3
職員室での面談を終え、俺は廊下を歩いている。数名の生徒とすれ違うが、前方斜め下を向きながら歩いているため、その人たちの顔を見ることはなかった。
普通教室が集まっている校舎とは、反対側にある校舎へ足を進める。また数名とすれ違うが、そこでも目線を上げることはなかった。
保健室の前に来ると、俺の足が止まった。ドアには『先生不在』と書かれた、小さなホワイトボードが掛けられている。養護教諭は、保健室を不在の時がけっこうある。先生不在で自分だけがいる時に訪れた生徒を、ドギマギしながら対応したことがよくあった。
保健室の中に入ると、少し横になろうと思いベッドへ向かう。
「おっと……」
目隠しのカーテンを開けた瞬間、驚きが小さな声となって表に出た。目の前に、あいつがいる。ベッドに横になり、目を閉じている。小さな寝息が聞こえてくる。
体調でも崩したのか?俺は目を瞬かせて、しばらくその場に立ち尽くしてしまった。気配に気が付いたのか、あいつはおもむろに目を開けた。目が合う。俺はどうすればいいか分からず、戸惑った顔であいつを見る。あいつは枕元に置いてあった眼鏡を掴み上げると、耳に掛けて俺のことを見た。
「……ん……あ、おはよー」
寝ぼけた声が届いた。
「あ、おは……ど、どうしたの?体調悪いの?」
明らかに焦っている声。あいつは身体を起こし、ベッドの端に座ると首を横に振った。
「誰かとおしゃべりしたいな~と思って」
俺は目を瞬かせる。
「……それなら、友達のとこに行けばいいんじゃない?」
「それがさ、風邪引いちゃって休んでたり、他の友達のとこに行ったりして、私の相手してくれる人がいないんよ」
あいつは顔の前で手を合わせた。
「だからお願い。私の話し相手になって!」
小さく頭を下げた。まだ話をするようになってから、日は経っていない。なので、どう話をすればいいのか分からない。本音としては断りたかった。でもけっこう頑固なところがあることを、俺はなんとなく分かっていた。なので、断ったとしても押し切られるだろう。そう感じていた。
「……えーと、まあ、うん、いいけど」
「やった。じゃあ座って」
ポンポンと、あいつはベッドの上を軽く叩いた。ベッドの上で話をするのはちょっと……。
「あ、いや、椅子に座ろうよ。あ、飲み物あるよ」
あいつの返事を聞く前に、俺はベッドから離れた。テーブル近くにあるキャビネットの上に、ティーポットが置いてある。先生が作った紅茶。俺や保健室を訪れた生徒たちに提供されている。
紅茶をカップに注ぎ入れ、振り返る。あいつはすでに椅子に腰掛けていた。ソーサーにのせ、カップをあいつの前に置く。
「ありがとう。なんて紅茶?」
「えっと、茶葉は分かんないけど、アールグレイ。心を落ち着かせる効果があるって、保健室の先生が言っとった」
あいつは微笑を浮かべながら、カップを手に取った。
「そうなんだ。いただきま~す」
鼻にカップを近づけて匂いを嗅ぐ。眼鏡のレンズが少し曇る。口の前に移動させると、紅茶を口の中に入れる。うん、おいしい、とあいつは口角を上げた。
俺はテーブルを挟んであいつと対面して座る。おしゃべりしたいと言っておきながら、特に話し始める様子がなかったので、俺が先に口を開いた。
「……それで、話って何?」
「ん、特に話題はないけどね」
その返答に、俺はポカンとした。おしゃべりしに来ておいて、話題はない……。
「……え、ないの?なんで?」
「なんでって、雑談なんだもん」
俺のポカンは解消させない。あいつが続ける。
「これ話したいってことがあるのなら、事前に話題があるってことやけど、雑談なんだから、たいていはその時思ったことを自由に話すものでしょ?」
「あ、そうなんだ」
そういうものなのか。あいつが小首を傾げている。
「俺、友達いないから、こういうのしたことないんだ」
「友達いないの?」
俺は頷く。
「一人も?」
もう一度頷く。そっか、と呟いたあいつは、カップを口に運んだ。流れでつい口から出てしまった。友達がいないということを、誰かに話すつもりはなかったのだが。
「……うん。話題見つかった」
あいつの言葉に俺は顔を上げた。あいつが指を差してきた。
「牛田のこと」
「え?」
「私、牛田のことなんにも知らんから、牛田のこと聞かせて」
急にそんなこと言われても……。俺は戸惑ってしまう。意味もなく、手を閉じたり開いたりを繰り返す。
「えーと……」
「話したくないことは話さなくていい。話せる範囲でいいから」
雑談だと自分で言っていたのに、あいつの目は真剣だった。
俺はふと思った。目の前にいるこの人なら、俺みたいな奴の話も、ちゃんと聞いてくれるのではないかと。俺は小さく息を吐くと、ゆっくりと口を開く。
「……小さいころ、いじめられてたんだ」
「いじめ?」
「うん……」
俺は目線を、あいつの前に置かれているカップの辺りに定める。
「背が低くて、顔が女の子っぽくて、声が高くて。それをよくいじられてたんだ。目が合うたび、俺が発言するたびに。気が付いたら、保健室登校になっとった」
「いつから?」
「小1の途中。夏ぐらいからかな」
「それからずっと?」
「うん。今までずっと……」
この言葉を最後に、沈黙となってしまう。あいつは俯いている。話すべきではなかっただろうか。少し後悔の思いが出た時、あいつのため息が聞こえてきた。
「……最悪やな」
俺は目を瞬かせた。言葉にも驚いたが、一番は声の調子。怒っているように聞こえる。あいつは顔を上げると、俺に視線を向ける。目付きも怒っているように見え、さらに驚きが増す。俺は思わず息を呑む。
「いじめやるなんて、最悪やよ。背が低いとか声が女っぽいとか、そんなのただの個性やよ。それをいじめの材料にするなんて、ほんと最悪!」
意外だった。俺の前に現れるあいつは、いつも明るい顔をしていた。そのせいか、この人は怒らない人間なのだと勝手に決めつけていた。しかも自分のことではなく、他人のことでこんなにも怒っている。
「いや、小1の時のことだし、小1じゃそういうことって、まだ理解できないからしょうがないよ」
「そうかもだけど。……その人らは、ちゃんと謝った?」
「いや……」
俺は首を横に振る。あいつの顔が少しずつ紅潮していくのが見て取れた。
「謝ることもできないなら、やっぱ最悪な人たちだ」
「そう興奮するなって」
俺はなだめることに必死になっている。こんなにも怒りを露わにしている人に、今まで出会ったことがなかった。
「小1だと謝ることもなかなかできないと思うけ…」
食い気味にあいつは、大きく首を振った。
「ううん。それはできるよ。人を思いやる気持ちがあるのなら、小1だろうが中2だろうが、謝ることはできることやよ。私が同じ学校だったら、その人らのことぶん殴ってたかも」
はーっと大きく息を吐いたあいつ。俺は呆気に取られ、目を丸くして何も言えなくなった。沈黙と俺の表情に気付き、ハッとしたあいつは照れ笑いを浮かべた。
「あ、ごめん。言葉汚かったね。心を落ち着かせよう」
そう言ってあいつは、カップに残っていた紅茶を一気に飲み干した。心を落ち着かせる効果がある。たしかに俺はそう言った。それが即効性があるかのように、一気飲みしたあいつの行動が少し滑稽に思え、含み笑いをした。人差し指でこめかみ辺りを掻くと、視線をあいつに戻す。今度はあいつが、目を丸くしてこちらを見ていた。
「ん?どうかした?」
「いや、牛田って笑えるんだね」
「……ん?」
俺は小首を傾げる。
「今まで何回か話したけど、笑顔見るのは初めてやったから」
人との交流が少なかったからだろうか。誰かと話をする時、自分がどういう表情をしているのか、気にしたことがなかった。そうか、俺は話をする時、笑っていなかったのか。どんな表情をしていたのだろうか。ぶすっとしていたのなら、せっかく話しかけてきた人に対して不愛想だし、申し訳ないな。やっぱり明るい顔をしていたほうがいいのだろうか。目の前にいる女性のように。
あいつが立ち上がる気配で、俺の意識が頭の外に向けられる。微笑んでいるあいつは、俺に向けて手を差し伸べた。行動の意味が分からず、怪訝な顔をする。
「友達になる」
「……は?」
言葉の意味も分からず、素っ頓狂な声が出た。
「私が牛田の友達第1号になる。だから牛田も、私なんかと友達になっていいっていうなら、握手しよ」
あの時の俺は、とても不思議な思いをした。今まで味わったことのない、初めての感覚。友達になる。そんなことを言われたのは初めてだった。
そして戸惑った。こんな人気者と、俺なんかが友達になっていいのだろうか。でも俺は、あいつから目を離さなかった。
ゆっくりと手を伸ばしていく。互いの手が触れそうな距離になった瞬間、あいつが強く手を握ってきた。まるで伸ばされた手を逃がさないように。
あいつの手の温もりが、俺の身体の中に浸透していく。顔が赤くなるのが自分でも分かった。それでも俺は、あいつから目を離さなかった。いや、離せなかったのだ。あいつの顔に、あいつの目に、吸い寄せられるように、離すことを許されなかった。
「これからよろしくね」
あいつは、くしゃりと相好を崩してみせた。
俺に初めての友達ができた。
弓道には『射法八節』という基本の動きがある。この一連の動作をしっかりこなせなければ、矢はきれいに飛んでいかないらしい。
道着姿で弓矢を持つ里緒都に向けて、俺はカメラを構える。背が高い人は和服がよく似合う。
持ち上げた弓と矢を、左右に大きく引っ張っていく。弦が切れてしまうのではないか。そんな心配をしてしまうほど、それは矢と共に引かれていく。右手から矢が放たれる。その瞬間を逃さずシャッターを切る。そして目視で矢の行く先を見る。図星と呼ばれる的の中心に見事に中った。
思わず口元が綻ぶ。視線を里緒都に戻す。彼は矢を放った時の姿勢を崩さず、平静な顔で的を見据えている。
「惜しかったね」
弓道場近くのベンチに座り、俺は里緒都に缶ジュースを渡した。
「いやあ、最後欲が出ちゃったな。俺のまだまだなところだわ」
心の乱れは矢の乱れにつながる。武道でもとりわけ心が重要になる弓道ならではなのかもしれない。
そして彼は、気落ちしているようには全く見えない。好きでやってるだけだから、勝ち負けにはこだわらない。里緒都は前にそう言っていたように記憶している。そう割り切れるところも、彼の魅力の一つなのかもしれない。
「そうだ。明日暇か?どっか行かない?」
ありがたい提案なのだが、俺は首を横に振って断りを入れる。
「あーごめん。明日も部活なんだ」
「何部の試合?」
「オケ部のコンクール」
「オケ……。場所は?」
「名古屋だけど」
「わざわざ名古屋まで行くのか?」
里緒都は嫌そうな顔をしている。なぜそんな表情になるのか、俺には分からなかった。
「まあ旅費はちゃんと出るから気にしないけど」
「ふーん」
ん?何その反応?また里緒都が口を開く。
「たしか、オケ部の部長と仲良かったよな?」
「いや、仲いいかどうかは知らないけど」
「部長の名前ってなんだっけ?」
「石川先輩」
里緒都は一度俺から視線を逸らすと、また俺の目を見据えた。
「下の名前は?」
「
今度はため息をついてきた。え、なんで?
「……この浮気者」
さっきからの里緒都の言動が意味不明なので、俺は少し眉間にしわが寄ってしまう。
「あのさ、さっきからなんなの?」
「一途のほうがいいと思うぞ」
「何が?」
里緒都はもう一度ため息を吐く。そして俺の肩に手を置いた。
「お前には清果ちゃんがいるやろ?」
まーたそれか。前からちょくちょく、そのようなことを言われていた。ため息をつくのは俺のターンとなった。
「だから、清果のことはそんなふうに見てないよ。先輩のこともな」
里緒都は肩から手をどかす。しばらく沈黙が続いた。俺は持っていた紅茶のペットボトルを口につけた。
「……幸はさ……」
その言葉が耳に入り、口からペットボトルを離して里緒都の顔に目を向ける。彼の目付きは、とても真剣なものであった。これから彼の口から出てくる言葉は、非常に重要なことなのかもしれない。そう思った俺は、唾を飲み込んだ。
「……もっとさ、自分と真摯に向き合ったほうがいいぞ」
さすがの夏休み。ファミレスの店内は、俺と同年代の人たちで満ちている。平日は空いているから狙い時。みんながそう考えてしまえば、お客が集中して結局混んでしまう。でも待ち時間なしに入れたのだからよしとしよう。
俺の着いている席のテーブルには、ハンバーグセット、ナポリタン、チキンステーキ、グラタン、サラダ、コーンポタージュ、ポテトフライが並んでいる。俺が注文したのはハンバーグセット。ポテトフライはシェア用。あとは全て、対面して座っている人の分だ。正直ちょっと引いている。
「……先輩。やっぱ頼みすぎなんじゃ」
石川先輩は、グラタンを咀嚼しながら首を横に振った。
「楽器の演奏ってね、けっこう体力と気力を使ううんよ。だから食べられるときに食べとかないと……」
口の中にものが入っているときに話してはいけません。子どもの時、母親にそう言われたことを思い出した。
オケ部のコンクールの後の先輩は忙しかった。なので後日時間をつくってほしい、とのことで今日ここに来ている。
この日の話題は、基本的には先輩の愚痴だった。日頃のうっぷんを晴らすかのように、口から溢れ出てくる。だけど俺は、意外と嫌じゃなかった。誰かの話を聞くことは、俺にとっては楽しい時間であった。
「あ、そうだ。写真持ってきてくれた?」
石川先輩の問いに頷いた俺は、リュックサックを掴み寄せる。ファスナーを開け中からプリントアウトした写真を出そうとすると、先輩が隣に座ってきた。
「もうちょっと詰めて」
言われるがまま俺は腰を浮かす。身体を少し移動させると、写真を手渡した。
「おお、綺麗に写ってる。みんなかっこいい!」
喜びの声を出しながら、先輩は一つ一つじっくり眺めていく。俺はカップに入った紅茶を口へ運ぶ。
「あ、あたしだ」
俺は先輩の手元に視線を移す。彼女のワンショット。ティンパニが一番盛り上がる瞬間、だと思ってシャッターを切った。
「ティンパニは一番後ろなのに、こんなきれいに撮れるんだ」
「備品のカメラって、高性能なのが多いんです。これぐらいは撮れちゃいます」
へえ~、と感嘆の声が先輩の口から漏れた。口角がゆっくりと上がっていき、嬉々とした表情で写真を持ち上げた。
「これ、もらってもいい?」
「あ、この写真全部あげますから」
「やった!ありがと~」
先輩は笑顔で写真に目を戻す。喜んでもらえてよかった。安堵して俺はソファーの背に身体を預けた。
「……牛田くんは……」
しばらく黙っていた石川先輩が、小さな声を出す。俺に話しかけてるっていうか、独り言のような声量だ。横目で先輩を見る。彼女はこっちを見ていた。だから独り言ではないと思い、顔を向ける。
「……好きな女の子はいる?」
俺は何度か目を瞬かせる。
「いや、いないですけど……」
「猿島さんは?」
「……先輩もしつこいですよ」
俺はため息をついて、再度背もたれに体重をかけた。人のことをいじって楽しんでいるような表情をしているものだと思って先輩を見遣る。でも、俺の予想は大外れ。先輩は少し寂しそうな、儚げな目でこちらを見ていた。そんな表情をする先輩を見るのは初めてであり、目を見開いてしまった。
小さく息を吐き、背もたれに身体を預けた先輩は、ゆっくりと目を閉じた。
「……コンクール、あたしのせいなんだ」
「え?」
「ミスしたの。叩くタイミングがずれちゃったんだ」
「全然気付きませんでした」
石川先輩は少しだけ口角を上げる。
「ほんのちょっとの誤差やった。音楽として聴く分には気にならない程度。だけど……」
先輩はゆっくりと目を開ける。
「……正確さが求められるコンクールでは、この誤差が致命傷になる……」
自嘲の笑みが零れた。
「結局、最後まであたしが足引っ張る形になっちゃったな。部長やのに、情けない……」
言い終えた後、先輩は目に腕を当てた。まるで、涙を必死で抑えるように。
「音楽の根本は人を楽しませること、想いを表現すること。コンクールで優劣を決めるのは、本質からズレてるってあたしは考えてる。……でも、やっぱ勝ちたかった。全国行きたかった。……あのメンバーなら、行けても不思議じゃなかったはず。……3年はこれでもう引退。もうちょっと……もうちょっとあのメンバーで、演奏したかったな……」
鼻をすする音が聞こえた。唇が、少し震えている。
コンクール。そういった勝負事に参加したことがない俺には、それの重みはよく分からない。まして先輩は部長だ。みんなを束ねる重責もあったはず。なので後悔の念は、人一倍大きいのだろう。
俺は、コンクールの時のことを思い返していた。
「……先輩、そんなに自分を責めないでください」
先輩は何も言わず、同じ体勢のままじっとしている。俺は続ける。
「結果は、よくなかったかもしれません。でも……凄くいい演奏でした。俺、ほんとに感動しました」
先輩は腕を下ろした。目は赤くなり、頬には涙が流れた跡がある。
「……舞台袖で、演奏後のオケ部のみなさんのことも見ました。みんな、凄く生き生きとしてたというか、清々しい表情をしていたというか……達成感に満ちた雰囲気に感じました。悔しさはあったかもしれないですけど、誰も先輩のこと、責めたり恨んだりしてないと思います。オケ部のみんな、先輩の姿、凄くかっこよかったです」
しばらく見つめ合う形となってしまった。先輩は鼻をすすると指で涙を拭い、口角を上げた。
「ありがとう。やっぱ君は優しいよね」
少しでも笑顔になってもらえたのでよかった。そして恥ずかしさも訪れる。
「あ、いや、すみません。偉そうなこと言いました」
小さく頭を下げる。ふふっと小さい笑い声を上げた先輩が、首を横に振る。そして小さく息を吐いた。
「……なんか、いいよね」
先輩の声に反応し、目をそちらに向ける。先輩は少し赤らんだ顔で俺に向き合うと、目を細めた。
「牛田くんみたいな人、好きだな」
……ん?疑問符が頭の中に浮かぶ。えっと、今、好きって言った?みたいな人?って、どういう……。
思考が追いつかない状態でいると、先輩は、よし、と言って腰を上げると伝票を掴み上げた。
「そろそろ帰ろっか。ここは先輩がおごってやる!」
いつも通りの笑顔が、そこには戻っていた。
うちの学校の制服は、夏服も冬服もシャツは淡い水色で左袖に校章の刺繍が入っている。ブレザーは黒、ズボンとスカートはグレー。男女共通のネクタイは黒地に赤のストライプ。学校指定はそれだけ。靴や靴下、鞄などは指定がなく、個人の自由だ。ちなみに、冬服の長袖シャツを着る際は、ネクタイも締めるという決まりはある。
俺は長袖シャツの袖を捲し上げ、朝のホームルームの時に配られた用紙を左手に持ち、それを眺めながら右手に持ったパンを口へ近づける。
「うちらは喫茶店か」
根室の言葉に福岡が続く。
「まあ無難だからいいんじゃない?」
文化祭に向けて、各クラスが何をするのかで盛り上がる時期になった。俺は文化祭に参加したことがなかったので、内心ではけっこうワクワクしていた。でも役割が……。
「里緒都のウェイターは外せないよね」
「外で客引きやってるほうが効果あるんやない?」
根室の言葉に、たしかに、と心の中で同意をする。里緒都が呼びかければ、たいていの女性の来場者はうちのクラスを訪ねてくれるだろう。
「直と健太は厨房か?」
里緒都の問いかけに福岡が頷いた。根室は、納得いかね、と口を尖らせた。
「俺もウェイターやりたかったな」
ウェイターに立候補した男子はけっこう多かった。なのであみだくじで決めることとなった。根室は見事に外れを引いた。まあ選択肢が与えられただけでも充分でしょ。なんて俺は思っている。
「幸は……いつも通りだな」
里緒都は苦笑を浮かべた。俺は肩を竦める。
俺の役割。それは、カメラマン。なぜ喫茶店でカメラマン?それは、うちのクラスの記念撮影のため。学級委員長がこの役割を決めた。
なぜそんな発想になったのかというと、俺が写真同好会に所属しており、夏休みのいろんな大会に出向いて撮影した写真の評判がよかったからだ。
全く目立たない存在だったのに、今までほとんど話したことがなかった人や別クラスの人が声をかけてくれるようになっていた。そんな状況に慣れていないので戸惑いがある。でも嬉しいことだった。
写真同好会の活動として各クラスを撮って回ることになっていたので、クラスでの役割がなくても変わりはなかった。だが写真を撮ることに集中できるので、まーいっか、とも思っている。
残りのパンを口の中へ放り込むと、パック飲料のストローを咥え紅茶で流し込んでいく。
「写真同好会としてはなんかやんの?」
根室の質問に、嚥下を終えてから答える。
「写真の展示するよ」
「え、どこで?」
笑顔の福岡が前屈みになって聞いてくる。
「1階の、学年集会とかに使う広間があるだろ?あそこ」
「あそこか。昇降口に近いから目にとまりやすい場所やな」
里緒都の発言に、俺は小さく苦笑いをした。
「仲里先生がねじこんだみたい」
文化祭の1日目。俺たちクラスの喫茶店は、予想を上回る大繁盛となっている。おそらく飲食店をやっているクラスでは、一番の集客だろう。こんなふうになった理由を俺は、いやクラスの人間全員が分かっていた。里緒都だ。
かっこいいウェイターがいる、という口コミはとんでもない早さで広まった。お客の9割は女性。色めき立つ人が多い。ウェイターでこれなのだから、客引きをやっていたら来場者の全ての女性が来るのではないだろうか。
そんなことを思いながら教室を見渡していると、写真お願いします、との女性の声が俺に向けられた。俺は左腕に、緑地に白色で『写真部』と書かれた腕章をつけている。写真部時代に使われていたものを再利用している。行事や外部での活動時には、いつも身につけている。他のお客やウェイターの生徒たちにはお願いしづらくても、腕章をつけて首からカメラを提げている人間に対してなら、逡巡することなく頼めるのだろう。
女性から携帯を受け取る。女性3人組は、2、1に別れて里緒都を挟む。クラスメイトからのニヤつきの視線が彼へ向けられる。ただ一人だけ、睨み付けている人もいる。
「では、撮ります」
俺は携帯を被写体に向ける。里緒都は周りのことを気にする様子はなく、澄ました顔でこちらを見ている。
クラスから離れ、1階の広間へと向かう。そこには、俺が思っていたよりも多くの人が訪れていた。
撮った写真は友達に見せることはある。でも、こんなふうに展覧会のようなことはしたことはなかった。好評か不評かは分からないが、不特定多数の人に見てもらえるのは、少し嬉しく、少しドキドキで、少しこそばゆい、そんな忙しい気持ちになることは分かった。
いくつか教室を回りながら、清果の8組に向かっていた。その道すがら、彼女とばったり出くわした。俺のことに気付き、手を振りながら俺の元へ近づいてくる。手を挙げて、彼女を迎い入れる。
「ちょうどよかった。ゆづちゃんたちのとこ行くんやけど、一緒に行かへん?」
「7組は何やってんの?」
「お化け屋敷」
「お、いいね。面白そう。行くよ」
清果は微笑で頷くと、こっち、と言って歩き始める。その隣に並ぶ。
「場所は?」
「武道場」
剣道部と柔道部が同時に活動できるくらい、うちの学校の武道場は広い。そこを利用しているのであれば、けっこうな規模になっていそうだ。
「幸くんは、お化け屋敷って得意?」
清果は小首を傾げて聞いていた。
「うーん……得意ってわけじゃないけど、苦手ってほどでもないかな」
正直言えば、お化け屋敷に入ったことがない。でもホラー映画を観てもそれほど怖いと感じないので、お化け屋敷も大丈夫だとは思う。
よかったあ、と清果は胸を撫で下ろす。ん?と俺は疑問を呈する。
「うち、怖い系が苦手やねん。やから一人で行くのが怖かったんやけど、幸くんがおるから安心した」
安堵の笑顔でこちらを見た。俺がいると安心する。そんなことを言われたのは初めてで、照れが沸き上がってくる。それを隠すように目を背け、話題を変えようと思考を働かせた。
「あ、さっきなんだけど、清果の教室に行こうと思ってたんだ」
清果は首を横に振る。
「うちのクラスは全然おもろないよ。来ないほうがええかも」
「何やってんの?」
清果は苦笑いを浮かべる。
「今まで学んだことをまとめて、展示してるの。学習発表会やね」
さすが特進クラス。文化祭も勉強につながっているのか。俺は、余計に興味が湧いた。なので、左腕につけた緑色の腕章を清果に見せた。
「俺はさ、写真を撮りに行く役割があるから」
清果は腕章と俺の言葉を見聞きし、苦笑で頷いた。
「ああ……さやちゃんに牛田……いらっしゃい……」
武道場の入り口にテーブルと椅子を並べ、そこにゾンビの姿で座っている淡路。俺は何度か目を瞬かせた。
「……どうしたの?」
「……受付けだよ……持ち回りで担当するんだ……」
「あ、いや、そうじゃなくて。そのしゃべり方」
「キャラ作りだよ……普通にしゃべるゾンビなんてそんなのゾンビじゃないだろ……でももう飽きたよ」
「いや、飽きたとかキャラとかって言っちゃダメでしょ」
俺と淡路のやり取りが面白かったのか、清果はぷっと小さく吹いた。淡路は帳簿に正の字をつけていく。入場者数を数えているのだろう。アナログだが信頼はいまだ厚い。
「どうせなら二人で一つにしよう……」
そう言って淡路は、俺に懐中電灯を差し出した。見て触ってすぐに分かる。100均とかの安物だ。まあたくさんのそれが必要になるのだから、安くても然るべきことだろう。
「……ゆづがどっかで登場するから……どうぞご無事で……」
俺と清果は、入り口に掛かっている暗幕の隙間から中へ入る。真っ暗だ。懐中電灯がなければ進むことができないほど、光を完全にシャットアウトしている。
「……幸くんが懐中電灯持ってるから、先に進んでよ……」
苦手と言っていたのはほんとらしい。声が上ずっているのが分かった。じゃあ進むよ、と言って光を灯して歩み始める。
最初の角を曲がり2、3歩進むと、俺の目の前に何かが降ってきて、地面からどすんと声が聞こえてきた。俺は小さな唸り声を上げる。
「うおっ」
「きゃん!」
俺は今、3つのビックリに遭遇している。物が落ちてきたこと、清果の叫び声が子犬の鳴き声みたいだったこと、そしてもう一つ、清果との距離が近いことだ。
驚いた勢いだったのだろう。彼女は俺の背中にくっつくように身体を寄せている。俺は女性と身体を密着させたことなんて今までなかった。当然のように身体は火照ってきて、心拍数は一気に上昇する。
「あ、えっと……大丈夫?」
「なになに?何があったん?」
焦りが全面に出ている清果の口調。俺は自分の足元に電灯の光を向ける。そこには見慣れたものが鎮座していた。
「黒のゴミ袋が落ちてきたんだ。重くするために何か入れてるんだろうな」
背後でふーっと大きく長い息が吐かれた。その後、背中にあった感覚が弱くなっていく。
「ごめんなさい。取り乱しちゃった」
謝る必要は全然ないのだが。
「どうする?なんなら引き返す?」
首をブンブンと横に振っているのが気配で分かった。
「ううん。大丈夫。行ける」
「そう。……じゃあ行くよ」
一歩踏み出し、もう一歩前に出ようと身体が前に動いた時、ブレザーの裾が引っ張られた。ん?俺は怪訝な表情となり、頭だけ後ろに向ける。
「……ごめんやけど、ここ、掴んでてもええかな?」
俺はこれ以降の記憶が曖昧だ。いろんなお化けや様々な仕掛けがあったことは覚えているのだが、それがどんなものだったのかは覚えていない。意識は自分の背中に全て持っていかれてしまった。ただ前に向かって歩くのみだった。
暗幕をくぐると、久しぶりの強い光を浴びた。思わず目を伏せる。
「は~い、お疲れ様でした~。懐中電灯回収しま~す」
間延びした声がしたので目を開けると、落武者の恰好をした女子生徒が、笑顔でこちらに手を伸ばしていた。女性が落武者ってことに驚いたが、それ以上に出来映えが物凄くよかったことに目を見張った。これもアートだと思う。後で写真を撮らせてもらおう。俺は落武者に返却する。
出口から離れようと歩き出したときに気が付いた。清果はまだ俺の裾を掴んだままだ。顔を回して清果を見て、瞬きをした。彼女は目を閉じている。……え?ひょっとして……。
「清果。もう終わったよ」
清果はゆっくりと目を開くと、ふーっと長い息を吐いて手を離した。俺も息を吐くと清果と距離を取る。密着から普段の距離へ。
「もしかして、あの時からずっと瞑ってた?」
清果はゆっくりと頷く。冷や汗をかいていた。
「やっぱ引き返したほうがよかったんじゃない?」
「……いや……ゆづちゃんがどんな感じなのか見たかったから、薄目で頑張ろうと思ってたんやけど……無理やった」
弱々しい声と表情。もしかしたら、清果の最大の弱点なのかもしれない。感じ悪いと思われるだろうが、俺は嬉しさが少し生まれた。彼女の弱いところを知れたから。
「俺も益城のこと見つけられなかったな」
「幸くんも怖かったん?」
「ううん。別の理由で集中できなくて……」
清果は小首を傾げた。別の理由を清果に言うことはないだろう。
「じゃ、入り口戻ろっか」
「え!もう1周するん?」
信じられない!といった表情の清果を見て、俺はおかしくなる。ポケットに入れていた腕章を取り出した。
「淡路の写真を撮るんだよ」
写真同好会の部室の周辺は、文化祭の色がない。とにかく静か。まるで別の学校にいるみたいだ。淡路が以前、ここを僻地と呼んだことがあった。その表現には膝を打った。
カメラのSDカードに入ったデータをパソコンに移していく。クラス別に整理していき、選別していく。腕時計に目を遣ると、2年生の舞台の時間が迫っていた。評判がとてもいいらしい。それを見に行った根室が、凄い、凄かった、マジで凄い、と凄いしか言えないほど興奮していた。彼の語彙力の問題もあるかもしれないが。
部室に鍵を掛け、体育館に向かおうと歩き出すと、一人の女性が目に入った。うちの制服やクラスTシャツを着ていないことから、来場者であることはすぐ分かった。迷ったのだろうか。女性がパンフレットから顔を上げた時、俺は目を見開いた。
俺は記憶力に自信がある。少しの時間、一度会っただけの人であっても、何かしら印象付いている人の顔は、見ればすぐにピンとくる。でもそれは、相手も同じだったようだ。目が合った後、目を細めて俺の顔を窺っていた女性は、げ、と不愉快そうな声と共に眉間にしわが寄った。なんてこった、どうしよう、なんて考えていると、意外にも向こうから声をかけてきた。
「あなたもしかして、前にあいつと一緒にいた人?」
あいつとは、清果のことだ。
「はい。牛田です。犬伏さん、でしたよね?」
覚えてんのか、と呟いた犬伏さんは、大きなため息をついた。そして、ハッとした表情となり目を俺に向けた。
「あ、じゃあ、あいつもこの学校ってこと?」
俺は頷く。マジかー、と一度天を仰いでから頭を垂れた。
「あ、清果に会いに来たわけじゃないんだ」
「は?そんなわけないでしょ」
否定が物凄く早かった。まるでこの質問がきたらすぐに答えられるように、あらかじめ準備していたかのように。大仰にため息をつくと、帰るわ、と犬伏さんは踵を返した。俺は咄嗟に声をかける。このまま帰してはいけないように感じた。
「清果に、会ったげて」
「はあ?なんで?」
不機嫌を全面に出した声と表情。
「清果は、犬伏さんのこと好いてるから」
しばらく見つめ合う形となった後、顔だけ向けていた俺に、身体をしっかり向けて対面させた。
「あいつが私を好いてても、私はあいつが嫌いやから」
そう言うと、犬伏さんは一度目を伏せる。小さく息を吐くと、早足で俺との距離を詰める。物凄い迫力だったため、俺は一歩後退りする。
「私がここに来たこと、あいつには絶対に言わないでよ」
表情と声が怖かった。これはほんとに言ってはいけないような気がする。
「……はい……」
大学病院の談話室には、いつも以上に多くの人が集まっていた。普段は緩和ケア病棟の患者が中心なのだが、今日はその家族も来ており賑やかな空間となっている。みんなの注目の的となっているのは、清果、淡路、益城の三人だ。
今日は12月の初旬。『ちょっと早いクリスマスライブ』と題して、この時期に三人が演奏会を行うことが恒例となっているらしい。今年で3回目。みんなこの日を楽しみにしていると、ソーシャルワーカーの大宮さんが笑顔で話していた。
演奏している楽曲は、クリスマスの定番ソング。誰しもが知っている、聴いたことのある曲。だけどそれをオーボエで聴くと、少し違った感じがして、新鮮で聴いてて飽きがこないように思えた。清果のオーボエを、淡路のピアノと益城のドラムが支える。三人の演奏は何度か聴いたことがあるが、やっぱりうまい。聴いていると、なんだか心が弾んでくる。音楽で心が動かされたのは、彼らの演奏が初めてだ。
演奏している三人。演奏を聴いている患者やその家族。職員の皆さん。カメラのレンズを向け、シャッターを切る。みんな生き生きとしていて、とても楽しそうだ。だけど一人だけ、気になる表情をしている人がいる。明里ちゃんだ。
明るく、ニコニコ笑って、いつも楽しそうに会話をする。そんな印象を持っている俺は、明里ちゃんの顔を見て少し心配になり、カメラを目からどかした。
淡路と益城が帰り、俺は明里ちゃんの部屋にいる。演奏会の時とは違い、明里ちゃんはいつも通りの表情に戻っていた。話をしていても、いつも通りだ。あの時見られた表情は、一時のものだったのだろうか。
電話をしていた清果が病室に戻ってきた。
「ごめんなさい。急に用事ができちゃったから今日はもう帰るね」
「そっかー。分かった」
明里ちゃんの声を聞き、俺は椅子から腰を浮かした。
「じゃあ俺も帰ろうかな」
「あ、待って」
明里ちゃんは、俺の左腕をガシッと掴んだ。中腰の状態で目線を彼女へ向ける。
「幸お兄さん、もうちょっとだけいてくれない?なんか用とかがなければ残っててほしい」
特に用はない。それに少し心配になってたこともあるため、明里ちゃんの要望を聞き入れることにした。
「分かった」
「じゃあ、うちはこれで。またね」
「清果お姉ちゃんありがとー」
明里ちゃんはブンブンと手を振った。清果は笑顔で手を振り返し、病室を出ていった。
病室の中がしんと静まり返る。帰るのを止められたのだが、明里ちゃんは何も話さない。やっぱりちょっと変かもしれない。俺は口を開こうとすると、明里ちゃんが先に言葉を口にした。
「ごめんなさい。無理に引き止めちゃって」
苦笑いの明里ちゃんを見ながら、俺は首を横に振った。
「いや、いいよ。どうせ暇だったし」
この言葉を最後に、再び沈黙が訪れる。明里ちゃんの顔を見る。演奏会の時のような表情になっていた。
「……なんかあった?」
俺の沈黙を破る声を聞いて、明里ちゃんはこちらを見た。
「清果たちの演奏聴いている時も、今みたいに、なんていうか、少し険しい表情になる時があったから」
俺の言葉に少し目を丸くして、明里ちゃんは少し息を吐く。
「……そっか。幸お兄さんには気付かれてたか……」
口元を小さく緩ませる。
「清果お姉ちゃんとか、他の人には言ってないんだけど……」
一度目を逸らし、唾を飲み込んだ。
「私、もうそろそろみたいなの」
「え?そろそろって?」
言葉の意味が分からず、俺は聞き返した。明里ちゃんは口角を上げたまま、自分の左胸に手を当てる。
「……私の命」
命……そろそろ……え?
「……それって……」
死ぬってこと?と尋ねようとした。でも言葉が続かなかった。
「なんとなく感じるの。身体の感覚が今までと違う。あ、もう限界かもしれないって、最近思うようになったの……」
明里ちゃんの口元は笑っている。でも、全く笑えない内容を話している。俺は何か言おうと口を開こうとするも、言葉が何も出てこない。慰めどころか気休めすら口から出てこない。思い付くのは、本音だけ。
「……ごめん。なんて言えばいいか分かんなくて……」
明里ちゃんは首を横に振る。微笑を浮かべたまま、目を細めた。
「幸お兄さんは優しいね」
その言葉が俺の胸を掴んでくる。目を伏せ、小さく首を振る。俺はこういう時、何も気の利いたことが言えないのだと分かった。身近な人の死としては、あいつの死がある。でも、あいつの場合は突然だった。明里ちゃんのように、もうすぐ死ぬ、なんてことを言われたことなんてない。だから何も言えないのだろうか。
「ねえ」
明里ちゃんの声が届き、俺は我に返る。
「外、出たいな」
「外?」
「
病院の屋上。俺と清果がよく訪れるこの場所に、明里ちゃんは久しぶりに来たらしい。養老山を眺めながら、彼女は大きく伸びをした。
「大丈夫?寒くない?」
もう12月だ。この地域は、夏は暑く冬は寒い。気温の年較差が大きい。初雪はまだだが、霜は降りている。
「大丈夫。すっごい気持ちいい」
入院着にパーカーを羽織っただけの、冬場としては軽装の明里ちゃん。鼻を赤くしながら満面の笑みを浮かべている。
山を二人揃って拝んでいると、明里ちゃんがゆっくりと口を開いた。
「幸お兄さんは、自分のこと好き?」
「え?」
思わず首を傾げる。
「自分自身のこと、好き?」
本当は聞き返す必要はなかった。答えは決まっている。でも堂々と言えることではないし、この答えを期待しているとも思えない。だから、少し言いづらかった。
「……俺は、自分のこと嫌いなんだ」
明里ちゃんを見る。彼女は笑顔のままだ。
「そっか。私と一緒だね」
「一緒?」
「私も、自分のこと嫌いなんだ」
意外だった。明里ちゃんは、自分自身を好きなのだと勝手に思っていた。
「凄く苦労して生んでもらって、育ててもらったのに、こんな病弱な身体になっちゃうんだもん。とんだ親不孝者だよ」
そんなことはない。そう言いたかった。でも、言う必要もないとも思った。明里ちゃんは、なぜだか明るい表情をしているからだ。無理しているわけではなく、本心からの明るさに見えた。
「でも……自分のこと嫌いだけど、この身体に生まれてきてよかったとも思ってるの。なんか矛盾してるよね」
明里ちゃんは、はにかんだ表情を俺に向けた。嫌いだけど、よかった。それはどういう意味なのか。
「どうしてよかったとも思えるの?」
「だって、この身体じゃなかったら、今会えている人とは会えなかったかもしれないから」
明里ちゃんは顔を空に向ける。目を閉じると鼻から大きく空気を吸い込み、はーっと口から吐き出した。真っ白な煙が彼女の顔の周りを取り囲む。
「病気になってこの病院に入院しなかったら、先生とか、看護師さんとか、大宮さんとか、一緒に入院してる人たちとは出逢えなかったかもしれない。清果お姉ちゃんもそう。ここに入ったから、ボランティアに来てくれた清果お姉ちゃんに出逢えた……」
目を開くと、その双眸は俺に向けられた。くりっとした瞳の中に、俺の顔が映る。
「幸お兄さんもだよ。清果お姉ちゃんに出逢えたから、幸お兄さんにも出逢えた」
ニコッと相好を崩す明里ちゃん。
「この身体に生まれたから、みんなと出逢うことができた。だから、よかったとも思えるんだ」
ぐっと俺の身体の中で、何かが沸き上がってくる。それは嬉しさなのか、寂しさなのか、悲しさなのか、よく分からない。
明里ちゃんに初めて会った時から抱えていた疑問をぶつけてみる。
「明里ちゃんに、ずっと聞いてみたいことがあったんだ」
明里ちゃんは小さく首を傾げる。
「あ、言いたくないことなら、答えなくていいんだけど、聞いてもいいかな?」
「うん」
明里ちゃんが頷いたので、俺は尋ねた。
「明里ちゃんは、まだ14歳やろ?医学が進歩して、明里ちゃんの病気が治る治療法や薬が出てくるかもしれないでしょ?だけど、緩和ケアを選んだ。どうしてかなって思って……」
目を丸くしてこちらを見据える明里ちゃん。あまり聞かれたくはなかっただろうか。
「あ、ごめん。嫌なら答えなくていいから」
「ううん。そうじゃないの」
首を横に振った。そして微笑を浮かべた。
「幸お兄さんって、やっぱり優しい」
「いや……」
俺は否定しながら目を逸らす。ふふっと小さく笑い声を漏らした明里ちゃんは、頷いてみせた。
「そうだったよ。前はそんなふうに思ってた。……けど、もう疲れちゃった。耐え切れなくなったの……」
明里ちゃんの言葉は、ずしんと俺の胸の中に落ちてきた。そうだ。誰だってそう考えて願うものだ。自分の身体がよくなるようにと。俺の言葉は、まるで彼女がすぐに緩和ケアを選んだ、生きることをやめた人だと捉えているように聞こえてしまう。決まりが悪くなる。でも明里ちゃんは気にしていないようだ。
「だからね、今を生きようと思ったの。いつ来るか分からない未来に期待するよりも、今を楽しんで、私の人生いい人生だったって死ぬ時に思えるように、精一杯生きようって決めたの」
だからね、と言葉を紡ぎながら俺に顔を向けた。
「緩和ケアを選んだのは、諦めたってことじゃないの。前向きに決めたことだから」
ニカッと笑って言葉を締めた。俺はなんとなく、明里ちゃんがどんな人なのか少し分かったような気がした。
「……明里ちゃんは、強いね」
俺がようやく口から出すことができた、慰めでも気休めでもない本音の言葉は、こんなものでしかなかった。でも明里ちゃんは、満面の笑みをみせてくれた。
「けど、心残りはあるよ」
「例えば?」
「恋愛がしたかった」
「恋愛?」
「うん。病院のほうが長いから、恋はしても恋愛はできなかったから」
前に、恋バナがしたいと言っていた。理想のタイプやデート内容、男の好きな仕草なども話していたことがあった。明里ちゃんは、中学生だ。思春期真っ只中。同年代の子たちのように、普通の生活を送りたかっただろう。
明里ちゃんは、身体を俺に正対させる。
「幸お兄さんに、お願いがあります」
「お願い?」
頷く明里ちゃん。
「何?」
「清果お姉ちゃんのことなんだけど」
「……ん?」
明里ちゃんは目を細めた。
「清果お姉ちゃんは、強そうに見えて凄く繊細な人。気丈に振る舞うって言ったりするけど、それを体現しているみたいな人だから」
明里ちゃんの言っていることは、なんとなく理解できる。時折見られる表情や声色から、清果の弱い部分が表出する。普段は弱いところが見られないせいだろうか。他の人の弱さよりも清果のそれは大きなもの、深刻なもののように感じてしまうこともある。
「だから幸お兄さんが、清果お姉ちゃんのことを守ってあげて」
「守る……俺が……」
頷いた明里ちゃんは、微笑をみせる。
「清果お姉ちゃんのこと、お願いします」
「……うん」
とりあえず頷いてはみたが、正直な返事ではない。守るとは、どういうことだろうか。
「それと、もう一つ」
こっち来て、と言って俺の手を握ると、引いてベンチのほうへ向かった。
腰掛けた明里ちゃんは、俺に向かって人差し指を差した。
「そのカメラで、私の遺影を撮ってほしいの」
「遺影?」
まさか、そんなお願いをされるとは。俺は驚きを素直に表に出す。明里ちゃんは小さく笑い声を上げると、頷いてみせる。
「私、全然写真がないんだよね。撮る機会が少なかったってこともあるんだけど。お葬式で写真がないのって寂しいでしょ?それに、遺影は幸お兄さんに撮ってもらうって決めてたから」
笑顔でこんな話をすることができるのだろうか。自分自身と向き合い、自分の人生を受け入れた明里ちゃんは、本当に強い人間だ。
「その恰好でいいの?入院着だよ?」
「病院での生活のほうが長い人生だったから、こっちのほうが私らしいよ」
その言葉に、胸がじんとする感覚が生まれた。明里ちゃんの潔さは、俺の中に熱いものを掻き立たせる。
小さく頷くと、カメラの準備をする。明里ちゃんは入院着の襟を直したり前髪を触ったりと、身嗜みを整える。
カメラのレンズを明里ちゃんに向ける。彼女はまるで記念写真を撮るかのように、素敵な表情を俺に向けた。込み上げてくるものが外に溢れそうになり、それを誤魔化すようにファインダーを覗き、シャッターボタンに指をのせた。
写真同好会の部室は、暇潰しの場としても活用されているようだ。部活をやっている里緒都や根室、福岡が訪れることはほとんどないのだが、清果や淡路は時たま訪ねてきては時間を潰している。
そして今は益城がここにいる。彼女は頬杖をついてボーっとしている。俺はパソコンを操作している。フォルダの整理をしている。……というのは建て前。意識は頭の中で反芻している言葉に全て持っていかれている。
明里ちゃんからのお願い。清果のことを守る。
守るというのは、清果が押し潰されてしまわないように、弱さから彼女を守るということでいいのだろうか。でも、そんなことが俺にできるのだろうか。目に見えないものと対峙することは、かなり大変なことだ。あれこれ考えているのだが、そもそも俺に清果のことを守る資格があるのだろうか。
小さく息を吐いて、意識を頭の外へ出し、益城の顔に目線を向ける。彼女はさっきからずっと同じ姿勢のまま、窓の外に視線を向けている。表情はかなり悩まし気だ。こんな益城の顔を見たのは初めてだった。なんというか、そういう顔は似合わない。
「どうかした?」
俺の声に反応した益城はこちらに目を向けると、うーん、と唸りながら目を伏せる。窓を閉め切っているため、外部の音はほとんど聞こえてこない。パソコンと電気ヒーターの稼働音だけが響き渡る。
目を伏せたまま、益城は口をゆっくり開いた。
「……しゅうちゃんやよ」
前に映画を観にみんなで出掛けた時のこと。明示されたわけではないが、淡路のことが好きなんだろうなと思わせる言動があった。それ以降、益城は俺に淡路の話をちょくちょくするようになった。こっちから尋ねているわけではないのに。
「喧嘩でもした?」
益城は小さく首を横に振った。
「クリスマスのこと」
「クリスマス?」
今度は小さく頷いた。
「子どものころから、クリスマスはいつも一緒に過ごしてた。プレゼント交換なんてこともしてた。中学生になってからはそれはしなくなったけど、一緒に時間を共有してきた。……だけど、今年はまだ誘われてない……」
あ、これは淡路のこと絶対に好きだな。確信へと変わった。
そして、素直に浮かんだ疑問を投げかけてみる。
「じゃあ、益城のほうから誘ってみれば?」
そんな大したことを言ったつもりではなかった。でも益城は驚いたように目を見開くと、強く素早く首を横に振って否定を表現する。
「そんなことできるわけないやろ!」
「え、なんで?」
「だって……」
発したが後が続かない益城の言葉。代わりに頬がぱっと朱色に染まった。そして顔を俯かせる。
「……恥ずかしいやろ」
小さい声であったが、ちゃんと耳に届いた。なんだか俺も恥ずかしくなってくる。そして、益城も女性なんだなと思った。まあもちろんそうなのだが、女性らしい部分を見るのが新鮮であった。そんなこと言ったら怒られそうなので黙っておく。
「しゅうちゃんは昔から友達が多かったけど、高校になってさらに増えたから。もしかしたらそっちと遊ぶのかも」
淡路の性格からすれば多くても納得だ。でも、友達の多さなら益城も一緒のはず。
「なら、清果誘ったら?」
「おじいさんとおばあさんがクリスマスの時期にこっちに来るらしくて。さやは二人のこと大好きみたいやから、家族で過ごすんじゃないかな」
「他の友達は?」
「私の友達、部活とか塾通ってる子がほとんどだからさ。部活仲間とか塾仲間で計画してるみたい」
友達には他の友達がいて、そこでのコミュニティも存在する。だから友達との予定が必ずしも合うとは限らない。
「こんままだと独りやわ。独りのクリスマスってどんなやろ……」
俺は中1の時まで、クリスマスはいつも独りだった。厳密に言えば両親と一緒なのだが、友達と、という意味では独りだ。今までいつも誰かと一緒、ましてそれが好きな人であったのならば、急に独りになる寂しさや不安は大きいのかもしれない。
「……牛田は?」
俺はパソコンへと向けられていた視線を益城へ戻す。
「あんたはどうすんの?」
「えーっと、まだ決まったわけじゃないけど、もし誰かと一緒に過ごすんなら里緒都たちと一緒になるんじゃないかな」
「4組のメンバーでってこと?」
俺は頷いた。例え里緒都たちと一緒じゃなかったとしても、俺は独りでも気にしないのだが。
「もし私が誰も捕まえられんかったら、そっちに混ぜてくんない?」
「俺たちのとこ?」
益城は頷いた。そんな提案がくるとは思わず、少し驚いて目を瞬かせる。
「益城はそれでもいいの?」
「私って怖がりなんだよね。いつも誰かと一緒だったのに、独りになっちゃうと恐怖のような思いが生まれんの。……私は、他人に依存してるってことなんやろな……」
かなり落ち込んだ顔と声。やっぱり似合わない。だからこう言えば、少しは不安を払拭できるだろうか。
「うん、分かった。里緒都たちに言っとくよ」
益城はちょっとだけ笑みをみせてくれた。
「ああもう!なんなんだよ!」
「声がでかい」
里緒都はそう言うと、隣に座る根室の頭を軽く引っ叩いた。俺はゆっくりと、通路を挟んで隣に座っている男女二人組を見た。やっぱりこちらを見ている。すみません、と小さく頭を下げて謝罪をした。
今年のクリスマスはイブが日曜日ということもあり、昼間であってもファミレスの中は家族連れやカップルと思われる男女のお客で賑やかだ。
小さなクリスマスパーティの参加者は、俺、里緒都、根室の三人だ。益城は友達を捕まえたということで、不参加届けが出された。そしてもう一人はというと……。
「福岡の野郎、俺のことダシに使いやがった」
「ダシ?」
聞き返しながら、俺はポテトフライを口へ運ぶ。里緒都の家の近くにあるこの店には初めて入店した。ここのポテトフライは凄くうまい。癖になりそうだ。
「前に、俺とあいつと先輩マネージャーと1年のマネージャーの四人で飯食いに行ったことがあったんだけど」
ああ、そんな話していたな。俺は咀嚼しながら頷く。
「俺と先輩が仲良くなれるように協力するとか言っときながら、あいつの真の目的は、1年マネージャーと距離を縮めることやった。俺のためやなくて、あいつ自身のため。……やられた」
根室は無駄に力を込めて、ウインナーにフォークを突き刺す。それの先端が皿の底に当たって、カッと音を立てたと同時に、肉汁が皿の上に飛び散った。
「健太の奴やるな」
里緒都が感心して、コップに入ったコーラを喉へ流し込む。根室のふてくされに拍車が掛かる。
「あいつは恋人を選びやがった。そもそもクリスマスってのは、家族と一緒にってのが本来の過ごし方らしいんだ。恋人と過ごすのが当たり前って思ってんのは、日本人くらいらしい。福ちゃんは何も分かってない」
「まあ今一緒に過ごしてる俺らだって家族じゃないけどな」
里緒都は冷静につっこんだ。根室の話は俺も聞いたことがある。クリスマスの本場であるキリスト教の国や人々は、家族と教会に行くなどして祝うようだ。日本では恋人と祝うのが一般的であり違いはあるが、家族にしろ恋人にしろ、大切な人と一緒、ということは共通しているのかもしれない。でもこんなことを言ってしまうと、友達は大切な人じゃないのか!と根室に噛み付かれそうなので、口の外には出さないようにしとこう。
「根室は進展なかったの?」
聞いた瞬間、根室に睨まれた。今お前たちと一緒にいるってことから察しろよ!なんて言われたような気がした。俺は小さく頭を下げて謝る。根室は大仰にため息をついた。
「今日は夜まで一緒やぞ」
「いや、それは無理」
根室の発言から間髪を容れず、里緒都が拒否の意を示した。
「え!なんで?」
「この後、他の人と会う約束してんの」
「え!誰?」
里緒都は根室からの問いに答えず、フォークでスパゲッティーを巻き出した。俺はピンときた。
「あ、もしかして、弓道部の人?」
里緒都は顔を上げると、嫌みな笑みを浮かべ根室に顔を向けた。根室は苦虫を噛み潰したような顔で小さく唸り声を上げると、素早くこちらに顔を向けてきた。あ、これはまずい。俺のシックスセンスが耳元でそう呟いた。
「幸、お前は付き合ってもら…」
「あ、俺も会う人いるから」
そんな人はいない。咄嗟に嘘が口を衝いた。根室のやっかみを一人で受け止められる自信はない。彼は頼みの綱が切れたのか、途方に暮れたような悲しい表情へと変わっていく。そして眉間にぎゅっとしわが寄った。
「この裏切り者たちめが!」
「だから声でかい」
里緒都はさっきよりも強めにはたいた。
二人と別れた後、駅ビルの商業施設内をぶらぶら歩く。クリスマスの飾りやBGMで満たされた空間。暖房が効いているため、マフラーはいらない。手に持って辺りをきょろきょろしていると、本屋を見つけたのでそこへ足を踏み入れる。
雑誌コーナーに向かい、カメラの雑誌を手に取る。普段、本はあまり買わない。カメラに関する役立ちそうな情報を見つけた時、それを購入するか財布と相談する。クリスマスプレゼントとして親からもらったお金は、さっきの食事代を支払っても残金に余裕はある。どうせなら買っちゃおうかな。雑誌を小脇に抱えてレジへ向かう。
支払いを終え、本屋の外へ。腕時計を見る。もう帰るか。改札に向かって歩き出す。2、3歩進んだところで、携帯の通知音が鳴った。ポケットから取り出し画面を見る。石川先輩からのメールだった。
『これから会えないかな?』
内容はそれだけ。どうせ暇だったので、大丈夫ですよ、と返事をした。
駅の改札付近での待ち合わせ。俺からしたら目と鼻の先だった。
柱に背を預け、コートのポケットに手を入れて寒さを堪える。息を吐けば白い煙が薄暗くなった世界の中に立ち上る。白色が消えてなくなると、男女が触れ合っている光景が目に入った。カップルだろうか、友達だろうか。
鼻をすすると冷たい空気が鼻腔に刺さる。正直痛いが、冬という季節を実感できるので嫌いじゃない。
左肩を軽く叩かれた。顔を向けると石川先輩がいる。頬が少し赤らんでいる。今日はこの冬一番の寒さだ。
「ごめんね突然。寒かったでしょ」
先輩の手は手袋に包まれている。そこには缶飲料が握られていた。差し出されたので受け取る。紅茶のホットだった。俺は手袋をしていないので、温かさが身に染みた。
「今日は寒いね。今シーズン一番の冷え込みだって」
先輩はそう言って、自分の手に持っている缶コーヒーを飲んだ。
「そうみたいですね」
答えながら、俺は少し違和感を覚えた。
「明後日、満月なんだって。明日だったらクリスマスに満月で、いいムードになってただろうにね」
声が上ずっている。それに話題がいつもと違う。先輩が俺に話す内容は、先輩自身や音楽に関することだったり、俺や清果についての質問だったりだ。天気や天体の話など、今まで一度もなかったはず。
「先輩、今日なんかちょっと変じゃないですか?」
「えー変?そうかなあ」
あきらかにごまかそうとしている口調。そしていつもと違うところを新しく見つけた。俺に飲み物を渡して以来、こちらの顔を見ない。目が泳いでいる。先輩はいつも、俺の顔を見て話をしていた。こっちが恥ずかしくなるくらいに、じっと見てくる。……恥ずかしいくらいに……あ!
気が付いた瞬間、心拍が一気に速さを増した。え……マジで……いや俺なんかに限ってそんな……あれ……え……。頭の中がぐるぐる回転していく。
イブに呼び出される。上ずった声。たいていの人は、これでなんとなく察することができるのだろう。でも俺はこういう場面に、当事者としても第三者としても遭遇したことがない。だからだろうか。感づくのに時間がかかってしまった。
一度唾を飲み込んだ。ゆっくりと左側に顔を向ける。石川先輩と目が合った。さっきよりも濃い赤色に染まっている。たぶん、俺も赤くなっているのだろう。先輩の口から白い息が小さく吐き出されると、彼女は俺に向かって身体を正対させた。
「牛田くんに、伝えたいことがある」
「……はい」
俺も向き直る。先輩の目は今も泳いでいる。それを止めるように、ぐっと強く目を瞑る。そしてまた小さく息を吐くと、ゆっくりと瞼を開き、口を開く。その瞬間、周りの音が一切聞こえなくなり、先輩の声だけが耳に届いた。
「……牛田くんが好きです」
その声は、上ずっていなかった。しっかりとした響きが俺の頭の中へ入ってきた。その時の目は、泳いでいなかった。しっかりと俺を見据えていた。
俺たちの間に沈黙が流れる。石川先輩は俺の目を見続けている。このまま黙っていていいわけはない。頭の中で言葉を探していく。
「……あ、えっと……俺、好きって感情がよく分からなくなってて……誰かを好きになるってことができなくなってて……」
これは本当のことだ。でも、それをうまく伝えることができない。それに、先輩のことが嫌いってことではない。それはちゃんと伝えたい。
「……石川先輩は、俺にとって大切な友人ではあるんですけど、それが好きとつながってるかどうかは分かんなくて。その……先輩の気持ちには、応えることはできなくて……」
ダメだ。うまく言えない、伝えられない。この時は俺の目が泳いでいる。目線を先輩の顔へ戻す。真剣な面持ちの口角が少し上がった。
「うん。分かった」
先輩の表情に、清々しさが加わった。スッキリした、そんな想いが表れているようだ。
「
「オーケストラサークル?」
「うん。そこはね、音楽系の学校以外での学生オケの中ではけっこう有名で、実力もあるから部員数も多いとこなの。やから、楽器選びだったりレギュラー入りするのは容易なことじゃない。けど……」
先輩は目を伏せると、笑みを浮かべる。
「諦めないから。前に君が、やりたいことをやり続けるのはかっこいいって言ってくれたでしょ?あれ、あたしの支えになってたんよ」
そのようなことを言ったことは覚えている。でも、支えになるとか、そんなつもりで言ったわけではなかった。
「あたし、頑張るから。瑞希では人数不足でティンパニ叩いたけど、今度は実力で勝ち取ってみせる」
先輩の声と表情は、自信に満ちていた。それに俺の言葉が関わっているのかと思うと、自然と笑みが零れた。先輩も笑顔になる。よし、と声を出すと、彼女は右手を小さく挙げた。
「今日はありがとう。じゃあね」
俺に背を向けると、歩を進めていく。あ、ダメだ。俺は無意識に石川先輩の名前を呼ぶ。先輩は足を止め、こちらを振り返る。
先輩と会えるのは、これが最後になるかもしれない。そんな考えが俺の頭の中に浮かんだ。それは嫌だ。せっかくできた人脈、友人、それを失いたくない。自分勝手な思いなのだが、それを相手にぶつける。
「また……受験が落ち着いたころにでも、また、おしゃべりしませんか?」
石川先輩は、驚いたように少し目を見開いた。そして満面の笑みをみせてくれた。
「何言ってんの。そんなの当たり前、するに決まってるやろ!」
「幸くんは、明里ちゃんに好かれたみたいだね」
病棟の廊下を歩きながら、清果が俺に目線を送った。
好きという感情をまだ取り戻しきれていない俺なのだが、誰かに好かれることは、こそばゆさがあるが嬉しかった。でも、今は素直に笑顔になれない。その相手が明里ちゃんだからだ。
屋上で気持ちを吐露されてから、明里ちゃんに呼ばれることはなかった。俺も行きづらさがあり、今日は清果からの誘いがあったため明里ちゃんの病室へ向かっている。会うのはあの日以来だ。清果の様子を見る限り、明里ちゃんは彼女に、そろそろ、の話はしていなさそうだ。
病室に入って明里ちゃんの顔を見た瞬間、俺は息を呑んだ。彼女の表情は、いつもと明らかに違う。顔色が悪い。ここまで酷い色をしている人の顔を見たのは初めてだ。清果も同じようなことを感じたのだろうか。少し絶句してしまっている。
「……ああ、いらっしゃい」
声に覇気がない。顔には笑みが無理矢理張り付けられている。
「今日は体調がよくなくって……」
「あ、じゃあ今日は帰ったほうがええかな?」
明里ちゃんは小さく首を横に振る。
「誰かがいてくれたほうが、落ち着く気がするの」
俺と清果は、明里ちゃんのベッドの近くまで歩を進める。近くで見た彼女は、弱っている、衰弱している、そんな言葉がしっくりきてしまうほど、力なく見えた。
「先生、呼んだほうがいい?」
やっと出たきた俺の言葉。大丈夫、と明里ちゃんは答えた。でも、どんどん呼吸が荒くなっていくのが分かる。
「……お願いが、あるの……」
か細い声が聞こえてきた。清果はしゃがんで、明里ちゃんと視線を近づける。
「何?」
「……あの曲、あれ……き……」
言葉が続かなくなった明里ちゃんは、目を閉じてしまった。
「明里ちゃん?……明里ちゃん!」
清果が明里ちゃんの肩を叩く。さする。反応が返ってこない。
「明里ちゃん!」
清果が叫ぶ。反応はない。マジか。俺は心の中で呟くと、ベッド脇に手を伸ばしナースコールのボタンを押した。
病室には、明里ちゃんの両親、主治医の目白先生、看護師さん、大宮さんがいる。俺と清果は、談話室のソファーに座っている。
一度トイレに立ち、飲み物を買って戻っただけで、俺はここに座り続けている。清果は、一度も腰を浮かしていないようだ。飲み物を手渡した時に、ありがとう、と言った切り、彼女は言葉を発しない。俺も何も言わない。
ここに座ってどのくらい経っただろうか。でも俺は、帰ろうとは思わなかった。今去ってしまったら、もう二度と明里ちゃんと会えない気がした。いや、会えない確信があった。だから、もしもう一度話せる機会があるのなら、いやあると信じて、俺はここで待ち続ける。
隣に座る清果を横目で見る。俯いたまま、じっとしている。不安でたまらない、そんな表情をしているように見える。彼女のこんな顔は、見ていられない、見たくない。でも、それをよい方向へ変える術を今の俺は持ち合わせていない。
視線を正面に向けた時、人影が目に入ったので焦点をそこに定める。大宮さんがこちらに向かって歩いてくる。俺は背を伸ばし、姿勢を少しばかり正す。
「牛田さん。猿島さん」
名前を呼ばれ、清果はゆっくりと顔を上げる。
「明里ちゃんが、お二人のこと呼んでます」
俺と清果は顔を見合わせ、ゆっくり立ち上がると病室に向かった。
大宮さんに続いて、中へ入る。ドアから3、4歩のところにある洗面台の前で立ち止まる。こちらから見て、ベッドの奥側に明里ちゃんの両親が座っている。ベッド脇に立っていた目白先生がこちらに気付くと、俺の前まで近づいてくる。
「牛田さん。明里ちゃんのそばへ」
俺は小さく頷くと、ベッドのそばへ向かおうと足を上げる。それがめちゃくちゃ重く感じた。たった数歩の道のりが、とても長く感じる。ようやく辿り着くと、しゃがんで明里ちゃんとの目線の高さを合わせる。彼女の口は、大きな呼吸器に覆われている。荒い息遣いが聞こえる。
「……幸お兄さん……」
さっき会った時よりも声が弱くなっている。人が変わっていく。弱っていく。それに恐怖を感じる。
「……耳……近づけて」
俺は耳を明里ちゃんの口に近づける。
「……清果お姉ちゃん……よろしくね……」
前にも言われた言葉。それは、清果を心配しての明里ちゃんの優しさが含まれたものだった。自分自身がこんな状態にあるのにも関わらず、彼女は他人の心配をしている。
胸がぐっと締め付けられる。
「……分かった」
俺はそれだけしか答えられなかった。でも明里ちゃんは、安心したようにはにかんだ。
「……清果お姉ちゃん、呼んで」
頷いた俺は、立ち上がりながら振り返る。
「清果」
手招きをした。清果はゆっくりとこちらへ近づいてくる。その道すがら、顔に小さな笑みを貼り付けた。俺はベッドから少し離れ、清果に場所を譲る。彼女は両膝を床につけ、明里ちゃんの頭に手を置いた。
「……お願いがあるの」
「うん、何?」
「……あの曲……私の、好きな曲……最期に、もう一度……聴かせて……」
明里ちゃんの消え入りそうな声で発せられた、最期、という言葉が、俺の心に重くのしかかる。その言葉は、聞きたくなかった。最期を明示されるのは嫌だった。
清果は明里ちゃんの両親の顔を見る。二人は頷いた。
「分かった」
清果はそう答えると立ち上がり、オーボエの準備を始める。ベッドの上半身の部分を少し起こし、明里ちゃんが清果の姿を見えるようにする。
オーボエのリードを一度舐めると、清果は明里ちゃんに目線を向ける。少しの間、見つめ合う。清果は小さく笑みを浮かべると、リードを咥えた。
明里ちゃんの好きな曲。『グリーンスリーブス』。イングランドの民謡らしい。映画に使われていたので、俺も聴いたことがあった。
明里ちゃんの表情は、笑っているように見える。もうすぐ死んでしまうかもしれない。そんな状態にあるのに、どうして笑っていられるのだろうか。明里ちゃんは強い。改めてそう思った時、熱いものが込み上げてきた。それを必死に押し留め、清果に視線を向ける。普段のように落ち着いた表情で、淀みなくオーボエを奏でている。気丈だ。
明里ちゃんの目尻から、涙が流れた。そして、ゆっくりと目を閉じた。俺はハッとして、心拍を表すモニターに目を向けた。表示された数字が、0、になった。波打っていた線が平坦になる。映画とかでは、警報音が鳴るのだろうが、音のスイッチはオフになっているのか、耳に響くであろうその音は聞こえてこない。
目白先生がベッドの脇まで近づく。明里ちゃんの母親が泣きながら名前を呼び、父親が母親の背中をさすっている。先生が明里ちゃんの手首に指を当て、脈を測る。ペンライトを取り出し、瞳孔の動きを確認する。その動作を見た清果は、そこでオーボエを口から離した。俺は無意識に唾を飲み込んだ。先生は腕時計を見る。
「午後2時11分、ご臨終です」
先生と看護師は、ゆっくりと頭を下げた。俺の隣に立つ大宮さんも、頭を下げた。つられて俺も下げる。ゆっくりと頭を上げて清果を見た。眠っている明里ちゃんを、柔らかい目で見据えていた。
12月の屋上は、やっぱり寒い。弱い風でも身体が震え上がる。隣に座る清果の口から、白い息が吐き出される。俺は鼻をすすり指で触ってみる。冷たくなっていた。小さく息を吐く。俺の息も白かった。
「明里ちゃんの顔、見た?」
清果が口を開く。俺は彼女を見る。
「笑ってはった。あんな顔で死ねるんやね」
「……うん」
うまく言葉が出てこない。清果が続ける。
「明里ちゃんは、強い子やった。ほんまに」
俺は無理に微笑んでみせる。
「清果も強いよ」
清果が俺を見る。
「最後まで、綺麗に演奏し続けてただろ?だから明里ちゃんも、笑って死ねたんだと思う」
清果は少しだけ口角を上げる。そして小さく首を横に振った。
「強くなんかないよ。泣きたくないだけ。涙、嫌いやから……」
俺は顔を自分の足元へ移した。涙が嫌い。前も言っていた。なぜそんなに嫌っているのかは分からないが。
「……明里ちゃんは、自分の人生をどんなふうに感じてたんかな」
「ん?」
「楽しかったんかな?苦しかったんかな?」
清果は儚げに笑みを浮かべた。死ぬ時に、いい人生だったって思えるように精一杯生きる。明里ちゃんはそう言っていた。死ぬ瞬間に立ち会ったが、答えを聞くことはできなかった。だから実際、彼女がどう感じてたのかは分からない。
俺は目を逸らした。逸らした先は、彼女の右手だった。
「……清果」
「ん?」
「右手、震えてる」
清果は右手を少し持ち上げ、目を落とした。小さく息を吐き、苦笑をみせる。
「身体は、正直やな」
呟いた清果は、右手を押さえようと左手を伸ばした。
「あ……こっちもか」
左手も震えている。ため息をつくと、苦笑のまま俺に目を向けた清果。
「ねえ、手、抑えてくれへん?」
「え?」
「震え、抑えてくれへん?」
清果の目には、彼女の嫌いなものが溜まっている。右手の上に左手を重ね、右脚の上に置かれている、彼女の両手。息を呑み、俺は左手を彼女の左手の上に置いた。震えを抑えるため、少し押し込むように。
清果は目を閉じると、短く息を吐いた。
「……幸くんの手……あったかいね」
俺は清果の顔に目線を移した。
「あったかさを感じたらさ……相手も、自分もちゃんと生きてるって実感できる……」
俺は怪訝な表情となる。なぜそんなことを言うのだろうか。
「うちはまだ、生きてるって、自覚ができる……」
どういうこと?意味が分からない。眉間に少ししわが寄った。
「……なんで……なんでそんなこと考えるの?」
清果が目を開けた。彼女の目をじっと見つめる。
「そんなこと考えなくても、清果はちゃんと生きてるよ」
清果は何も言わず、でも視線を逸らすこともなく俺を見つめ続けている。俺も逸らさない。しばらくして、清果は目を細めた。
「……うちはね、普通と違うから」
「……え?」
「前に、透析受けてる話、したよね?」
俺は頷いて返事をする。
「透析を続けてても、腎臓が悪くなることを止められるわけじゃない。透析じゃ間に合わなくなるかもしれない。……合併症を起こすかもしれない……」
清果は作り笑いを浮かべた。正直言えば見ていられないほど、それは複雑な気持ちにさせるものだった。
「今すぐってわけじゃない。やけど……普通の人よりは、死に近い人間やねん」
清果は目線を前方に向ける。小さく唇を噛み締める。
「……うち、死ぬのが怖い。……怖い……」
その言葉を発したのを合図に、彼女の目から涙が零れた。
「あ……」
清果は目を瞑ると、顔を空に向けた。
「あかん、嫌やな。……もう……もう泣かへんって、決めてたのに……」
鼻をすすり、口を真一文字に結ぶ。
ドンッと胸を突き上げられたような感覚が身体に走った俺は、気が付いたら清果のことを
抱くように左手で身体を引き寄せていた。彼女の両手は、右手で押さえている。
「……幸、くん?」
戸惑ったような清果の声。正直俺自身も戸惑っている。なぜこんな行動に出たのか、皆目見当がつかない。どうすればいいか頭で考えた。しかしその考えがまとまる前に、自然に口が開き言葉を発した。
「今はどう?俺の体温、感じてる?」
「……うん。めっちゃあったかい」
「なら大丈夫。清果は今、ちゃんと生きてる」
右手も清果の身体に回して、俺は彼女を抱きしめた。
「今すぐ死ぬわけじゃないだろ?それに未来のことなんか分かんない。でも今、生きてる。清果は今、ちゃんと生きてる。だから、生きてる今を……今を精一杯生きよ!俺たちが生きてるのは未来じゃない。今やぞ!」
自分らしくないと思った。今までこんなふうに、強い口調になったことがあっただろうか。放った言葉は明里ちゃんからの受け売りなのだが、清果にそれを伝えたいと強く思った。
小さく息を吐くと、声の調子を落ち着かせる。
「……泣きたい時は、泣いたほうがいいよ」
彼女の鼻をすする音が聞こえる。
「……泣いたほうがスッキリするって、よく聞くから……」
少しの間の後、清果は俺の胸に顔をうずめた。むせび泣きが外に漏れないよう、必死に声を埋もれさせるように。
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