祭囃子の夜
葵
第1話 慰霊の祭り
それはただ、夏祭りと呼ばれていた。
由来も来歴も知らない。子供にとっては、夏の盛りの夜にたった二晩、神社の境内で行なわれる非日常。それで充分だったし、実は大人にとってもそれで充分なのだろう。
それが非日常であり、その祭りが人間のためのものではないのだと、それさえ理解していれば。
†††††
祭囃子が響いている。決して大きな音ではなく、けれど確かに存在を主張するように。年に一度、その二夜にしか耳にすることはないのに、耳に馴染む心地いい音。その音を聞くだけで、わけもなく心が浮き立つ。
けれど、その囃子を奏でるモノを、誰も知らない。
どこかから聞こえる囃子。神社の境内の何処かから聞こえるのは確かなのに、何処を探してもそれらしい楽団はいない。音の強弱さえ、よく聞き分けられない。何処で聞いても、少し離れた場所から聞こえてくるように聞こえて、音を辿っても何処にも辿り着けない。
そうして音源を捜す子供に、親や祖父母は言うのだ。祭囃子の奏で手を探してはいけないよ、と。
どんなに探しても、見つけられない楽団。音に誘われるように歩いても、何処にも辿り着けずに彷徨うだけ。けれど時々、なんの気まぐれか、見つけてしまう子供がいる。見つからないはずの奏で手を。
見つけてしまったら、その子供は帰ってこない。
だから、夏祭りの囃子の元を探してはいけない。あれを奏でているのは、見つけてはいけない存在なのだから、と。
少年も、毎年祖母にそう言われてきた。
囃子の奏で手を捜してはいけないよ。屋台の売り手と言葉を交わしてはいけないよ。夏祭りの夜は、誰とも話してはいけない。言葉を交わしてはいけない。そこは、交わってはならないものたちが重なる空間だから。
重なったとしても、交わってはならない。その夜は、ほんの僅かに重なって、重なっただけで離れていくもの。交わってしまったら、あちら側に呼ばれてしまう。手招かれ、手を取られ、連れて行かれて戻れなくなる。
お前はまだ、あちら側に行くには早いからね、と。
毎年のように、祭りの前にはそう言い含められた。
あの夏祭りは、わたしたちのためのものではないのだからね。
聞かせるともなしに呟いた祖母の声が、耳の奥に残っている。
†††††
夏の盛りの二夜。にぎやかに催される祭り。参道の両脇には種々の屋台が並び、境内は人影で溢れる。
それは静かな祭りだ。屋台の呼び込みの声もなく、子供のはしゃぐ声もない。溢れるほどの人影は、誰一人として口を開かず、しかし祭囃子とともに密やかなざわめきが空間に満ちている。誰もが口を閉ざしているのに、誰もが低くさざめいているような、それは奇妙な風景。
けれど、その奇妙さを理解できない幼い子供には、それはただ心躍る祭りの夜。
三年前、少年は祖母に手を引かれ、初めて夏祭りにやってきた。
綿菓子、カステラ焼き、飴細工、型抜き、射的、金魚すくい。
左右に並ぶ屋台のすべてがものめずらしくて、ずっときょろきょろと周囲を見回していた。夏祭りの、日常とは違う特別な雰囲気に、すっかり興奮していたのだ。
そんな少年の姿を目を細めて見ていた祖母は、今はもういない。
少年はひとりで夏祭りにやってくることを許される歳になり、祖母は昨年の秋に他界した。祖母を亡くして初めての夏祭りを、少年はひとり、はしゃぐでもなく歩いている。
低いざわめきを内包しつつ誰もが無言のひとごみの中、手を引いてくれる人を失った少年は、喪失感を抱きながら歩いていた。
年に一度聞くきりの、なのに耳に馴染んだ祭囃子。その奏で手を捜そうとした日が遠い昔のように思える。本当はほんの三年前。けれど決して巻き戻らない時間の向こう、断絶された過去の中で、優しく笑っていた祖母。
祭囃子の奏で手を捜してはいけないと、諭してくれたひとはもういない。
不意に、どうしようもなく寂しくなって、少年は人波から抜け出した。
屋台の並ぶ参道を逸れ、低いざわめきと祭囃子の満ちる静謐な境内を駆ける。今より幼かった頃、囃子の奏で手を捜してそうしたように、ただ囃子の音に耳を澄ましながら。けれど今の少年は、囃子の奏で手を捜すわけではなく、ただ誰かを探して──誰を探せばいいのかも分からないまま、ただ誰かの姿を求めて、走った。
そうして、少年は彼女を見つけた。
境内に飾られた祭提灯、そのほのかな明かりと闇の溶け合う境界。
宵の空の色の浴衣を着た少女が、佇んでいた。
背中まである髪は濡れたような漆黒。闇に浮かび上がるような白い肌。ほのかに赤みの差した頬と、さくらんぼのような唇。細い体を包む宵空の色の浴衣には、白く桔梗の花の柄。夕焼け色の帯を締め、白い腕は狐の面を大事そうに抱きしめている。
それは、屋台で売られているような安っぽいセルロイドの質感ではなく、和紙のようなざらついた、ユーモラスなデザインなのにじっと見ているとぞっとするような、狐の面。
その面を抱きしめて、少女は人待ち顔を寂しそうに曇らせている。
その切なそうな顔に、惹きつけられた。
気づけば少年は足を止め、少女を見つめていた。
狐の面を抱きしめて、切なそうに参道にひしめくひとを見ている。その中に、たったひとりの誰かを探して。
彼女の寂しさをやわらげたい。不意に、そんな衝動に駆られた。ほんの一時でも、一瞬でもいい。彼女の切なさをやわらげたい。彼女を捕らえているなにかしらの感情から、解放したい。それが無理でも、せめて一瞬、その感情を忘れさせてあげたい。
理由の分からない衝動のような感情に、少年は少女に向けて踏み出した。
声をかけようと口を開いた、その時。
その肩を、強く引かれた。
反射的に振り向くと、哀しそうな目をした祖母が、立っていた。
ばあちゃん、と、呼びかけようとした少年の唇に、細い指が当てられる。目を伏せて首を振る祖母に、言わんとしていることを悟って、少年は口を閉ざした。
夏祭りでは、決してなにも話してはいけないよ。
かつて祖母に言い含められた決まりごと。
夏祭りのその夜、神社の境内では、決してなにも話してはいけないと。誰かに話しかけてもいけないし、独り言を言ってもいけない。言葉を発してはいけないのだと。
それは、決して破ってはいけない約束事。破れば二度と、戻れなくなる。
御伽噺じみた脅しとともに指切りをした記憶が甦る。同時に、祖母が昨年の秋、帰らぬひととなったことも。
どうして、と、視線だけで問う少年に優しく笑んで、祖母は少年のその手を取った。いつかの夏の日、そうして祭の参道を歩いたように。
祭囃子と低いざわめき。奏で手のいない囃子と、その内容を聞き取れないざわめき。その中を、祖母は少年の手を引いて歩く。無言のまま。
少年は、そんな祖母を見上げた。確かに繋いでいるのにその感触のない手を。強く強く握っても、そこに祖母がいると感じ取れない、あまりに空虚な、その存在を。
その肌で感じ取って、少年は理解した。これは死者のための祭りなのだと。
あの夏祭りは、
いつか、誰もが渡ることになる川の向こう側。その川を再び渡り、夏の二夜、返ってきた魂たちのための、これは慰めの祭り。
感触のない祖母の手に引かれながら、少年は背後を振り向いた。もう遠くなった、明かりと闇の交わるそこに、少女は変わらず佇んでいる。立ち尽くすように。
祖母は、有無を言わさぬ力で、少年の手を引き歩き続ける。手を取られ、抗えない力で引かれながら、少年は少女の影を見つめ続けた。その姿が闇に溶け、祭りにざわめく人波の影の向こうに見えなくなるまで。
そうして、参道にひしめく人の波に戻り、その波を縫うように歩き、鳥居の下まで来た時、祖母が手を離し、少年の背を押した。無言のままの動作には、しかし言葉では言い表せないほどの優しさと思いやりが満ちていた。
押し出された少年は、参道のひといきれから離れ、鳥居をくぐって石段に足をかけた。一歩二歩、石段を降り、振り向くと、祖母は優しい笑みを湛えたまま少年に向かってひとつ頷くと、踵を返して参道へと戻っていった。
あるはずのないざわめきと、奏で手のいない祭囃子に満ちた
その後ろ姿を見送って。
その影が、参道の人波に溶け切った頃。
少年は決意に表情を改めると、唇を引き結び、駆け出した。
数段降りた石段を一息に登り、鳥居をくぐり、参道を避けて境内を走る。灯りと闇のあわいに佇んでいた、少女の下へと。
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