第5話

 口上が終わり緞帳が降りて行く。完全に下まで降りても俺の体は震えたままだった。そんな様子を見て師匠が

「さっさと立たねえとお茶子さんが困ってるだろう」

 そう言って高座を降りて舞台の袖に下がって行った。そうなのだ。この後俺は一席やらなければならない。

 思い直して立ち上がり師匠の後を追った。舞台の袖で袴を脱いて黒紋付きの着流しになる。お茶子さんが高座の座布団を一枚にして、裏を返した。そして袖のめくりを「口上」から一枚めくった。そこには黒々とした寄席文字で「鮎太郎」と書かれてあった。やがて俺の出囃子「小鍛治」が鳴り出した。噺家は二つ目になると自分専用の出囃子を使えるようになる。お囃子に詳しくない俺は何にするか迷ったのだが、寄席のお囃子の師匠から俺に似合ってると言われたのがこれだった。だから素直にこれに決めた。今ではすっかり馴染んでいる。今日の出囃子はあらかじめ師匠が寄席でお囃子の師匠に頼んで録音させて貰ったものだ。勿論別に演奏料を払ってやって貰ったものだ。地方の落語会などでは専用にお囃子の師匠を帯同させる事もあるが今日のような俺と師匠しか出ない会では録音で済ませる事が多い。大抵はCDなどで済ませてしまうが師匠はそれをやらない。それはお囃子も生きているからだそうだ。それにそんな所でケチっては落語界全体の為にならないと常々言っている。

 そんな事より俺の出番なのだ。出囃子を聴きながら出るタイミングを計る。寄席で出るタイミングより少し早く出る。それは寄席の高座よりここの高座の方が広いので座るまで時間がかかるからだ。

 俺の姿が見えると客席から一斉に拍手が鳴る。斜に顔を客席に向けて笑顔を見せる。陽気に見えれば良いのだが……。

 座布団に座り扇子を前に横に置き頭を下げる。扇子の先はお客さんの領域。こちらは俺の領域だ。しっかりせねばならない。

 拍手が鳴り止むのをまって頭を上げる。

「え~先程は頭を下げていたので顔が良く判らなかったと思いますがこんな顔です。どうぞお手に取ってご覧ください」

 この言葉に反応してくれて笑いが起こる。掴みはまずまずだ。

「落語の世界で焼き餅と言うと女性のものと相場が決まっておりますが……」

 噺の枕に入って行く。時間は二十分だ。あまり無駄な枕を振っていると時間が押してしまう。それはこの後の師匠の噺にも影響を及ぼす。それだけは避けたい。

 大店の女将さんが旦那の浮気を疑っていて、出かけてしまった後に飯炊きの権助を呼んで、旦那の後を付けさせる事にする。

 ここで権助の描写で寄席では笑いが起きるのだが今日は何故か少ない。客席がシーンとしている。そんな客席にちょっと焦りを感じる。

「旦那の後を付けるのは構いませんけど、それは普段の手当とは別に下さるんでしょうなぁ」

 落語国独特の訛で権助の言葉を言うのだが、それが不味かったのだろうか、どうも手応えが薄い。自分でも焦りからか噺が走ってるのが判る。

 旦那の後を付けた権助だが直ぐに見つかってしまう。そして旦那から逆に買収され

「ウチの奴にはこの後偶然に山田さんと出会って船宿で一杯やって船遊びをして夜には湯河原に乗り込んだと言っておけ。帰りに何処かで魚を買って帰ればバレやしない」

 と知恵を付けられるが、そこは海の無い田舎で育った権助は魚屋で、めざしとか蒲鉾とかニシンなど江戸の海では採れない魚ばかり買っ帰ってしまう。

 不味い、笑いが起きない。更に焦る。

 権助は旦那に教えられた通りに言うのだが女将さんは信用しない。そこで買って来た魚を出すのだが、江戸では採れない魚や権助が夜ではなく昼のうちに帰って来てしまったので、旦那に買収されたのがバレてしまった。

「お前ねえ、こんな魚は江戸一円では採れない魚だよ」

「女将さんそれは違う一円ではねえ二円貰った」

 殆どシーンとなった客席に向かって下げを言ってお辞儀をするとかなりの拍手を貰った。でも笑いも少なく、客席を暖める事さえ出来やしなかった。最悪だ。俺は駄目な噺家だ。青森まで来て師匠の顔に泥を塗ってしまった。

 やっとの思いで立ち上がり袖に向かう。そこには師匠が次の出番を待って立っていた。俺は袖に下がって師匠とすれ違う時に

「お先に勉強させて頂ました」

 そう挨拶をすると

「おう」

 師匠は短く答えただけだった。高座では師匠の出囃子である「外記猿」が鳴り出していた。緊張感のあるこの出囃子は師匠にぴったりだと思うが、今は一刻も早く自分の楽屋に戻って頭から布団でも被って隠れてしまいたかった。

 楽屋に戻ると着物を脱ぐ。着替えて畳んで鞄にしまう。よりによって師匠との親子会でこんな無様な事をしてしまうなんて。

 暫く呆然としていたら世話役の青木さんが顔を出した。

「師匠の高座を袖から見ていなくて良いのですか?」

 はっとした。そうだ、弟子として袖で師匠の高座を見なくてはならない。勉強になるからだ。それに「崇徳院」と言う噺は俺ら若手が結構多く演じる噺でもある。きっと師匠はそんな事も考えてこの演目を選んだのだと思った。

「すぐ行きます!」

 そう返事をして鏡を見て己の顔を直す。

 袖に行くと師匠は若旦那と熊さんとのやり取りのシーンを演じていた。この噺は、

 若旦那が寝込んでしまったので、旦那様に頼まれて、幼なじみの熊さんが訊いてみると、上野の清水堂で出会ったお嬢さんが忘れられないと言う……つまり恋煩いだったのだ。

 大旦那は熊さんに、そのお嬢さんを見つけてくれれば住んでいる三軒長屋をくれると言う。そこで熊さんはそのお嬢様を探しに出掛けるのだが、腰に草鞋をぶら下げてもう一生懸命だが全く駄目。手掛かりは短冊に書かれた崇徳院の和歌で、

「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の 割れても末に 逢わんとぞ思う」と言う歌のみ。

 女将さんに教えられた通り、往来の真ん中、湯屋、床屋など、人が集まるところで上の句を詠むが、なかなか見つからない。

 なんと三十七軒目の床屋で休んでいると、鳶の頭が駆け込んできて、出入り先のお嬢様が恋煩いで寝込んでいると言うお嬢様の話を始める。

 清水堂で出会った若旦那に会いたいと言う。手掛かりは、短冊に書かれた崇徳院の和歌だと……ついに出会った!

 お互いに見つけたと、互いにこっちに来いと揉合いになり、床屋の鏡を割って仕舞う。

 やはり師匠は上手い。若旦那の気弱な感じが良く出ている。ここをどう演じるかでこの先の現実感に繋がるのだ。余り若旦那をおかしく演じてしまうと、向こうのお嬢さんが一目惚れしたほどの若者と言う感じに思えなくなってしまうのだ。

 師匠は笑いを取ってしかも若旦那の色気を上手く出していた。この辺は俺なんか全く及びもしない領域だと思った。自分の出来が悪いからと言って悲観なんかしていては駄目だと思い直した。

 やがて噺は下げに掛かる

「親方、どうしてだい?」

「なあに、割れても末に買わんとぞ思う」

 下げを言って頭を下げた瞬間、会場中から割れんばかりの拍手が起こる

 師匠はさっと立ち上がるとスーツと下がって来た。袖で俺の姿を見つけると

「楽屋に来い」

 小さな声でそう言って自分の楽屋に下がって行った。その目が真剣だった。

『怒られる!』

 瞬間そう思った。


 高座は緞帳が降りて会場は休憩時間になった。最初は十分だったが俺の噺が少し短かったのと、師匠の噺も予定より早く終わったので都合二十分の休憩となった。会場のロビーでは後援会の皆さんが師匠のCDを売っているはずだ。本当は俺も手伝うはずだったが、師匠に呼ばれので青木さんが

「ロビーは良いから楽屋に行った方が良いよ」

 そう言ってくれたので、礼を言ってそのまま師匠の楽屋に向った。

 楽屋の入り口には師匠の名を染めた暖簾が掛かっていた。それをくぐって頭を下げて

「鮎太郎参りました」

 そう声を掛けると頭の上から

「入れ」

 そう声が聴こえた。

 中に入らせて貰うと師匠は、お茶子さんに手伝って貰って着替えていた。後半では別な着物を着るからだ。俺はお茶子さんに

「俺がやりますから。すいません」

 そう言って変わって貰った。帯を畳み用意された着物掛けに掛ける。師匠は襦袢姿のまま椅子に座ってペットボトルのお茶を飲みそれから

「お前、失敗したと考えているんだろう?」

 師匠は静かに話し出した。俺の態度や表情で判ったのだろう。

「はい、師匠の顔に泥を塗ってしまいました」

 畳の上に座って頭を下げると

「何勘違いしてるんだ。俺はお前に泥なんて塗られていないぞ」

 え、そんな訳はないと思っていると

「あのなあ、今日のお客は俺の客なんだ。俺の噺を年に二回聴きに来ている人ばかりだ。東京だって寄席に年二回来る人なんてそうは居ないだろう?」

「は、はい」

「だから耳が肥えているんだよ。お前は俺の弟子だけど、実力はまだまだ天と地ほどに違う。だから誰もお前に笑わせて貰おうなんて考えていないんだよ」

 師匠は美味そうにお茶を飲み干した。

「じゃあ俺は……」

 呆然としている俺に師匠は

「あのな、噺って言う奴はな、己の了見が出るもんなんだ。話してる奴が心の卑しい奴かどうかが判るんだ。亡くなった五代目小さん師は『心邪(よこしま)なる者は噺家になるべからず』と言っていたぐらいだ」

「じゃあ、お客さんは俺自身の了見を見ていたのですか?」

「ああ、だから下がる時にも拍手が多かっただろう。最初の拍手は期待の拍手。下がる時の拍手はお前に対する今後の期待の拍手なんだ。判ったか」

 俺は、この時本当に師匠の弟子になって良かったと心の底から思うのだった。

 自分の楽屋に戻ると置いていたスマホが鳴り出した。誰からだろうと見ると何と梨奈ちゃんからだった。

「はい、鮎太郎ですが」

『もう休憩かなと思って電話したんだ。どうだった? 青森のお客さんて耳が肥えてるからウケなかったからと言ってがっかりしちゃ駄目だよ』

 梨奈ちゃんはお見通しだった。

「うん。ありがとう!」

『でもきっと鮎太郎の事見て、きっと気に入ってくれていると思うよ』

「うん、そうだと言いけどね」

『大丈夫! 元気だして!』

「ありがとう。お土産買って帰るね。色々あるけど帰ったら報告するから」

『うん楽しみにしてるね』

 梨奈ちゃんはそう言って通話を切った。なんて事だ。親の師匠と同じ了見だったなんて……。

 俺なら心配はしてもメールは兎も角、電話は出来ないと思った。それだけの勇気が湧かない。だから梨奈ちゃんの心使いが嬉しかった。俺の事をそこまで心配してくれる……。そんな人を持てた事が本当に嬉しかった。

 気がつくと仲入りが終わり後半の始まるベルが鳴っていた。後半は後半でやることもある。俺は心を入れ替えて望むのだった。

 

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