脳内を駆ける声。雑音だというのに、自然と肌に馴染む言葉。そのひとつひとつの単語が、頭の中で組み替えられていく。急速に動く記憶の中で、耳鳴りは最高潮だった。胃が迫り上がる。


 願いは水晶、宿すは少女。少女の願いがこの永遠たる世界を作り出している。しかし夢の中の少女は水晶に蝕まれていた。あの体は、あの王冠だ。鉄の剣は──


「殿下……」


 裏切りの一族は、その昔、水晶の王族が願う夢の輪廻を絶った。その行為を、裏切りと称される。その方法こそが、鉄の剣。鉄は血液。耳の奥で騒ぐ、この血潮だ。俺は知っていた。知らないはずがなかった。母は、そのために国から落とされたのだから。今まで思い出さなかったのは、思い出そうとしなかったのは、妹のため。殿下と同じ目線で、同じ思想であろうと、強く願っていたから。


「俺は」


 殿下の瞳に映る世界と、俺の中の世界は、俺たちの血によって阻まれる。母の遺品を握る拳が震える。手のひらにナイフが食い込んで、血が滴った。

 血液は形を変えていく。耳の奥、鳴り響く雑音が加速する。また、ホーミー。正しきを行なえと、母が言う、誰かが言う。正しいとはなんだ。何が俺たちを蝕む。この輪廻にこそ、蝕まれていればどれだけ楽だったか。

 それでも、俺はまた今夜も同じ夢を見る。少しずつ、変わり果てていく妹の夢を。



『お兄ちゃん、わたしを殺して』


 確かに少女は、俺に助けを求めたのだ。

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