第7話
世間では春休みになったので、イベント等が結構あり、俺達みたいな売れない噺家向けの仕事もボツボツ入っていた。今日は郊外の遊園地での仕事で、同じ一門の小金亭明日香と言う師匠の弟弟子のお弟子さんと一緒だ。芸の上では従兄弟になる。明日香と言う名前から判るように、兄さんではなく姉さんだ。だが芸歴は俺よりも遙かに長く、あと二年もすれば真打の声が掛かるだろう。
その遊園地で開かれるお笑いのイベントで一席語るのだ。噺家は俺と姉さんだけで他は漫才とかコントのコンビが出る。芸歴から姉さんがトリで俺は二番目の出番だった。
正直、この前の親子会より遙かに気が楽で、それに楽屋では噺家以外の同世代の芸人と言葉を交わせるのが楽しみだった。そんな男だけの楽屋でも姉さんは人の目も関係無く着替えてしまう。
「気にしてたら何も出来ないよ」
俺は寄席でも女の噺家は男の目をほとんど気にせず着替える事に慣れていたので、何とも思わなかったが、他の芸人達は少なからず驚いたようだ。顔見知りのコントの芸人が俺の所にやって来て
「いや~心臓だなぁ~ 鍛えられているんだな」
そんな妙な感心の仕方をした。
「まあ寄席じゃかなりセクハラまがいの事もされているからね」
姉さんは高校を卒業して某有名な劇団に入っていたのだけど、落語に魅せられて噺家になった人だった。そんな中で師匠の弟弟子の小金亭蔵之介師だけが入門を許してくれたのだと言う。女性とは思えないぐらいに達者な芸を見せる。
俺の出番がやって来た。俺専用の出囃子なんかは無いので適当な音楽に乗って高座に出て行く。高座と言ってもマイクの前に座布団は一枚置いてあるだけだ。
パラパラと拍手を貰って座布団に座り頭を下げる。顔を上げると半分ほどのお客がてんでんばらばらに座っていた。春の風が緩やかに吹いている。そう、ここは野天なのだ。遊園地のイベント広場での会だった。
子供が多いので「初天神」をやる。この噺は飴や団子を食べるシーンがあり仕草で笑わせるので、こんな会場に向いてると思った。
案の定、団子を食べるシーンで笑いを取っる。時間の都合で下げまでは行けないので、父親が団子の密を全て嘗めてしまい子供が泣くので団子屋を騙して密の壷に自分の団子を漬けてしまう。それを貰った子供も父親と同じ事をする。その仕草そのものが下げになっているので、そこで笑いを取り頭を下げて高座を降りた。高座の袖で見ていた姉さんが
「良かったじゃないか。なんかあったのかい?」
興味津々な表情で尋ねて来た。
「楽屋で話しますよ」
俺はそう言って楽屋に戻って着替え始めた。姉さんは、そんな俺を見ながら
「青森の独演会で何か良いことがあったのかい」
どうも噂が伝わっていると思った。
「いえ、色々と師匠に教わった物ですから」
「遊蔵師匠、渋いからねえ。本当はウチの師匠じゃなくて遊蔵師匠に入門したかったんだよね。でもあの当時遊蔵師は弟子を取らなかったからね。諦めたんだ。尤もいまではウチの師匠に感謝してるけどさ」
着物を鞄にしまうと俺は姉さんに近づき
「あの、高校を卒業した娘って何に興味があるのでしょうね」
そんなに深い意味は無かった。そう無かったのだが姉さんは
「え? もしかしてあんた遊蔵師匠の娘さんの梨奈ちゃんに気があるの」
俺の顔にでも書いてあったのだろうか? 簡単にバレてしまった。いや正確には未だ交際してもいないのだが……。
「黙っていないで何か言いなさいよ。そうなんでしょ」
姉さんは目を輝かせて迫って来る。姉さんは劇団に入っていた位だから、かなりの美形だ。それに歳が三十を過ぎて芸も本人も色っぽくなって来たと言われていてファンも急増してるのだ。
「交際はこれからですよ。だから何か良いか、姉さんの意見を聞こうと思って……」
本音だった。出来れば卒業と入学記念に何か買ってプレゼントしたかった。
「へえ~遊蔵師匠がよく許したわねぇ。それはそれは可愛がっていたのよ……あんた、相当期待されているのね」
「そんな事ありませんよ。相変わらず小言ばかり貰っています」
「師匠は小言を落とすのが弟子に対する役目みたいなものだからね。それはしょうがないよ」
「何がいいか……」
「わたしは梨奈ちゃんとはそんなに親しくないから彼女の好みは判らないけど、変に最初にアクセサリーなんか送っちゃうと引いちゃう場合があるからね。そこは気をつけなよ」
「え、アクセサリーは駄目なんですか?」
「まあ一般的にはね。アクセサリーって色々と意味があるからね」
「どんなですか」
「それぐらい自分で調べなよ」
姉さんは呆れて笑った。そんな事をやり取りしている間に姉さんの出番になった。
「じゃ行って来るから」
適当な音楽に乗って高座に出て行った。何をやるのかと思ったら「宮戸川」だった。この噺は男女が雷の夜に親しい関係になる噺で、通常は若い噺家が良く演じる。
姉さんは男の視点から成立している噺を女性の視点からに作り変えていた。何度か聴いた事はあるが、幾度も作り直してほぼ完成した感じがした。
帰り、都内に向かう電車に乗っていると姉さんが
「梨奈ちゃんってさ、物凄く可愛いから狙っていた奴大勢いるんだよね。でも遊蔵師匠の娘さんだから皆我慢していたんだよ。これから嫉妬やら何かで大変だよあんた」
そんな事は覚悟していた。俺に対する攻撃なら何とも思わなかった。梨奈ちゃんも何時か
「街を歩いていてナンパなんて年中だし。タレントの事務所だって言う人からも声を掛けられた事があるよ」
そんな事を言っていた事がある。先の事を考えても仕方ないので話を変えた。
「姉さんもこの所凄い人気じゃないですか」
「そうでもないよ。後援会の会長さんなんか、真打が近いから色々と気をつけなさい。なんて言われているぐらいだけどね」
電車は都内に入っていた。もうすぐ姉さんの降りる駅だった。
「じゃまたね。頑張んなよ」
姉さんは俺にそう言い残して電車を降りて行った。俺は梨奈ちゃんに何をプレゼントするか考える事にした。
姉さんはアクセサリーは最初は駄目だと言っていた。では何が良いだろうか? そんな事を考えていたらメールの着信音が鳴った。見ると梨奈ちゃんからだった。
『仕事終わった? 街まで出てきているので逢えないかな?』
なんて事だ。俺も梨奈ちゃんと逢いたかった。青森から帰って来て以来だった。
梨奈ちゃんが俺の乗っている電車の終着駅の改札で待っていてくれる事になった。駅が近づくにつれ段々ドキドキして来て、落ち着かなくなって来た。師匠の家で逢う時は平常心でいられるのに、この心のときめきと言うか心の揺れ方は今までの俺には無いものだった。
電車が到着して降りて改札に向かう。歩く度に梨奈ちゃんに近づいている事実に心が逸っていた。
改札を抜けた先の地下道の柱の陰に梨奈ちゃんは立っていた。俺の姿を見つけると手を振ってくれた。
「ごめん。待った?」
「ううん。今まで友達と逢っていたから」
梨奈ちゃんはピンクのブラウスを着ていた。後でローズクオーツと言うのだと知った。スカートはベージュでミニスカートから伸びた脚がまぶしかった。でもキュロットだと判った。俺は何を期待していたんだろう……。
歩きながら直接梨奈ちゃんに訊こうと思った。並んで歩きながら
「あのさ、卒業と入学のお祝いを兼ねて何かプレゼントがしたいのだけど、何が良いか浮かばないんだよね。何か欲しいものがある?」
「え、プレゼント!? そんな悪いじゃない。でも、わたしに何か買ってくれるだけの収入があるの? それはとても嬉しいけど……」
「折角だから記念に何か……」
梨奈ちゃんは歩きながら考えていたが
「そうねえ。鞄が欲しいな。大学に通う為の鞄。ブランド物じゃなくて使いやすいものが良いな。しっかりとした作りのものがいいな」
「そんなもので良いの?」
「うん。だってこれから毎日使うものだから、毎日一緒にいられるじゃない」
その言葉がどうのような意味を持つか如何な俺でも判った気がした。その後お茶をしてから鞄を選びに行った。結局、国産の女性用のもので、A4のファイルやノートPCが入るビジネスバッグ風なものにした。手で持つ事も出来るし肩から掛ける事も出来る。女性用なので小物が入るポケットやマチもあった。色は濃い目のベージュにした。
「ありがとうね。この鞄を鮎太郎だと思って使うね」
その後レストランで食べた夕飯は、恐らく人生で一番美味しいと思った。
駅から師匠の家まで歩いていく。既に夜の帳が降りて街の街灯が並んで歩く二人を照らしていた。少し冷えて来ていた。
僅かに手が触れると思い切って梨奈ちゃんの手をそっと握ってみると、梨奈ちゃんもしっかりと握り返して来た。梨奈ちゃんの顔を見ると目が合った。そして微笑んでくれた。
この時、俺は梨奈ちゃんと付き合うと言う実感を感じたのだった。
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