第6話
津軽三味線独特の骨太い旋律が会場を包んでいた。俺はその心地良いリズムに酔いしれていた。それは師匠も同じで、高座の袖でパイプ椅子に腰掛け腕を組んで目を瞑って聴いていた。世話役の青木さんが俺の耳元で
「師匠、結構好きなんですよね。毎回膝はこの二人にお願いしていますから」
そう言って目を細めた。
そうなのだ、昨年まで俺は前座として青森の師匠の独演会には同行していた。高座に登る事は無かったがゲストの師匠や今演奏してくれている津軽三味線の二人の師匠のバチさばきも何度も見ていた。
演奏が終わると会場が割れんばかりの拍手に包まれた。二人が袖に降りて来る。俺と青木さんが
「お疲れ様でした!」
と労うと二人は師匠に
「お先に勉強させて戴きました」
と頭を下げた。師匠も
「いつもありがとうございます! 見事な演奏でした。これで気持ちよく高座に上がれます」
そう言って頭を下げた。その様子を見て、俺は師匠が本当に心の底から津軽三味線が好きなんだと思った。
お茶子さんが椅子を片付けるので俺も手伝う。二人で脇に移動させていた高座を舞台の中央に戻し、めくりをめくる『遊蔵』と黒々と書かれた文字が表れるとのと同時に師匠の出囃子「外記猿」が鳴り出した。客席の温度が一斉に上がるのを感じる。
師匠は出囃子のタイミングを見計らって高座に出て行く。トリの着物は青碧と呼ばれる緑と青の中間の様な地に僅かに細かい縞が入っている。帯は枯茶と呼ばれる濃い茶色だった。この後演じる「百年目」の商家の主を意識していると思った。俺にはここまで、噺ごとに着物を変えるなんて余裕は無い。
師匠はゆっくりと高座に出て行った。その姿は俺からしたら神々しいばかりだ。やがて座布団に座り扇子を前に置いてお辞儀をした。拍手が鳴り止むのを待って
「え~今日の親子会も私の高座が最後でございます。演目は根多出ししてある通り『百年目』と言うお噺でごじざいます。
これは元は上方落語でございましたが、六代目三遊亭圓生師を始め、色々な名人上手が江戸に設定を移し演じて参りました。私もその師匠達に習い演じさせて戴きとうございます」
噺の最初にこう述べると会場一杯の拍手が鳴った。それが終わるのを待ってゆっくりとマクラに入って行く。このあたりの間の取り方が抜群に上手い。これだけのお客の期待を一身に受け止めて、それでいて動じない様は見事なものだ。
「百年目」と言う噺は……。
ある大店の一番番頭・冶兵衛。
四十三になりますが、まだ独り身で店に居付きです。
この年まで遊び一つしたことがない堅物で通っています。
今日も、二番番頭が茶屋遊びで午前さまになったのをとがめて、芸者という紗は何月に着るのか、タイコモチという餠は煮て食うか焼いて食うか教えてほしいと皮肉を言うほど、
小僧や手代にうるさく説教した後、番町のお屋敷をまわってくると言い残して出かけます。
師匠のこの辺りの描写だが、番頭と言う存在が如何に店では大きかったが良く理解出来る。絶対的な権力を握っている存在だという事が納得出来るのだ。
ところが、外で待っていたのは幇間の一八で、今日は、柳橋の芸者や幇間連中を引き連れて向島へ花見に繰り出そうという趣向なのです。
船に乗って目的地迄着いたのはいいが、すっかり酔っ払ってしまい、陸に上がるつもりが無かったのに上がって、扇子をおでこに縛りつけて顔を隠し遊び始めます。
ここでも番頭と言う雇われ人と言うよりまるで主然とした感じが良く出ている。
しかし、悪いことは出来ないもので、そこでこれまた花見に来ていた旦那と鉢合わせしてしまいます。驚いた番頭は
「お、お久しぶりでございます。ごぶさたを申し上げております。いつもお変わりなく……」
酔いもいっぺんで醒めた番頭冶兵衛、逃げるように店に戻ると、風邪をひいたと寝込んでしまいます。
旦那が何と言うか、もうそればかりが気になりろくろく眠れません。
ここで一転、それまでの存在感は消え失せ、雇われ人としての姿になる。見事ななまでの演出だ。
翌朝のこと、番頭は旦那に呼び出されます。
怒られると思い、恐る恐る旦那の前に進み出た番頭冶兵衛でしたが、旦那は
「一軒の主を旦那と言うが、その訳をご存じか」
「いえ」、
「それは、『五天竺の中の南天竺に栴檀(せんだん)と言う立派な木があり、その下にナンエン草という汚い草が沢山茂っていた。ある人がナンエン草を取ってしまうと、栴檀が枯れてしまった。後で調べると栴檀はナンエン草を肥やしにして、ナンエン草は栴檀の露で育っていた事が分かった。栴檀が育つとナンエン草も育った。栴檀の”だん”とナンエン草の”ナン”を取って”だんなん”、それが”旦那”になった。』という。こじつけだろうが、私とお前の仲は栴檀とナンエン草で上手くいっているが、店に戻ってお前は栴檀、店の者がナンエン草、栴檀は元気がいいがナンエン草は元気が無い。少しナンエン草に露を降ろしてやって下さい。子供の頃は見込みがなくて帰そうかと思ってた子が、こんなに立派になってくれて。お前さんの代になってからうちの身代は太った。ありがたいと思ってますよ。だから、店の者にも露を降ろしてやって下さい」
この辺の旦那の描写が圧倒的で、そこに居るのは噺家遊蔵では無く大店の主としか見えなくなっている。
さらに、旦那は昨夜、店の帳面を全て調べた事を告げます。
「ところで、貴方は昨夜眠れましたか。あたしは眠れませんでしたよ。今まで番頭さんに一切を任せてましたけどね、昨晩初めて店の帳面を見させてもらいましたよ。…ありがとう。いや恐れ入ったよ、少しのスキもない。
あたしも悪かったんだよ。お前さん、店に出ればもう立派な旦那だ。ちゃんと暖簾分けをしてやりたいと思っているんだが、お前さんがいるとつい安心でズルズルきてしまった。あと 一年だけ辛抱しておくれ。そうしたら店を持たせて暖簾分けを必ずするから。それまで辛抱しておくれよ。お願いしますよ」
そう言って、一つの過ちも無かった事を告げます。
「自分でもうけて、自分が使う。おまえさんは器量人だ」
と言ってくれたので、番頭は感激して泣きだします。それから冶兵衛の遊びの話しをします。
商売の切っ先が訛ったらイケナイので、商売の金は思う存分に使って欲しいと告げます。そして更に
「ところで何であの時、しばらくぶりなんて言ったんだ?」
「はい、堅いと思われていた番頭がこんな姿を晒してしまったので、ここはもう百年目と思いました」
オチを言った途端、嵐のような拍手が鳴り出す。恐らく俺が聴いた中でも屈指の拍手だと思った。師匠は静かに頭を下げると緞帳が静かにゆっくりと降り出す。師匠は座布団を外し、
「ありがとうございました! ありがとうございました!」
そう言って何回も頭を下げ続ける。俺は今更ながら感激して胸が一杯になってしまった。
やがて緞帳が降り切ると立ち上がった師匠に近づく
「師匠、お疲れさまでした。素晴らしかったです!」
世話役の青木さんも
「師匠、見事でした! 感激してしまいました」
俺は師匠の脱いだ羽織を手に持って楽屋に下がる師匠の後に続いた。
楽屋に入った師匠は着物を脱いて行く。俺はそれを一旦着物掛けに掛ける。先程の着物は既に畳んで鞄にしまってある。
「素晴らしい出来でしたね」
そう言うと師匠は
「そうかい。なら良かったよ。だがお前は噺家だ。只良かっただけじゃ済まないんだぞ。そこを判っているのか?」
「はい。判っているつもりです」
「なら何も言わねえ。結果を楽しみにしてるぜ」
判っているつもりだった。あの噺で師匠が俺に何を伝えたかったか……。
その後は近くの居酒屋で打ち上げになった。そこには師匠と俺の他、世話役の青木さんやお茶子さん。津軽三味線の師匠達。それに色々な雑用をしてくれたスタッフがいた。その他にも後援会の会長や会員が大勢参加していた。師匠はスタッフ皆にお酒を注いで回っている。俺は後援会の人にお酌をして歩いた。そうしたらある女性から
「鮎太郎ちゃん。今回はぁ二つ目で来てくれてぇ嬉しかった! 噺も聴けたしねぇ~」
そんな事を言ってくれた
「でも俺、受けなかったから」
「そんなことはないよ。そんなことはない! あんたは、弟子を取らない方針だった遊蔵師匠が方針を変えるほどの資質だったんだから」
「え?」
「え、じゃねえって! そうなの! ほれ、あんたも呑みんさい」
そう言ってコップに波波とお酒を注ぐと俺に持たせた。俺はこれは断れないと判断してそれを一気に煽った。その後は記憶が曖昧になった。
翌朝、飲み過ぎで痛む頭を抱えて青木さんの運転する車に乗っていた。師匠も青木さんも俺よりも遥かに呑んだのに平気な顔をしている。
時間があったので、駅のお土産屋さんで梨奈ちゃんのお土産を物色する事にした。青森産のりんご「ふじ」の半生ドライアップルをブラックチョコでコーティングした「つまんでリンゴ」と言うお菓子の詰め合わせにした。理由はいかにも美味しそうに見えたのと、師匠が何気なく
「これ美味しいんだよな。確か家族皆好きだったな」
そんなことを言っていたからだ。だから師匠も買うのかと思っていたら、別なものを買っていた。それに青木さんが何やら持たせてくれたから、それ以上の荷物になるのを避けたのかも知れない。
新幹線が走り出すと、景色は白一色になる。この北の国に春が来るには未だ一月以上ある。桜が咲くのはGWの頃だ。師匠は暫く窓の外を眺めていたが
「おう、お前のスマホ貸せ。退屈だから落語でも聴いてる事にした」
そんな事を言ったので自分の鞄からスマホを出してミュージックプレイヤーを立ち上げてプレイリストの落語を表示させた。その演目を眺めながら
「いい趣味してるじゃねえか。暫く借りるぜ」
そう言ってイヤホンとスマホを自分の手に納めて耳に入れようとした時だった。
「そういや、お前ウチの娘といい関係なんだって?」
とんでもない事を言いだした。俺はシドロモドロになりながら
「いや、あのう……いい関係だなんてとんでもない」
「何だ違うのか、じゃあ気がねえのか?」
「いえそんな事はなく……」
「じゃあるのか?」
「あ、は、はい」
「そうかい。ならこれだけは言っておく。あいつは相当なじゃじゃ馬だからな。扱いには苦労するぞ。俺やカミさんに仕えるより数倍苦労するからな。その辺を理解しておけよ」
師匠は知っていたのだ。俺が梨奈ちゃんに気がある事や彼女が何気に俺に色々としてくれている事を。
「知っていたのですね」
「普通気がつくだろう同じ屋根の下で暮らしてるんだし、お前は二つ目になったのにやたらウチに来るし。これは何かあると判るだろう」
「すいません」
「謝る事なんかねえ。だけど付き合うなら上手くやれよ。芸と恋愛は別だから。失恋したからって破門にはしねえ。それだけは覚えておけ」
師匠は、そう言うとイヤホンを両耳に挿して落語を聴き始めた。その後は上野に着くまで黙って落語を聴いていた。
師匠の家に到着すると真っ先に梨奈ちゃんが出迎えてくれた
「お帰り! 思ったより元気なんで安心した」
「立ち直ったんだ。これお土産。大したものでは無いけど」
そう言って「つまんでリンゴ」を出すと
「あ、これ好きなんだ! ありがとう! でも、わたしの好きなのが良く判ったわね」
そう言って喜んでくれた。俺は帰りの列車での事が頭を過ぎったが、梨奈ちゃんには黙っている事にした。
「何となく梨奈ちゃんが好きそうだと感じたんだ」
これぐらいのウソは方便だよなと思う事にした。
「あのね。荷物を整理したら、わたしの部屋に来て」
梨奈ちゃんはそう言って二階の自分の部屋に上がって行ってしまった。俺は師匠の着物や帯、長襦袢などを整理すると二階の梨奈ちゃんの部屋に上がって行った。ドアを軽くノックすると中から
「どうぞ」
返事がしたので、開けて入らせて貰う。梨奈ちゃんの部屋に入るのは久しぶりで、彼女が中学生の頃以来だった。
梨奈ちゃんは自分のベッドに腰掛けていた。薄いグレーの地に青のストライプが入ったブラウスに白地に同じ青の水玉のスカートを履いていた。白いソックスのレースが可愛かった。
梨奈ちゃんは俺の姿を見ると
「ドア閉めて」
そう言って俺に入り口のドアを閉めさせた。そして立ち上がると
「目を瞑って」
まるでお願いをするような言い方をした。俺は言われる儘に目を閉じた。その次の瞬間。唇に柔らかな感触を感じた。思わす目を開けてしまった。すると目の前に梨奈ちゃんの顔があった。
「あん。ちゃんと目を瞑っていないと駄目じゃない」
「これって……」
「約束! この前言ったでしょう。次は唇にしてあげるって」
ほんの軽く触れただけの「フレンチ・キス」でも俺はこの日この時を一生忘れないだろう。
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