第3話
「権助魚」 兎に角週末まで幾日も無かった。俺は師匠に当日の演目を尋ねた。すると
「まず俺が挨拶をして、お前が開口一番で何か演じる。それから俺が出て「崇徳院」をやる。そして仲入りになる。膝には地元の津軽三味線の名手が出てくれる。それから俺がトリで「百年目」を演じて終わりになる訳だ。だからお前はこの二つに被らないように演目を選べ。選べないなら俺が指定するが」
冗談じゃない。師匠に決められてたまるかと焦りながら演目を考える。
「時間はどれぐらいですか?」
「そうだな、十九時開演で二十一時終演の予定だから俺の二つの演目が合計で七十分。津軽三味線の演奏時間が十五分程。仲入りの休憩が十分として、挨拶に五分」
「合計都合百分ですね。残りは二十分と言う所ですね」
「まあ充分だろう」
確かにそれぐらいあれば何とかなる。
「権助魚なんてどうでしょうか?」
「う~ん。船の下りが被るが、まあ良いだろう。寄席なら兎も角、俺の独演会だからな。それに権助ものは地方で受けが良いからな。それにしな」
こんなやり取りで演目が決まった。師匠は先方に直ぐに電話をして演目と順番を伝えていた。
「パンフとかポスターとかあるからな」
「今から間に合うのですか?」
「なんでも、お前の演目の所だけ抜かして作っていたらしい。直ぐに入力して印刷するとさ。それよりドジするなよ」
そうだった。事の重大さに忘れていたが、これが一番大事な事だった。
「ギリギリまで稽古しておけ」
師匠に、そう言われて部屋から下がって来ると、寄席に行く前の小ふなが廊下を雑巾がけしていた。
「兄さんチャンスですね」
確かに他から見ればそうなのだろう。実際、ドジをしても命までは取られないだろうが、下手したら破門まであるかも知れない。
「失敗して破門になったらお前に『鮎太郎』をやるよ」
「え、そうですか、じゃあ僕が二代目ですね」
「そうならないように頑張るがな」
兎に角、何処かで稽古をしたかった。師匠の家を出て適当な場所を探す。歩きながらでもブツブツと噺をさらって行く。「権助魚」とは下男の権助が旦那の後を付けるように女将さんに命令されたのに旦那に見つかって逆に旦那に買収されて旦那に言われた様に女将さんに嘘をつくのだが、その時に魚釣りをやっていた事になっているので魚屋で魚を買うのだが、それが江戸では絶対に見る事が出来ない魚ばかりなので女将さんが怒りだしてしまうと言う噺で、ちゃんとやれば笑いの多い噺だ。
結局近くの公園のベンチに座って噺の続きをやる。通り過ぎる人が変な顔で俺を眺めて行く。半分以上は俺を哀れんでいる。そう、頭のおかしくなった男だと思われているのだ。もう慣れっこだから何とも思わないが噺家になった最初はかなり抵抗があった。きっと小ふななんかは、苦闘している頃だろう。まあ苦労すれば良いさ。誰でも通る道なのだから。
噺自体は前に師匠の兄弟子の師匠に稽古をつけて貰っていて、噺そのものはスムーズに口から出て来るが、それだけだ。自分の工夫と言うものが無い。ここらへんが若手の苦労する所だ。
夢中で首を左右に振って噺に夢中になっているといきなり目の前が真っ暗になった。一瞬唖然とすると
「だーれだ」
耳慣れた声がした。その途端妙な安心感が体を貫いた。
「梨奈ちゃんじゃないですか。驚きましたよ」
梨奈ちゃんはその声を聞いて俺の前に回った。その姿は高校の制服姿だった。
「あれ、学校だったのですか?」
「ウチの学校は今日、卒業だったんだよ。高校としては遅いけどね」
確かに三月も半ばを過ぎているから遅い。でもそのおかげで良いものを見られたと思った。梨奈ちゃんの最後の制服姿は眼福ものだからだ。
濃紺のセーラー服に真っ赤なリボンのようなタイが良く似合っていた。スカートを少し折り返しているのかやや短めになった裾から白いソックスを履いた綺麗な足が伸びている。
「何見ているの?」
「いや、最後の制服姿だと思ってね」
「ちゃんと記憶にとどめた?」
「うん。記憶したよ」
「じゃあ、卒業記念にパフェ奢って!」
そんな事なら安いものだと思った。俺はこの時彼女が手に何も持っていない事に気がついていなかった。
行きつけの喫茶店で俺はコーヒーを梨奈ちゃんはチョコレートパフェを頼んだ。
「道草なんかして良いの?」
俺の質問に梨奈ちゃんは
「道草なんかしてないよ。だって一旦家に帰ったもの」
「え、それって……」
梨奈ちゃんはわざわざ俺の事を探してくれていたのだと悟った……。
「権助魚やるんだって?」
梨奈ちゃんの声で我に返る。
「うん。さっき決めたんだ」
「ふう~ん。後で聴かせてね」
梨奈ちゃんはそう言って美味しそうにチョコレートパフを平らげた。
梨奈ちゃんを師匠の家まで送ってそのまま自分の家に帰った。やることは稽古のみだ。ここで認められれば、梨奈ちゃんと晴れて交際が出来る。それは俺にとって夢にまで見た事だから。
瞬く間に土曜になってしまって、俺は自分の高座用の着物や帯、風や曼荼羅(扇子と手拭いのこと)を入れたカバンを下げて師匠の家に向った。
予定よりかなり早く家に到着すると、朝が早いのにも係わらず小ふなは来ていたし、梨奈ちゃんや女将さんも起きていた。だが師匠は多少イラつき気味で
「遅えぞ。気を利かせてもっと早く来い」
そう俺に小言を言った。でも時間より三十分は早いのだが……。
師匠はタクシーを呼んでさっさと乗り込んだ。俺は師匠の鞄と自分の鞄を持って後から乗り込む。ドアが閉まると窓を開けて見送りに出て来てくれた女将さんや小ふな。そして梨奈ちゃんに
「それじゃ行って来ます」
そう言うと女将さんが
「鮎太郎、師匠の世話お願いね」
そう言うので、その言葉に頷くと車は発車した。
東北新幹線なら今は東京から乗り込むのが普通なのだろうが、師匠は必ず上野から乗り込む。一度聞いて見た所
「東北線は上野から始まるんだ」
そんな答えが返って来て、驚いた事がある。上野に停まらない列車もあるのだが、それには乗る事が出来ないと言う事なのだ。
タクシーを上野駅で降りると師匠はさっさと先に歩いて行ってしまう。俺は師匠の財布から運賃を払って鞄を持って後を追う。何にしろ切符も俺が預かっているのだから、改札を通れない。果たして師匠は改札の前で待っていた。
「遅えぞ。供は先を歩くもんだ」
確か、権助提灯と言う噺でそんなセリフがあった気がした。
新幹線に乗り込み席に座る。師匠は何とグリーン車を取っていた。実際はマネージャーが取ったのだが、まさか俺の分もグリーンだとは思ってもみなかった。
「二つ目だって、今度はちゃんとゲストで出るんだ。これぐらい当たり前だ」
その言葉に俺は、心に熱いものがこみ上げて来るのを感じた。これはやらねばならない。そう固く決意したのだった。
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