第4話
新幹線は宇都宮を過ぎていた。俺と師匠は車内販売の弁当を買ってそれを食べようとして席のテーブルを開いた時だった。
「あ、そう。会の冒頭の挨拶だがな、口上にしようと会長が言ってくれてな、俺とお前で並んで口上をすることになっているからな。着物は色紋付か? 袴は持って来ているだろう?」
え……挨拶って今までは師匠だけだったじゃない……何で今回だけ口上なんだろう。俺は師匠に思わず問い正してしまった。
「あの、袴は師匠の言いつけで旅に出る時はいつも持っていますし、今回は親子会だと言うので黒紋付にしました。でもどうして今回は口上なんですか?」
俺の質問を聞きながら師匠は弁当の蓋を外してどれから食べようか目線を動かしていた。
「あん? 上等だ。うん」
「あの、口上の訳は?」
「想像はつくけどちゃんと知りたかったら向こうで世話役の青木さんか、会長に訊くんだな。なんせ会長の発案だからな」
「ちゃんとで無くても良いんですけど……」
俺の必死の質問に師匠は弁当の焼肉を口に入れながら
「お前が二つ目になって初めての独演会だ。それに今回は俺にとっても初めての親子会だ。そんな所だろう。それから先は知らん」
え、それだけの理由で……俺なんてどうしようも無い弟子なのに……。俺はちょっと感激して食べた弁当の味も全く判らなかった。本当なら師匠と同じ高座に立てるだけで嬉しくて感無量なのに、口上で並べるなんて、そんな事って真打昇進披露まで無いと思っていた。一緒に買ったお茶で無理矢理弁当を流し込んだ。
新幹線は福島に入ると景色は雪一色になり、最初は夢中で見ていたがそのうち飽きてしまった。スマホで落語を聴いていたら師匠が
「何聴いてるんだ?」
尋ねて来たので
「三代目柳好師匠の『居残り佐平次』です」
そう答えると師匠は嬉しそうな表情をして
「いい趣味してるじゃねえか。俺にも聴かせろ」
そう言って右のイヤホンを自分の耳に入れてしまった。モノラル録音だから片方でも構わないのだが、俺は師匠に『いい趣味』と言われたのが嬉しかった。
師匠は録音を聴きながら俺に
「柳好師はなぁ、『歌い調子』と言われているように流れるような語りが特徴なんだ。俺の実の親父が好きでな。生前は追っかけをしていたんだ。だから俺も録音を随分聴いたんだ」
そんな事は今まで知らなかった。思えば稽古と小言以外で師匠と口を利いたのは久しぶりな気がした。
「だが、真似はするなよ」
はっとした。そうなのだ。今まで数多の噺家が柳好師の口調を真似して駄目になっていた。かの談志師も同じ事を本に書いていた気がした。談志師は柳好師のモノマネをして一席やった録音も残っているのにも係わらずにだ。
「はい、判りました」
「ま、おいそれとやろうとしても出来ないけどな。なまじ器用だと始末に悪い」
その事葉が深く心に残った。
列車は定刻より少し遅れたが無事に新青森に到着した。師匠はさっさと降りてホームを歩いていく。俺は幾つもの鞄を持って、その後を追って改札に急ぐ。
改札には後援会の人が待っていてくれた
「遊蔵師匠。お疲れ様です。鮎太郎さんもご苦労様です。車を用意してありますので、ホテルに向かいましょう。荷を解いてから会場に御案内致します」
後援会の役員の方は俺も知っている青木さんと言う青森の支部長さんだ。師匠は挨拶をすると車に乗り込んだ。青森も白一色に染まっていた。
「いや今年は雪が多くて、雪下ろしが大変ですよ。でも昨日から降っていないので助かりました」
青木さんはそんな事を言いながら車をホテルに走らせていた。
「入りはどうですか?」
師匠は切符の売れ方を気にしていた。
「完売ですよ。会場は七百人以上入りますが、全部売れています。立ち見も出るかも知れません。実は、今回は親子会でしょう。あの遊蔵師匠が弟子に取ったのはどんな子なんだろうと皆興味があるんですよ」
確かに今までは師匠の独演会に付いて行っても高座に座った事は無い。前座として、めくりや座布団を返したり。師匠の世話をしていた。今回はそんな事をしなくても良いのだ……あれ、前座を頼んでいないけど、まさか俺がやるのかな? それは構わないけど……。 気にしていると青木さんは
「鮎太郎さん。今回は後援会の女性がお茶子をやりますんで、大丈夫です」
そう言ってくれた。お茶子と言うのは、上方落語の世界では東京のように、前座、二つ目、真打と言う制度が無いので、落語会や寄席での色々な仕事をする人がいない。その代わりに女性がめくりをめくったり、座布団を返したりするのだ。これをお茶子と呼ぶ。
俺はそれを聞いて情けないが正直ちょっとほっとした。
ホテルに到着する。青木さんは俺と師匠とそれぞれ別な部屋を取っておいてくれた。何もかもが今までとは大違いだった。
師匠と俺の荷物を解くと師匠は
「会場に向かうぞ。色々とチェックする事があるからな」
そう言ってまた青木さんの運転する車に乗り込んだ。
おそよ十分ほど乗っただろうか、街中はさすがに雪を掃けているが道路の端にうず高く積まれている。俺の視線が判ったのか青木さんは
「溜まったら海に運んで行くんですよ。この辺りは海に捨てれますけど、海まで遠いと大変ですよ」
師匠はぼんやりと窓の外を眺めていたが
「鰍沢の中で『胸まで浸かる雪の中をかき分け』って表現があるが、こんなに深いとよっぽど慣れていないと女じゃ無理だぜ。鮎、だからお熊はそれだけの年月をあの山里で暮らして来たんだと言う描写なんだ。お覚えておけよ」
「あ、はい」
俺が『鰍沢』なんて噺をやるのはかなり先だろうが、そんな何気ない事も噺の理解に役に立っているのかと思うと俺は落語の深淵を見た気がした。
会場の文化会館では準備が進んでいた。会場の入口に大きな立て看板が立てられている所だった。
『第二十一回 小金亭遊蔵 青森独演会』
と書かれていて、脇に「古今亭鮎太郎出演 親子会!!」と書かれてあった。いよいよここまでやって来たと思うと体に力がみなぎるのを感じるのだった。中に入らせて貰うと師匠は
「席で俺の声をチェックしてくれ」
そう言って楽屋から舞台に向った。俺は誰も居ない会場の座席に向かった。
「まず真ん中で聴いてくれ」
師匠はそう言って色々な声を出した。俺はちゃんと聴けるのでオーケーの返事を出すと
「今度は一番後ろ。それも左右の端で聴いてくれ」
言われた通りの場所で聴いてこれも大丈夫の返事を出す。
「うん。通りは良いみたいだな」
そう言って満足げな顔をした。師匠は何時も新しい会場だとこれをやる。その時の体調や声の調子を見るのだ。これは俺も参考になった。
その他にも準備を整えて行く。やがて開場の時間となってお客さんが入場して来た。その様子を見て俺は黒紋付に袖を通した。その後師匠の着付けを手伝う。師匠も黒紋付だ。袴を穿くと気持ちが乗って来るのが判った。その時、楽屋の鏡の前に置いておいたスマホが鳴った。メールだった。着信を見ると梨奈ちゃんからだった。開けると
「頑張れ!! 七百キロ南から応援してるよ!」
そう書かれてあった。その他に沢山の絵文字もあったが、それは人には見せられない。
チョーンと木が鳴って緞帳が上がって行く。いよいよ生まれて初めての親子会が始まった。俺と師匠は舞台の上に作られた、少し高くなって赤い毛氈が引かれた高座に並んで座って頭を下げている。
「とざいと~ざい。これより第二十一回小金亭遊蔵独演会を開催致します。今回は初めての親子会故遊蔵、鮎太郎口上を申し上げます」
後援会の青木さんが拍子木を打って口上の前フリを言ってくれる。毎回の事なので慣れたものだった。頭を上げてまず師匠が口上を述べて行く
「春と秋の年二回の開催でございますが、今回は早春と言うには未だ雪深い中での開催となります。しかも不肖私めに弟子が出来ました。その者が昨年二つ目となり独り立ち致しました。今回は顔見世と言う事で連れて参りました。どうか、よろしくお願いいたします。何故未熟者故に多少の不出来は暖かく見守って戴きたく存じます。それでは鮎太郎を紹介致します」
師匠の口上が終わって俺を紹介してくれた。顔を上げると一杯になった会場の全ての人の眼が俺を見ていた。落語の会場は演劇とは違って客席も暗くはしないのだ。だから高座の上からお客さんの顔が良く見えるのだった。
「え~紹介されました、小金亭鮎太郎と申します。この度晴れて二つ目となりました。未熟者ですがどうぞ宜しくお願い致します」
そう言って師匠と一緒に頭を下げた。再び師匠が顔を上げて
「どうか、この鮎太郎が一枚看板になれますように、皆々様のご支援を賜りたく存じます。最後に三本締めをお願い致します」
なんて事だ。今回の口上は俺の為にしてくれたのだと理解した。師匠の想いが判り、胸が熱くなった。自然と涙が高座に落ちて行く。駄目だ。そんなに泣いたら毛氈が台無しになってしまう。必死で涙を抑える。会場と師匠は三本締めをやってくれている
「よぉ~シャシヤシャン、シャシャシャン、シャシャシャンシャン」
最後に大きな拍手に包まれながら緞帳が降りた。
「師匠、ありがとうございます! 俺、全く知りませんでした!」
「ばか、泣いてやがる。これから先は己だけだからな。しっかりやれよ。俺の顔に泥を塗っても構わないがセットしてくれた青木さんの顔には塗るなよ」
その言葉を聴いてまた涙が落ちるのだった。
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