第2話 人待ちの夜

 手の中の狐面の感触。それだけが、少女にとって縋るべきよすがだった。


 生者のためではない祭り。年に二夜、現世に戻った死者の魂を慰めるための祭りの夜。言葉を紡ぐことのない死者に混じって祭りに興じるのなら、生者は決して言葉を発してはいけない。

 現世うつしよ幽世かくりよが、僅かに重なる夜。現世うつしよ幽世かくりよに傾く夜。それはとても不安定で、ほんの僅かなきっかけで、その均衡を崩してしまう。

 だからこそ、死者に混じったとしても交わってはならない。重なった互いに、干渉してはならない。生者はあくまで生者で、死者はあくまで死者なのだから。


 互いに言葉を交わさない。それがこの祭りの、決して犯してはならない絶対のルール。


 禁を犯せば、罰が下る。

 死者に触れようとした生者は現世うつしよから弾かれ、しかし幽世かくりよに迎えられることもなく、狭間を漂うことになる。

 それでも少女は──禁を犯してでも少女は、伝えたかった。失われた大切なひとに。誰より愛しいひとに。

 今でもあなたを愛していると。たった一言、己の想いを伝えたくて。

 少女には渡れなかった川の向こうから還ってきた彼に、それを伝えた。

 そうして、罰を受けたのだ。


 気が遠くなるほど彼方に過ぎ去ったあの夏の日に、少女は世界を踏み外した。


 現世うつしよとのつながりを失い、死者として川を渡ることもできず、狭間を漂う、ひどく不安定な存在に成り果て。

 それでも少女は、ここに縛られている。

 夏祭りの最中、禁を犯し現世うつしよにいられなくなった少女は、現世うつしよ幽世かくりよの重なる夜だけ、かつての姿、かつての存在を取り戻す。

 そうして二夜、夏祭りの囃子の中、低い喧騒の外で、愛しい姿を探すのだ。


 参道を歩く人波、そこに愛しい相手の姿を探していた少女は、不意にその胸に抱きしめていた狐面を見つめた。

 遠い夏の日、彼女の手に残された狐面。その向こうに、その持ち主だった青年の、儚くて哀しげな、優しい笑顔を見る。

 あの微笑を、二度と見られないかもしれない。あのぬくもりに、触れることは二度とできないのかもしれない。そう思うと恐ろしくて、足元から世界のすべてが崩れてしまいそうな不安に襲われる。


 すでに少女には、立つべき世界などないのに。


 手にした狐面を、食い入るように見つめて。少女はその目元に涙を滲ませた。

 胸のうちにいっぱいに詰まった不安があふれ出るように、涙が零れそうになる。

 その、寸前。目前に、ひとの立つ気配がした。

 はっとして、顔を上げる。

 淡い期待は、しかしあっけなく砕かれた。

 彼女の前に立っていたのは、彼女が求め続け、待ち続けた相手ではなく、初めて見る、生者の少年だった。


 夏の夜の、下がりきらない熱気の中、少年は額に汗を浮かべ、肩で息をしていた。乱れた呼吸を整えるための数秒の間をおいて、少年は彼女に向かって口を開いた。

 咄嗟に、少女は手を伸ばした。言葉を放とうとした少年の口元に、そっと指を当てる。

 凍りついたように動きを止める少年が、その目を大きく開いた。その瞳に映りこむ自分を見つめながら、少女はゆるりと頭を振った。


 声を発してはいけない。言葉を紡いではいけない。この場所では。この空間では。


 夏の二夜。死者のための夏祭り。現世うつしよ幽世かくりよの重なる、この空間。

 この時間、この空間を支配するかに、生者はその存在を知られてはならない。知られたら、攫われて、戻れなくなる。

 彼女のように。


 少女を見つめて、少年はその瞳に、言葉よりも雄弁な感情を映した。

 それを見て、少女は微笑む。少年の瞳に、哀しげに、儚げに、それでも優しく微笑む少女の顔が写りこむ。

 それは、あの日、少女が見た青年の笑みに、とてもよく似ていた。

 そして少年は、かつての少女に似ているのだろう。

 夏祭りの禁を知っていながら、川を渡ってしまった愛しいひとの姿を探し、伝えられなかった想いを伝えるために言葉を紡いだ少女と。


 衝動的な感情に突き動かされ、少女に向けて言葉を放とうとした少年は、きっとあの時の少女と同じ愚かさを持っていて。

 だからこそ少女は、少年に自分と同じ行いをさせてはならないと思った。

 少女はあの夏の行いを後悔はしていないけれど。

 少年の抱く衝動が、一時のものであると分かったから。

 いま、彼女に向けて言葉を紡ぎ、彼女と同じくあわいに囚われれば、少年はいつか、その行いを悔やむだろう。


 ここはあわい。光と闇の、現世うつしよ幽世かくりよの、生者と死者の。本来なら確かなはずの境界が、とても淡くなってしまった狭間。

 ここに囚われてはいけない。

 あなたは帰りなさい。

 音にせず、唇だけで紡いだ言葉を、少年に向ける。その唇に当てていた指を下ろし、少年の肩を押す。


 ここにいてはいけない。自分に関わってはいけない。──囚われてはいけない。


 あなたは還りなさい。あなたの還るべき場所へ。

 少年はなにかを言いたげに、表情をゆがめた。そんな少年へ、少女はもう一度、無言のままに頭を振って、踵を返した。

 ずっと、その手に持つばかりで、その胸に抱くばかりで、一度も被ることのなかった狐の面を、そっと被る。

 そうしてそのまま、参道の人波にその身を紛れ込ませた。


          †††††


 何処からともなく聞こえる祭囃子。低く沈む喧騒。口を開くことなく、無言で歩く人々。その間をたゆたうように歩いていた青年は、視界の先に夕焼けの色を認めて足を止めた。

 夏の夜。祭提灯のともった夜の中、それはすでに、空の何処にも残っていない色の名残のように、彼の視界を掠めて消えた。

 見失った色を探して、青年は人波を掻き分け、走り出す。


 夕焼け色の帯。宵空の色の浴衣に合わせて、遠い夏の日、彼女の身を飾っていた。


 白い桔梗の花の柄。夕焼け色の帯を締めて。彼女を置いて川を渡ってしまった彼を探して、見つけてくれた彼女。迷うことなく手を伸ばし、彼の手を掴んだ。夏祭りの禁を知っていて、それでも彼に向けて、言葉を紡いだ。


 あの声を、忘れない。


 ずっと、探していた。

 禁を犯したことで、現世うつしよからも幽世かくりよからも弾かれてしまった彼女を。

 人波の隙間、夕焼け色の帯を見つける。

 背中に流れる艶やかな黒髪。その頭に、狐の面。

 あの夏の夜、彼が渡した、狐の面。

 手を伸ばした。彼女へと。宵の空の色の浴衣、その肩を掴む。

 驚いたように振り向いた彼女の目が、大きく見開かれた。

 驚いた顔が泣きそうな笑顔に変わる。


 愛しい少女を、青年は強く強く、抱きしめた。

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祭囃子の夜 @aoi-hitoha

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