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「牛田~、いる~?」
ドアが開くと同時に、あいつの明るい声が保健室の中に轟いた。テーブルに向かって手を動かしていた俺は、頭を上げ右手を挙げて合図をする。笑顔のあいつがスキップを踏みながら中に入ってくる。俺は視線を机上に戻す。
テーブルを挟んで俺と対面する位置に立ったまま、あいつは何もせず、何も言わないでいる。上目で確認してみると、微笑んだままこちらを見ている。俺は視線を戻す。手を動かし始めると、鼻歌が聞こえてきた。
かまってアピール?らしくない。いつものあいつなら、自分から話しかけてくるのに。手を止めると、俺は頭を上げてあいつのことを見る。
「どうしたの?」
くしゃっと相好を崩したあいつは、両手を大きく広げてみせる。
「ジャジャ~ン、見てみて!冬服やよ~」
とても楽しそうな声。でもなぜそんなに楽しそうなのか分からない。
「……冬服なら去年も見たけど」
この発言が気に食わなかったのか、あからさまに不満を露わにした表情になる。
「えー!何その反応!牛田この前、暑いより寒いほうが好きって言ってたやろ?今日から冬服ってことは、これから寒い時期に入るってことやろ?もっと喜びなよ!」
「……いや、たしかに寒いほうが好きやけど、だからってテンション上がるわけじゃないよ。あと、冬服見て喜ぶような制服マニアでもないしね」
俺は坦々と答えていく。えー、と発したあいつは、自分の着ている服に目を遣った。
「でも、長袖のセーラー服ってかわいいと思うけどな……」
あいつはそう言うと、その場でくるっと一回転してみせる。
ダメだ!俺はそれに弱い。あいつのことを好きになった瞬間が、今のように回ってみせた時だったからだ。その姿を見ると、どうしても赤面してしまう。
俺は視線を落とすと、手の動きを再開させる。
「あーはいはいかわいいね」
「ちょっと!気持ちがこもってない!」
その発言は無視した。あいつはテーブルを回り込むと、俺の右側に立つ。不思議そうな顔をしていたので、顔を上げた。
「今度は何?」
「牛田ってさ、左利きだったっけ?」
俺は何度か目を瞬かせた。
「え、知らんかったの?」
「知らんかった」
あいつはあっけらかんと答える。
「俺が何か書いてるとこ、前から見たことあったでしょ?」
「あったけど、相手がどの手でペン持つかなんて、気にして見たりする?」
「……まあ、たしかに」
あいつの言う通りかもしれない。俺は何度か頷いた。あいつは隣に置いてあった椅子に座る。
「受験勉強?」
「そ。何校も受験したくないから、一発で決めたいし」
「どこ受験するの?」
「瑞希高校」
「そこって偏差値どのくらい?」
「うーんと、正確な数字は覚えてないけど、中の上くらいじゃないかな」
えー!とあいつは、大げさなリアクションで身体を横に傾けた。
「牛田だったら、もっと上の学校いけるでしょ」
けっこう勉強はできるほうだった。でもある教科の成績が低いため、そこを加味しての学校選びとなった。まあもともと、進学校とか頭のいい学校にいきたかったわけでもないので、満足していたのだが。
理由を言おうと口を開きかけた時、そっか、とあいつの声が割り込んできた。
「数学が壊滅的にダメだから、あんまり上にいけないのか」
いや、壊滅的って……。
「他に言い方あるだろ」
ため息をついて、俺はテーブルに置かれた教科書を見る。
それからは、あいつは静かになる。なのでしばらくは問題を解くことに集中できた。切りのいいところまで進めると、ペンを置いてあいつの顔を見る。
「猪野は?勉強しなくてもいいの?」
あいつは不敵な笑みを浮かべると、顔の横でピースサインを作った。
「私は推薦でいくから大丈夫!」
「いいな、推薦受けられる奴は……」
あいつは成績優秀、運動も人並みにでき、生徒会役員のため課外活動での評価もある。推薦が得られることは間違いない。
うちの中学には、成績がオール5の人もいたらしい。でもあいつは、オール5を取ったことはない。4が少なくとも1つは必ずあった。完璧じゃないところが好感持てるでしょ。あいつがそう言っていたことがある。それにはさすがに憎たらしさがあったので、あいつの頭をはたいてやった。その時のあいつは、窒息してしまうのではないかと思うくらい笑い転げていた。
「高校はどこ?」
受験の話をしているのだから、高校はどこかの話になるのは当然だ。なのにあいつは、目を丸くして驚いた顔をした。それから、うーん、と唸りながら目を右、下へと泳がしていく。そして黒目が俺に戻ってくると、口角を上げて口の前に人差し指を立てた。
「内緒」
うちは生まれつき腎臓が悪かった。物心ついた時には、血液透析を行っていた。保育園に通ってた時も、幼稚園に通ってた時も、早引けしたり1日休んだりして、病院に通っていた。
友達と遊ぶ約束をする時も、病院の予定が優先。どうして病院が大事なの?小さいころに母に聞いたことがある。透析しないと死んでしまうからよ。母はオブラートに包むことなく、6歳児に真実を教えてくれた。命は大切。だから友達と遊ぶことよりも病院が大切。小さい時にそう考えるようになった。
遊ぼう、と誘われても、その日は病院だから、と断る。なぜだか知らないけど、遊びの誘いが病院の日と一致することが多かった。だから断ることが多かった。断ることが多くなるのと反比例して友達が減っていく。せっかく仲良くなった子、仲良くできそうだった子との関係を維持できない、構築できない。でもそれが普通だった。だって死んじゃったら、友達ができることすら叶わないんだもん。だからしょうがないって思ってた。自分のために、そうするしかなかった。嫌々ではなく、むしろ前向きに、その選択をしていた。
父の仕事の都合で、小学校に上がるのに合わせてここの隣り町に引っ越してきた。友達は少なかったし、その中でも仲がいいと言える人は正直いなかったので、地元を離れることに対して未練は特になかった。子どもながらに、うちって冷めてるなって思った。
関西に比べて空気が澄んでるこの土地を、うちはすぐに気に入った。ビルとか高い建物があるのは駅周辺だけ。そこから離れれば、ゆったりと時間が流れる。山がすぐそばにあって、自然が身近にある。自然が腎臓にいい影響を与えるかどうかは分かんないけど、なんだか少しだけ身体がよくなったように思えた。
小学校4年生の時、うちの人生の転換期が訪れた。
両親に連れられてやってきたオーケストラの演奏会。歌は好きだった。特に洋楽。父の影響で、ビートルズをよく聴いていた。音楽は好きだった。でも、クラシックはほとんど聴いてこなかった。だからこの演奏会に行くのは、あまり乗り気じゃなかった。
でも、そんな気持ちだったのが申し訳ないほど、衝撃を受けた。
最初の一音。聴いた瞬間、心を奪われた。音に圧倒された。ポピュラー音楽を聴いている時とは全く違う感じ方。クラシックのクの字も知らなかった。ベートーヴェンとかモーツァルトとか、名前を知ってるだけ。あ、この曲聴いたことがある。ただ、それだけ。でも、好きになった。この音楽が、大好きになった。そして一番魅了されたのは、オーボエの音だった。
その演奏会の曲の一つに、オーボエ協奏曲があった。誰の曲でなんて曲名だったかは、今は覚えていない。いや、当時のうちはそれはどうでもいいって思っていたのかもしれない。
オーボエの儚さや哀愁を帯びた、あの独特の音色。それをただ、何も考えずにただ聴いていた。演奏会の帰り道、両親に言った。オーボエをやりたい、って。
後で分かったことだけど、オーボエは凄く高価なものだった。でも二人は、値段のことは一切言わなかった。病院代でお金の工面は大変なはずなのに。お小遣いはオーボエの維持費に充てることを決めた。
そして、大きな影響を与えてくれる人に出逢った。
父の知り合いに、たまたまオーボエ奏者がいた。
趣味で吹いているだけで、アマチュアオケにも入っていなかったんだけど、とても綺麗な音を奏でる人だった。初めて聴いた演奏会での音に負けていなかった。いや、むしろ先生の音色のほうが、うちは好きだった。柔らかく、優しい音がうちのことを包んでいく。一瞬のうちに先生のファンになった。だから師事するようになった。
オーボエは難しい楽器として音楽家の間では有名だった。でもうちは、すぐに安定した音を出せるようになった。先生から、才能がある、と褒められた。それが凄く嬉しくて、どんどんオーボエにのめり込むようになった。あと、先生にも。
先生は、うちの初恋の人だった。音楽に惹かれたってこともあるけど、先生に親近感を抱いていた。先生も腎臓を悪くしていた。うちと同じように、血液透析を受けていた。病院は別だったけど。
先生は、うちとのレッスン時間を確保するために、うちの透析日に合わせて自分の透析も調整してくれた。レッスンと言っても、レッスン料がかかるわけじゃなかった。払うって言ったけど、厚意で教えてるだけだからお金は受け取れない、と断られた。ボランティアで先生をしてくれていた。
どうしてそこまでよくしてくれるんですか?うちは尋ねたことがある。僕の音を好きでいてくれる人がいるのは、とても幸せなこと。だからその想いに全力で応えたい。先生はそう言って、柔らかい笑顔をみせてくれた。先生のことが好き。この時初めて、好き、という感情を知った。
レッスンの日が楽しかった。ほんとに楽しかった。生きるために透析をする。そんな人生だったけど、先生に会うため、オーボエを吹くため、上達するため、先生がうちの想いに全力で応えてくれているように、うちも先生の想いに全力で応えるため、それらを実現するために透析をする。そんな人生に変わった。充実というのはこのことなんだと思った。
でも先生との日々は、そう長くは続かなかった。
先生は体調を崩すことが多くなり、入退院を繰り返すようになった。個室だったのが幸いで、お見舞いついでにレッスンしてもらっていた。
何回目のお見舞いだっただろう。レッスンを終えた後、先生が腹膜透析について教えてくれた。血液透析と違って、日中の自由度が増す。そうすれば、友達と遊ぶこともできる。今まで出会ったことのない人と出会える。今まで行ったことのない場所へ行ける。見える景色が変わってくる。君の世界は大きく広がるはずだよ。でも、それはいつまでもやり続けられることではなくて、いずれは血液透析や腎臓移植が必要になる。それでもやる価値はあると思う。僕はそのおかげでいろんな経験ができたよ。
腹膜透析については知らなかった。現状に満足していたけど、先生が薦めてくれたから、すぐにでも主治医に相談しようと思った。
そして、コンクールへの出場も薦めてくれた。地方の新聞社が主催する音楽コンクールの、小学生管楽器打楽器部門。入選とか成績は気にせずに、出場してみたほうがいい。同世代のいろんな人が奏でる、いろんな音を生で聴くことができる。肌で感じることができる。音楽のプロの道を進むにしろ趣味で続けるにしろ、君の音楽に大きな影響を与えてくれるはずだよ。先生はそう言った。
思えば、先生と両親以外の人の前で演奏したことがなかった。考えるだけで少し緊張した。でも少しだけ楽しそうとも思えた。先生の想いに応えたい。出場を即決した。先生は柔和な笑みをみせてくれた。
この笑顔が、うちが見た先生の最後の表情となった。
うちが最後に行ったお見舞いから4日後、先生は亡くなった。出逢ってから、1年7か月後のことだった。
透析患者がなりやすい合併症の一つである、肺炎が原因だった。
告別式に参列した。涙は出なかった。親族でもないのに火葬場にも行かせてもらった。先生の身体から出てきたのであろう黒い煙が、煙突の頂上から空へ向かって上っていく。そして、消えていく。それを見ても、涙は出なかった。
でもどうしてだろう。家に帰り、部屋に入ってベッドの上に横になった時、涙が流れ始めた。一度出たらもう自分の意志では止められなくなった。溢れる水滴が枕を濡らしていく。鼻からも出始めた。抑えていた声も漏れていく。
どれくらい泣いたのだろう。そして泣き疲れてしまったのか、うちは眠ってしまっていた。
3日くらい、オーボエを触ることがなかった。それまで毎日触っていたのに。
正直怖かった。先生のことを思い出してしまうのが。別に忘れたいわけじゃない。ただ、つらくなるんじゃないかって思ってた。
でも、うちはオーボエが凄く好きだから、気が付いたら勝手に手が伸びていた。久しぶりに吹いた。手入れもしていなかったから、音色は最悪だった。でも、楽しかった。もう楽しい思いはできない。そう思っていたけど、違っていた。めっちゃ楽しかった。
先生のことはどうしても思い出してしまう。でもそれは、つらい思い出ではなく、楽しい思い出だった。吹いてる間は、全てが楽しく思えてしまう。全ての悲しい思いが、その時はなくなる。あ、うちはオーボエが本当に好きなんだなって思った。
先生からもらったこの世界を大切にしたい。うちは泣くことをやめた。もう泣かないって決めた。
小学校を卒業後、腹膜透析に切り替えた。うちの人生どう変わるのか知りたかった。
中学校に入学して、掲示板に貼られた部活動の勧誘チラシを眺めていた。吹奏楽部が目に入った時、一人の女の子が声をかけてくれた。吹奏楽部に興味あんの?ゆづちゃんだった。快活に笑う彼女に、うちは惹かれた。この子と仲良くなりたいって思った。でも、不安だった。透析のこと、伝えるべきかどうか。黙っていてもいいのだろうか。
ゆづちゃんとの帰り道。彼女の手が、たまたまうちのお腹に当たった。カテーテルの部分に。彼女は不思議な顔をした。やっぱり黙ってはおけない。ゆづちゃんに透析のことを話した。川田先生のことは伏せて。
正直反応が不安だった。拒絶されるのではないか。
夜は会えないってことだよね?なら問題なし。門限あるから、私も夜は出られないんだ。そう言ってゆづちゃんは、白い歯をみせてくれた。拒絶どころか、歓迎してくれた。
ゆづちゃん伝いで秀平くんとも知り合えて、吹奏楽部に入っていろんな人と出逢えた。
先生の言った通り、うちの世界は大きく広がった。今まで見ていた景色とは違って見えた。ぼやけていた色が、鮮明になったような気がした。
でも中3になって、体調が悪い日が少し増えた。学校を休むこともたびたびあった。これだと迷惑がかかってしまう。だから高校では部活に入らないって決めた。オーボエは一人でも吹ける。ゆづちゃんと秀平くんとのバンドもある。中学の時に一番仲がよかった二人が同じ高校にいてくれる。だから、不安はあんまりなかった。
高校に入って、幸くんに出逢った。うちね、幸くんと会えてよかったって思ったの。自分と同じような経験をしている。だから誰にも話してこなかったことも、理解し合えるかもって。
でも、やっぱり少し怖かったんだ。オーボエを吹いている時とは違って、先生の話をすると泣きたくなってしまうから。だから、幸くんにも話せなかった。
もう泣いちゃったから、話しちゃったけどね……。
冬の屋上。冷たい風が吹き付けてくる。鼻を何度もすすり、白い息が自分の目の前に現れては消える。
左に顔を向ければ、清果が座っている。いつもより、縮こまっている。
清果のことを抱きしめた時、なぜこんなことをしたのか分からなかった。でも、今は違う。行動の意味は理解できる。俺は、清果のことが好きなのだ。
清果のことを、あいつと重ねて見ていた。いつの間にか、あいつに抱えていたのと同じ気持ちで接している。そのことに、やっと気が付いた。
明里ちゃんに言われた。清果を守ってほしい、と。このお願いを今は全力で成し遂げたいと思う。俺が彼女を守る資格があるのか、何をすればいいのか、それはまだ分からない。
でも、分からなくてもいいと思った。彼女が弱いところを見せた時、それをしっかり受け止めたい。
あいつは俺を受け止めてくれた。それだけで、中学の時の俺は支えられた。あいつとしか関わらない日々だったけど、物凄く充実していた。でも、あいつには、何も返すことができなかった。
あいつに還元できない分、清果に与えることはできないだろうか。それが清果にとって、ためになることなのかどうかは分からない。あいつもそれでいいと思ってくれるかも分からない。でも、俺にはそれしかできない。たぶん、それしか思い付かない。
清果の白目は赤く充血している。目元は腫れている。泣き疲れて冴えない表情をしている。彼女のそんな顔は見たくない。泣きたい時は泣いたほうがいい。そんなこと言ったけど、泣かないで済むならそれに越したことはない。
彼女の力に、俺はなれるだろうか。
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