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「それなら、〈シュヴァリエ〉がいいだろう」

 元刑事だという触れ込みの探偵所長は、アニーの話をあらかた聞き終えた後、そう言った。さして資料を確かめず、深く考える素振りすら見せずに。

 サウスサイドのごちゃついたビル街にある、おんぼろ探偵事務所。その、ちっぽけな応接室。アニーは年季の入ったテーブルを挟み、所長と向かい合って真新しいソファに座っている。

「〈シュヴァリエ〉――?」

 初め、アニーは冗談で虚仮にされているのかと思った。

 彼女は現在、腕が立ち、フットワークが軽く、尚且つ信頼できる人材を探していた。しかし伝手もコネも情報もなく、藁にもすがる思いで、この探偵事務所を頼ったのである。その返答が、やけに抽象的な言葉だったのだから、侮られたと感じても無理はなかった。

 シュヴァリエ――他国の言語で勲爵士、貴族、そして騎士を意味する古めかしい単語ワード。現代では、いかにもコミックやゲームに好んで用いられそうな名詞だった。

 アニーは己の服装を顧みた。野暮ったい黒ぶち眼鏡に、チェックのシャツとジーンズ製のズボン。やや赤みがかったボサボサの黒髪は、後ろでひとまとめに括っている。

 たしかに自分はこの通り、見るからに研究所上がりといった垢抜けない様相でいる。世情にも疎い。しかし、そんなあしらわれ方は心外だ。

 そう抗議する前に、彼女は相手の大真面目な表情に気づき、あわてて口をつぐんだ。

 心情を察したらしき所長が、諭すような声音で説明する。

「〈シュヴァリエ〉ってのは三年近く前まで、ある風俗店で働いてた女の通称さ。とびきりの麗人で、いつも真っ赤なドレスを着込んでたが、こいつに限っては娼婦じゃねえ。女だてらに剣を携えて、ボディガードをやってた」

「剣?」

 思わず首を傾げる。ドレス姿の用心棒という奇異な点より、そちらの方が気になった。

 銃器に比べ、技術の修得に大きな時間を要し、持ち運びにも労する長物。骨董に等しい、前世紀以前の遺物だ。これを主立つ武器とするのは、アニーの認識ではナンセンスの一言に尽きる。

 所長が頷いた。

「それこそ中世の貴族や騎士さまが持ってそうな、凝った装飾の剣さ。だが、お飾りじゃない。店の女や、彼女自身に悪さを働こうとした客が痛い目に遭ったって話を、何度も耳にしてる」

 高貴な存在、あるいは女性。それらの守護者を意味する言葉――騎士。

「だから、〈騎士シュヴァリエ〉」

 アニーが相槌を打つと、所長は楽しげな笑みを浮かべた。

「そうさ。実際、俺も一度だけ騒ぎに居合わせたことがあってな。そのときの馬鹿は、ほとんどパンツ一丁で店から飛んで逃げていったぜ。股をぐっしょり湿らせてよ」

 下品な会話に免疫のないアニーは思わず顔をしかめたが、ガハハと笑う所長が気にした様子はなかった。

「まあ無理もないさ。なにしろ、刃が見えもしないスピードでびゅんびゅん迫って、着てるものを斬り刻んでいくんだ。目の前でやられたら、たまらねえよ。それでいて〈シュヴァリエ〉は、相手に大怪我を負わせたことはない」

「つまり」

「めっぽう腕が立つって話さ。しかも職務に忠実な騎士さまで、無意味に暴れたような話は聞いたことがない。三年くらい前に店が摘発されたあと、いっとき姿をくらましてたが、いまはフリーの用心棒をやってるようだ」

 まさしくアニーの提示した条件と符号する人材だった。不確かな点は多いが、一考する価値は十分にある。

「摘発というのは? 〈シュヴァリエ〉がやりすぎて?」

 目を丸くした所長が、手を振って否定する。

「いいや、ちがう。たまに起きる彼女のそれは、むしろギャラリーには喜ばれてたからな。半ばショーに近い扱いだったはずだ」

「じゃあ、どうして」

「店で〈プリンセス〉って呼ばれてた売れっ子が、なにかをやらかしたのが発端って話だったかな。詳しくは知らん。どうしても知りたきゃ調べるが、あんたが欲しい情報は別だろ?」

 アニーは渋々頷いた。野次馬根性で気にはなったが、目的を履き違えてはならない。

「〈プリンセス〉、〈シュヴァリエ〉、そして新顔のあの娘。いい店だったのに、残念だよなあ……」

 無意識なのか、所長がこちらの好奇心を煽る独り言をしんみりとした様子でつぶやいた。

 新しく調査を依頼したくなってしまう前に、口早に話を進める。

「わかりました。では、その〈シュヴァリエ〉という方と連絡を取っていただけますか?」

「ああ、承知した。数日中には報告できると思う。ついては、依頼料なんだが」

 所長がさりげなく、しかし一層笑みを深めて言った。

 頭の中で計算する。得られた情報の価値。まだ見ぬ〈シュヴァリエ〉への期待度。目の前の男の、今後の利用価値。

「まず、いまお話いただいた内容に対して、この場で千ドル。そして、私と対象が連絡を……いいえ。実際に会い、交渉できるまでになれば、そこでの契約の成立如何に関わらず、経費込みで一万ドルのお支払いをお約束します」

 所長の笑顔が、ぴたりと止まった。そして目を剥いて、まじまじと見つめてくる。一瞬、怒られるのかと怯んだアニーは、それでも平静を装った。

「不服でしょうか」

「いやいやいや、とんでもない。喜んで承らせていただきます」

 所長はそれまでの気安い態度から打って変わり、下手したてになった。アニーはほっとして、ひとまずの前金を払う。

 彼女は自分のことを、浮世離れしたカモと印象づけておきたかった。実際、世に放たれたばかりのひよっこだ。優れた交渉術も背景もない。ゆえに潤沢な資金を匂わせる依頼料――大金という旨みを見せるのが、現状もっとも効果的な餌だと考えたのだ。

 オフィスを後にする直前、

「もうひとつ、聞いていいですか?」

「はいはい、なんでしょう」

 にんまりとした所長に、応接室へ通されて以来、ずっと気になっていたことを訊ねる。

「この部屋の壁や床、ずいぶん凝って、おどろおどろしい様子になってますよね。この街は、こうまで本格的にハロウィンの準備をするのですか?」

 所長の笑みが、またもや嘘みたいに止まった。ただし先程とちがって、今度は凍りついたように。

「ああ、それは。……まあ、そんなとこだ」

 あからさまに言葉を濁しているが、その異質さにアニーは気づかない。

 実際、応接室の傷み方は異常だった。

 もともと老朽化の進んだビルではあるが、この一室に限っては、そういう次元ではなかった。

 年季の入ったテーブルや、ファンの外れた換気扇。これらはまだマシな方だ。

 壁や床、さらには天井まで、大小いくつものくぼみがある。それも、まるで弾痕のような。特に、大きな穴の一部は壁を貫通しているものまであり、大砲でも撃ち込まれたみたいだ。

 ところどころに飛び散り、こびりついた赤黒い。カピカピに乾いているため臭いはしないが、見た目は血液にそっくりだ。また、乾ききる前に周辺の――たとえば肉片とか――を取り除いたような痕跡も見える。あまりにグロテスクだったため、回収したのだろうか。

 ソファ一式だけが、なぜか真新しい。おかげで、かろうじて応接室としての面目を保っている。それ以外はお化け屋敷ホーンテッド・ハウスそのものだ。

 目前に迫ったハロウィン・パーティーに向けて準備は万端といったかんじだと、アニーは素直に感心した。きっと友人なり、近所の子供たちなりを集めて盛大に祝うのだろう。

 でもなければ、依頼人である自分にこの部屋を晒し、通すはずがない。よほどのトラブルで顧客の信用を損ねて、お金が入り用にでもなっていない限りは。

「まるで、昔テレビで見た戦場跡みたい。見事ですね」

 称賛のつもりで言ったのだが、相手の表情は暗かった。どこか怯えているようでもあった。

「ありがとうよ。お前さんは、よっぽどこんな部屋とは縁のない、平和な世界から流れてきたらしいな」

 皮肉じみた言葉の意味を深く考えもせず、アニーは頷く。

「ええ」

 そして、いたずらっぽく口角を上げて微笑んだ。

「楽園よ」



 アンナ・ファンシャーことアニーに、楽園と呼ばれる研究所から誘いの声がかかったのは、八年ほど前の話になる。

 そのとき彼女は十七歳。飛び級で博士号を取得したとはいえ、学校を出たばかりの小娘だ。いかに有望でも即戦力にはなりえない。異例のスカウトだった。

 だが、楽園側にも事情が存在した。

 きわめて秘匿性の高い閉鎖的な環境であるため、もともと後進の育成に不安があった。さらにこの当時、優秀な研究者たちが複数の被験者とともに施設を後にしていたのだ。

 そこで白羽の矢が立ったのがアニーだった。楽園の最高責任者である、チャールズ・ルートヴィヒを伯父に持つ才女。さらに都合がいいことに、彼女と絶縁状態にあった姓すら異なる実父、アンドリュー・ルートヴィヒ博士もこのとき楽園から出奔していた。

 これ以上ない勧誘のタイミングと見たチャールズの、〈厚顔無恥フェイスマン〉と揶揄される通りの迷いなき行動。そしてアニーも誘いに乗った。戦争終結に伴う兵器規制論が声高に叫ばれる中、科学者としての可能性を広げる、最高の環境だと考えて。

 事実、楽園入りしてからの数年で、彼女の技術は飛躍的に向上した。

 新たな成果を生むための発想や独創性に長ける上、研究員の補助サポートや被験者のメンテナンスに関しては、施設内のだれにも引けを取らないほどに。

 完全な個体であるトゥイードルディとトゥイードルディム。あるいは噂に聞く〈金の卵ブリオン〉。または〈共有人格シザース〉。

 これらの、三博士たちのような輝かしい成果を望むまでには至らないが、いずれ経験が差を埋めてくれる。そう信じて、資質に合わせた技術の向上に勤しんだ。

「それが、お前とアンドリューの大きなちがいだな」

 あるとき、伯父が感慨深げにそう言った。

 妻と娘をゴミクズのように扱って捨てた男と比べられること自体、アニーは不服だった。しかしニュアンスから自分の方が褒められているのだと理解し、そう考えると、深刻なほどには悪い気はしなかった。

 楽園入りして以来、断片的に耳に入る、かつて父と呼んだ男の情報。優れた補助能力と、それに勝る破滅的野心。三博士の補佐という大役を任されながら、自身への称賛を望み、役目を蔑ろに。個人の功績を追い求めて先細りの研究をつづけ、ついには姿を消した。

 くだらない男の末路。

 一方、アニーは他人からの称賛など強くは欲しない。この箱庭で技術を高め、自己を満たせる研究さえつづけられれば、それでいい。そう思っていた。

 たびたび囚われてきた忌々しい男の幻影は、研究に没頭することで振り払った。縁故により得た職場だったが、この頃には己の足で立てているという自負があった。



 転機が訪れたのは、彼女が楽園の研究員として迎え入れられて五年が過ぎた頃。きわめて珍しい、施設への来訪者があった。

 アニーは楽園入りして以来、外部の者とほとんど接触したことはなかった。せいぜい、トゥイードルディらと戯れる母娘おやこを遠巻きに眺めたくらいだ。

 病床の、しかし美しい母。その母の愛に包まれ、無邪気に笑う娘。

 微笑ましく、あまりに眩しい情景。彼女たちを目にするたび、やさしい、しかし悲しい記憶が呼び起こされそうになった。だからアニーは、けして近づきはしなかった。

 今度の来訪者のうち、ひとりは、かつて楽園にいた科学者だという。

 イースター博士――伯父と並び施設の最高責任者であった、クリストファー・ロビンプラント・オクトーバー。彼の遺志を継ぎ、こことはちがう場所で禁じられた科学技術を扱う人物。

 そして〈金の卵〉――クリストファーに賛同した者たちが施設を去るとき、伯父がもっとも手放すことを惜しんだ存在。楽園の生み出した最高傑作とされる、一匹のネズミ。

 さらには彼らが外界で保護し、連れてきた少女――焼け爛れた皮膚の機能を人工皮膚ライタイトで補い、いまでは人体と金属繊維との合成生物キメラにまで成長した、天才的な怪物。

 三博士のうち、もっとも革新的な行動を起こした〈渦巻きホィール〉の後継者と、楽園の最高傑作と、現在進行形で成長を見せる貴重な被験者サンプル

 多くの研究員――特に若年の者たち――が色めき立った。もちろんアニーも。〈金の卵〉はもちろん、都市で研鑚を積んだイースターや、その技術を注ぎ込まれた少女は、彼女たちからすれば未知と可能性のかたまりだった。

 しかし伯父のチャールズによって、みだりに近づくことを禁じられる。施設存続のため、完全閉鎖を選択した責任者として当然の行動。楽園で暮らす者にとってイースターたちは、あまりに危険で魅惑的な果実でもあった。

「データ自体は共有するのだから問題あるまい」

 伯父につづく実績と権力、似た傾向性を持つ重鎮たちも同様の考えだ。それでいて彼らは、隙あらば知らんぷりして抜け駆けしかねないので性質タチが悪い。

 チャールズの身内とはいえ、研究員の中で最年少のアニーに特例が認められることはなかった。自ら強行すれば、罰則は免れまい。

 それならばと、彼女はスパイを送り込むことにした。完全なる個体の片割れ、トゥイードルディである。

 青年は、中庭にいた。

 地下に広がった熱帯雨林。溢れ返る、色とりどりの花や実。本物そっくりの日差しと、心地よく頰を撫でる風。

 その先のプールでと戯れているかと思いきや、彼は多くの者たちと同じように、木陰で身を横たえていた。アニーからすれば、尚更都合がいい。

「ハイ、トゥイー」

 気さくに声をかけて歩み寄る。

 トゥイードルディがぴくりと反応し、顔を上げた。

 蝋のように白く滑らかな肌と、やわらかな巻き毛。そして驚くほど澄んだ、水色の瞳。環境に依存することなく、食事も、呼吸さえも必要としない完全な個体。かつてアニーが父と呼んだ男は、この青年のデータを取るたび、三博士との彼我の差を思い知り、歯噛みしたという。だからなのかも知れないが、彼女はトゥイードルディを好ましく思っていた。

 彼はアニーの姿を確認すると、朗らかな笑みを浮かべ、すっくと立ち上がった。そして背を向けて、早足でこの場を去ろうとする。

 その動きをあらかじめ予測していたアニーは、大股で距離を詰め、ほっそりした肩を両手でがっしと掴んで捕まえた。

。ご機嫌いかが?」

 先程より力を込めた挨拶。トゥイードルディが首を捻って振り返った。やわらかな笑顔。しかし、どこかぎこちなくも見える。

《やあ、アニー。元気そうだね》

 イヤホンに届く電子音声。彼は己の口では話さない。喋ることを忘れたのだ。

「なんで逃げたのか、聞いてもいーい?」

 親しげながら、有無を言わせぬ断固たる口調。強気で攻める。それでも相手の纏う和やかな雰囲気のせいで、効果があるのかは判然としない。しかし案外、あっさりと答えは返ってきた。

《博士たちから、あなたが現れたら、そうするようにって言われてるんだ。しばらく近寄るなってさ》

 予想通り、先手を打たれていたということだ。けれど、その規制は。本気で阻みたいなら、トゥイードルディとの接触自体をできないようにするべきなのに。

 老人たちの慢心と不理解。自分たちこそ頂点。ならば無理に逆らう者などいるわけがない。そんな時代錯誤アナクロニズム

 その甘えを突く。

 肩から手を離した。トゥイードルディが身体ごと向き直る。

。あなたに頼みたいことがあるの。聞いてくれるよね」

《ううん、内容によるかな。後で叱られるようなことはしたくないし》

 語気を強めて迫っても、やはり手応えはなかった。

「難しいことじゃないの。あなた、イースター博士が連れてきた被験者との接触を許されているんでしょ? その子を、しれっと私のとこまで連れてきてくれないかな。さも偶然っぽく」

 イースター博士は現在、外で大きな損傷を負った〈金の卵〉――ウフコック=ペンティーノのメンテナンスにかかりきりで、まったくラボから出てこないでいた。そこに許可なく乗り込むことは、研究者としての信念に反する。ならば、残る来訪者はひとり。楽園に入って以来、ずっと眠りつづけているという少女、ルーン=バロットとの邂逅をめざすしかなかった。

《イースター博士が提供した彼女の能力データは、すべて閲覧可能なんでしょう?》

「でも、やっぱり直接会って、見て、話を聞いてみたいじゃない」

《それはわかるけど……うーん》

 この朗らかな青年にしては、珍しく頑なで、煮え切らなかった。よほど伯父に言い含められでもしたか。もしくは、彼にとって妹と呼ぶべき存在を、あまり研究者の目に晒したくないのかも知れない。

 いじらしい独占欲。これまでのトゥイードルディには見られなかった感情。

 外部との干渉を自ら断っておきながら、その実、被験者同士を接触させることで生まれる新たな変化と成長を期待。〈厚顔無恥〉の狙いが透けて見えるよう。

 しかし青年が抱いたかも知れない感情自体は、個人的に阻みたくはなかった。研究者としても、邪魔するべきではない。

 妥協点を探る。そして、用意していた飴玉を差し出すタイミングを測る。

「じゃあ、会うのはあきらめる。その代わり、あなたが彼女と会って見聞きしたことを、後で詳しく私に教えてもらえない?」

《大丈夫かな……》

「やってくれたら、お礼にまた、私が外にいた頃の話をしてあげる」

 途端、青年の顔がほころんだ。アニーも内心、ほくそ笑む。

《わあ、本当? 前はカツアゲしようとしてきた上級生を、うまくかわした話だったよね》

「今度は、そのハイスクールの先輩をハメて、全校生徒の前で吊るし上げたときのことを聞かせてあげるよ」

 ぱぁっと輝くような表情を浮かべたトゥイードルディが、こくり、こくりと頷いた。

「交渉成立ね」

 青年の無垢な笑顔とは対照的に、いたずらを仕込む悪ガキのような顔でアニーが言った。



「楽園を離れるだと?」

 チャールズ・ルートヴィヒは、厳格そのものといった表情と声音のままでアニーを非難した。

 管理棟の一室。伯父と姪、ふたりきり。すでに、イースターたちが施設を後にして数ヶ月が経っている。

「一体、なにが不満なのだ。科学者にとって、この研究所で思うさま研鑚を積むことこそ、至上の喜びにちがいないというのに」

 彼の前で椅子に座るアニーは、硬い表情で応えた。

「否定はしません」

「できるはずがない。純然たる事実だ」

「伯父さま」

 強固な〈厚顔無恥〉。思わず苦笑。

 血とは不思議なものだ。実父を嫌悪しながら、その兄であるこの男のことを、アニーはけして嫌いではなかった。

「それでも、外の世界は、ここにはないもので溢れています」

 チャールズが溜息をこぼす。馬鹿馬鹿しくてたまらない、という風に。

「……仮にここを去ったとして、どこへ行こうというのかね?」

 さりげなく、なるべく素っ気なく告げる。

「マルドゥックシティ

 楽園から幾分と離れた港湾都市。富と悪徳、悲しみと虚無に彩られた混沌の都市まち

 おおかた予想はしていたのだろうが、それでもチャールズは落胆を隠さなかった。

「あの都市に打ち寄せた黒い波に、私は得難い友人をふたりとも攫われた」

 残りふたりの三博士。〈渦巻き〉と〈猿の女王クイーン・オブ・エイプ〉。〈厚顔無恥〉の、偽らざる嘆き。

「おふたりには危険を冒してでも、その街で成し遂げたいものがあったのでしょう」

 あるいは、どうしても欲しいなにかが。いまの自分のように。

 チャールズが眉を曇らせる。

「お前までもが、自ら箱舟を降りる愚を犯すというのか。その才量があれば、いずれは私の後釜に座ることさえ可能なのだぞ」

 アニーはその妄言じみた過大評価を受けて、照れるように顔を伏せた。

 このまま経験を積み、仮に三博士並の技術を身につけたとして。なんだかんだと甘い伯父はともかく、ほかのお歴々が若輩の自分を認めるとは思えない。少なくとも、あと三十年は要職への抜擢は見込めないだろう。

 身内と仲間に対する、盲目的な信用。正直、面映ゆい。特にふたりは、お互い最後に残った親族だった。だからこそ過剰なベタ褒めは、むしろ目を覚ます要因となる。いっそ、おためごかしにすら感じられた。

「過分のお褒めに与り、光栄です。けれど、私はもう決めています。どうか伯父さまには、ご理解いただきたく思います」

「ちがう。ちがうぞアンナ。理解だと? わかっていないのはお前なのだ。お前ほどの……」

 チャールズにしては珍しく、言葉が途中で途切れた。溢れんばかりの哀感。もし仮に、一方でも彼の手が、その愁える顔を覆っていたことだろう。

 反対されることは、わかりきっていた。

 やることはトゥイードルディのときと同じだ。懐柔するための飴の用意はある。おかげで巣立ちを決心した後、その下準備に何ヶ月も時間がかかってしまったけれど。

「イースター博士から提供されたデータは、驚くべきものでした」

 チャールズが、ぴくりと眉を上げた。勝機。たたみかける。

「博士の施した技術は素晴らしいの一言です。失われた皮膚の代わりに与えた金属繊維。結果として被験者が得た副次的能力と、数々の可能性。並の技術者なら、体組織に金属を癒着させることすら難しいというのに。検体となった少女の素養を差し引いても、彼と同じことをできる者が、いま楽園に何人いるでしょうか」

「ここの設備を用いれば、十分に可能だ。なにが言いたいのかね」

 チャールズが苦々しい表情を浮かべた。うすうす答えに勘づいているのだろう。

「彼はそれを、都市にある個人のラボで成し遂げました。野に放たれたからこそです、伯父さま。楽園を離れて荒波に揉まれたからこそ、イースター博士の技術は、より高いものへと昇華されたのです」

 一拍だけ間を置き、押し黙る。反論がないことに手応えを確信した。

 身内への情ではなく、科学者としての見地をぶつけ、理に訴える。

「たしかに楽園は研究するにあたり最高の環境です。しかし、外部刺激による化学変化は見込めない」

 それをだれより理解しているからこそ、チャールズはトゥイードルディとルーン=バロットの接触を許した。否、望んだのだ。さらなる成長と、その先の進化を予感させる兆しを。

 次いでアニーは、数ヶ月かけてかき集めた情報を引き合いに出す。伯父を説得しうる根拠の提示だ。

「いまは亡きクリストファー博士と、そして深く眠るサラノイ博士の志を下地に、現在あの都市では、禁じられた技術が限定的な条件下で浸透せんとしています。もちろんイースター博士のように、よき信念を持った技術者ばかりではありません。先達の意思を蹂躙する不届き者もいるでしょう。私たちですら及びもつかないほど残酷な実験テストを為す、外道だって出るかも知れません。そして――」

 言葉を切り、相手の反応を伺う。チャールズは無表情。

 しかし、

「そして、なにかね」

 喰いついた。内心で、ほくそ笑む。

「私ならば、それらの非道から生まれた新たな技術でさえも盗み、己のものとすることが可能です」

 チャールズが低く呻いた。

 人倫より、科学の発展を優先する。自分たちは本質的にそういう人種なのだ。だから、にいる。

 アニーは立ち上がり、チャールズに近づいた。そして、彼の鳥籠ケイジに、そっと触れる。

 首から上しか残っていない、顔人間。〈鳥籠の中の顔人間フェイスマン・イン・ザ・ケイジ〉。被験者どころか、癌に蝕まれた己の肉体すら研究素材として切り刻む。行き着くところまで行った科学者の末路。究極形。ある意味では理想形。しかし自分がこうなるのは、もっと老いてからでいい。

「アンナ。私はお前の身を案じているのだ」

 残った良心による、かよわい抵抗。寄せつけない。

「どうかご支援を。伯父さまの代わりに多くを学び取り、そして楽園に還元してみせます」

 ほうったのは、舌がとろけそうになるほど甘い飴玉。チャールズが生粋の科学者であるがゆえに、拒めるはずはない。

 しばらくの沈黙の後、施設の最高責任者は、

「お前とトゥイードルディの接触を、見逃すべきではなかった」

 仏頂面でそう告げた。



 許可は得られても、それまで経過を見守っていた諸々の研究を唐突に投げ出すことはできず、引き継ぎには想像以上の時間がかかった。さらには驚くべきことに、外へ出るための手続きには年単位の時を要した。そして隔離施設の研究員の放流を政府に認めさせるのに必要な、金と書類と審査。膨大な無駄。

 しかしアニーは、自らに渡り鳥となる決心を抱かせたきっかけを想い、その通過儀礼を乗り越えた。

 本来は、楽園での研究を発展させる一助にせんと仕入れた情報だったのに。

 ルーン=バロット。傷つき、傷つけ、そして傷つけたことに苦しむ、普通の女の子。

 そして、その相棒たるウフコック。

 彼女たちの愛に満ちた会話を、アニーはトゥイードルディを通して知った。

 だからこそ、楽園の外を選んだ。

 そう。楽園の頂点たるチャールズ・ルートヴィヒ相手に、アンナ・ファンシャーがあれこれ理由を並べ立てて外界に出たがった真の目的はひとつだった。

 すなわち、恋がしたい。

 私だって、愛してるとか言ってみたいし、言われてみたい。

 だったのだ。

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シュヴァリエ―アニーの理由― 渡馬桜丸 @tovanaonobu

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