第七章
第七章
「しかし、彼がああいう行動を取ったのは、想定外でした。人間というものは、時おり自分の損得を忘れてしまうのでしょうか。多分、その結果として自身が損をすることは、頭になかったのではないかと思いますよ。」
と、言いながら懍は頭をかじった。懍が頭をかじるなんて、滅多にないことである。大体のことは予測してしまうし、できることであればそのまま実行し、できないことであれば、対策を考えてその通りに行動してしまうのが、懍であるからだ。そのときには、ちゃんと誰が得をし、誰が損をするのかを考えてから実行するわけで、その中には、自身の損得もしっかり含まれる。
「あたしもおもいつかなかったわ。まあ、鈴花ちゃんが心配だから声をかけようとは思ったけど、まさか部屋の中に入って言葉交わして、なんてことはできなかったわね。」
恵子さんも、そういう感想をもらす。一連の騒動が片付いて、食堂に帰ってきたのは、懍と恵子さんだけであった。
「そうですね。大体の人は、暴れるのを止めようとするために、感情的になったり、時には体罰を加えたりするでしょうね。あるいは、女性であれば、わざと子供っぽく接したりとか。しかし、彼はどちらもしませんでした。それで、彼女を止めることに成功したんだから、古川さんも脱帽するのではないかな。」
「そうね。涼さんみたいな人じゃないと、そういうテクニックは持ってないわよ。てか、聞いたのかしらね。水穂ちゃん、涼さんに。」
「可能性はあるかもしれないですが、聞いただけでは実行できないのが人間というものですから、そこを考えると、彼の持っていた能力だったのだと思います。新しく習ったことを直ちに実行するというのは、本人の能力もある程度は必要になりますからね。」
「となると、やっぱり天才と言えばいいのかしら?」
「そうですね。そう認めざるを得ません。」
懍と恵子さんが、そういう話をしている間、隣の席で聞いていた蘭は、多分これ、出身階級のせいで身に付いたのではないか、と思った。でも、それを言ったら、また恵子さんが、怒るかもしれないのでやめにした。
「それよりも、教授。」
蘭は自分が抱えている心配事をいってみる。
「杉ちゃんはどうしているんでしょう?」
「杉三さんなら、鈴花さんと一緒に部屋に残ったままでいますよ。多分、当分出てこないのではないですか。」
「また迷惑かけたりしないですかね?」
「いや、杉三さんを止めるには、相当技術がないとできませんよ。甚大な損害を与えるわけではないのなら、無理矢理動かさない方がよい場合もあります。人間であって、家畜ではないのですから、すぐには従いませんよ、あの人は。そのあたりどうさせるかの判断は非常に難しいとは思いますけどね。」
蘭としては、また杉ちゃんが機関銃みたいにしゃべって、水穂も疲れてしまわないかが心配であったが、懍がそういうのなら、止める手だてがないのだということだと結論した。ある程度、諦めなければいけないかもしれない。そういうところは、家畜との大幅な違いである。家畜は従えば餌をもらえると確信してくれるが、人間はそうではないから。
一方、四畳半では、水穂が布団に横になってはいたものの、大雨と爆風で眠ることはできなかった。布団の脇には杉三と、鈴花が控えていた。
「しっかし、よく立候補したな。それは偉いぞ。ちゃんと最後まで見届けようとしたんだからな。それが君にとって責任をとるということだから。しっかり自身を誉めてやれ。」
本来なら普通のことであって当たり前の事である。鈴花は、こうして誉めてもらうことはなかった。むしろ、そうなれば、内紛が起こるからと言って、一度現場から離れることを命じられる。そして、自分が起こしたトラブルは、周りのひとに解決してもらっていた。それは、たまらなく悲しいことではあるが、認めざるを得ない事だった。自分で責任を取ろうとしても手だてはなくて、結局、能力のあるほかの人に解決してもらうしかない。自分が謝罪のために何かしようとすると、かえってトラブルは大きくなる。穏便に解決するために、障碍者が表に出ることはいけないことなのである。
「よく降るね。道路が冠水しなければいいが、」
そういいかけた水穂だが、また咳き込んでしまう。本人としてみれば、こういうときは気圧がひくいため、決して体調がよいわけではなかった。しかし、鈴花のもとへいったときは、そんなことはすっかりわすれていた。
「あんまりしゃべるなよ。じっとしてろ。」
「ごめんね。」
鈴花も、このときにはじめて容体がよくなかったのだと言うことに気がついたのだった。それをきいて、また自分は悪いことをしたと思ってしまった。
と、いっても雨風が大きすぎて、じっとしていろと言われても落ち着かないのだった。
どこかで、マイク放送が鳴ったが、何を言っているのかさっぱりわからなかった。
「また市の放送が鳴ってるね。」
「ほんとだ。でも、声がするだけでわからないね。」
杉三もそういうとなると、相当滑舌が悪い人がしゃべっているのだろう。
「避難指示でも出たのかな。」
「うーん、そうなったら青柳教授が指示を出すだろ。」
と言っても、ほかに目立った動きがあるわけでもなく、懍が指示を出しているような様子もないので、たぶん避難地域には当たらないのだろうとわかった。でも、それにしても、聞こえない放送だった。
「まったく。市の職員さん何を怠けてるんかね。これじゃあ、何もわかんないじゃないかよ。ただ、原稿読み上げればいいってもんじゃないよ。もっとはっきり伝わるように、訓練でもしろよな。」
杉三が不服そうに言った。
「まあ、アナウンサーとかそういうわけではないからね。」
「でも、税金で食べさせてもらっているのをとっくに忘れてら。もう、市役所の職員なんて、態度はでかいし、気性は激しいし、変に気取ってるし、まったく困った人ばっかりだよ。それでいて、いざというときは、僕らと同じ人間なんだから間違えて当然とか自己弁護してさ。もう、そんなこと言うんだったら、日ごろからもうちょっと謙虚というか、寛大になれよな。きっと、僕らの苦情でご飯食べているようなもんだから、知らず知らずのうちに自分が偉いと思っちゃってさ、いざというときどうするか、全部忘れてるんだろ。こまったもんだね。なんか結局、市民のためとか言っておきながら、きっと家畜を飼ってる程度しかないんだろうね。だからやなんだよ。政治家とか行政とか、教育者とか。」
確かにそうかもしれなかった。市役所へ行ってなんとなくいらだってしまったことは、水穂もないわけではない。
「そうなんだろうね。きっと、みんな一緒なんだろうね。世の中には他人に役立とうとする人は、果たして何人いるんだろう。口ではそういうことを言う人はいるが、僕みたいな人が市役所に行けば、なんでこんな奴を相手に何ていう人は、ざらにいるしね。裏では、自分のことしか考えてないんでしょ。」
「そうそう。僕みたいな歩けないやつが行けばもっとすごいぞ。こんな奴は、いなくなってくれないかなっていう態度が見え見え。もう、市役所ばっかりじゃなくて、学校も病院もみんなそうよ。例えば完治する見込みのない患者さんには、平気で冷たい態度をとる医者もいるし、患者の話なんかまるで聞かないで、本当にこの人治す気があるのかっていう医者もざらにいるよね。もうさ、僕らはどこに行けばいいんだって感じ。逆を言えば、困っているので、何とかしてくれとお願いすることはそんなに悪いことかね。」
「まあ、どこの世界も、そうなっているからね。みんな結局、生活しか頭になくてさ、自分が生き残っていくしか考えられなくなってるんでしょ。そして、そこを是正してくれる人もないでしょう。事実、素直な感想を出せば、ものすごい正論をたたき出して、相手を謝らせることによって、自分が偉いと思ってしまう人のほうが多いよね。逆に誰かがうれしい表現をすれば、一緒に喜ぶことはなく、嫉妬の炎を燃やしてさ、時には殺人まで至ることもある。みんな、相手の悪いところしか見えなくなってきたのかな。でも、おかしなことに逆戻りはできないので、これからはそういう、防衛技術を身に着けていくことが何よりも大切になるんだろう。」
水穂さんのいう通り、そういうことが一番大事になるんだなと鈴花も納得した。黙って二人の話を聞いていたが、それだけでもかなりためになる内容であった。
「うん、確かにそうだよね。これからは、相手を思いやることよりも、相手からどうやって自分を守るかを一番先に教えることからはじめて、学問は二の次になるだろう。そうしていかないと、子供たちは、悪い奴らにめった刺しだ!」
杉三が、でかい声でからからと笑った。
「それができないと、人生全部ぶっ壊されて、若死にするしか自己表現の道もなくなるぞ!」
その時に、ぽろんと涙が出て、ぐすん、と鈴花は泣きだしてしまった。
「どうしたの?鈴花ちゃん。」
いち早く杉三が気づいて、頭を傾けた。
「杉ちゃん言い過ぎだよ。もうちょっと言葉を選ばなきゃ。若死になんて、怖がらせるような発言はやめたほうがいいよ。」
「あ、ごめん。すまなかった。」
水穂に言われて、杉三はすぐに、頭を下げた。もし、蘭がいたら、なんで僕の時にはこうして素直に従ってくれないんだということだろう。
「今のは、気にしないでくれな。もう、僕、馬鹿だから、時々そういう馬鹿な事言っちゃうの。」
どうやら、杉三は発言の弁解をするのは苦手なようである。なんだか戸惑ったというか、語彙に迷っているような節があった。
「杉ちゃんも言い過ぎちゃう癖があるな。本当にごめんね。」
水穂さんも困っているようなところがある。
「気にしないでくれと言っても、無理なものは無理だと思うけど、、、。」
そういってまたせき込んでしまうところが、なんとも哀れなという印象を与えた。余計に、杉三の悪事ぶりを、責めることが可能になる要素でもある。
「もう、現実というのはね、変なことばっかりいうことの連続なんだからさ、何とか対策を立てなくちゃ。杉ちゃん、ちょっと極論かもしれないけど、本当に、あり得ない話なのかというほどでもないから、、、。」
「ごめん、僕、悪い事しちゃった。鈴花ちゃんにも、水穂さんにも。」
杉三は、改めてもう一度頭を下げた。
「ごめんなさい。あたし、なんだか怖くなって。も、申し訳なくて、、、。」
鈴花は、それだけしかいうことができないが、一生懸命自分なりの文章で言ってみることを試みた。
「だって、間違いではないと思ったんです。あたしも、杉ちゃんのいう通りだと思う。あたしも、自分の行く末はそうなるしかないなって、何度も何度も思いました。学校がつぶれて、こっちへ来るときも、ここで生活を始めた時も、自分はそうなるしかないって、思うしか解決方法がありませんでした、、、。」
ぽろぽろと涙を流しながら語る彼女の言葉に嘘はなかった。と、いうより嘘をつけるようなことはなかった。
「きっと、世の中で心が病んでいるとか言われる子は、こういう結論を出すしかできないんじゃないのかな。まあ、実行しないだけよかったのかもしれないが、今となっては、平気な顔してやり遂げられてしまう時代になりつつあるので、、、。」
杉三が、そうつぶやくと、水穂もそうだねといった。
「ほんとになんか、彼女にはぽっかりおっきな穴が開いていると言わざるを得ないよ。何とかして埋めてやれないかな。」
「そうだな、、、。僕も体が強かったらな。」
たぶん、二人だけではどうにもならない問題だと思うのだ。たぶん、周りの大人もそう思っているのかもしれない人はいる可能性もあるが、身内など、限られた人だろうし、そういう人は、逆に思いが強すぎて、流ちょうにこれを伝えることはたぶんできない。そして、いわれる本人も感情が邪魔をして、本当にそれを受け取ることはまずできないのである。だから、親が精神障害のある子どもを救うことは、まれである。
とにかく、彼女自身もなんとかならなければならないことは知っていた。でも、自分ではどうにもならず、そして、周りもどうにもできないことも知っている。そういうときに社会が何か提供することもあるが、、、今となってはそれも無理ではないかと思われる。
「あ、ありがとうございます。今までと少し違うところは、あたしのことでこうして少しだけでも悩んでくれた人がいたことです。それだけを、思い出として残しておけば、あたしは、この先もやっていけますよ。」
鈴花は、けなげを装って、そういったつもりだったが、
「なんだか遺書みたいな内容だな。嘘はいかんよ。やっていけるなんて、あるわけないだろうが。もう、バレバレなんだから、見栄っ張りなこと言うな。素直に、助けてくれって言えばいいんじゃないか。」
また急に視点を変えてしまう杉三に、皆驚くのだろうが、たぶんこれこそが、今の若い人たちができる究極の自己表現ではないのだろうかと思われた。
「何も悪いことないよ。大なり小なり反省点があることは確かなのかもしれないけど、ほとんどのことは、周りの人が作っちゃったことだと思うし。答えが出なかったら、答えが出せないといえばいいんだろ。もうね、子供のころから何もするなと周りに従えしか教えてもらってなかったんだろうし、それでいていざ自分で何とかしろって言われても、わかんないだけなのもしょうがないよな。その渦中で怒りが生じても仕方ないさ。ただ、それで他人に危害を加えると犯罪になってしまうので、それをしないだけはよかったな。そこだけはよかったと思えよ。」
「杉ちゃんすごいね。よくそんなことまで言えるよ。でも、僕もうすうす申し訳ないと思ってた。」
そういってくれる杉三と水穂に対して、ありがたいというより申し訳ないと思ってしまう鈴花だった。
でも、彼女の中では、具体的にどうしたらなんてまったく思いつかないのも確かだった。
返答に困っていると、水穂がまたせき込んだ。もっと体が強かったらなあと言っていたけど、それを象徴するような申し訳なさが感じられた。
「もう、しっかりしてくれ。僕らもまだまだやることはあるよ。そんなときに、せき込んでどうするの?また、来てもらったほうがいいか?あの涼って人。」
「ごめんね。役に立たなくて。」
「役に立たないじゃなくて、役に立たなきゃダメなんだ。そのためにはどうするか。それを考えろ。」
本当にすごいなあ、この二人。というか、ここへきてよかったのではないかと鈴花は初めて思った。確かに、青柳先生のような厳しい人もいるが、初めてこうして自分のことを話題にしてくれた家族以外の人が現れたのである。
他人が、自分のことについて悩んでくれるというのは、今でいえばプライバシーの侵害になるのかもしれないけれど、ある意味では喜ばしいことにもなるのだった。
そうさせることができる人もある意味では人間的な魅力があるのである。
もちろん、トラブルメーカーといわれてしまうこともあるけれど、そういう人はトラブルを引き起こす能力を持っているといえる。それがかえって良い結果をもたらすこともあるからである。
「あたしは、あたしはどうしたらいいんですか。この先、意味も目的も何もありません。それを持っていなければ生きていけないのに。仕事をしていないと、一生悪人として生きていかないといけないのに!」
たぶん、外で吹いている爆風や、弾丸のような大雨よりも切実な訴えなのかもしれなかった。もちろん、高齢者を支援することも大切なのだが、偉い人たちが一番先に解決しなければいけない問題はこれだと思う。それを解決しなければ、高齢者支援も手が回らなくなるのは言うまでもない。でも、それに気が付かないで、順番を間違えている。
「鈴花さん、とりあえず今は泣かなくていいですよ。とりあえずは、毎日が平穏に暮らせることを望めばいいのではないですか。これだけ災害の連発では、それでさえも難しくなりつつあるから。」
とりあえず、水穂さんは優しいからそういう答えを出してくれる。でも、世間は、冷たいから、自分のことなどただのダメな女としか見てはくれないじゃないか、と反論しようとしたところ、
「まあ、とにかくね、助けがほしかったら、黙ってちゃだめだよ。口に出していうことだぞ。そうしないと答えは出ないよ。まあ、心無い人は平気で馬鹿とかいうのだろうし、むしろそのほうが多いだろうが、その中でこそ、答えというもんが生きてくるんだよ。」
杉三がそういったので、はっとした。
「具体的にはどうしたら?」
すぐにこの質問が出てしまう。これは、鈴花が子供のころから、自分がいじめられないようにするために、正確には、いじめられることは必須だが、その被害を最小限に抑えるために、身に着けた術である。と言っても、成功することはまれで、自分で考えろと言われて馬鹿にされることがほとんどだが、彼女は自分を守るために習慣化させていた。
「そうですね。もし、人に何か言われたら、それを紙に書いて視覚化してみると、いいかもしれませんね。もちろん、紙に書くのが苦手なら、スマートフォンのカラーノートでもかまいません。とにかく、体の中にとどめておくのではなく、体の外に一度出してみてください。
そうすれば、少しパニックになる頻度が減ると思います。」
よし、そうしよう。まず、そこから始めよう。鈴花はそう決断した。
「ありがとうございました!」
まずは、ヒントをくれた水穂さんに礼を言った。口だけではわからないと思ったので、丁重に座礼した。そうすると、大体の人は、大げさだよというが、杉三も水穂も何も言わなかった。
「あれれ、いつの間にか、雨の音量が小さくなってきたぞ。鈴花ちゃんの声が、よく通るようになったのだから、そういうことだろう。よかったな。この辺りは、深刻化しなかったようだ。」
「そうだね、杉ちゃん。もうそろそろ遠のくね。」
代わりに二人はそんなことを言っている。
事実、台風は静岡県を通過して、関東方面へ行ってしまったと、ニュースでは報道していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます