5

 俺とあいつは、保健室に置かれている身長を測る器具を囲んでいる。俺は台に乗っており、その隣にあいつが立っている。

「あ、ちょっと、背伸びしないでよ」

「してないよ」

「してるよ。踵浮いてる」

 俺は子どもみたいなふてくされ顔をし、数ミリだけ高い景色を見収めた。

「いくよ」

 あいつの声と共に、測定するバーが俺の頭の上に下りてくる。

「164」

「え!」

 あいつの声を聞き、めちゃくちゃ驚いた俺は、台から降りて数値を確認する。

「嘘……去年より1センチしか伸びてない……」

 俺はお手本のような落胆をみせる。この光景は、中学3年の時のものだ。つまりあれ以来、俺の身長は伸びていないということだ。

「次、私ね」

 あいつが台に乗る。俺が測定する番だ。

「下ろすよ」

 すーっとバーを下ろしていき、あいつの頭に当たって止まる。

「いくつ?」

 あいつは横目で俺を見ている。俺は何も言わず、何度か目を瞬かせて目盛りを見ている。

「ちょっと、黙んないでよ」

 あいつが台から降りて、自ら数値を確認する。

「え!164!去年より4センチも伸びてる……」

 あいつは素直に驚いている。そしてゆっくりと口角を上げていく。

 女性の平均身長は、158センチだったはず。160センチの時点で平均より高いのだが、あいつは高身長組の仲間入りとなった。

「これで牛田に追い付いたね」

 嬉しそうに言うあいつに、不機嫌があからさまな表情で俺が口を開く。

「追いつかれると、俺は困るんやけど」

 あははは!とあいつは大きく笑ってみせた。あいつの弾けるような笑い声も、俺は好きだった。

 あいつが椅子に座る。俺は紅茶を入れにポットの前に立つ。俺は、あいつに振り回されっぱなしだった。でも、それが心地よかった。あいつと一緒にいられる時間が楽しかった。紅茶を注いだカップをあいつに差し出す。

「ありがとう」

 あいつが笑顔で受け取る。俺は隣の椅子に腰掛けると、湯気が出る紅茶に向けて息を吹きかける。突然、髪の毛に何かが当たり、思わず小さな驚きの声と共に、頭が動いた。何かの正体は、あいつの指だった。

「あ、動かんで。ゴミ付いとるから」

 あいつは俺の髪に再度触れる。この不意打ちは反則だ。顔の火照りと心拍数の上昇は避けられない。

「よし、取れた。牛田って髪硬いね」

「そ、そう?」

「うん。リンスとかしてる?」

「いや、やったことない」

「やってみなよ。ゴワゴワが和らいでくから」

 俺は頷いて返事をした。心を落ち着かせようと、カップを口へ持っていく。まだ熱い。眉間にしわが寄り、カップをすぐに離す。小さく息を吐く。あいつが目を細くしてこちらを見ていることに気が付いた。

「牛田はさ……」

 俺はあいつに顔を向ける。

「私がいなくなったら、寂しくなる?」

「……ん?」

 言っている意味が分からず、首を傾げてしまう。あいつは笑顔をみせた。

「私がいなくなったら、寂しくなる?」

 同じ言葉を繰り返した。俺は何度か目を瞬かせると、頭の中に意識を向ける。寂しい、か……。

「寂しくなる、と思う」

「と思う?」

「うん……」

 俺は視線を天井に向ける。あいつにはいろいろと、自分のことを話してきた。他の人には話せないことも、あいつにはなぜか話してきた。

「友達がずっといなかったからかな。寂しいって感じたことがないんだよね。寂しいってのがどんな感覚なのかも分かんない。だから寂しさを感じるかどうかは、その時になってみないと分からないかもな」

 あいつの顔を見る。腑に落ちない。そんな表情をしている。まあそうだろうな。

「そう言うんならさ、寂しくならないと思う、って言うんじゃない?だって、寂しさを知らないわけなんだし」

 あ、そうか。言われてみればたしかに。でも俺はどうして、寂しくなる、と言ったのだろうか。一口紅茶をすする。自分でも理由が分からない。これが答えかどうかは分からないが、ある考えが頭の中に現れる。

「……猪野だからかな」

「……え?」

 少し驚きが混じったあいつの声。

「猪野は、俺の初めての友達だし、こんなふうにそばにいてくれる人も猪野が初めてだし。そんな人がいなくなれば、俺でも寂しさを感じるかもなって思ったのかも。……なんか言ってる意味が分かんないな」

 苦笑いであいつを見た。あいつの顔は、驚きの中に少しの悲しさが含まれているように見えた。胸に少し違和感が生まれる。嫌な想像が頭の中に現れた。

「……え?お前、いなくなっちゃうの?」

 たぶん俺は、過度に心配しているような表情だったかもしれない。あいつはゆっくりと、口元を綻ばせた。

「そりゃそうやよ。違う高校に行くんやし。……けど、そんなふうに思ってくれてるの、凄く嬉しい。ありがとう」

 俺の心をこそばゆくさせる、あいつの微笑み。ずっと見ていたいが、どうしても照れてしまうので、顔を背けてしまう。俺は逃げ道を探した。

「あ、えっと……あそうだ。そろそろどこの高校に進学するか、教えてくれてもいいんじゃない?」

 間もなく高校受験だ。それでもあいつから、自分の受験や高校に関する話を聞くことがない。あいつは自分の口の前に、人差し指を立てた。前に聞いた時みたいに。

「まだ内緒。卒業式の日に教えたげる」

 下手くそなウインクを俺に向けた。


 写真同好会の部室のエアコンは、暖房が壊れている。しばらくの間、物置として使われていたためか、俺が指摘するまで誰も気付かなかったようだ。

 仲里先生がヒーターを2台持ってきて、部屋の中に設置した。これだけでは寒さは拭えない。でも寒さが少し残っている、これぐらいの体感のほうが俺は過ごしやすかった。

 パソコンから目線を左側に移す。窓ガラス越しに、白い塊が上から落ちてくるのが見える。冬休みの最終日に雪が降り出し、3学期初日である今日も降り続いている。

 一度パソコンの画面に目を戻すと、今度は右斜め前を見遣る。その先には、本を読んでいる清果がいる。表紙には『音楽理論』の文字。

 清果の影響で、前に比べれば少しだけ音楽が身近になった。でも知識は相変わらずなので、理論、と言われると堅苦しく感じてしまう。俺には到底理解できないのだろうな。

 清果が本を閉じた。それを合図にというわけではないが、俺は大きく伸びをした。

「雪、めっちゃ降ってるね」

 俺は清果の言葉に頷いた。

「うん。今シーズン一番の降雪量らしいよ」

「雨は嫌いやけど雪は好き。真っ白な世界って、なんか綺麗で気持ちが軽くなる」

 清果は口元を綻ばせた。この笑顔は、普段通りのものに見られたので、よかった、と心の中で呟いた。しかし、それは口の外にも出ていたらしい。え?と清果がこちらを見た。俺は少し動揺してしまう。

「あ、えっとその……そうやって笑った顔を見られたから、よかったなって思って……」

 心の声が漏れたことと話している内容。二つの恥ずかしさが俺に襲いかかる。目を泳がせると、清果の顔を見た。彼女もまた、恥ずかしそうな表情をしている。照れ笑いを浮かべ、彼女は俺に向き直る。

「この前はごめんなさい。うち、取り乱しちゃった。迷惑かけたね」

 俺は大きく首を横に振る。

「迷惑じゃないし、謝ることじゃないよ。俺は、その……なんというか……清果の抱えているものを知れてよかったっていうか……」

 頭の中で必死に言葉を探す。辿り着いた言葉は、あの時清果が言ったものだった。彼女の顔を見る。

「……清果のこと、理解できるよ。楽しかったってことも、泣くほどつらいってことも」

 俺の言葉を、呆けたようにボーっとした顔で聞き、俺を見据えている清果。これまでとは違う感情で彼女と向き合うようになったため、こう見つめられるとかなり恥ずかしい。清果は目を細めると、口角を上げた。

「あの時、幸くんがいてくれてほんまによかった。うち一人やったら、潰れていたかもしれへん。ありがとう」

 俺は清果の力になりたいと考えるようになった。今の俺でも、微力ながら彼女の力になれているのだろうか。そんなことを直接聞いたりはできないけど。

 ガラガラッとドアが開く音が聞こえ、俺たちは揃ってドアのほうへ視線を向ける。入ってきたのは仲里先生だった。顧問をしているこの先生が部室に顔を出すのは、気まぐれな時だけだ。

「お!新入部員?」

 清果を見つけるなり、嬉々とした先生の表情と声が俺の元へ届く。

「あ、いや…」

 否定しようとすると、清果が椅子から立ち上がった。

「すみません。新入部員ではないんです。1年8組の猿島といいます」

 挨拶すると、清果は一礼した。部員が増えるわけではないのでさぞや残念な顔をするのかと思いきや、先生は変わらず嬉しそうな顔をしている。

「お、8組か。それなら牛田くんに数学を教えてやってくれないかな?全然成績が上がんなくて」

 俺の隣まで歩を進めた先生は、俺の右肩に手を置いた。何かを堪えるように口を結んでいた清果は、耐え切れなくなって小さな笑みを漏らした。もちろん俺はその意味を理解している。

「あれ?なんか変なこと言った?」

 合点のいかない先生は、俺のほうを見遣る。自分で言いたくはないが、まあしょうがない。

「……前に教わりました。やけど、ダメなままでした……」

 あっははは!と高笑いを決めた先生は、俺の肩をポンポンと二回叩いた。

「君は数学がほんっとに苦手なんだな」

 そんなこと、前から自覚している。少し恥ずかしいので顔を背ける。

「まあ四方山話はここまでにして……」

 仲里先生は笑い声を消すと、真面目な表情を向けてきた。

「牛田くんに提案がある」

「提案、ですか」

 俺は居住まいを正す。それと同時に清果が発言する。

「あの、うちは外したほうがいいですか?」

「ううん。別に構わないよ。僕は別の業務があるから、話したらすぐに出るから」

 そう清果に伝えると、俺に一枚の紙を差し出した。

「展覧会?」

 俺は紙に目を落とす。

「東海電鉄が主催している、アマチュアカメラマン向けの展覧会なんだ。県内の主要駅に会場を設けて、写真を展示するんだ」

 清果が俺のそばまで寄り、持っている紙、もとい展覧会のパンフレットを覗き込んだ。彼女が見やすいように、手の角度を変える。

「文化祭での君の展示会は、けっこうな評判だったよ。この展覧会は先着順で投稿者が決まるから、申し込むなら早いほうがいい。募集は2月から。展示期間は4月のまるまる1ヶ月。どの駅で展示されるかは向こう側の判断になる。気に入られれば、一人複数枚飾られることもある。被写体は自由。どう?やってみない?」

 文化祭で自分の撮った写真を展示した時、恥ずかしさがあったが同時に嬉しさや気持ちよさもあった。駅は文化祭以上にたくさん、そしていろんな人に見てもらえる。別にプロのカメラマンになりたいわけでも、名前を有名にしたいわけでもない。だが文化祭での感覚が癖になったのか、できるだけ多くの人に見てほしい、という思いも芽生え始めていた。

 先生の話を聞き始めた時から、俺の中での答えは決まっていた。自然と笑みが零れる。顔を上げ仲里先生に目を向け、俺は頷いた。

「やります」


 この時期は、3年生の先輩方に送る卒業アルバム作りが、写真同好会の主たる活動となる。センター試験を目前にして、推薦や就職などすでに進路が決まった人以外は、受験勉強に勤しんでいる。もう3年生を撮る機会は、卒業式ぐらいだろう。

 卒業後は散り散りになる先輩方に少しでも早くアルバムを届けるために、卒業式以外の写真の選定は早いに越したことはない。

 短縮日程で午前のみの授業であるこの日、購買部はいつも通り開いているので、お昼を調達して部室に向かおうと考えていた。だが購買部への道すがら、淡路に捕まってしまった。

 奢るから、と連れて来られたのは牛丼屋だった。牛丼かよ、と呟くと、高校生の財布事情を考えろ、と軽くつつかれた。

 サラダと味噌汁がついたセット。牛丼はつゆぬき。ぱしゃぱしゃのご飯はあまり好きじゃない。淡路は焼肉定食を注文した。

「……最近、ゆづが変なんだよ」

 漬物を口に入れると、淡路は言葉を発した。俺は口の中で咀嚼したご飯を、味噌汁を活用して胃へ流し込んだ。

「変って?」

「なんか怒ってるみたいなんだ。イライラしてるっていうか」

「へえ……」

 俺は曖昧に返事をした。益城の怒っている理由。俺には想像がついた。言ったほうがいいのだろうか。

「益城に聞いてみた?」

「もちろん、すぐ聞いたよ。でも、自分で考えればって突っぱねられた。なんなんやろ……」

 益城がその選択をしたのなら、俺が言ってはいけないだろう。だから教えることはやめにした。

「そうだな。考えてみるんだな」

「考えてるけど分からないんだよ」

「幼馴染みだから、今までのこと思い出してみたら?」

 それとなくヒントは出してみる。淡路は、うーん、と唸ってみせ腕を組んだ。

「幼馴染みだからってなんでも知っとるわけやないんだよな……」

 淡路は益城の気持ちには気付いていないのだろうか。まあ俺は、自分の気持ちにすら気付けなかったのだから、他人の気持ちを知るということは容易なことではないはずだ。そして彼は、彼女のことをどう思っているのだろうか。片方の気持ちを知ると、もう片方のことも知りたくなる。でも、それを直接聞くのは憚れた。

「牛田は、なんか知んないか?」

「ん?なんで?」

 少しドキッとしてしまう。

「ゆづの奴、お前んとこによく来てるだろ?だからなんか知ってないかなって。俺の話とかしてないか?」

 知っているし、している。益城の話の9割は淡路の話だ、なんてことは言えない。

「考えても分かんないなら、彼女に直接答え教えてもらったほうがいいのかもよ」

 適当なことを言ってお茶を濁した。淡路は肩眉を上げ、考えを巡らせながらお肉を口へ運んだ。

 淡路の唸り声がなくなると、俺たち二人の間には沈黙が流れる。牛丼を半分ほど食べ終えたころ、視線を正面に向ける。対面して座る淡路の目が、こちらに向けられていた。瞬きせず、じっとみ見据えられていた。俺は目を瞬かせる。

「ん?どうしたの?」

「……最近、さやちゃんとなんかあった?」

 ぐふぉっと口の中から米粒を吐き出す俺。何粒かが淡路のトレイに落ちた。でも彼はそれに慌てることはなかった。呼吸を整え、水を一口飲み干すと、もう一度呼吸を整えるように深く深呼吸をする。

「は?なんで?」

「さやちゃん、いろんな顔するようになったんだよ」

「いろんな?」

 俺は小首を傾げる。

「中学のころからよく笑ってたんだよ。病気のことで大変だろうけど、そんなことを思わせないほど、よく笑顔でいた。それが少し不自然に感じてたんだよな。ちょっと無理してんのかなって。でも最近、笑顔以外の時が多くなったよ。悲しそうな顔してたり、寂しそうな目をしてたり、ゆづのことからかってにやついていたりしてさ。前はあんまり見られなかった表情だったから」

 淡路はサラダに箸を伸ばす。俺はまたしても首を傾げる。

「それが俺となんの関係が?」

 淡路は不敵な笑みを浮かべる。

「牛田と関わるようになったころからなんだよ。変わり始めたのは」

 清果と距離が近づくきっかけを作ってくれたのは淡路だった。何を勘違いしたのか、彼は俺と清果をさもくっ付けようとするような振る舞いであった。あのころは余計なことをと思っていたのだが、今は感謝している。

「清果に何があったのかは分かんないけど」

「けど?」

「俺は少し変わったっていうか……」

「変わった?」

 もう変に詮索されたくない。それに、淡路には話してもいいような気がした。こうなれたのは彼のおかげでもあるし。

「……俺、清果のこと好きになったよ」

 淡路の目が見開く。

「いや、なったっていうか、やっと気付いたってのが正しいかな……」

 俺の言葉を最後に、静けさが訪れる。

「……はは、はははは!」

 淡路が笑い声を上げる。その声量は徐々に大きくなっていき、仕舞いには高笑いとなった。うるさい。他のお客の目もあり、決まりが悪くなる。

「そうか。やっと気が付いたか。このミスター鈍感!」

 淡路は左手を伸ばすと、俺の右肩をバシバシ叩いた。けっこう力が強くて正直痛かった。少し顔を歪ませる。てか、鈍感なのはそっちもだけどな、とは言えないので少し悔しさが生まれた。

 あ、と淡路が思い付いたように声を出す。

「さやちゃんに伝えたのか?」

 俺は全力で首を横に振る。必死すぎてもげるかと思った。

「まさか!」

「まさかってことはないだろ」

 淡路が苦笑する。小さく息を吐いて背もたれに身体を預ける。いや、まだだ。彼に言っておかないといけないことがまだある。

「これ、このこと、清果には言わないでよ」

「自分で伝えるからか?」

 俺は言葉を詰まらせてしまう。伝える。俺に気持ちを伝えることなんてできるのか。あいつのことを好きになっても、けっきょく伝えられず仕舞いだったのに。

「……えっと……そ、そのうち……」

「そのうち、ねえ……」

 なんだか淡路は楽しそうだ。益城に関する悩みはどこへ行ってしまったのか。切り替えが早いのか、そんなに気にしていないのか。

 はぁーっと大きく息を吐いた。味噌汁を口の中に入れる。もうそれは冷めてしまい、温くなっていた。


 卒業式は、卒業生、在校生、教職員、保護者が体育館に一堂に会する。そんなことは当たり前だ。でも俺は、その当たり前から外れている。

 中学3年間一度も教室に登校することのなかった俺は、みんなより先立って校長室で卒業証書を受け取った。一人だけの卒業証書授与式。参列者は俺の他に、校長先生、教頭先生、保健室の田中先生、一応振り分けられていたクラスの担任、俺の両親の六人のみ。

 証書の他に、先生一人一人から短い言葉をいただいた。祝いと激励。ありがたくちょうだいし、校長室を後にした。

 この日は卒業証書を受け取るだけなので、そのまま帰宅してもよかったのだが、俺は両親と別れて保健室に戻った。3年間の感謝を込めて、部屋を掃除する。そして、あいつを待っていた。

 ドアが開いたのでそちらを向いた。そこにいたのは田中先生だった。

「あれ?牛田くん、もう帰ってもよかったんだよ?」

「あ、最後に綺麗にしときたかったし、待ってる人がいるので」

「ああ、猪野さんね」

 俺は苦笑して頷いた。先生にあいつが好きだということは話していない。でも察していたのだろう。先生は言及はせず、俺のことを笑顔で受け止めてくれていた。

「もうホームルームも終わってる時間だと思うんだけど。私が確認してくるね」

「あ、すみません。お願いします」

 先生は笑顔で頷いてくれて、踵を返して保健室から離れていった。

 俺は田中先生に凄く感謝している。3年間、ずっと俺のことを支えてくれた。先生がカメラを薦めてくれたことで、自分の楽しみが生まれた。カメラを始めたおかげで、あいつと話をするきっかけの一つが生まれた。今の自分がいるのは先生がいてくれたからだ。恩師、というのはこういうことなのだろうと感じた。

 掃除を終え、俺は椅子に座る。卒業式終わったら一緒に帰ろう。保健室で待っとって。今朝、あいつから電話があった。しかし、あいつが来る様子は一向にない。

 あいつは自分から反故にするようなことはしない奴だ。来られなくなったとしても連絡をしてくるはずだ。何かあったのだろうか。一抹の不安が生まれる。ポケットから携帯を取り出す。特に通知はない。

 ドアが開く音に素早く反応した俺は、思わず立ち上がりドアを振り返った。さっきと同じで、目の先には田中先生。でもさっきと違い、浮かない表情をしている。俺の中の不安が膨張していく。

「猪野さん、学校に来てなかったみたいなの。親御さんも連絡が取れなくて動揺されてる。大丈夫かな……」

 俺は、あいつとは学校の中でしか会ったことがない。なので、一緒に帰ろうと言われた時、嬉しさと楽しみが大きくなった。卒業式の日に、どこの高校に進むのか教えてくれると言っていた。おそらくあいつとは違う学校に進むだろうから、今までみたいに会えることはなくなってしまう。だから、凄く楽しみだった。……なのに……。

 ……まさか、行方不明だなんて……。

 学校からの帰り道。歩きながら、何度も電話をして、何通もメールを送った。でも、返事は一切こない。

 こんなに足取りの重い家路は初めてだ。

あいつが行きそうな場所は?知らない。あいつは普段何をしてる?分からない。

この時になって気が付いた。俺は、あいつの学校の中での姿しか知らなかった。あいつが学校以外で何をしているのか、全く知らない。

 ……俺は、あいつのために、何もできないのか。自分自身への苛立ちを覚えた。

 携帯を耳に当てる。留守電につながる。

「猪野、牛田だけど、大丈夫か?連絡ください」

 同じ内容の伝言をいくつも残しながら、俺は家に辿り着いた。

 夕方になっても夜になっても、俺の携帯は反応しない。大きなモヤモヤを抱えたまま、床についた。

 眠ってはすぐに目が覚め、また眠ってはまたすぐに覚ます。それを朝まで繰り返していた。こんなに眠れなかったのは、生まれて初めてのことだった。

 布団を身体の上からどかし、ゆっくりとベッドから離れる。携帯の画面を見た。アラームを設定した時間よりも1時間も早かった。そして、時間以外はそこには表示されていなかった。受信も着信もない。大きなため息を吐き出す。

 食欲はなかった。ヨーグルトだけを口にする。顔を洗っても、全くさっぱりしなかった。今日は撮影散歩の気分じゃない。そのまま自分の部屋へと戻る。

 俺とあいつが写っている、俺のお気に入りの写真。それを手にし、眺めながらベッドの端に腰掛けた。

 あいつの顔が見たい。声が聞きたい。話がしたい。

 自分に自信がなかった。勇気がなかった。でも言える。今ならちゃんと伝えられるように思える。

「……猪野、好きだよ」

 自然と言葉が口を衝いた。それは誰にも伝わることなく、床の上にぽとりと落ちる。ベッドの上に倒れ込むように横になる。ゆっくり目を閉じる。あいつとの楽しかった日々を走馬灯のうように思い出していく。

 強く瞑った時、携帯の着信音が耳に届いた。目を見開くと素早く起き上がり、机に飛び付く。でも発信元はあいつじゃない。田中先生だった。何か分かったことがあるのだろうか。電話に出る、と表示された部分に指を触れた。

「はい、牛田です」

「田中です。朝早くにごめんね」

「あ、いえ」

 俺は小さく首を横に振る。先生の声は、沈んでいた。嫌な感じがした。

「牛田くんに、伝えないといけないことがあるの。でも……君にはつらいことを伝えることになる。先生の話、ちゃんと聞いてくれる?」

 俺の心臓が早鐘を打った。つらいこと。あいつの身に何かがあったのか。正直聞くのが怖かった。だけど、少しでも早くあいつの状況を知りたかった。

「……はい、聞きます」

 携帯の向こう側で、先生が息を吐いたのが分かった。俺は唾を飲み込む。

「……ついさっき、猪野さんのお母さんから学校に連絡が入ったの。……猪野さんが、亡くなられたそうよ……」

 俺の中で何かが音を立てて破裂した。右手に持っていた写真が、力なく床に落ちていく。頭の中の思考が全て停止した。息をしているのかどうかも分からない。立ち尽くしている俺の目の前が、だんだんと暗くなっていった。


 ゆっくりと目を開く。冬だというのに、額からは汗が滲んでいる。寝間着は身体中の汗を吸って重くなっていた。小さくため息を吐いて、布団を乱暴に払いのける。上半身を起こすと、ベッドの上で胡坐をかいた。

 最近、あいつがいなくなった時のことを夢に見るようになった。あいつとの思い出で、唯一のつらい思い出。今までこれが夢の中に出てくることはなかった。いつも楽しかったところしか登場しなかったのに。ここ最近は、つらい時のことばかりだ。いや、今はこれしか夢に見なくなった。

 いつからこうなってしまったのか。思い返してみると、あの時からかもしれないと予想がついた。清果のことが好きだと実感した、あの時辺りから。

 あいつがいなくなり、人のことを好きになれなくなった。人を好きになるのが怖くなった。それは、あいつの悩みに気付けなかった、あいつのために何もすることができなかった、それに対する罰であると考えていた。

 あいつからの最後のお願い。あいつに言われたことだから、しっかり実行したいという思い半分と、あいつへの罪滅ぼしのためという思い半分。二つの思いを持って、あいつとの約束を守ってきた。

 カメラを続けている。友達もできた。あいつとの約束をちゃんと実行してきた。だから、また人を好きになれるようになったのだと思っていた。だけど、そうではなかったのだろうか。人を好きになったのに、つらい思い出を眼前に押し付けられるようになってしまった。

「……お前は、まだ俺のことを許してはくれないのか……」

 自嘲まじりの笑いが勝手に表へ漏れていった。


 曇天の下、今はもう歩くことがなくなった道を俺は歩いていた。風は吹いておらず、自分の足音しか聞こえてこない。時折、子どもたちとすれ違う。周りが少しばかり賑やかになるのは、その時ぐらいだ。

 ご無沙汰だったのだが、身体はしっかり覚えていた。3年間ほぼ毎日通っていたからだろう。俺の脚は、少しも迷うことなく俺を目的地まで運んでくれた。

 正門は半分だけ閉じられている。そびえ立つ校舎は、俺の頭の中にある姿のままだった。目を閉じてみる。鳥のさえずりが聞こえる。遠くのほうからうっすらと人の声が聞こえてきた。グラウンドは、正門から見て校舎の向こう側にあった。今日は休日だが、部活をしている人たちがいるのだろう。

 ここへ来れば、あいつと話ができるんじゃないかと思った。あいつとはここでしか会ったことがない。ここが、俺とあいつをつなぐ唯一の場所だった。心の中で、あいつに語りかける。

 耳に意識を傾けていると、あいつとは違う声が遠くからではなく、近くからしっかりと聞こえてきた。

「幸くん?」

 親しみのある声。俺のことを下の名前でくん付けで呼ぶ人は、一人しかいない。目を見開いて、素早く顔を振り返らせる。やっぱり、清果がそこにいた。笑みを浮かべ、手を振りながらこちらへ近づいてくる。

「偶然やね」

 全くもってその通りだ。

「どうして、こんなとこに?」

「うちのオーボエの先生が最近この辺りに引っ越してん。この辺に来るのは初めてやから、ちょっと散歩でもしようかなって思って。まさか幸くんと会うとはね」

 清果は笑顔でそう言った。俺は少し複雑だった。正直言って、ここでは彼女とは会いたくなかった。清果の視線が、俺の背後に移された。

「ここって、学校?」

 ここで嘘を伝えるのはなんだか気が引けた。なので本当のことを伝えた。

「……親川おやかわ中学校。……俺の母校」

「え……」

 清果は少し驚いた声を出した。そして複雑な表情へと変化させた。どうして彼女がそんな顔になるのだろう。俺のことなのに。苦笑を浮かべ、校舎へと視線を戻した。

 風が吹き始めた。湿気を含んだ重たいものだった。これから雨が降るのだろうか。このどんよりとした空気は、今の俺の気持ちに似ているように思えた。

 右側に気配を感じたので、横目でそちらを見る。清果が隣に立っていた。そして、こちらを窺うような視線を送っていた。なので、彼女に顔を向ける。

「……余計なことかもしれんけど、聞いてもええかな?」

「うん。何?」

「どうして、ここに来ようと思ったの?」

 清果は俺の過去を知っている。中学生の時、ここでどんな生活を送っていたのか、どんな経験をしたのかを知っている。だから気になったのだろうか。

 ここへ来た理由を話すべきかどうか迷ったが、考えがまとまるよりも先に、言葉が口を衝いた。

「……猪野と話したくて来たんだ」

「……え?」

 素っ頓狂な声が返ってきた。それはそうだ。俺は変なことを言っている。もういない人間と話をすることなんてできるわけがない。そう考えるのが普通だ。

「前にどこまで話したかな。人のことが好きになれなくなったってこと、話したっけ?」

「うん。猪野さんがいなくなってから、そうなったって言うてた」

 覚えてくれてたことが少し嬉しかったので、思わず微笑を浮かべてしまう。

「また、人を好きになれるようになったんだ。あ、友達のことを好きだって思えたんだ」

 友達、という言葉を付け足した。清果を意識してのことではあったが、嘘をついたわけではない。里緒都ら友達のことも好きと思えるようになったのも事実だ。

「そっか。よかったね」

 清果は安堵したように微笑んだ。でも、話はここからだ。彼女はどう感じるだろうか。俺は微笑を収めた。

「……でも、つらいことを思い出すようになったんだ」

「つらいこと?」

「うん。猪野がいなくなった時のこと。それを思い出すようになった。つらい思い出だよ」

 清果の顔が少し曇った。そして、ばつが悪そうに目を逸らす。彼女の目が泳いでいるのが分かった。俺は視線を校舎へ移す。昇降口が目に入った。あまり人と会いたくなかった当時の俺は、朝早く登校していた。

「人を好きになれなくなったのは、あいつのことを救えなかったから、その代償だと思ってたんだ。また好きになれたから、もう償えたんだと思った。でも、つらい夢を見るようになった。まだあいつは許してくれないらしい。だから、話ができたらなって思ってさ。……自分でも馬鹿なこと言っとるとは分かってるんだけどね」

 はは、と笑い声が小さく出てきた。それは自分への嘲笑いだ。目を清果に向けた。彼女は悲しそうな目で俺を見ていた。涙が嫌いな彼女が、今にも泣いてしまいそうな眼差しだ。その目付きのまま、彼女は俺に問いを投げかけた。

「……幸くんは、猪野さんが自分のことを恨んでるって思ってるん?」

「……恨んでいる……」

 そう呟くと、また校舎を見遣る。罰だとか償いだとか、そんなふうに思ってきてはいたが、恨んでいるかどうかは想像していなかった。どうなんだろう。

「恨んでる、か……」

再び呟くと、小さく頷いてみた。

「たぶん、そうなんだろうな……」

 それ以降、清果の声が聞こえなくなり沈黙が走る。話している間は聞こえてこなかった鳥の声や遠くからの声が、再び耳に届いた。中学の時もこんな感じだった。あいつと話をしている時は、あいつの声以外はほとんど聞こえない。あいつと別れた後は、周りの様々な音が聞こえてくる。そんな毎日だった。

 小さく息を吐いた俺は、もう帰ろう、と清果に言おうとした。でも彼女の姿を見て、それは口の外には出なかった。清果は目を閉じ、黙祷しているかのように校舎に向かってじっと立ち尽くしている。

「……どうかした?」

 尋ねた声の後、清果はゆっくりと目を開き、こちらに視線を寄越した。

「……猪野さんと、話してみようと思って」

「……へ?」

 俺は素っ頓狂な声を出した。何度か目を瞬かせる。

「うちは猪野さんがどういう人なのか分からない。幸くんの話と前に見せてもらった写真で、どんな人なのか想像してみたの」

「……え、どうして?」

「うちもお願いしようと思って。幸くんのこと、許してほしいって」

 さっき俺は馬鹿なことを清果に伝えた。そして今、彼女が馬鹿なことを言っている。凄く真面目な顔で。清果が俺みたいに、あいつのことを頭に浮かべて、話をする必要なんてない。

「……どうして、清果もお願いしてんの?」

 清果の行動が分からず、小首を傾げた。彼女は俺から視線を外す。小さく息を吐くと、彼女の視線が戻ってきた。さっきの真面目な顔とは違う、少し照れたような表情と共に。

「……うちにとっても、幸くんは好きな友達やから。幸くんのためになったらなって思って」

 目尻を下げた清果。俺の心臓は心拍数を上げて動き始めた。俺のために、一緒に馬鹿なことをやってくれようとする。好きな友達と言ってくれた。

 清果が好きだ。改めてそう実感した。こそばゆさもあったが、凄く嬉しい。

「ありがと」

 感謝の言葉を贈る。受け取ってくれた清果は、くしゃりと相好を崩した。

 清果のことを好きになった。でも、だからといって、お前のことを嫌いになったわけじゃない。今でも好きなままだよ。これからもお前のこととも向き合っていくから。だからそのうち、いつかは俺のこと、許してくれよな。

 自分の言葉を送っておく。いつか、あいつからの返事をもらえることを心から願って。


「あいつらおっそいなー」

 そう言って里緒都は背伸びをした。俺は彼の指先を見上げた。もともと背の高い人間が大きく伸びをしているところを見ると、その伸ばされた手は天にも届いてしまいそうなほど、高い場所に位置している。目線を彼の指先から空へ移す。今日は久しぶりの快晴だ。

 俺たちは根室と福岡を待っている。四人で外出するのは、あんまり機会がない。三人は部活が忙しく、休みが合うことが少ない。同じクラスなので学校では毎日のように顔を合わせているが、外で会うのは数えるほどしかない。

 手をコートのポケットに収めた里緒都は、こちらに顔を向けた。

「清果ちゃんとはどんな感じ?」

「どんなって……普段通りだよ」

「なんだ、まだ告白してないのか」

「するわけないだろ、俺なんかが」

「俺なんかって」

 里緒都は少し呆れたように肩を竦めた。清果が好きだということを、前に里緒都に話した。やっぱりな、と彼は笑顔で俺の脇腹をつついた。

「あ、清果ちゃんのこと、直と健太に話した?」

「福岡には話した。根室にも言ってない」

「なんで?」

「変にやっかまれるのは嫌やし」

「いや、それは危険やな」

 里緒都は首を横に振った。なんで?と俺は疑問を呈する。

「言わんかったら、俺にだけ言わないなんてこの裏切り者!とか言ってうざ絡みしてくるぞ」

 たしかに、そうかもしれない。また首根っこを掴まれそうだ。今日のうちに話しておこうかな。

 風が顔に当たる。思わず身を縮めてしまう。晴れているとはいえ、冬はまだ終わらない。

「でもなあ……」

 里緒都の呟きが聞こえ、彼に顔を向けると目が合った。少し寂しそうな目をしていたので、怪訝な顔をする。

「お前はまだ、大きなものを抱え込んだままだよな」

「え?」

 大きなものって、もしかしてあいつのことを言っているのか。いや、里緒都には話していない。知ってるはずはないのに。俺は息を呑んだ。驚いた顔を見て、彼は小さく微笑んだ。

「図星だろ?」

「……なんで、そう思うの?」

 素直に認めるのがなんだか少し怖かったので、頷かずに問いかけた。

「幸はさ、一人でいる時、よく悲しそうな顔をしてるんだよ。お前のこと初めて見た時から、そんな感じだったよ。それは、今でも変わってない……」

 前にあいつに、笑った顔を見たことないと言われたことがあった。だから誰かと話をする時は、自分がどんな表情をしているのかを考えることもある。でも一人の時の表情なんて気にすることなんて考えもしない。

「でも、清果ちゃんは知ってる。あの子は、幸の抱えているものを知ってる。これも図星やろ?」

 里緒都の言う通りだ。俺は目を丸くする。

「なんで分かるの?」

 認めるつもりはなかったのだが、咄嗟にそう告げた。これでは認めたも同然だ。里緒都はニカッと笑ってみせる。

「俺、超能力者なんだよ」

 そうおどけてみせた。なんだよそれ、と俺は思わず小さく吹き出した。

「あんまり人に言えないことを話せるってころは、清果ちゃんに何か感じるものがあったんだろうな」

 なぜ清果にだけあいつの話をしたのか。あいつに似ていたから、彼女に話してみたい。そんな感覚だったように思う。

 俺は地面に目を向ける。里緒都に話していないということに、なんだか罪悪感のようなものが芽生えた。さっきの根室のことと同じような感じがする。俺に話していない。裏切り者。里緒都は俺のことを、そんなふうに思っている部分があるのだろうか。彼は俺のことを、どう思っているのだろうか。

「……里緒都は、知りたい?」

「ん?」

「俺がまだ話していない、俺の昔のこと、知りたいって思う?」

 少し目を丸くして俺を見ている里緒都。上空を飛ぶ飛行機の音がかすかに聞こえてくる。俺はたぶん、真剣な表情をしていたと思う。里緒都は合点のいかない表情に変わった後、何かに気付いたように、あ、と声を出した。

「もしかして、さっきのとを重ねてる?根室に言ったほうがいいってことに」

 里緒都の超能力が連発する。さっきから俺の考えを彼は的中させている。俺は小さく頷いた。彼は口角を上げると、俺の頭に手を置いてきた。

「俺はそんなんでお前を裏切り者だなんて思ったりしないよ。お前と一緒にいる時間が好きやから、そんだけで充分楽しんでんだよ」

 背の高い人間に撫でられると、相手の顔が見えなくなる。それに今の里緒都は、俺が顔を上げられないように押さえ付けているようにも思える。そして何より、頭を撫でられるのはやっぱり嫌だ。

「なあ、撫でるのはやめてくれって何回も言ってるだろ。女性扱いされてるみたいで嫌なんやって」

「そうか……」

 里緒都は頭の上から手をどかした。小さく息を吐いて、彼の顔を見上げる。彼は目を細めて俺のことを見下げていた。

「幸が女の子やったら、俺はお前のことを彼女にしたいって思ってたかもな」

「……は?」

 出し抜けすぎて俺は目を瞬かせる。そして徐々に頬が赤くなっていくのを感じた。からかわれているのは分かるのだが、里緒都ほどのイケメンに言われてしまうと、恥ずかしくなってしまう。俺の表情を見て、彼は大きく笑い声を上げた。

「なに照れてんだよ。そういうとこ、かわいいよな」

 凄く悔しかった。でもそんなふうに思えることが、なぜだか気持ちよかった。里緒都の肩に拳を軽くぶつける。いってー、と笑いながらリアクションを取る里緒都。俺はいい人と友達になれたなと、この巡り合わせに感謝した。

「里緒都」

「ん?」

「俺の昔のこと、聞いてくれる?」

 里緒都は一度笑顔を消して真面目な顔になった。そして再び口角を上げた。

「おう」

 里緒都の返事を聞き、口を開こうとする。すると彼の目が俺の背後に向けられた。それを認識したのと同時に、身体に強い衝撃が走り、肩を強く抱かれた。

「お待たせ~!」

 根室の声だ。やっぱり彼は力が強い。これを何度も体験していたら、俺の身体は壊れてしまう。彼のことを睨み付けた。

「だから力が強いんだって。加減してくれよ」

「あーごめんごめん」

 俺から距離を少し取ると、根室は謝罪した。全く心がこもってない。俺は大仰にため息をついた。

「なに話してたの?」

 無邪気な質問が福岡から投げかけられた。そのうち二人にも話しておこうとは思った。でも改めての空気になってしまうと、恥じらいが出てしまい話すことができない。さっきは話の流れというか、その時の勢いで言おうとしていたから。

「……なんでもない」

 俺ははぐらかした。

「なんだよ、言えよ。気になるだろ」

 根室が再び俺の肩に手を回してきた。

 訳知り顔でこちらに笑顔を見せる里緒都。訳なんか知らないけど、この場を楽しんでいるようにけたけた笑う福岡。不服があると、めんどくさく絡んでくる根室。

 この三人といる空間が、心地よかった。たまらなく。

 みんなのことが好きだ。今は恥ずかしくて、面と向かって言うことはできない。いつかはちゃんと、伝えられるようになれるだろうか。そうなれたらいいな。

 身体は寒かったが、心は温かかった。


 音楽の知識は疎いまま、楽器のことも分からない。でも、清果のことをもっと知れたら。そう思いながら、前に彼女の付き添いで訪れた楽器店に立ち寄った。

 この店舗の1階で、木管楽器が販売されている。ショーケースには、いろんな楽器たちが綺麗に整列してこちらを見ている。木管楽器は笛、金管楽器はラッパ。そんなざっくりとした感覚でしか違いが分からない俺に対して、それでだいたいは当たってるよ、と清果は笑顔で頷いてくれた。

「何か手に取ってみますか?」

 不意に店員から声をかけられ、俺は少し身体を強張らせてしまった。

「あ、いや、大丈夫です」

 苦笑で返事をすると、女性店員は、何かあればご遠慮なく、と言って笑顔で頭を下げてくれた。お店の中なのだから、店員が声をかけてくることは予想ができたはずなのに。人と関わる時に緊張してしまうところは、まだ直っていないらしい。

 小さく息を吐くと、オーボエが置かれているところへ移動する。棚の陰から通路のほうに出た時、俺は思わず声を上げた。

「あ!」

「げ!」

 目の前にいたのは犬伏さんだった。彼女とは文化祭の時もバッタリ出くわした。その時も、げ、という声で反応していた。俺との偶然を嫌がっているのかもしれない。

「なんであなたがここに?」

「いや、なんとなく。……犬伏さんは?」

「私はフル…」

 犬伏さんは言葉を途切れさせると、口をつぐんでしまった。俺は小首を傾げる。

「あなたに言う必要はないし……」

 そう言い残して、犬伏さんは出口へと向かった。

「あ、ちょっと!」

 俺は無意識に足が動いた。そして思考が追い付いてきた。犬伏さんに聞いてみたいことがある。この機会は逃せない。

 店から出て左右に首を振る。早足で去っていく犬伏さんの背中を見つけ、追いかけた。

「犬伏さん、ちょっと待って!」

 犬伏さん、と3回ほど呼びかけて、彼女はようやく足を止めてくれた。こちらを向いた顔は、嫌悪感が張り付けられている。

「何?なんなんよ。なんで追いかけてくるわけ?」

 とげとげしい声が俺の耳に届く。少し怯んでしまったが、俺は一度唾を飲み込んで声を発する。

「犬伏さんに、聞きたいことがあるんだ」

「……何?」

 眉間にしわを寄せ、身体をこちらに正対させてくれた。前から感じていたが、犬伏さんには威圧感がある。彼女の声と表情に、こちらのハートが潰れてしまいそうになる。俺は泳いでしまいそうな目をぐっと押し留める。

「清果のこと、どうして嫌ってるの?」

「……ん?」

「清果は犬伏さんのこと好いてる。でも犬伏さんはかなり嫌ってる。どうしてかなって思って」

「……それ、あなたには関係ないよね」

「あ、うん、関係ない。ないけど、知りたいんだ」

 意味分かんない、と犬伏さんは首を傾げて頭を指で軽く掻いた。

「なんで知りたいわけ?あなたはあいつのなんなの?彼氏とかなわけ?」

「いや、違う。そういうわけじゃなくて」

「なら、あいつのことが好きなわけ?」

 それも違う、と言おうと思った。でもそれではダメだと思った。余計なことを聞いている自覚はあった。俺は今、自分勝手な思いで犬伏さんに問いかけている。そうであるならば、こちらは誠意をみせなければならない。そう考えた。だから、正直なことを口にする。

「……うん、好きだよ」

 犬伏さんの顔を見て、俺は言い切った。彼女の眉間から、しわがゆっくりと消えていく。少し面食らったような表情となる。俺は言葉を続けた。

「清果の力になりたいんだ。余計なことをしてるんだと思う。やけど、聞きたい。知りたい」

 犬伏さんは目を丸くして俺を見据えていた。彼女の驚いた顔を見るのは初めてだ。俺の目に入っていたのは、いつも不機嫌な顔付きだった。たぶん、俺の突然の告白に驚いているんだと思う。俺は恥ずかしかった。でも、犬伏さんから目を離さなかった。

 しばらく沈黙が続いた後、犬伏さんは頭を垂れた。大きくため息をつき、ゆっくり顔を上げた。

「……あなた、余計なことをしてるって自覚はあるわけね」

「……うん」

 犬伏さんは目を伏せ、口をぎゅっと結び、180度身体を回転させた。ゆっくりと足を上げ歩き始める。3、4歩ほど進み、路地の中へ身体を入れた。俺はその後に続く。

 建物の陰から路地を覗き見る。犬伏さんが立ち止まっていた。彼女の背中に向かって歩を進める。はあーっと大仰なため息が目の前から聞こえると、犬伏さんはこちらに向き直った。俺は立ち止まる。

「……あいつには、絶対に言わんでよ」

 そんな言い方をするということは、話してくれるということだろうか。俺は頷いて答える。真剣な目で俺を見ていた犬伏さんは、目線を外して言葉を発した。

「……子どものころ、オーボエ吹いてたの、私……」

「え!」

 俺は素直に驚く。たしか犬伏さんは、フルートだったはず。オーボエということは、清果と同じだ。

「……私の腕前は凄かった。同世代には絶対に負けないって自負してた。そのくらいの実力があった。私が一番やって。小6の時に出場したコンクール。小5の時に私はこのコンクールの管打部門で優勝した。だから連覇がかかっていた。それは間違いなく達成できると思った。現に他の演奏を聴いて、私が一番である自信は揺るがなかった。……でも、最後の演奏者であいつが登場した。オーボエから音が出た瞬間、会場の雰囲気が変わった。出場者、観覧者、審査員、その場にいる全ての人があいつの奏でる音に魅了させた。私もその一人だった。音の正確さは私が上やった。やけどあいつの音は、綺麗だった。聴いている人を惹きつける、魅力的な音色……」

 ここまでまくし立てるように一気に話すと、犬伏さんは小さく息を吐いた。襟足を掴むと、軽く引っ張った。

「……コンクールでは楽譜通りに正確に演奏する技術が求められる。だけど、それだけじゃ人の心は掴めない。……あ、私はこの人には敵わない。私の自信は砕け散った。……私は、オーボエを手放した……」

 大きくため息をついて、手のひらで自分の頭を小突く犬伏さん。彼女の眉間に、再びしわが寄り始める。

「……私はオーボエが好きやった。あいつは、私から好きなものを奪った。……だから私は、あいつを許せないの……」

 俺はここまで黙って犬伏さんの話を聞いていた。身体の中に、沸々と沸き上がるものがあった。彼女は何を言っているんだ。彼女の発言は、おかしく感じる。だって、それって……。

「……八つ当たりじゃないか」

 自然と言葉が口を衝いた。犬伏さんは、話している間ずっと逸らしていた目をこちらに向けた。

「それって、ただの八つ当たりだよな」

 口調が強くなっているのを感じた。俺は怒っていた。ここまで誰かに怒りを覚えたのは初めてかもしれない。

「……分かってる……」

 犬伏さんの声が耳に届く。それはとても弱々しいものだった。今までの彼女からは想像もできないような声。俺は自分を落ち着かせるように、小さく息を吐いた。

「勝負に負けたから許せないって、そんなの自分勝手でしょ。自分よりも上手な人がいることは、誰にだってありえることだし、自分が実力が下だったからって、その相手のせいみたいにするのはお門違いで…」

「分かってる!」

 犬伏さんの叫びが、俺の身体を震わせた。彼女のそれは、怒りからくるものではないように聞こえた。心に溜め込んでいた苦いものを、吐き捨てるような声色。そう感じたからだろうか。犬伏さんの思いを聞きたいと、俺は口をつぐんだ。

「……そんなこと、言われんでも分かってる。分かってる……分かってるから、悔しいんよ。どうにもならないむず痒さ、やるせなさ。……誰かに当たったってどうにもならない。……だから苦しいんよ……」

 涙を堪えるように言葉を発する。犬伏さんの清果を嫌っている理由は自分勝手なものだ。でも改めて考えてみる。人を嫌う理由なんてものは、みんな自分勝手なのかもしれない。嫌いになる時に、相手のことを考える人なんていないはずだ。自分勝手なのは、みんな同じ。

 犬伏さんは俺を見た。意識を頭の中から外へ向ける。彼女の目には光るものがあった。俺は小さく息を呑んだ。

「あなたに分かる?私のこの気持ち、あなたに理解できる?」

 犬伏さんの眼差しは、睨むというより、縋るという表現に近いように感じた。誰かに分かってほしい、共感してほしい。そう訴えているように思えた。俺は言葉を探す。

「……俺は楽器は弾けないし、ライバルみたいな人もいない。だから、その苦しさは、正直言って分からない。……だけど、俺も好きなものとか、強い想いを持ってるものはあるから、好きなものへの強い気持ちは理解できるよ」

 犬伏さんの眉間から、しわが消える。俺の目を気にすることなく、袖で目元を拭った。

「好きなことなら続けるべきだよ。音楽って、人を楽しませたり、自分の想いを表現するものなんでしょ?コンクールでは、どうしても勝ち負けがついてしまうのかもしれないけど、音楽の本質とは違うわけでしょ?犬伏さんもオーボエが好きなんなら、続けなよ。勝てる負けるなんて気にしないで、オーボエやりなよ」

 俺が言えるのは、こんなことぐらいだ。これで少しでも犬伏さんの気休めになるのなら、それでよかった。いつの間にか、彼女のためになればいいという思いが生まれていた。

 はあーっと、犬伏さんは大きくため息を吐きながら項垂れた。そして髪を掻きながら顔を上げる。

「あなたさっきから、ずっと大きなお世話状態だってことは自覚してる?」

 嫌みを言っているのだが、犬伏さんの声からとげとげしさがなくなり、少し柔らかい口調となっていた。なんだか今までの自分の発言が恥ずかしくなり、頬を指で軽く掻いた。

「……猿島さんは幸せ者やな。こんなに気にしてくれる人がおって……」

 声量は小さかったが、俺の耳にその言葉は届いた。

「……もう帰るわ」

 犬伏さんはそう言って、俺のほうへ向かって歩き出した。彼女の通り道を空けるため、身体を左側へ寄せる。すれ違い際に立ち止まり、彼女は俺の顔を見た。

「……あいつには、絶対に言わないでよ」

 犬伏さんから、威圧感がなくなっていた。


「牛田、寝てんの?」

 女性の声が聞こえてきた。ん?寝てる?そう言われてみれば、真っ黒の世界が広がっている。ゆっくりと瞼を開く。机の上に腕と頭をのせている。この時、自分が寝ていたことに気が付いた。

 部室で卒業アルバムの写真選びを行っていた。その作業はほぼ終了した。後は卒業式の写真を撮って選別する。そうすればレイアウトは完成。それを業者に渡し、アルバムを作ってもらう。

 部室から出た後、忘れ物を取りに教室に戻ったところまでは覚えている。その時に眠ってしまったのかもしれない。顔を上げて声の主を探す。益城だった。

「疲れてんの?」

「うーん、そうかも……」

 身体の預け先を机上から背もたれに移すと、両目を擦った。

「部活に励みすぎやろ」

 それはある。でも作業は一段落したので、今後は落ち着くだろう。だから疲れが今になってどっと出たのかもしれない。でもこの疲れは、なんだか少し気持ちがよかった。

 身体を目覚めさせるべく、大きく伸びをする。益城は俺の前の席に腰掛けた。小さく息を吐いて彼女に目を向ける。目に入った顔は、楽しそうな、嬉しそうな、そんなウキウキした表情をしている。

「なんかいいことあったの?」

 その質問に、よくぞ聞いてくれた!と言わんばかりに、こちらに嬉々とした顔を向けた。

「牛田に伝えておきたいことがあってさ」

「え、何?」

 益城は満面の笑みを浮かべた。

「私、しゅうちゃんと付き合うことになったよ」

「え!マジ?」

 不意を食らった俺は、ただただ驚いた。二人は仲直りできたってことか。もしかしたら、互いの想いをぶつけ合って、それで付き合うことになったのだろうか。

「益城が告白したの?」

「まさか、私にそんな勇気ないよ」

 首を振る益城。

「じゃあ淡路に告白されたってこと?」

 益城からじゃないのなら淡路からに決まっている。そう思ったが、彼女は、うーん、と小さく首を傾げながら腕を組んだ。ここは考えるようなところなのか?

「……告白っていう告白ではなかったような……」

「……ん?」

 言っている意味が分からず、俺も首を傾げてしまう。益城は俺に視線を戻すと目を細めた。

「まあ恋愛の形は人それぞれってことやよ」

 恋愛の機微に全く触れることができない俺からすると、正直よく理解できない。でも益城の想いが叶ったってことが、素直に嬉しかった。

「よかったね。おめでと」

 俺の言葉を受けて、益城は照れ笑いを浮かべた。

「あんたのおかげでもあるんよ」

 そう言って益城は、俺の肩を軽く押した。

「俺は何もやってないけど」

 俺の否定に益城は首を横に振った。

「私の話、懲りずに聞いててくれたやろ?それだけでも気が楽になれたから。ありがとう」

 ニカッと益城は白い歯をみせて笑った。ありがとう、という言葉は、相手に嬉しさとこそばゆさを与える。それが入り混じった顔で俺は頷いた。

「なんだ、ここにいたんか」

 その声に反応した俺たちは、揃って声がした方向に顔を向けた。教室のドアの外から淡路がこちらを笑顔で見ていた。

「しゅうちゃん!」

 嬉しそうな声と共に益城は立ち上がる。淡路は中に入ると、益城の横に並んだ。前から思っていたことだが、二人はお似合いだ。なんだか、からかいたい気持ちになる。

「わざわざ探してまで彼女のお迎えか?色男」

「おうよ」

 淡路は屈託なく笑った。からかわれていることは察しているのだろうが、言葉をそのまま素直に受け取ることができるのは、彼の強みだ。俺の作戦は失敗に終わったが、悔しさはなかった。

「今度は牛田の番やな」

 益城の言葉に、小首を傾げる。

「ん?何が?」

「早くさやに告白しなよ」

「え!なんで?」

「なんでって、好きってことに気付いたんやろ?」

 益城にはまだ話していない。俺は淡路に目線を向けた。

「ちょっと、勝手に…」

「まあまあいーじゃんか。俺らの仲やろ」

 はぐらかすように、俺の言葉尻に被せてきた。まあいいけどさ、と俺は小さくため息をついた。

「俺らを頼っていいからな。いくらでも、なんだって協力してやるよ!」

 淡路の言葉に続いて、益城が親指を立てた。そして、笑顔をシンクロさせた。二人とも、からかいが混じっている。ちょっとめんどくさいかも。そんなふうに感じた俺は、苦笑で答えることしかできなかった。


 耳をつんざくようなアラーム音により、俺は目を覚ました。この音にはもう慣れた。おもむろに起き上がりベッドから離れると、頭を掻きながら机の上の携帯に指をのせる。音が止まったのと同時に、俺はため息をついた。

 今日もあいつがいなくなった時の夢を見た。いつもよりも鮮明だった。それはこの日が、卒業式の日だからだろうか。日付は違うが、去年の中学の卒業式の日に、あいつはいなくなった。

「……1年経つんだな……」

 ぼそりと呟く。早かったような、長かったような、どうだったのかはよく分からない1年だった。でも、充実していたことは間違いない。あいつといた日々に負けないくらいに満たされた日常。

 身支度を整え、いつもより早く家を出る。先生方や卒業式の実行委員の人との、段取りの最終確認をするためだ。俺は在校生としてというよりは、カメラマンとして卒業式に参列する。

 去年と違い、前日は雪は降らず今日も降っていない。二日とも快晴だ。しかし気温が低い。風もあるため、体感温度はかなり低いだろう。猫背気味に身体を少し丸めて、学校への道を歩く。

「……そっか。石川先輩も今日で卒業か」

 先輩は3年生なのだから当たり前のことなのだが、無意識に言葉が口から出た。コートのポケットに入れていた手をズボンのポケットへつっこむ。中から携帯電話を取り出す。でも、何も操作をすることなくポケットに戻した。

 クリスマスに告白された後も、先輩との関係は続いている。気まずくなることもなく、先輩は以前と変わらない笑顔をみせてくれていた。先輩が卒業すれば、会える機会は減ってしまう。だから、ちゃんと伝えよう。


 卒業証書を受け取った卒業生たちは、正門前や中庭などに集まっている。周りを家族や在校生の後輩たち、先生方が囲んでいる。

 卒業生同士で別れを惜しむように抱き合っていたり、後輩からの言葉に涙していたり、逆に感極まって泣いてしまった後輩を慰めていたり。卒業式終わりのお約束の光景。でも俺は、それを生で見るのは初めてだ。

 カメラを向けると、様々な表情が返ってくる。笑顔でピースを向ける女子二人組。目を腫らして崩れた顔の人を両側から挟んで笑っている男子三人組。髪形を整える気持ちの余裕のある人もいれば、泣きじゃくったありのままのボロボロの姿で写真に収まる人もいる。この場は、先輩方のいろんな思いで溢れている。

 でも足りない。あの人の思いが、この場所にはない。

 正門前、中庭に石川先輩の姿はない。グラウンドを覗いてみたが、そこにもいない。校舎の中を探して歩き回っていると、入学当初の時のことを思い出した。

 学校の敷地内をぶらぶら歩いている時、正門から一番遠い、校舎の間裏に狭小の芝生の空間を見つけた。入学式の翌日のことだったが、それ以来そこには行っていない。

 校舎内の全てを探したわけではないが、あの場にいるのではないかと思い、そこへ向かって足を進めた。

 話し声が徐々に小さくなることと反比例して、風に晒された木々の音が大きくなっていく。校舎の角とフェンスの間。そこを通り抜ければ目的地となる。

校舎の陰から身体を露わにする。俺の予想は的中した。石川先輩が、そこに立っていた。空を見上げている。なんだか声がかけづらい雰囲気があった。でも、ちゃんと伝えなければならない。ゆっくりと歩み寄る。

「石川先輩」

 声に気付き、こちらに顔を向けた先輩は、すぐに笑顔になり手を挙げた。

「こんなところで、どうしたんですか?」

「ちょっとね、独りになりたかったの。さすがに校舎裏には誰もいないね」

「あ、じゃあ邪魔しちゃいましたか?」

「ううん。牛田くんは別」

 ニカッと笑った先輩。牛田くんは別。その言葉が、俺の胸をドキッとさせる。遠くのほうから微かに声が聞こえる。先輩は卒業証書を挟んでいる青色の冊子の他に、小さな花束を持っている。後輩から贈られたものなのだろうか。

「あたしのこと、探してたの?」

 少しの沈黙の後、先輩が口を開いた。俺は頷く。

「ちゃんと伝えたかったんで」

「何を?」

「ご卒業、おめでとうございます」

 俺は大きく礼をして、頭を上げた。先輩は少し面食らった表情をしていたが、微笑んで小さく頷いた。

「ありがとう」

 少し恥ずかしくなった俺は、誤魔化すように首から提げたカメラを捕まえる。

「写真、いいですか?卒業アルバムにも使うんで」

 先輩は頷いた。俺は備品のミラーレスを構え、ファインダーを覗く。先輩は卒業証書を顔の横に掲げると、満面の笑みをみせた。シャッターを切る。撮った写真は、瞬時に液晶画面に表示される。

「どうどう?」

 石川先輩が俺の隣まで小走りで近寄る。画面を見せた。

「お、いいね。これ、個人的にも送ってくれない?」

 俺は頷いて返事をする。笑顔だった先輩の表情が、少しだけ曇った。

「牛田くんとこうやって、簡単に会ったり話したりするのができなくなるんだね」

「そうですね。……寂しくなりますね」

 俺の言葉に、大げさなリアクションを取る先輩。身体を反って、手をひらひらと振る。

「またまた~。そんなこと言っちゃって。あたしの話し相手にならずに済むから、せいせいしてるくせに」

 俺は首を横に振る。

「いえ、そんなことないです」

「ほんとにぃ?」

「ほんとです」

 俺はふと、昔あいつに言われた言葉を思い出した。あの時の状況と、ちょっとだけ似ている気がした。

「先輩と話すの、楽しかったです」

「……楽しかった?」

 面食らった先輩の表情。俺は頷く。

「あたしの愚痴だったり、一方的に話してばっかだったのに?」

「はい」

「それでも……楽しかったの?」

 先輩は疑り深いのだろうか。それとも俺のように、自分に自信がないのだろうか。どっちにしろそうであるならば、自分の気持ちをちゃんと伝えよう。俺が、あいつや友達から言われて嬉しかったように。

「先輩の話、聞いてて面白かったです。それに、俺は器用な人間じゃないんで、一緒にいて楽しくない人の話を、聞き続けたりできないですよ。……先輩との時間は、大切な時間でした」

 びゅーっと風が吹き付けた。まだまだ冬の匂いが残る風は、身体に寒さを伝える。風が強かったため、俺は一度顔を背けた。そして視線を石川先輩に戻す。彼女の頬が朱色に染まっていることに気が付いた。

「もう!」

 先輩は大きな声で叫ぶと、卒業証書で顔を隠した。

「え?」

 突然のことで、俺は慌ててしまった。なんだ?どういうこと?なんと言えばいいか分からずあたふたしていると、また先輩が叫んだ。

「そういうとこやよ!」

 ますます分からなくなった俺は、戸惑った表情で片眉を上げる。ふーっと長く息を吐いた先輩は、ゆっくりと顔の前に掲げた証書をどかす。

「人を褒めたり、相手が喜びそうなことを言えちゃうところ。君のそういうとこに、あたしは惚れたんよ」

 先輩は相好を崩した。彼女に告白された時は、理由だとか、どこを好きになったのかなどは言われなかった。俺も聞かなかった。ここでそれが判明するとは思いもしなかった。とんだ不意打ちを食らい、俺の顔も赤くなる。

 何度か目を瞬かせ、泳がせた。なんと言って返せばいいのか分からない。俺の焦っているところを見てだろうか、石川先輩は小さく吹き出した。

「あたしも、牛田くんと話すの、楽しかったよ」

「あ、はい……」

 俺は再び目を泳がす。他にも伝えたことがあったのに、頭が混乱してうまく言葉が出てこない。

「あ……えっと……あ、そうだ。佐城大学のオケサークルに入るんですよね?」

「うん。その予定」

「演奏会とかあったら教えてください。観に行きますから」

「もし見つけたら、また愚痴聞いてもらうかもよ?」

 先輩は少し嫌みな笑みを浮かべた。俺は微笑んで小さく頷いた。

「もう慣れてますから」

 ははっと小さく笑い声を上げた先輩。その後に小さく息を吐くと、真っ直ぐな目を俺に向ける。

「卒業記念に、プレゼントくれない?」

「えっと、どんなのですか?」

「ハグ……」

 先輩の声は小さかった。でもちゃんと聞き取れた。それでも俺は聞き返すように小さく首を傾けた。

「……ん?」

「一度だけでいい。ハグしてもいいかな?」

 ハグ。それは英語で、抱きしめることを意味する。先輩は両手を斜め前に向けた広げた。

「……あ、えっと……まあ、はい……」

 なぜか断ってはいけないような感じがして、俺も両手を広げた。先輩はゆっくり距離を縮め、俺を抱きしめた。

 石川先輩は背が低い。俺も低いが、20センチほどの差がある。そのため、彼女の頭は俺の顎の辺りにある。俺の身体にすっぽり収まるサイズ。俺の心臓はかなり早く動いている。先輩の耳はちょうど俺の胸辺りにある。たぶん俺の鼓動は、彼女に筒抜けだ。

 清果のことを抱きしめたことがあった。でもあの時は、勢いに任せていた。なのでこんなふうに改まって、しかも女性に抱きしめられる形は人生で初めてだ。そのため、どうすればいいか分からない。いつもより瞬きの回数が多い。この場合、抱きしめ返したほうがいいのだろうか。

「……何もしなくていいよ」

 俺の心を見透かしたように、石川先輩がそう言った。

「何もしないで、このままでいて……」

 その言葉に俺は従った。従うことしかできなかった。

 小さく息を吐くと、先輩は密着していた顔と身体を離した。彼女の顔が、数センチのところにある。マフラーの隙間から見える首から耳まで、先輩の露出している皮膚は、全てが真っ赤だ。絵具で塗りたくったように。たぶん、俺もそうだ。俺の腰に回した手を離すと、一歩二歩と先輩は後退していく。

「ありがとう。最高のプレゼントになった」

 先輩の顔を見るのが恥ずかしくなり、目を伏せてしまう。

「あ、はい。なら、よかったです」

 ゆっくり視線を上げる。先輩の微笑が目に入った。彼女は、よし、と声を出した。

「じゃあ、そろそろ行くね」

 俺も微笑んだ。そして小さく頷く。

「はい。また」

 先輩は目を細くする。

「うん。またね」

 くるっと背を向けると、いつも通り手を前後に大きく振って歩き出した。

 最後の声は、上ずっていた。もしかしたら、泣いているのかも。それを俺に見せたくなかったのか、一度もこちらを振り返らず、校舎の陰に消えていった。


 卒業アルバム作成を終え、展覧会の写真も応募し終えた。カメラマンとしての活動がようやく落ち着いた。誰かのために、何かのために写真を撮るのは、部活を始めてからのことだ。自分のペースでできないことは大変なことではあったが、とても楽しい日々だった。

 仲里先生からもらった数学の参考書を開いている。これは解説が分かりやすく記されており、君にも理解しやすいかも、と言っていた。たしかに今まで見てきた参考書よりは頭に入りやすい。でも、それですぐに数学力が高まるわけではない。地道に勉強していくしかない。当たり前のことをあらためて思った。

 紅茶のパック飲料に挿したストローを咥えていると、携帯の通知音が鳴る。清果からのメールだ。今どこにいる?との内容だったので、食堂にいる、と返事をした。間もなく、彼女がここに来る。

 参考書を閉じて、背もたれに身を預ける。小さく息を吐いて、天井を見上げる。蛍光灯が目に入り、眩しさに目を閉じた。今ここには俺しかいない。静寂が俺を包んでいく。

「幸くん」

 柔らかい声が耳に届き、俺はゆっくりと目を開いた。清果の顔がそこにあった。

「眠ってた?」

 俺は小さく首を横に振り、顔を自然な位置へ戻す。隣の椅子に腰掛けた清果のほうに顔を向けた。彼女は何やら心配そうな表情でこちらを見ていた。

「ん、どうしたの?」

 小首を傾げる。清果は苦笑をみせた。

「勘違いやったらごめんね。最近、元気がないように見えて。卒業式終わった後ぐらいの時から」

「あー……」

 元気がない自覚はなかったが、清果がどうしてそんなふうに思ったのか、なんとなく見当がついた。なので俺も苦笑を浮かべる。

「部活でけっこう忙しく動いていたからさ。活動が落ち着いて、なんかこう、気が抜けたっていうか」

「燃え尽き症候群、みたいな?」

「うーん、どうだろ……」

 俺は腕を組んで視線を正面に向けた。燃え尽きたという感覚はない。今までと違って、写真よりも集中して考えたいことがある。顔の向きを清果へ戻す。

「まあでも、元気がないってわけじゃないから。心配しなくていいよ」

「そっか。ならよかった」

 清果は小さく笑みを浮かべた。

 考えたいこと。それはあいつのことだ。夢を見る回数が少なくなったとはいえ、あいつがいなくなった時の想起はまだ続いている。あいつが何かを訴えようとしているのかもしれない。そう考えるようになった。だから、それが分かれば、あいつの許しを得られるのではないか。今のところ、その訴えについては皆目見当がついていない。

「……帰ろっか」

 俺の発言に、清果は頷いた。

 俺と清果は、正門を境に通学路が逆方向となっている。なので一緒に帰ることになったとしても、それは正門までだ。昇降口で靴を履き替える。何人かの生徒に追い越されながら、清果と正門を目指す。

「あの、すみません」

 女性が目の前に現れた。俺たちは足を止める。中年のその人は、俺に目を向けている。呼び止めたのは清果ではなく、俺であることが分かった。でも、この人のことを知らない。

「不躾で申し訳ありません。あなたは、牛田幸さん、でしょうか?」

「え?あ、はい」

 俺は驚いた。この人は俺のことを知っているらしい。顔を見ながら、頭の中の引き出しを必死に探す。でも、この人の記憶がない。女性は俺から視線を逸らすと、目を泳がせた。何か不安がっているように見られる。目が俺に戻ってきた時、ハッとした。あれ?この目、どこかで見たような……。

「……猪野早苗のこと、覚えていますか?」

「え!」

 思わず大きな声が出た。なぜ、あいつの名前が出たのだろう。頭が少し混乱してきた。

「親川中学校にいた、猪野早苗です。覚えていますか?」

「……あ、はい」

 俺の返事を聞き、女性は安堵したように口角を上げた。怪訝な表情で見据えていると、女性は少し頭を下げた。

「初めまして。私は、猪野早苗の母です」

 俺は目を見開いた。この人は、あいつのお母さん……。

「あなたに渡したいものがあって、ここに来ました」


「どうぞ」

 写真同好会の部室に、あいつのお母さんを招き入れた。お母さんの首には、さっき事務員さんから受け取った入校許可証が提げられている。あいつのお母さんだと知ったうえで見てみると、目はそっくりで歩き方もあいつを連想させる。

 うちはいないほうがいい、と清果は辞去した。さすがに同席できないと、気を遣ってくれた。気持ちの整理がつかないまま、俺はお母さんに、座ってください、と伝えた。

 最初に俺の頭に浮かんだのは、謝罪の言葉だった。

「あの、告別式にも行けず、申し訳ありませんでした」

「いいえ、謝ることではないわ」

 お母さんは微笑を浮かべてそう言ってくれた。部屋の中を、キョロキョロと見渡した。

「カメラ、好きなのね」

「あ、はい」

「あの子も喜んでいると思うわ」

 あの子とは、もちろんあいつのこと。

さっき、初めまして、と言われた。俺の記憶の中になかったのは忘れたからではなかった。でも、俺のことを知っていた。

「……あの、俺のことは猪野…いや早苗さんから聞いていたのでしょうか?」

 お母さんは首を横に振った。

「聞いてはいなかったわ。あの子が死んでから、あの子の部屋のものは触らずに置いたままにしていたの。だけどもう一年経つから、区切りをつけようと思って整理を始めたの。そうしたら……」

 お母さんは鞄に手を入れると、一冊のノートを取り出した。A6サイズくらいの小さなメモ帳。ページをめくったそれを、俺に差し出した。それに目を落とす。そこには『牛田、瑞希高校合格‼』と書かれている。あいつが何かを書いているところを、俺はあまり見たことがなかった。なので文字に見覚えがわるわけではないのだが、そこからあいつ匂いがしたように感じた。

「あと、これも」

 次にA4サイズの青色の冊子が前に置かれる。その表紙には『幸せの苗』と書かれている。ゆっくりと表紙をめくると、思わず吐息が漏れた。

 そこには、一ページに二枚ずつ写真が貼られている。その写真たちのことを、俺は知っていた。これは俺が撮った写真。あいつにあげた写真。めくっていくたびに、あいつとの会話が頭をよぎる。

「……これ、俺が撮った写真」

 俺は頭を上げた。お母さんは頷くと、次めくって、と促した。言われた通りめくると、俺は目を見開いた。

 見開きの左側のページには『My Favorite』と書かれており、右側のページには一枚の写真。それは、あいつが左手でカメラを持って自撮りしている写真。右手はピース、顔は満面の笑み、その右隣には油断して間抜けな顔をしている俺。

 俺のお気に入りの写真を、あいつも気に入っていたなんて。少し、目が熱くなるのを感じた。

「……あの、さっき言ってた渡したいものっていうのは、これのことですか?」

 俺の問いに、小さく首を振る。

「渡したいのは、こっち」

 今度は白い封筒だ。表には『牛田幸様』と書いてある。裏返すと『猪野早苗』の文字。

「これって……」

 顔をお母さんに向ける。目を細めて小さく口角を上げた。その表情も、あいつと似ている。

「あの子の机の引き出しにあったわ。あなたに宛てて書かれた、あの子の遺書」

「遺書……」

 事故と処理されたあいつの最後は、俺の思ってた通り自殺だったということか。少し、手が震える。

「先に読ませていただいて、これは絶対にあなたに渡さないといけないって思ったの。メモとアルバムを見て、あの写真に写っている男の子が、牛田幸くんだと確信を持ってあなたに会いに来たの」

 俺は目を瞬かせて、封筒に目を落とす。

「……読んでも……いいですか?」

「もちろん」

 お母さんの声を聞き、俺は封筒を開いた。中から便箋を取り出す。手の震えが増している。怖さがあった。俺が求めていたあいつからの返事が、ここにあるかもしれない。知るのが怖かった。でも知りたい。あいつと向き合いたい。あいつの想いを知りたい。あいつの全てを受け止めたい。

 大きく長く息を吐くと、四つ折りにされた便箋を開く。二つ折りの状態からもう一度開く。俺の目の先に文字が現れた。俺に向けてしたためられた、あいつの文字。俺は目を閉じ、唾を飲み込んだ。小さく息を吐き、遺書に目を落とした。


『拝啓 牛田幸様

 牛田が今これを読んでいるということは、私はもうこの世にはいないってことだね。卒業式で会って一緒に帰ったのに、まさか死ぬとは思いもしないよね。

 最初に謝っとくね。勝手に死んじゃったりしてごめんなさい。牛田には言っておくべきかなって考えたんだけど、牛田だから言えなかったんだ。

 私、自分の人生に悲観してたの。明確な理由はなくて、ただ漠然と。独りでいると、かなり窮屈に感じちゃって、とても苦しい思いで過ごしてた。

 今まで何度も死のうとした。首を吊ろうとしたし、ベランダから飛び降りようとも考えた。いつもお父さんやお母さん、お兄ちゃんに止めてもらってた。家族には迷惑しかかけてない。だからもっと、死んでしまいたいって考えてしまうの。自分で自分の首を絞めてるんだよね。理解してるんだけど、どうにもならない。

 でも、気付いたことがあるの。死にたいって思ってしまうほど苦しい時って、自分一人だけでいる時だけだって。家族とか学校の友達とかと会って話をしている時は、死にたいとか苦しいとか、そう思うことはない。逆に、凄く楽しいって感じている。それに気が付いた。

 私は、誰かと関わることで、誰かと話をすることで、正常な状態を保とうとしてる。だから私は友達をたくさん作って、死なないように生きていける空間を作ろうって考えたの。

 いろんな人といろんな話ができるように、勉強は頑張ったし、テレビ観たり雑誌読んだりして流行を知ろうとした。

 誰かとつながっている、つながろうとしている。それが私を支える大黒柱だった。

 そのおかげで、友達がたくさんできた。学力もトップクラスになれた。生徒会の役員に推薦されるくらいの人望もできた。これで大丈夫。私はもう潰れたりしない。そう思った。

 でもね、心は頭が考えるような状態にはなってくれなかった。

 人といることが楽しくなるにつれて、独りでいる時との気持ちの落差が大きくなっていくの。どんどん、どんどん。こういうのを皮肉って言うのかな?

 これからどうしよう。また、死んでしまいたい思いが大きくなりそうになったころ、ある人と出逢った。

 誰だと思う?あなただよ、保健室くん!

 この前はどこまで話したかな?もう覚えてないから最初から話すね。

 牛田は、朝早くに登校してたでしょ?私は役員の活動で早めに登校する時があったから、時々見かけてたんだ。その人は誰だろう。何年生だろう。なんで早くに登校してるのだろう。どんな人なのか気になってたの。

 廊下を歩いている時、たまたま牛田が保健室に入るところを見たことがあったの。体調不良かなって思ったけど、それから何度も保健室付近で見るようになったから、思い切って保健室の田中先生に聞いてみたの。あの人のことを知りたい、できるなら話してみたいって。

 先生は乗り気じゃなかった。でも私がしつこかったから、条件を出されたの。会って話してもいいけど、彼が嫌がるようなら、付きまとったりはしないでって。

 私は了承した。そして、牛田のことを聞いた。

 小学生のころから保健室登校をしている。心に傷を抱えていて、窮屈な思いをしているかもしれない。先生から言えるのはそれだけ。あとは彼から直接聞いて。毎日保健室に通っているから。

 それを聞いた時、もしかしたら私と似た境遇かもしれないって思ったの。失礼だよね。死ぬことを考えている人と似てるなんて言って。話すようになってから、そんなことはないって分かったんだ。

 決心して保健室に向かっていたら、牛田が廊下にいるところを見つけた。名前は先生から聞いていた。だけど、本人の口から名前を聞きたいなって思ったの。だから、保健室くんって呼んだんだ。雑でごめん。

 正直、嫌がられるかなって思ったけど、牛田は意外に落ち着いてたね。戸惑っていたのは分かったけど、拒否されているようには感じられなかった。だから、これからも会いに行こうって決めたんだ。

 友達になって、話す機会も増えていって、牛田と話しているのが楽しかった。でもね、他の友達とはちょっと違う感覚だったんだよね。

 牛田の表情とか仕草とか、発する言葉とかに、ドキッとすることがあるの。この感覚は、他の友達と話している時には生まれない。牛田の時だけだった。

 一度、田中先生に相談したことがあったの。これって何でしょうって。そしたら先生は、笑顔で言ったの。

 それは恋かもしれない。猪野さんは、牛田くんのことを好きになったのかもしれないよ。そう言ってもらった。

 私は今まで、誰にも恋をしたことがなかった。たぶん、その感情は私には生まれないって諦めてた。でも私にも生まれた。これが恋なんだって初めて分かった。牛田のことが好きなんだって気付いた。

 牛田にとって私は、友達第一号だったでしょ?私にとって牛田は、好きになった人第一号だったんだよ。

 そう。初恋の人。好きになった、最初で最後の男の子。

 牛田~、いる~?

 私が保健室に入る時、決まってこう言ってたのは気付いてた?私が入ってきたってことを牛田にすぐに分かってもらえるように、いつも同じ言葉を言ってたの。

 牛田はたいてい、無表情で手を挙げて応えてくれてたよね。素っ気ないなあって思ってたんだけど、それが少し気持ちよかったんだよね。余計に心をくすぐられるというか。

 私ってMなのかな?気持ち悪いこと言ってるね。まあいいか、ここで私のことを全て伝えようって決めたから。

 楽しかったけど、不安にも思ってたんだ。

 私って、凄い我がままだったでしょ?牛田は私のこと、嫌がってるんじゃないかとか、煩わしいって思ってるんじゃないかって。

 嫌そうな顔をしたりもしてたよね。だけど、いつも私の話を聞いてくれてたよね。好かれているかは分かんないけど、嫌われてはいないのかもって思った。

 そのうち、牛田のほうからも私に質問したり話しかけてくれるようになって、大丈夫、嫌われてはないぞ、だから楽しもうって考えるようにしたの。

 今更だけど、大丈夫だよね?私のこと、嫌ってはいないよね?そうであることを切に願います。

 牛田といる時間は、本当に楽しかった。私の人生の中で、一番楽しい時間だった。

 でも、やっぱりダメだった。また、私の心は不安定になっていった。牛田といることが、楽しすぎたのかも。これじゃあ牛田のせいって言ってるみたいだよね。もちろん、そんなことはないからね。書き方が悪いよね。ごめん。

 牛田がいなくなったら、私は絶対に生きていけなくなる。だから同じ高校に進学しようと考えたこともあった。そして、同じに大学に進む。そうすれば、牛田のそばにいられる。

 でも、それって私の勝手だよね。我がままってもんじゃない。自己中でも表現しきれてない。いつの間にか、牛田のことを自分が生きていくための道具のように考えるようになってたの。

 それはダメ。そんなことは許されない。

 牛田には、牛田の人生がある。そんなことは当たり前。友達のいなかった牛田にとっては、私は必要とされている部分があったかもしれない。でもこの先、どうなるか分からない。

 高校に進学すれば、牛田に新しい友達ができるかもしれない。そうなれば、私はそこまで必要とされなくなるかもしれない。でも私は、この先もずっと牛田が必要。そうなれば、私は牛田の人生を邪魔することにもなる。

 そんなことで牛田に迷惑をかけたくない。そんなことしてまで、生きる必要はない。

 牛田はいい人だから、この話をしたら、たぶん私を気遣ってくれたと思う。もしかしたら、この想いを背負ってくれたかもしれない。

 でも、それも嫌だった。牛田がたとえ迷惑じゃないって言ってくれたとしても、重みになることは目に見えていたから。

 牛田だって自分の苦しみと戦っているのに、私の苦しみを知ったら、今以上に窮屈になる。そんなことは絶対に嫌。牛田には、自分の人生を大切に、楽しんでほしい。

 そして、牛田との思い出は、楽しい思い出のままで終わらせたかった。私の中の牛田には、私の思い通りの牛田のままでいてほしい。だから、死ぬことを伝えることはしなかった。

 結局は、自分のためなんだよね。やっぱり私は、我がままな女だ。

 牛田は私のことを嫌ってなかったとしても、うるさいとか、面倒な奴だとかって思ってたかもしれない。だけど私は、牛田のことが好きだったよ。大好きだった。いや、だったじゃないな。死んでからも牛田幸のことが好き。ずっと大好き。

 出逢ってから死ぬまで、ずっと我がままでごめんね。我がままに付き合ってくれて、ありがとう。

 最後まで私らしく、我がままのままで終わろうと思います。

 私が死んでも、他に友達ができても、誰か好きな女の子ができても、私のこと、忘れないでいてね。

 卒業式の前の日、カメラ続けてとか友達作ってだとか言ったけど、やっぱり牛田には、私のこと忘れてほしくない。

 これが、私の最後の我がまま。ちゃんときいてね!

 それじゃあ‼

                              敬具 猪野早苗』


 あいつのお母さんが帰り、部室には俺一人。遺書を封筒に戻し、それを机上に置いて眺めている。

 あいつは卒業式に出た後、自殺するつもりだった。ということは、朝の滑落は事故で間違いなかったということか。

 俺への遺書は家の机の引き出しにあったということは、学校で渡すわけではなかった。一緒に帰ろうと言ったのは、家に帰った時に俺に手渡すつもりだったということか。

 あいつが死にたいほどの苦しみを抱えていたなんて、思いもしなかった。そんなこと、全く気が付かなかった。

 そしてあいつは、俺のことを好きでいてくれた。それにも気付けなかった。

 俺は今、自分がどんな気持ちなのかがよく分からない。いろんな感情が絡み合い、せめぎ合っている。忙しなく動く眼球。手のひらが汗ばんでいる。息が少し苦しくなってくる。

 目をぎゅっと瞑った時、部室のドアがゆっくり開いた。足音がこちらに近づいてくる。音が聞こえなくなったと思ったら、今度はパイプ椅子が引かれる音がした。

「……幸くん、大丈夫?」

 目を開く。左に顔を向けた。そこにいるのは清果だった。

「……帰ったんじゃなかったの?」

「幸くんが心配やったから。……たぶん、誰かがそばにいたほうがいいんやないかと思って……」

 その言葉をきっかけに、俺の目から涙が零れた。俺は今まで、涙を流した記憶がない。あいつがいなくなった時ですら、出てくることはなかったのに。

 一度出たそれを自分の意思で止めることはできない。どんどん、どんどん、目から液体が流れ出ていく。

「……馬鹿だ。……俺……馬鹿野郎だ……」

 最初に溢れてきた感情は、自分への怒りだった。あいつは俺を恨んでいる。そんなふうにあいつのことを考えていた俺が、腹立たしくなった。あいつはそんなこと、思っていなかった。あいつの想いを、俺は踏みにじってしまっていた。俺は何も気付いてやれなかった。

 馬鹿だ。大馬鹿者だ。

 怒りが出てくると、自分の中にある様々な感情が昂り出す。声を抑えることができない。鼻水も顔を出してきた。

 むせび泣く俺。そのまま崩れてしまいそうになった時、俺の身体を何かが包み込んだ。それがなんなのか分からなかった。身体が徐々に温かくなっていく。柔らかい感触。すぐ近くで吐息が聞こえる。それでようやく、清果の腕に包まれていることが分かった。

「……泣きたい時は泣いたほうがええよ。泣いたらスッキリするって、前に教えてもらったから……」

 前に清果が泣いた時、俺は同じことを彼女に伝えた。前に教えてもらった。それは俺のことだろうか。

 清果の声と腕から伝わる温もりが心地よかった。

 あいつのことを知ることができた嬉しさ。あいつを救えなかった悲しさ。あいつがいないことを改めて実感した寂しさ。あいつのことを疑っていた自分への怒り。清果がそばにいてくれる安堵の気持ち。

 俺の初めての涙は、いろんな想いが混ざり合う複雑な涙であった。

 涙を止めることをやめた。溢れ出てしまうものは、全て流してしまおう。そうすることで、前に進むことができるような気がした。

 小さな部屋の中は、俺の泣き声だけが響いていた。

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