第2話

 自分の部屋で、ベッドに寝転がりながら仕事の予定を書いた手帳を取り出して確認をする。やはり今週の末は何も入っていなかった。同期の二つ目との落語会は今月は終わってしまっているので来月までは無い。昨日電話があってのでネタだしは済ませていた。来月四月の演題は先日に師匠から「上がり」を貰った「佃祭」だ。本当は真夏の噺だが、もう春なので良かろうと思ったのだ。仲間の三遊亭圓才なんかは寄席で顔を合わせた時に

「へえ~結構大根多(ねた)やるんだね」

 そんな事を言って驚いていたが自分だって

「俺は『青菜』さ」

 そう言って涼しい顔をした。それってお前の師匠の十八番中の十八番じゃないかと思って顔を見ると圓才は

「稽古はつけて貰ってるからさ。それにこんな仲間だけの会でなければ出来ないだろう」

 そんな事も言った。確かにそれは言えていて、俺だってちゃんとした会なら、もっと練り込んでからでないと、とてもじゃ無いが怖くて出来やしない。

「楽しみにしてるぜ」

 圓才はそう言って楽屋を後にした。

 それを思い出して、改めて予定を見ると、来週は小さなイベントの司会があったり、スーパーの客寄せの仕事があったりしているが今週の週末は何もなかった。実家住まいだから飯だけは食べさせて貰えるが、親からは

「ちゃんと収入が入ったら食い扶持入れなさいよ」

 と言われている。そこで俺は毎月一万円だけは最低入れるようにしている。もっと稼げるようになれば多く入れようと思っているのは言う間でもない。

 ため息をついてベッドに座りながら、「佃祭」をさらっていると携帯が鳴り出した。着信を見ると師匠からだった。急いで出ると

「鮎太郎か? 暇なら今すぐ来い!」

 それだけを言うと通話を切ってしまった。こっちが暇でなければどうなるのだろうかと思いながら出かける支度をする。


「おはようございます」

 師匠の家の裏口の戸を開けながら挨拶をする。いつもなら小ふなが居るのだが今日は出て来なかった。何か用事でも言いつけられて出ているのかと思って家の中に入らせて貰う。 俺の声を聞きつけて梨奈ちゃんが二階から降りて来た。この前のキスを貰ってからまともに目を合わせられない自分が情けない。

「最近冷たいのね」

 なんてことを言うのかと思うが意識してしまってるのは事実なので何も言い返せない。

「小ふなは何処かに行ったのですか?」

 そんな関係ない事しか口をついて出ない

「小ふなちゃんは今日から寄席よ正式に前座として出る事になったのよ」

「ああ、そうですか、そうか寄席か」

「だからお父さん一人だからね」

 と言う事は小言かも知れなかった。こちらに覚えがなくとも小言のネタは無尽蔵にある。

「あたしがあなたにキスしたことがお父さんにバレたのかも?」

 梨奈ちゃんは楽しそうな目をしてそんな事を言う。

「まさか……」

「冗談よ。なんだか知らないけど怒られて来なさい。小言は慣れているでしょう」

 そんな梨奈ちゃんの変な応援を受けて俺は師匠の部屋に向かった。手前の茶の間には女将さんがテレビを見ながら煎餅を食べていた。俺の姿を見つけるなり

「鮎太郎こっちおいで」

 俺を呼ぶので茶の間に入ると

「お茶飲んで行きな。多少落ち着くから」

「ありがとうございます」

 ありがたい、でも女将さんがこんな事を言うなんてやはり小言なのか? それもかなり怒ってるのかも知れない。

「師匠の前でもちゃんと落ち着いているんだよ」

「はい、判りました」

「よし、なら行って来なさい」

 やはり親子なのだと思った人間の芯の部分が梨奈ちゃんと女将さんは同じなのだ。

「鮎太郎参りました」

 部屋の前で中に居るはずの師匠に声を掛ける

「入れ」

「失礼します」

 膝まずいて襖を開けると師匠は文机で何かを書いていた。

「ちょっとこれ書いちゃうから待っていろ」

 師匠は俺の事をチラッと見るとまた机に向かって書き始めた。

 暫く正座してそのまま待っていると、終わったようでこちらを向いてくれた。

「呼びつけたのはな、お前今週の末は用事あるか?」

 いきなり本題に入ったと思った。

「いいえ、今週は何もありません。暇なんです」

 本当の事をそのまま答えると

「芸人が土日に暇なんてのは洒落にならねえな。なら俺の鞄持して旅につき合え」

 俺も前座の頃は良く師匠のお供に全国を一緒について回ったものだった。

「小ふなは?」

「寄席に出る事になったからな。なるべく休ませたく無いんだ。色々と寄席のしきたりを覚えなくてはならんしな。だからお前が暇ならと声を掛けたんだ」

 そんな訳だったとは知らなかった。もとより師匠の芸を間近で見られるなら俺としても願ったりだった。

「また師匠と一緒に旅が出来るなんて嬉しいです。それで何処に行くんですか」

「ああ、青森だ。土曜の夜の高座だ。その夜は向こうに泊まって翌朝帰る」

 青森と言えば、師匠の後援会の会長の出身地で、年に二回師匠の独演会を行っている。

「いつもの独演会ですか?」

「ああ、そうだ。春の独演会だな。いつもよりちょっと早いがな」

 この独演会は師匠も力を入れている会で、それを間近で見られるのは嬉しかった。それに毎回ゲストが豪華でそれも楽しみだった。

「今回は誰がゲストなんですか」

 俺はこの時本当に何気なく言ったつもりだったのだが、師匠はとんでもない事を口にした。

「お前だ」

「え?」

「わからんか、つまり俺とお前の親子会だ」

 とんでもないと思った。古典落語の名手で、日本全国何処でも歓迎される師匠と、やっと二つ目になったばかりの俺とでは例え親子と言えども、とんでもないと思った。

「無理ですよ師匠!」

「もう遅い、先方には連絡しちまった。まあせいぜい頑張るんだな。土曜の朝に新幹線で向かうから朝早くここに来い」

 本当にとんでもない事になった。実際は師匠も俺も同じプロダクションに入っているから通常ならマネージャが一緒に来るのだが、今回は同行しないと言う。つまり本当に「二人旅」なのだった。

 師匠の部屋から出て廊下を歩いていると茶の間では女将さんと梨奈ちゃんがお茶を飲んでいた。俺の姿を目にすると目線で座るように促す。俺は仕方ないので導かれるように二人の斜め横に座った。

「お父さんのサプライズ驚いたでしょ」

 梨奈ちゃんが何故か嬉しそうに言う。

「サプライズなんてもんじゃ無いですよ」

 そう答えると女将さんが

「鮎太郎、訊きたいんだけどね。何でもこの子がこの前のホワイトデーにお前に頬にキスされたって言うんだけど、お前本当にそんな大胆な事をしたのかい?」

 はあ? それ逆でしょう! されたのは俺ですよ。

 口元まで言葉が出掛かったが横目で梨奈ちゃんを見ると少しだけ目が真剣だった。

「親のあたしとしては、この子も今度大学生だから恋人の一人ぐらい居ても構わないんだけどね。師匠がなんて言うかしらねえ……」

「俺は、昔から梨奈ちゃんは可愛いと思っていましたし、出来れば交際したいと……」

 もう破れかぶれでとんでもない言葉が口から出て来る。こんな時俺ってやはり噺家だったのだと思った。

「あれ、本気なのかい。梨奈はどうなの?」

 女将さんに返事を振られた梨奈ちゃんは

「鮎太郎の事は嫌いじゃないけど、将来性の無い人には嫁ぎたく無いしねえ……」

 そう言って横目で俺を見た。

「なら、今度の親子会で決めようか。ちゃんと出来て、贔屓筋にも好評なら認めるし、駄目な噺家との評価なら梨奈は嫁にやらないし、勿論交際も認めない。というのはどうだい」

 これは受けて立たないと男としてそして噺家としてならないと思った。

「じゃあ、本当に今度の親子会で良い評判を戴けたら梨奈ちゃんと交際出来るのですね」

 女将さんに確認すると

「ああ、あたしが認めるよ。師匠にはあたしからちゃんと言って聞かせるから」

 それを聞いて俺はちょっと安心した。と言うのも師匠がこの世で唯一頭が上がらないのが女将さんなのだ。


 師匠の家を後にして歩いていると、後から梨奈ちゃんが追っかけて来て

「頑張ってあたしを貰ってね。上手く行ったら今度は頬じゃなく口にしてあげる」

 そう言って俺の腕をギュっと抱きしめたのだった。これはやらずには、おられないと思ったのだった。

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