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「保健室くん!」

 そんな声が耳に届き、俺のことなのか?と疑問を抱えながら、おもむろに振り返る。声の主の顔を見て、心臓が止まるかと思うくらい驚いた。

「どうも、初めまして」

「あ、はい、初めまして……」

 ニッコリ笑顔でこちらを見る眼鏡を掛けた女性は、間違いなくあの人物だ。なぜだ?なぜこんな人が俺に声をかけてるんだ?額と手のひらから、汗が滲んでくる。

「私、猪野早苗さなえっていうの」

「あ、うん。知ってる」

 あいつのことを知らない奴なんて、この学校にはいない。それだけの有名人だ。

「保健室くんの名前は?」

 あのころの俺は、周りとの関係は皆無だった。だから自分が周りからどんなふうに見られているのかは分からなかった。特に気にしてもいなかったのだが。それにしても保健室くんて……。でもあのころの俺にはぴったりの呼び名だ。

「牛田幸」

「よろしくね」

「あ、うん」

「牛田はカメラ好きなの?」

「あ、うん」

「カメラってかっこいいよね。まあ知識は一切ないんだけど、見ててかっこよく感じる」

「あ、うん」

 あいつの話の勢いに押され、俺は、あ、うん、としか言えていない。我ながら情けない。もっといい返事はできないものか。

「もう保健室に戻るの?」

「あ、うん」

 あいつが一歩、俺との距離を近づけた。

「私、保健室に行ったことがないの。学校で具合悪くなったことないし、誰かの付き添いもなかった。けど、なんの用事もないのに行くのって変やろ?牛田は保健室に戻るわけだし。やから牛田に付いて行こっかなって思って」

 俺はしばらく考えを巡らせた。この人はいったい何を言っているのか。そもそも保健室は行きたくて行くような場所じゃないし、むしろ行ったことがない人は多数派なはず。それに今は田中先生は不在のはず。俺たち二人だけになる。……ん?二人だけ?

 目を見開いた俺は、少し焦った声になる。

「いやいや、男女で保健室に行くほうがよっぽど変に思われると思うんやけど」

「……へ?」

 俺が放った言葉の意味を、あいつは理解できなかったらしい。腑抜けた声と共に小首を傾げた。きょとんとした表情をしている。俺は少しドキッとした。しっかり者のイメージであったため、こんな声や顔をすることが意外だった。俺の中で勝手にギャップ効果が生まれた。身体が熱くなる感覚に襲われる。

 違う、断じて違う!そんなつもりはない。そんなつもりは一切ない。ただあいつが行ってみたいというので、それを叶えてあげようと思って口を開いた。

「……まあ、別にいいけど」

「ほんとに?ヤター!」

 両手を突き上げるという、マンガのようなガッツポーズを決めたあいつは、俺の肩を掴むと、くるっと俺の身体を反転させた。

「じゃあ早く行こ!」

 あいつが背中を押してくる。まさかのボディータッチに顔が真っ赤になった俺は、表情が見られないよう、前をしっかり見据えたまま歩き出した。

「そう急かすなよ」

「善は急げっていうやろ」

 すぐ後ろから聴こえてくる鼻歌が、とても心地よく感じられた。


 今日は休日。前に清果から音楽スタジオに来ないかと誘いを受けた。そのため、そのスタジオがある街へ来ている。

 なんでも彼女は、淡路と益城と共に、バンドを組んでいるらしい。あの二人も楽器を演奏できるということか。

 駅近くにある雑居ビル。その地下に入ると、たくさんの個室が選ぶスペースへと辿り着いた。カラオケボックスみたいな空間だ。清果たちが利用している部屋の番号は6番と言っていた。その部屋のドアに付いてある小窓から、中を窺い見る。ドラムを叩いている益城の姿が見えた。彼女はドラマーなのか。ドアをゆっくり開く。

「お、牛田!」

「ほんとに来た」

 淡路のトーンの高い声と、少し驚いた益城の声が聞こえた。俺はドアを閉めると、首から提げていたカメラを持ち上げた。

「清果がいい被写体になるかもって言うから」

「写真撮るの?だったらもっといいの着ればよかった」

 片手で持っていた2本のスティックで、益城は自分の頭を軽く叩いた。小さく笑みを浮かべた淡路が茶々を入れる。

「お前はいつもこんな感じやろ」

「何、その言い方!」

 空いているほうの手で淡路の腕を引っ叩いた。仲がいいな。単純にそう思った。

 スタジオの右側に目を向けると、オーボエを持った清果が歩み寄ってくる。

「いらっしゃい」

 俺は頷いて答えた。カンカンとスティック同士が当たる音がした。

「じゃあ、いつものやっとく?」

 益城の声に、清果と淡路は頷いた。指をパキパキ鳴らしながら、淡路はピアノに向き合っている椅子に腰掛けた。彼はピアニストなのか。楽器が一切弾けない俺からすれば、楽器に向かう姿だけでも眩しく見える。

 清果からの合図を受け、益城のスティックがドラムを叩く。伴奏というのだろうか。淡路が鍵盤を押し下げる。清果のオーボエが主役のようだ。綺麗いな音がスタジオに響く。あ、この曲、俺でも知ってる。童謡でよく歌われているあの曲。

「これって、『クラリネットをこわしちゃった』だよね?」

「そう。オーボエでクラリネットの曲を吹くっていう、うちらのつかみやねん」

 ああ、そうか。少しコミック的な要素を含めた演奏だったのか。俺は何度か頷いた。

「……なんか、反応薄いな」

 益城が不満そうな声を漏らす。たしかに反応は悪かったかもしれない。ただ、それには理由があった。

「いや、みんなの演奏が凄いかっこよかったから、見とれてしまったというか。写真撮るのも忘れてたし」

 その言葉を聞いて益城は、不満顔を一変させ、少し照れているような表情へとなる。

「あ……そんなふうに言われると、ちょっとこそばゆいな」

 クールな印象を益城に対して持っているのだが、こういうところは女性らしく思えた。

「牛田が聴きたい曲とかはない?」

 淡路がこちらに身体を向ける。俺は目線を上に向けて考える。でも、何かぱっと浮かぶでもなく、首を傾けた。

「俺、音楽全然知らないから、リクエストもできないな」

「じゃあ、ポピュラー音楽で有名ドコにする?」

 益城が清果に視線を向ける。清果は少し間を空けて考えると、思いついたことを口にする。

「……なら、ビートルズかな」

「ビートルズなら、『レット・イット・ビー』やな!」

 笑顔でそう語ると、淡路はイントロを弾き始める。突然の演奏開始にも関わらず、清果と益城はすぐに演奏体形をとる。益城はリズムをとり、清果はメロディを奏でる。そのまま演奏を聴き続けてもいいのだが、三人の姿はかっこよくて絵になるので、カメラを構えてレンズを向けた。


「じゃ、先に帰るね」

 手を振った益城は、その言葉を残して淡路の後を追ってスタジオを出た。清果はもう少し吹いていくと言って、スタジオに残った。俺もなんとなく居座っている。

 カメラの液晶画面に、さっき撮った写真を眺める。楽器を演奏している三人は、とても生き生きとしていて、とても楽しそうに見えた。いい写真が撮れたため、カメラマン冥利に尽きる。

 目線を上げると、オーボエを咥えている清果がいる。今吹いている曲は、俺が彼女と初めて会った時に吹いていた曲。緩和ケア病棟で吹いていた曲。何回かしか聴いてはいないのだが、聴けばあの曲だとすぐに分かる。

「この曲、よく吹いてるよね」

「うん。うちの一番好きな曲やから」

 ニコッと笑って答える清果。

「なんていう曲なの?」

「『イーゴリ公』っていうオペラの曲で、『だったん人の踊り』っていうの」

 だったん人って誰だ?クラシックやオペラとは無縁の俺は、初めて印象的な曲に出会ったように感じた。

「この後なんか用事ある?」

 清果からの問いかけに、俺は首を振って答える。

「ううん。特にないけど」

「この後、楽器屋さんに寄ってこうと思ってるんやけど、よかったら一緒に行かへん?」

 断る理由は特になかった。なので今度は頷いた。

 共だってドアの外へ出る。げ、という声が聞こえた俺たちは、同時に声のした方向へ顔を向ける。そこには一人の女性が立っている。嫌そうな顔を張り付けながら。その人の手には、清果が持っているのと似たケースが提げられている。

犬伏いぬぶしさん!」

嬉々として女性に声をかけた清果は、女性との距離を縮める。

「犬伏さんもよくここ利用するん?」

「まあ、時々」

 犬伏と呼ばれたその女性は、少し不愛想に思えた。嫌がっている表情に、暗さがどんどん増していく。

「フルート続けてたんだ。よかった。うち、犬伏さんのフルート好きやから」

「それはどうも……」

 犬伏さんは清果と目を合わせようともしない。普通の反応ではないと分かった。

「綺麗な音色やから。また聴きた…」

 食い気味に、犬伏さんは大仰なため息をついた。がしがしっと自分の頭を掻きむしり、犬伏さんは清果に目を向けた。やっと合わせた目だったが、その目は清果のことを睨みつけている。「あなたはなんでいつもこう、私のことをイライラさせんのよ……」

 もう一度ため息をつく。さすがの清果も、表情から笑顔が消えた。彼女は犬伏さんを褒めていた。なのになぜそこまでイラついているのだろうか。二人の関係性が全く分からない俺には、皆目見当がつかない。

「何度も言ってるけど、私はあなたのこと嫌いやから」

 怒鳴っているわけではない。声量は普通なのだが、発せられた言葉には凄みがあり、俺は気圧されてしまった。三度ため息をつくと、犬伏さんは俺たちの間を縫って去っていった。


 オーボエは、木管楽器に分類されるらしい。木管楽器は、口に咥えるリードと呼ばれるところからの振動が、中の管に伝わって音となる。

 オーボエは世界一難しい木管楽器とも言われ、値段も張る。リード単体でも高価らしい。また、音を出すうえでリードはとても重要であり、自分に合うリードを奏者自ら作ることも多いとのこと。そして消耗品ということもあり、たびたび交換が必要だったりする。

 難しくて初期費も維持費もかかるため、初心者からすれば取っ付きにくそうにも思えるのだが、儚さや哀愁のある独特の音色に惹かれ、手に取る人が多いのだとか。

 清果は、手間のかかるところも愛おしいと言った。彼女は、ほんとにオーボエが好きなんだと感じた。

 清果がリードの材料を選んでいる間、俺はオーボエ本体の売り場を覗いている。一口にオーボエといっても、大きさも値段も様々だ。

「オーボエ見てるん?」

 清果が俺のそばまで歩み寄ってきた。

「うん。オーボエっていろいろあるんやな。これなんか、イングリッシュホルンって、別の楽器の名前が入ってるし」

 ホルンは俺でも知っている。管がぐるぐるに巻かれた、ラッパの仲間みたいなやつだ。ふふっと含み笑いをした清果。

「言われてみれば、たしかにそうやね」

 笑顔が見られたことに、俺は少し安堵した。


 楽器店を出た後、喉が渇いたと清果が言うので、駅前のカフェでお茶をすることにした。

 俺は好物の紅茶を注文。清果はブラックコーヒーを注文した。俺はコーヒーが飲めない。詳しく言えば、砂糖を入れれば飲める。無糖だと苦さで顔が歪んでしまう。無糖のコーヒーを飲める人は、大人だなと思っている。

 改めて聞く必要はないかもしれない。だが、興味本位ではあるが関係性が知りたいと思った。

「……さっきの人、犬伏さんだっけ?あの人とは……」

 思い切って投げかけてみたものの、うまく言葉にならなかった。清果は俺の顔をしばらく見ていたが、苦笑を浮かべた。コップに差し入れられたストローを掴み、かき混ぜてみせる。コップの中の氷がカランと声を出した。

「……犬伏さんは、うちとは別の中学の吹部に入ってて。コンクールとか演奏会とかで、時たま会ってたの。犬伏さんのフルートが好きで、何度か話をしてたんやけど、初めて話しかけた時から、なぜか嫌われてて。……彼女が嫌がることしたか考えてみてはいるんやけど、全然心当たりがなくて……」

 さっきの犬伏さんの反応は、嫌っているだけではなくて、何か恨みを持っているような、そんな大きな嫌悪感があったように俺は勝手に思っている。何かの勘違いから、この状態になってしまったのではないだろうか。

「……ごめんね。幸くんにこんな話しても、困らすだけやね」

 清果の苦笑と謝罪の言葉が、俺の心に痛みを与えた。何度か強く首を横に振る。

「そんなことないよ。……前に俺の話も聞いてもらったし……俺でよかったら、吐き出す相手になるっていうか……なんというか……」

 清果を励ましたいと思って口を開いたのだが、うまく言葉を紡ぐことができず尻すぼみになってしまった。恥ずかしかったが、顔を上げて清果を見た。彼女は微笑を浮かべて、ありがとう、と言ってくれた。


 校庭は水浸し。空は真っ黒で、窓に大量の雨粒が打ち付け、音が響いている。外が暗いせいか、教室内も電気をつけているが、うす暗くてどんよりとしている。本格的に梅雨に入った。登校の時点で靴の中はぐっしょりしており、昇降口で控えの靴下に履き替えてから上履きに足を入れた。そのため、ズボンが濡れているのが気になるが、大きな不快感は伴っていない。

 俺は、自分の席を前にして突っ立っている。根室が席に着き、右肘を机上に置いて頬杖をついて窓の外を眺めているからだ。微動だにせず。何かあるのかと思って俺も外に視線を送るのだが、雨が降って日中とは思えない暗さであること以外はいつもと同じ。

「どうしたの?」

 たまらず口を開いた。根室は身体をじっとさせたまま、俺に問いかけてきた。

「……なあ、雨はどうして降るのでしょうか」

 地上の水分が蒸発し、水蒸気となって空へ昇っていき、それが冷えて雲が形成され、冷やされた水分が固まって氷の粒となり、重さに耐えられなくなって地上に向かって落ち、落ちていく過程で溶けたものが雨となって降り注ぐ。

 これが雨の降る原理だ。だが根室が、こんな正答を求めているわけではないことは、俺にも分かる。

「……それって、哲学の問題?」

 そういう思想的な考えを俺に求められても、うまく答えられない。

「気にしなくていいよ」

 福岡が俺のそばまでやってくる。

「根室は雨が嫌いなだけ。部活ができなくなるからね」

 あ、なんだ、そういうことか。根室と長い付き合いの福岡に聞けば、たいていは解決できる。ようやく根室がこちらに顔を向けた。

「福ちゃん。今日の部活ってどうなるんやろ」

「気になるなら今から部長に確認するけど」

「お願い」

 福岡は頷くと、ポケットから携帯を取り出しながらドアへと向かった。根室は突っ伏してしまった。……めんどくさいな。俺は財布を持って廊下へ出た。


 自販機で飲み物を購入し、来た道を戻る。その途中で、壁に敷設されたベンチに座り、窓の外を眺めている清果の後ろ姿を見つけた。彼女も雨が嫌いなのだろうか。声をかけてみる。

「どうかした?」

「ううん。雨が嫌いなだけ」

 予想が当たった。俺は清果の隣まで足を進める。

「嫌いな理由とかあるの?」

 清果は苦笑を浮かべた。

「何それって思うかもしれんけど、雨って空が泣いているように見えちゃうの。涙が嫌いやねん」

 空が泣いている。そういう表現をすることは珍しくはないかもしれない。泣いている時の空はどんよりとしているから、悲しみの涙を連想するのだろうか。

「俺は雨、好きだな」

 窓の外を見据えたまま俺は続ける。

「雨が上がった後って、虹が見られるでしょ?俺は虹が好きやから、好きな虹が見られるから、雨も好きやな」

 清果に視線を移した。彼女は俺の顔を見ながら話を聞いていたらしく、ばっちり目が合ってしまった。彼女は目を細める。

「幸くんて、おしゃれやね」

 俺はおしゃれの概念がよく分からない。なので首を傾げてみせる。清果は含み笑いをした。


 俺のクラスである4組と清果の8組は、距離がけっこう離れている。間もなく分かれ道となるところを歩いていると、廊下の先から、見つけた!と、とても通る女性の声がした。思わず俺たちは立ち止まる。女性は早歩きでこちらに向かってくる。大きく腕を振って歩くその姿は、遠目に見て背が低い。目の前に来ても、女性は小さいままだ。

 1センチの変化にさえ気付いてしまうほど身長に敏感な俺の見立てでは、この女性は150センチもない。おそらく40台中盤。

 女性は清果の顔を見上げ、それを見据えた。

「猿島清果さんですね」

「はい」

 女性の問いかけ方から、二人が知り合いではないことが窺える。初対面であろう人にいきなり名前を呼ばれても、清果はいつも通り落ち着いた声色で返事をした。

「あたしは、オーケストラ部で部長をやってる、3年の石川いしかわといいます」

「オーケストラ部?」

 そんな部活があることを知らなかったため、声に出して驚いてしまった。部長さんは俺に目を向けると、そう、と頷いてみせる。そしてすぐに清果に視線を戻した。

「あたしは、あなたのことを知ってる。演奏も聴いたことある。あなたは最高のオーボイストよ。あなたがこの学校にいるってことを噂で聞いた時はビックリした。それに吹部に入部してないってことにも驚いた。うちの部には、オーボエが一人しかいない。猿島さんは即戦力。吹部に入らないのなら、ぜひオケ部に入ってほしい」

 部長さんは一気にまくしたてた。真剣な目をしており、また期待にも満ちているように思えた。

 俺は視線を清果に移す。彼女は何も言わず、しばらく部長さんの目を見続けていた。部長さんも逸らさず、じっと見据える。清果は微笑を浮かべ、小さく頭を下げた。

「誘っていただいて、ありがとうございます。ですが、オケ部には入りません」

 部長さんは目を見開いた。じゃあ、と口を開いたが、それを打ち消すように清果が言葉を発する。

「吹部にも入る気はありません。うち、合奏苦手なんです」

 再度小さく頭を下げると、俺に目を向けた。

「幸くん、行こ」

 俺も部長さんに頭を下げると、彼女の横を通って清果の後に続いた。すれ違いざまに横目で見えた部長さんの顔は、口角が上がっており、微笑んでいるようだった。断られたのになぜなのか。それを尋ねることはしなかった。


 教室に入るなり、根室に首根っこを乱暴に捕まえられ、里緒都と福岡のいる席まで引き連れられた。普段、運動なんかしない人間からすると、運動部の人の力はとても強力で、本人はそんなに力を入れていなかったとしても、物凄い衝撃が身体に走る。

「なんだよ!」

「それはこっちの台詞や!お前最近、他クラスの女子とよくツルんでいるよな?いつからそんなモテモテ王子になった!この裏切り者め!」

「裏切り者ってなんだよ。根室だって女性とツルめばいいやろ」

「嫌み言いやがった!福ちゃん!嫌みが出たぞ!」

 根室の腕をなんとか振りほどく。どっと疲れが溜まった。ついさっきまで雨のせいで落ち込んでたくせに。

「だからお前も女子と積極的に接しろよ。テニス部の先輩マネジャーのこと、気になってんだろ?」

 里緒都が頭を掻きながら、めんどくさそうに発する。隣の福岡は何やら楽しそうだ。彼はいつも、なんにでも楽しんでいるように見える。

「里緒都の言う通り。部活終わりにどっかでお茶するくらい大丈夫だって」

 福岡の言葉に、うーん、と唸りながら腕を組んだ根室。

「……俺、女子誘うの苦手なんだよ……」

 俺には意外だった。お調子者だから、女性にもバンバン声をかけられるものだと勝手に思っていた。前から思っていたことだが、人は見た目によらない。

「1年の女子マネと俺も一緒なんだから、そんなに深く考えることないって。もっと気楽にさ!」

 福岡が根室の肩に手を置いた。それでも根室は不安そうな表情のままだ。

「紺谷くん!」

 教室の外からの声に、里緒都だけじゃなく俺ら残りの三人も反応する。目の先には、女子生徒が里緒都に対して手を振っている。彼女に見覚えがあった。

「今行く」

 里緒都は俺たちに、じゃ、との言葉を残して颯爽と女子生徒の元へ向かった。

「あの子は誰や!」

 根室の声に俺が答える。

「弓道部の1年の人だよ」

「里緒都、お前もか」

 ジュリアス・シーザーの言葉を引用した根室は、へろへろっと力が抜けて席に落ちていった。いや、里緒都だったら納得だし、そこは割り切れるんじゃない?そう思ったのだが、今の彼に何を言っても無駄なので、口をつぐんだ。

「とりあえず、先輩に話、通しとこうか?」

 福岡の言葉に根室は、お願いします、と弱々しい声と共に頭を下げた。俺は苦笑いで彼の横顔を見ることしかできなかった。


 一日の授業が終わり、帰りのホームルームも終わり、生徒たちはいそいそと支度を始める。俺も教科書などを鞄に詰めていく。いつもならすぐに教室を出ていく担任の先生が、一番後ろの席である俺のところまで近づいてきた。

「牛田くん。仲里なかざと先生が話したいことがあるって言ってたから、帰宅する前に職員室に寄っていきなさい」

 俺は嫌な予感がした。仲里先生は数学の教師であり、俺のクラスを受け持っている。数学が苦手な俺の成績は散々だ。それを怒られるのだろう。そう考えていた。

 職員室に入り仲里先生に声をかけるが、今は手が離せないから少し待ってて、と言われ、先生の隣の席に座って待つこととなった。この待っている時間のほうが緊張感を高めていく。どうせ怒られるのなら、早いほうがいい。手が汗ばんできた。

「ごめん。お待たせ」

 仲里先生は手を止め、俺のほうを向いた。とりあえず先に謝っておこう。俺は頭を下げた。

「すみません」

「ん?」

 先生は怪訝そうな声を上げたが、俺は構わず口を開く。

「勉強してないってことじゃないんです。小学校の算数の時から、とにかく計算が苦手で。勉強してるんですけど、なかなか頭に入ってこなくて。計算が大事なのは分かってます。今後、物理とか化学を勉強することになれば、そこでも計算は必要なわけで、でも…」

「ちょっと待て!」

 俺のまくし立てる言い訳を、先生は声で制した。

「なんの話?」

 不思議がっているような声を聞き、俺の中にも不思議な思いが生まれる。俯いていた顔を上げ、目を先生に向ける。

「……えっと、あの、数学の成績が悪いから、怒られるんだと思って……」

 ポカンとしている先生。……あれ?なんだこれ?

「……えっと、違うんですか?」

 次の瞬間、うははは!と先生は大きな声を上げて笑い出した。声がでかすぎる。職員室にいる教職員全員の視線が、俺たちに注がれる。

「たしかに、数学は頑張らないとダメだな。でも、今日はそのことじゃないんだよ」

 先生は目元を指で拭った。しばらく呆けてしまった俺は、とても恥ずかしくなり、赤くなった顔を俯かせる。予感が外れた。あの言い訳はなんだったのか。

 ふーっと長めに息を吐くと、仲里先生は俺に用件を伝え出した。

「君はカメラが趣味だって話を耳にしたんだけど、それは事実かい?」

「あ、はい。まあ」

「そんな君にお願いがあります」

 先生は背筋を伸ばして姿勢を正すと、頭を下げた。

「写真同好会に入ってくれないか?」

 俺は呆気にとられてしまった。目を瞬かせる。

「……え?……あの、うちに写真同好会なんて、なかったと思うんですけど」

 先生は頭を上げると、微笑を浮かべた。

「昔は写真部があったんだ。だけど部員が減ってしまって、今は廃部。でもそうなると、行事や部活の大会の時とか、先生方が代わる代わるカメラマンをやることになるんだ。そしてデジカメが扱えるってことで、僕はほぼ毎回担当してる」

 デジカメくらい誰だって使えるよ、という愚痴が小声で聞こえてきたのだが、それは聞こえなかったことにした。

「あと、その都度プロのカメラマンにお願いすることは難しいんだよ。ほら、うちは公立校だから、お金に限界がある。君が入ってくれれば、同好会として再始動できる。僕が顧問だから、ぜひとも、君にカメラマンをお願いしたい!」

 そう言い切った。俺は先生の話を頭の中に整理しながら、何度か目を瞬かせる。

「……それって、仕事が増えて面倒やから、俺に少し押しつけようってことですね?」

「いや、そんな言い方されるとあれだけど、まあ、そんな感じもあるかな」

 渋々ながら認めた先生。この人、正直者だな。俺は今まで、部活というものをやったことがない。たしかに写真を撮るのは好きだ。でも好きな時に、好きなものを、自由に撮影してきたので、部活という形の中で写真を撮ることが、あまりイメージができない。

「俺には向いてないと思うんですけど」

 先生は何度か首を横に振る。そして、俺との距離を縮める。

「君なら大丈夫。根拠はないけど大丈夫。それに部活の顧問とかこういうことは、基本的にボランティアなんだ。別途手当とかが付くわけじゃない」

 そうなんだ。初めて知った。先生は懇願するような眼差しとなる。

「僕のことを助けると思って、お願いをきいてほしい。世の中助け合いだろ?ウィンウィンの関係でいこうよ」

 いやウィンウィンって、俺に得はあんまりないような。背もたれに身体を預け、目を上に向けて少し考えてみた。すると俺の頭の中で電球が灯った。先生に対してすることではないが、交渉してみよう。

「それじゃあ…」

 俺の声を聞いた途端、先生がさらに俺との距離を近づけた。なので少し後ろに下がる。

「交換条件を出します」

「交換条件?」

 先生は首を傾げ、俺は頷く。

「ウィンウィンの関係を成り立たすのであれば、ギブアンドテイクが必要です。俺は先生に、部活をするために時間を与えます。なので先生からも俺に与えてほしいものがあります」

「……よし、聞こう!」

 先生の目は輝いているように見えた。


 あまり足を踏み入れることのない、校舎の奥、隅っこのほうに、かつて写真部が部室として使用していた部屋がある。この部屋の今は、もう使わないが簡単に処分することはできないものを保管する、物置きと化している。だが、先生方がカメラを使用するために訪れるということもあり、部屋の中はしっかり整理整頓させており、ずぐにでも部室としての再始動ができそうだ。

 キャビネットの隣に、防湿庫が鎮座している。カメラなどの撮影機材は、カビが生えてしまうことがある。そしてそれは、大きな影響を及ぼしてしまう。カメラは湿気に弱いのだ。だから防湿庫に入れ適切に保管しないと、おじゃんとなってしまう。

 ガラス張りである防湿庫の扉越しに中を見た。コンパクトデジタルカメラの他に、一眼レフやミラーレス一眼、望遠レンズがいくつが入っている。俺は思わず本音が漏れた。

「……宝の持ち腐れや」

 仲里先生は同意するように何度も頷いた。

「でも牛田くんが使ってくれるから、また生かすことができるな」

「いや、俺も何回かしか使ったことがないから、使いこなすには少し時間がかかるかも……」

「それは大丈夫だろ。好きこそ物の上手なれ、だよ」

 うははは!と高笑いの先生。なんかうまく丸め込まれているような……。でも交換条件を出した手前、引き返すことはできない。先生は俺に、ここの鍵を差し出した。

「いつでも自由に使っていいから。帰宅する時は、僕のデスクの引き出しに返してくれな。いつでも作業できるように、パソコンとプリンターも設置するから。ま、気楽にいこ!」

 先生は俺の肩をポンと軽く叩くと、じゃ、と言い残して部屋を去っていった。小さく息を吐き、俺は椅子に腰掛けた。


 うっすら遠くのほうから、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。それは徐々に大きく明確になっていく。身体が左右に揺さぶられる感覚がして、俺は目を開いた。知らぬ間に居眠りをしていたらしい。ぼーっとしたまま、俺の顔を覗き込んでいる人物を見る。

「……あ、淡路か」

「大丈夫か?死んだように寝てたぞ」

 淡路は近くにある椅子を引き寄せる。パイプ製の足と床の摩擦によって、高い音が響いた。彼はそれに腰を下ろす。

「なんでここに?」

 俺は目を擦りながら、座面の前側までお尻がずり落ちていた体勢を整えるように座り直す。

「たまたま通りかかったら、中が見えたから」

 仲里先生が出ていってから、部室のドアは開けっ放しだったことは覚えている。

「たまたまって。こんなとこたまたま通る?」

「俺はブラブラすんのが好きなんよ」

 なんだそれと思ったが、俺も撮影散歩と称して、当てもなくブラブラすることもあるので、あまり強くは言えない。

「お前はなんでここに?」

「ここ、写真同好会の部室。なんやかんやあって、入部することになったんだ」

「そんな同好会あったっけ?」

「今日から活動開始」

 ふーん、と頷きながら、淡路は周りを見渡す。視線が俺の顔に戻ってきた時、彼は微笑んだ。

「牛田はカメラ得意やから天職かもな」

 淡路の笑顔は綺麗だ。いや、彼だけじゃない。里緒都、根室、福岡もそうだ。清果も益城も。彼らの笑顔を見ると、少しドキッとしてしまうことがある。綺麗で、眩しい。俺はこんなふうに笑うことはできていないだろう。

「そろそろ帰ろうと思ってたんだよ」

 淡路は再び周りを見渡した。

「帰ろうとしてたんなら、わざわざ声かけなくてもよかったのに」

 皮肉っぽい、嫌な言い方になってしまった。だが淡路は気にしていないようで、俺の顔を見た。

「いや、友達がこんなとこでぐでーんとしてたら、気になるだろ」

「……ん?」

 俺は思わず怪訝な声を出した。淡路のある言葉に引っかかったからだ。背もたれに預けていた身体を起こす。

「……さっき、友達、って言った?」

「え?うん。言ったけど」

 今度は淡路が怪訝な表情を見せた。俺は少し前屈みになる。

「俺と淡路って、友達なのか?」

「は?」

 ビックリしたような、不思議に思っているような、そんな声を淡路は上げた。

「淡路は俺の友達なのか?」

 俺は淡路の目を見据えながら言った。人の目をじっと見るのは苦手なのだが、答えが気になったため、今は苦手を超越している。彼は小さく眉をひそめた。

「そりゃあ友達やろ」

 淡路は言い切った。友達だと言ってくれた。背もたれに再度身体を預ける。

「……そっか。淡路とは友達なのか」

「とは、ってなんだよ。ゆづやさやちゃんとも友達だろ」

 俺はポカンとした。淡路の眉がさっきよりもぎゅっと寄った。

「お前、大丈夫か?」

 思考がうまく追いつかないため、俺は曖昧に返事をした。


 中学までの15年間、友達はあいつ一人だけだった。だからなのか、友達、というものがどういうものなのか、理解できていない。

 あいつや里緒都、根室、福岡が友達だということを知ったのは、淡路の時のように、相手から友達だと言われたからである。あ、この人とは友達なんだ。それをもって、自分の中での友達関係が構築される。

 この考え方はおかしいのだろうか。他の人は、何を持って友達関係が成り立つと考えているのだろうか。

 正門で考えに更けていると、里緒都が俺の名前を呼んだ。俺は彼を待っていた。顔を上げて、小さく手を挙げた。

「コンビニでも行くか?」

 里緒都の提案に頷き、共だって門の外に出る。

 歩いている間、俺はチラチラと里緒都の顔に目を遣った。さすがに気になったのか、彼が問いかけてくる。

「ん?どうした?」

「いや、その……」

 なんだか気恥ずかしくなったのだが、自分の疑問を素直にぶつけてみる。

「友達の定義って、なんだと思う?」

「……は?」

 そりゃそういう反応になるわな。変な質問であることは理解している。でも他の人の見解が気になった。乾いた唇を小さく舐める。

「俺は里緒都に友達だって言ってもらったから、俺たちは友達なんだなって分かったんだ。里緒都は、なんで俺のことを友達だって思ってくれたの?」

「……凄い質問だな」

 明らかに困惑した顔の里緒都。俺は人差し指で頭を掻きながら続ける。

「他の人は、何を持って友達だって思うのかなって思って」

 うーん、と里緒都は唸りながら腕を組んだ。俺が友達がいなかったということを、彼は知っている。あいつの話はしていないので、全くいなかったということで理解してくれている。なので、なんで俺がこんな問いを投げかけてきたのかは、うすうす分かっているかもしれない。

「……答えはない」

 里緒都はそう口を開いた。そして俺の顔を見た。

「答えはない、っていうのが答えやな」

 合点がいかず、俺は小首を傾げた。

「そもそも、友達に定義なんてないんじゃないか。家族や恋人とかと違って、友達ってぼやっとしているだろ?」

 俺は頷いて答える。里緒都が話を続ける。

「何を持って友達かって言われても、うまく答えられないし……」

 そうだよね、と俺は小声で呟いた。困らせてしまう質問だということは分かっていた。こんなこと、普通の人は考えることはない。考える必要がないからだ。

 自分の前方を見つめる。よく行くコンビニの看板が、遠目に見えてきた。

「……答えになってるか分からんけど……」

 しばらく続いた沈黙を、里緒都の言葉が破った。俺は彼の顔を見る。

「俺の感覚では、こいつといると楽しいとか、こいつとこれからも仲良くしたい、一緒にいたいって思った時かな。友達だって意識するのは」

 里緒都も俺のほうを見た。

 俺は外見のせいで、女子扱いされることが多かった。それを嫌がる自分がいる。里緒都とは20センチ身長が離れているため、彼の顔を見る時は見上げる形となる。それに女性の上目遣いを連想させてしまう俺は、その行動を維持することができない。なので時折、視線や顔を背けてしまう。

 一度逸らした視線を里緒都に戻す。

「じゃあ里緒都は、俺なんかといて楽しいって思ってくれたってこと?」

 里緒都はニカッと笑顔になり、頷いてくれた。

 昔、あいつにも言われた。俺といるのは楽しいと。そんなこと思ってくれるのはあいつだけだと思っていたので、正直凄く嬉しかった。それと同時に恥ずかしくなり、彼から顔を背け、自分の前方を見遣る。コンビニまでの距離が近づいていることに気付いた。ふっと短く息を吐く音が小さく聞こえた。

「友達は曖昧だよ。気付いたら友達になってて、いつの間にか関係が絶たれていることもある。だけど、曖昧な存在だからこそ、大切にしたいって思えるんやない?」

 その言葉は、俺の胸に突き刺さった。

 俺はいつの日からか、里緒都に憧れを抱くようになっていた。真逆の外見をしているということもあるかもしれないが、彼みたいになれたらいいなと思うようになった。もちろん、俺みたいな奴が彼みたいになれるわけがない。それはちゃんと心得ている。アイドルを追いかけるファンと気持ちは似ているのかもしれない。好きだけど、お付き合いができるとは考えていない、みたいな。まあアイドルの追っかけをしたことはないので、実際のところは分からないが。

 俺は前方を見据えたまま、言葉が口から零れた。

「……里緒都は外見だけじゃなくて、内面もかっこいいんだな」

 呟いて少しの間の後、俺の頭が少し重くなった。そして髪がぐしゃぐしゃっとされた。里緒都が俺の頭を乱暴に撫でているのだと気が付いた。そういうのは、男性が女性に対してやるものだろ。この扱いは嫌だ。だから俺は、里緒都の手を振りほどいた。彼の笑い声が、俺の右耳から頭の中に入ってくる。その響きは、こそばゆさと嬉しさを掻き立てる。それらが表に出ないように、ぐっと堪えた。


 部活を始めて3日目。部室の紹介をしてもらった時以来、仲里先生はここに来ていない。まあ顧問が毎回訪れることはないとは思っていたが。

 数学の授業の後、先生から学校の行事一覧表と近々行われる各部の大会日程などが書かれた用紙をもらった。もちろん全てを一人で網羅できるわけがないので、仲里先生やほかの先生方と協力しての撮影となる。

 ミラーレス一眼カメラの手入れをしていると、部室のドアがコンコンコンと叩かれた。仲里先生か?俺は顔だけをドアのほうに向けた。

「どうぞ」

 ガラガラッとドアが半分ほど開かれると、女性の顔がドアの陰からひょこっと現れた。清果だ。俺は思わず立ち上がる。

「入ってもええかな?」

「あ、うん。もちろん」

 微笑んだ清果は、お邪魔します、と言いながら身体を部屋の中へ滑り込ませた。

「写真同好会に入ったんやって?秀平くんから聞いた」

 俺は頷いた。清果には部活のことを話していなかった。会う機会がなかったし、わざわざ報告するほどでもないと思っていた。彼女は周りをキョロキョロ見渡した。

「ここ、倉庫だったって話聞いてたけど、綺麗やね」

「あ、うん。掃除したよ」

 保健室で学校生活を送っていたころ、いつも世話になっているそこへ、掃除をするという形で恩を返していた。保健室は備品が多く、また壊れやすいものも多く、丁寧な仕事が求められる。そして、一人で掃除するには広い場所であった。それを9年近く続けていたので、掃除の腕が上がった。好きではないが、上手の自負はある。

 もともと整頓されていたこの部屋も、パソコンやプリンターが新たに設置されるということもあるため、より使いやすいよう掃除し、整理整頓を行って今に至る。

「あ、適当に座って」

 清果は微笑んで頷き、椅子に座る。机の上に置かれた望遠レンズに目を向けた。

「凄い大きいね。プロが使うやつみたい」

 清果は初めて見たのだろうか。物珍しげな表情をしている。俺も腰を下ろした。

「こういうのは、小まめに手入れしないといけないんだ」

 レンズを持ち上げ、クロスで優しく撫でるように拭いていく。清果は俺のことを、目を細くして見ていることに気付いた。小首を傾げる。

「ん?どうかした?」

「あ、ううん、なんでもない。……いや、なんでもないことはないけど……」

 清果は少し焦っているように見えた。彼女のそんな姿を見たのは初めてだ。俺はもう一度首を傾げた。小さく苦笑いをみせると、彼女は口を開いた。

「今度の休日、ゆづちゃんと秀平くんと遊びに行くんやけど、よかったら幸くんも一緒に行かへん?幸くんの友達も誘ったらどうかって、秀平くんが言うてた」

「え?」

 俺は目を瞬かせる。そして何も言えず、呆けてしまった。

 友達がいなかったため、誰かと遊びにいくということを、高校生になるまで体験することはなかった。あいつとも学校の外で会うことは一度もなかった。

 里緒都たちと遊びに出掛けたことはある。清果たちとも誘われて外で会ったこともある。それでも慣れていないせいか、こうやって誘われると、どう反応すればいいか分からずにボーッとなってしまった。

「映画見て、後は適当にって感じなんやけど、どう?」

 小さく首を傾ける清果。俺は我に返り、彼女の顔を見た。

「……うん。俺が一緒でもいいのなら」

 少しポカンとした清果は、含み笑いをみせた。

「もちろん。いいから誘ってるんだよ」


「雨降ってきたな」

 里緒都の声を耳にして、俺は顔を後ろに向けた。電車の車窓から、雨がしとしとと街中に落ちていく光景が見られる。まだ梅雨は続いている。曇りの天気予報であったが、念のためにと思って傘を持ってきた。判断は正しかったようだ。

「なあ、俺も一緒でいいのか?ほぼ初めましてなんだけど」

「向こうが誰か誘えばって言ってたし。それに里緒都なら大丈夫でしょ。誰とでもすぐに仲良くなれるし」

「俺は別に社交的ってわけじゃないぞ」

「またまた~」

 俺は皮肉たっぷりに言ってやった。電車の揺れが心地よく、俺はあくびが出そうになった。それを噛み殺す。少し涙が出たので、指先で拭った。目が濡れるのは、あくびの時ぐらいしかない。

「誰に誘われたって言ったっけ?」

 里緒都の言葉を聞いて、彼に視線を移した。

「猿島清果って人」

「最近会った、8組の人ってのはその子のことか?」

「うん。そうだけど」

 ガタンガタンと、電車から音が聞こえてくる。彼はこちらを窺うように顔を見つめてくる。俺は意図が分からず、目を何度か瞬かせた。電車が左右に揺れ、少し前に体勢が崩れる。

「……その子のこと、好きなの?」

 里緒都、お前もか……。女性と知り合っただけで、なぜ好きって発想になるのだろうか。俺はそんなふうに思わせてしまう何かを放っているのだろうか。

「好きとかじゃないよ」

 そう否定した時、身体が進行方向に傾いた。電車が駅に停車したようだ。俺たちの目的の駅は、まだ先だった。


 雨降らないってしゅうちゃんが言うから今日にしたのに……、いや梅雨ももう終わるって天気予報で言ってたから……、などの益城と淡路の痴話喧嘩を聞きながら、俺たちは映画館へ向かっている。

 何かと言い合いながらも同じ傘の下に収まる二人を見て、喧嘩をするほど仲がいいというのは、このことなんだろうなと、そう思った。その時、俺がどういう表情をしていたのかは分からないが、隣の里緒都が俺の顔を覗き込んでいる。彼に目を遣ると、なぜかニヤニヤしていた。その感じが気に食わなかったので、彼の肩を軽く叩いてやった。俺たちのやり取りを見ていたのか、清果が小首を傾げてこちらを見ていた。

 映画を観終わった後、不満を塗りたくった表情の益城が、淡路の背中を叩いた。

「ちょっと、なんなんあの映画!クソつまんなかったんやけど!」

「嘘!なかなか面白かっただろ」

 淡路のチョイスした作品を観た。彼が前から気になっていた作品だったらしい。

「サスペンスなのに全然ドキドキしないし、最初から最後まで坦々としていて山場もない。一瞬も面白いって思うとこなかった」

 散々な言われようで、えー、と口から残念さを含んだ声が漏れる淡路。益城は清果に視線を移した。さやはどうだった?言葉は出ていないが、そう訴えているのは話の流れから推測できる。清果は苦笑いを浮かべる。

「うちもイマイチやった」

「やろ。二人はどうだった?」

 今度は俺たちに問いが向けられた。里緒都が小さく首を横に振った。

「俺もつまんなかった」

「やろやろ。牛田は?」

「正直、脚本はダメに感じた。でも……」

 俺は腕を組み、さっき観た作品の映像を頭の中で再生する。

「演出はよかったと思う」

「演出?」

 益城の疑問符に続き、他の三人が俺に視線を向ける。頷いて、俺は話を続ける。

「カメラワークはよかったよ。益城の言う通り坦々としてたってのはあるけど、演者の表情の撮り方とか、場面の切り取り方、あと色合いもよかったかな。濃淡がしっかりついてて、惹きつけられる部分もあった。テロップ観て、美術監督と撮影監督が著名な人だったから、その辺は納得したな。脚本がよければ傑作になってたかもしれない。やから、もったいない作品だったかも……」

 ここまで話すと、俺は意識を頭の外へ向けた。みんながポカンとした表情でこちらを見ている。状況が読み取れず、俺は小首を傾げた。

「……どうしたの?」

 あっははは!と大きな笑い声が響いた。その主は清果だ。彼女はお腹を押さえ、頭を少し反らして笑うと、今度は前屈みになって、なんとか笑い声を小さくしようとしている。彼女の大声で笑う姿を初めて見た俺は、少し驚いて見つめる。彼女は目を拭うと、一度謝罪をした。

「ごめんなさい。だって……」

 ふーっと息を吐くと、笑顔で俺の顔に視線を向けた。

「幸くんだけ、視点が違うんやもん」

「さすがカメラマン!制作側の視点もあるとは!」

 淡路の言葉に続いて、益城も笑い声を上げた。真面目に言った俺の回答は、どうやらズレていたらしい。少し恥ずかしくなり、人差し指で頭を掻いた。視線を清果に向ける。彼女は笑顔で俺に頷いてみせた。

 俺は清果のことを、クールな人間だと思っていた。いつも落ち着いていて、焦ったところもあまり見たことがなかった。だから大笑いしている彼女の姿が見られて、少し嬉しく思った。


 映画の後は、それぞれが思い思いに行動していく。洋服店に寄ったり、本屋に寄ったり。俺はこれといって行きたいお店があるわけではないので、みんなに付いて回りながら、時折カメラのシャッターを切った。これじゃみんなのカメラマンだ。でも俺は、その役回りは嫌じゃない。カメラを構えている時が、一番自分らしくいられるように感じるから。

 カフェでテイクアウトしたプラスティックカップを手にして、ソファーに腰掛けた。座って気が付いたことなのだが、目の前が女性もののランジェリーショップであった。いろんな色や形のブラジャーと目が合う。……違う。これは不可抗力だ。決して意図してここに座ったわけではない。ていうか、なぜここにソファーを置く?俺はお尻を視点に180度身体を回転させると、ランジェリーに背を向けて座り直した。

 息をついて、ストローを咥える。

「よいしょ」

 声がしたので隣に目を向けると、益城が座った。彼女も飲み物を持っている。

「何飲んでんの?」

 益城が聞いてきたので、口からストローを離してカップを少し掲げてみせる。

「紅茶」

「いつも紅茶やな。そんなに好きなの?」

「まあ、そうだね。好きだな」

 紅茶を好きになったのは、中学生の時だ。でも、その話はしたくなかった。

 俺の発言を最後に、俺たちの間には沈黙が流れた。聞こえてくるのは、ショッピングセンターのスピーカーから流れるBGMと、他のお客の声だけ。俺は沈黙は苦じゃない。一人でいることが多かった。話し相手がいないので、自然と沈黙の空間となる。あいつと出逢ってからも、いつも一緒にいるわけではないので、一人の時間は長かった。なので慣れている。高校生になって話すことができる人が増えたこの状況のほうが、俺にとっては不慣れで戸惑ってしまうことがある。

 ストローから紅茶を吸い上げていると、益城がこちらを見ていることに気が付いた。ストローを咥えたまま、そこへ視線を移す。バッチリ目が合った。

 益城の目は細めで少し吊り上がっている。目付きがきついと捉えられることもあるかもしれないが、俺にはその目から意思の強い印象を受けられる。少し男勝りである性格も、その印象を持つ要因にもなっているかもしれないが。

 ストローから口を離す。

「……どうしたの?」

「私、身長168センチあるの」

「……は?」

 なんの前触れもない身長の告白に、俺は間抜けな声を上げた。

「168。牛田は?」

「……それ聞く必要ある?」

「あ、やっぱ気にしてた?」

「勘づいてんなら、わざわざ聞くなよ」

 ため息をついて、俺は頭を掻いた。身長は、コンプレックスの一つだ。あまり触れられたくない。だが、そのままやり過ごそうと思っても、俺に向けられた強い眼差しが、それをよしとはしてくれなかった。大仰にため息をついてみせる。

「……164」

「64か。……小さいな」

「いちいち口にするなよ」

 嫌悪感を表情に表して益城を見る。彼女は表情そのままに口を開いた。

「さやは158やって」

「……はあ」

「よかったな。あんたよりは低い」

 益城は笑ってみせた。よかったな。その言葉の意味が分からず、俺は怪訝な顔を傾げた。彼女は視線を左斜め前に向けると、口角を下げた。ありゃ、という抜けた声と共に。

「あれはいいの?」

「ん?あれって?」

「あれ」

 益城は自分の目線の先に向けて人差し指を伸ばした。その指先を追うと、雑貨店に清果と里緒都がいた。

「あんたの友達とさや、仲良くなってるみたいやけど」

「ああ。里緒都は社交的だし人当たりがいいから、誰とでも仲良くなれるんよ」

「そんなことやなくて」

 不満そうな顔で、益城が俺のほうを見た。さっきからの彼女の言動の意味が分からず、眉をひそめて首を傾げる。彼女は小さく息を吐いた。

「紺谷が、さやと必要以上に仲良くなってもいいのかって聞いてんの」

「……ん?」

「さやのこと、好きなんやろ?」

 またか。前にも益城から聞かれた質問。俺は首を横に振った。

「だから前にも言ったろ。そうじゃないって」

「ほんとに?」

「ほんと」

 ふーん、と益城は視線を清果たちにに向けた。俺は小さくため息をついて、ストローを咥えた。氷が溶け、味が薄くなっている。

「ま、私的には相手は誰でもいいんだけどね……」

 ぼそりと呟かれた益城の言葉に、少し引っかかった。その言葉を繰り返す。

「……誰でもいい?」

 俺の声を聞いて、あ、と声を出した益城は、その時我に返ったようだった。おそらくさっきの言葉は、無意識に口から零れたのだろう。彼女は少し視線を泳がせたが、笑顔を作った。

「ううん。なんでもない」

 そう言って益城はカップを口へ運んだ。よし、反撃しよう。

「そっちはどうなの?」

「何が?」

「淡路のこと、どう思ってんの?」

「へ?」

 上ずった声で反応した益城は、明らかに動揺している。そんな反応されたら、もう……。

「いや、何言ってんの、しゅうちゃんはただの幼馴染みやよ」

「ただの?」

「うん」

「ほんとに?」

「うんってば!」

「顔、赤いよ」

 その言葉は嘘だった。益城の顔は赤らんではいなかった。しかし俺の言葉をきっかけに、カッと赤く染まった。そして勢いよく、俺の左肩をグーで叩いた。けっこう痛かった。思わず声が出る。

「いてっ」

「あんたって、けっこう意地悪やな」

「それはお互い様やぞ」

「あ、しゅうちゃんには絶対に言わんでよ!」

「そんなこと言ったら、認めたことになんない?」

 益城はもう一度肩を叩くと、膨れっ面になって背けた。それを見て、俺は小さく吹き出した。

 初めて清果に会った時から、彼女にあいつのことを重ねて見ているところがある。俺はあいつのことが好きだった。初めてできた友達。初めてそばにいてくれた人。初めて好きになった女性。そんな人のことを重ねているのだから、清果のことも好きということなのだろうか。でも、好き、ということが分からなくなった今の俺は、彼女に抱いている気持ちとあいつに抱いている気持ちが、同じものなのか別のものなのか、判別ができないでいる。

 カップの中から、ズズズと音がした。目を手元に遣ると、すでに紅茶を飲み干していた。


 フードコートで食事を摂り、食後のドリンクを飲みながら雑談をしている。俺はまたしても紅茶を注文した。どんだけ好きなんだよ、と自分でも思ってしまう時がある。コップをテーブルに置いたまま、顔を近づけてストローを咥える。この飲み方は行儀が悪いと言われたことがあるが、どうにもやめられない。

「梅雨明けたら、期末の準備しないとだなあ」

 淡路がストローでコップの中身を混ぜながら発した。期末、というのは、もちろん期末テストのこと。うちの学校は、中間テストがゴールデン・ウィーク明けという、早い時期に行われる。そのため、期末テストの範囲が必然的に広くなる。

「まあ、いざとなったらさやに教えてもらえるし」

 益城は清果の肩に手を置いた。清果は微笑んで頷いた。

「清果ちゃんは特進やろ?俺らと範囲違うんじゃない?」

 里緒都が疑問を呈する。益城が、どんと自分の胸を叩いた。

「大丈夫!さやは前の範囲の部分も忘れないで、しっかり覚えてるから」

「いや、なんでゆづが自信満々に言うんだよ」

 淡路のつっこみに、益城は笑って誤魔化した。

「俺も幸に教えてもらおうかな」

 里緒都が俺の肩をポンポンと叩いた。不機嫌な顔を無理に作ってみせる。

「また?やだよ」

「牛田は勉強できんの?」

 淡路の問いを聞き、前屈みになっていた姿勢を正す。だが、その問いに答えたのは里緒都だった。

「けっこう頭いいんだよ。ある教科を除いてな」

「ある教科って?」

 淡路からの第2問には、里緒都は答えず俺に視線を寄越した。そこは俺に言わすんかい。小さく息を吐いた。

「数学が苦手。計算ができないんだ」

「あ、数学ならうち得意だよ」

 清果の言葉だ。俺は視線を彼女に向ける。

「うち、理系が得意やから」

 清果は微笑んだ。ぱんと淡路が柏手を打つ。

「そうだ。今度みんなで集まって勉強会でもやろうぜ。そういうのやってみたかったんだよ」

「私も!やろやろ!」

 楽し気な声で、益城が賛同する。数学を教えてもらえるんなら、誰かと勉強するのもありかな。目線を清果に向けた。目が合うと彼女は微笑んだので、俺も笑みを返した。


 授業が終わり休み時間になると、里緒都、根室、福岡と共に廊下に出た。各々教科書を手にしている。俺らのように教科書片手にテストについての話をしている人たちは、他にもたくさんいる。

「くそっ。こんなに量があったら間に合わねえよ」

 根室が政治・経済の教科書を凝視しながら愚痴を零す。隣で余裕の表情の福岡。

「テストは授業で習ったところからしか出ないんだから、授業聞いて復習してれば赤点は免れる点数ぐらい取れるでしょ」

「そんなこと言うなよ。世の中には、勉強ができる奴とできない奴がいるんやさ」

「幸は?うまくいきそう?」

 根室の言葉を無視して、福岡が俺に問いかけた。

「数学がまずいのはいつものことだけど、今回は生物も難しいかも」

「紛らわしいとこが多いからな」

 里緒都が口を開く。彼も俺と同じく生物の教科書を持っていた。数学を除けば、赤点を取ってしまうような心配はない。数学については半ば諦めている俺は、他の教科でどれだけ高い点を取れるかを考えている。

「見つけた!」

 廊下に女性の声が響いた。遠くからでもよく通るその声に、俺は聞き覚えがあった。振り返ってみる。背が低く、腕を大きく振って歩く姿に、見覚えがあった。

「あ、オケ部の部長さん」

「え?カラオケ部なんてあったっけ?」

「カラオケのオケじゃなくて、オーケストラのオケね」

 根室の外れた発言を、福岡が冷静に訂正する。

「牛田幸くんだね」

「あ、はい」

「あたしのこと、覚えてる?」

「えっと、石川先輩」

 俺に名前を呼ばれた目の前にいる先輩は、満足そうに頷いている。その顔を見て、俺は少し嫌な予感がした。石川先輩は、俺の左腕を掴んだ。俺は目を瞬かせる。

「ごめんやけど、牛田くんのこと借りてくね」

 里緒都たちにそう言い残すと、俺を引っ張って来た道を戻っていく。

「ちょっと、先輩?」

 俺の呼びかけを無視しているのか、ずんずん進んでいく。振り解けなくはなさそうだが、けっこう力が強く感じた。


 食堂にある自販機で、石川先輩は水のペットボトル飲料のボタンを押した。取り出し口からそれを掴み出すと、俺に差し出した。合点がいかなかったので、何度か目を瞬かせて怪訝な顔をしてみる。

「君にお願いしたいことがあるの」

 さっきの予感はこれか。お願い事。そう言われると、なんとなく内容の予想はついた。

「もしかして、清果のことですか?」

「ご明察!」

 先輩はウインクしてみせる。近くにあるベンチに腰掛けた。俺は彼女のそばで立っている。

「猿島さんには是非とも入ってもらいたい。あの子は天性のオーボエ奏者だと思う。今年の1年生は粒ぞろいやから、入ってくれれば部の雰囲気もさらにいい方向に進むと思うんだ」

 先輩は口角を上げた。目が凄く輝いているように見える。こんなふうにキラキラした目で、俺は何かを見ていたことがあっただろうか。あいつといた時の俺は、輝いていたのだろうか。

「その想いを、直接清果にぶつけたほうがいいんじゃないですか?」

 先輩の隣に座りながら俺は口を開いた。

「もちろん、今後もアプローチしていくつもり。君からも促してほしいの」

「なんで俺なんですか?」

 先輩は少し驚いた顔をしている。なんでそんなこと聞くの?といった表情のように見える。それはこっちに思いなのだが。

「だって君は、猿島さんの彼氏でしょ?」

 当たり前のことのように、この言葉を発した。先輩の顔を見て、驚きの表情をする俺。なんでそうなるの?

「この前、一緒にいたから」

「恋人じゃない男女だって、一緒にいることくらいあるでしょ……」

 俺は自分の頭をぐしゃぐしゃっと掻き乱した。

「あ、いや、あたしには二人が恋人のような雰囲気に感じちゃってたから、勘違いしてた。ごめんなさい」

 先輩は頬を掻きながら弁解すると、頭を下げて謝った。恋人の雰囲気。まさかそんなふうに見られていたなんて、思いもしなかった。

「でも、仲がいいってことは間違ってないでしょ?」

「仲がいいかどうかは分からないけど、一応友達ではあるかと……」

 清果に友達について確認はしていない。だが淡路が、彼女も友達だろと言ってくれたので、それを信じている。

「じゃあ、お願い。協力してほしい。この通り!」

 石川先輩は頭を下げ、ペットボトルを両手で持って俺に差し出す。この通りって……。俺は腕を組んで、この前の清果の言葉を思い出す。

「あの時の清果、合奏が苦手だって言って、先輩の誘いを断りましたよね?」

 先輩は頭を上げると、俺の話に頷いた。

「なんであんなこと言ったんだろ。他にも言い方があると思うんだけど」

「あ、あれは嘘とか言い訳ではないと思うよ」

 先輩の顔を見る。

「なかにはいるの。ソロだとうまく弾けるのに、合奏になると実力が出せなくなる人。逆もまた然りでね」

「でも、中学の時は吹奏楽部に入ってたみたいですよ」

 先輩は俺の顔を見て、一度頷く。

「経験したからこそ、気付くものやよ」

 視線を俺から外し、先輩は自分の前方を見遣る。

「猿島さんはソリスト向きなんだろうね。だとしても、あたしは彼女が欲しいな」

 石川先輩は、清果へのこだわりが強いようだ。それだけ魅力的ということだろうか。

「俺、音楽素人なんで詳しいことは分かんないんですけど、音楽やってる人からしても、彼女の演奏は凄いんですか?」

「うん。かなり凄い」

 先輩は力強く頷いた。目のキラキラが増したように思える。

「猿島さんの演奏聴いた時、泣いちゃったんだよね。それぐらい感動した。あたしが今まで聴いた音で、一番綺麗だった。あの子は、屋外でも吹いたりするんだよね?」

 俺は頷いた。清果の演奏を初めて聴いた時は、病院の屋上だったこともあるし。

「プラ管であんだけ吹けるんだから、ほんとに凄いよ」

「ぷ、ぷらかん?」

 俺は小首を傾げた。

「オーボエはね、木で作られたものと、樹脂で作られたものがあるの。樹脂は、要はプラスチック。だからプラ管。木製は、綺麗で質の高い音色が出せるの。けど木は繊細だから、管の中と外の気温差とかによって、ポキッと折れてしまう恐れがある。だから木製のものは、基本的には屋外では吹かない。プラ管は丈夫だから、折れる心配は少ない。だけど、木製の音には敵わない……」

 先輩は目線を自身の前に向ける。

「プラ管であの音だから、木製だったらもっといい音になりそう。……聴いてみたいな」

 先輩は相好を崩した。彼女とちゃんと話すのはこれが初めてだが、確信できることがある。

「石川先輩は、音楽が好きなんですね」

 先輩は、俺の顔に視線を向ける。そしてまた笑顔になる。

「うん。大好きやよ」

 その真っ直ぐな言葉は、俺に対しての想いではないのだが、少し恥ずかしくなってしまった。目を泳がせながら、お門違いの照れを先輩にバレないよう、次の話を探る。

「あ、えと……うちの吹奏楽部って、県内でも有数な強豪校だって友達から聞いたんですけど、どうしてオケ部に入ったんですか?」

 口角が上がっていた先輩の顔が、一度真顔になった。それからすぐにまた笑顔になったのだが、今回のそれは苦笑いに見える。うーん、と小さく唸りながら、壁に背を預ける。目線を斜め上に向け、何かを考えているようだ。嫌なことを聞いてしまったのだろうか。

 先輩は持っていたペットボトルのキャップを開けると、それを口へ運んだ。あれ?俺への差し入れじゃなかったっけ?小さく息を吐いた石川先輩は、ゆっくりと口を開いた。

「……あたしね、小学生のころからパーカッションやってるの」

「ぱーかっしょん?」

「太鼓とか、打楽器のこと。ティンパニっていう、パーカッションの看板楽器があって、あたしはそれを叩きたくて、吹部に入った。でも、あたしより上手な子がいて、ドラムとか木琴とか、別の打楽器を担当したの。中学に上がって、次こそは!って思ってたけど、やっぱり上手な子がいて。小・中では練習以外でティンパニを演奏することはなかった……」

 先輩は唇を一度舐めて、話を続ける。

「高校に入学して、どうせ無理だろうなって諦めかけてたんやけど、部員の少ないオケ部があることを知ったの」

「あ、先輩もオケ部のこと知らなかったんですね」

 石川先輩は苦笑いして頬を人差し指で掻いた。

「部員不足で5年くらい活動休止してたみたいで。あたしが入学した時は、活動再開して3年目やった。ここならって思って入部してみたら、すぐにティンパニを任せてもらえるようになった」

 先輩は斜め下の地面に視線をやると、口角を上げた。

「諦めなくてよかった。続けててよかったって、今そう思ってる。……気が付いたら、部長にまでなっとった」

 俺のほうを見た先輩の笑顔が眩しく、胸がドクンを鳴った。

 さっきからの俺の見当違いの照れが恥ずかしい。俺へ向けられているわけじゃないのに、なぜこんなにいちいち反応してしまうのだろうか。経験不足だからだろうか。俺は今まで誰かの身の上話を聞くことはほぼなかった。俺の中では新鮮な体験であり、ドキドキしてしまうのかもしれない。

 そして、目の前にいる女性に対する印象が、俺の中で出来上がったようにも感じた。

「先輩って……かっこいいですね」

 先輩はきょとんという表情をしている。

「かっこいい?」

「かっこいいです」

「いや、かっこいいことではないと思うけど」

「いや、かっこいいですよ。自分の夢とかやりたいことをやり続けるのって、けっこう大変なことだと思うんです。それをやり通して、今実際にできてるんだから、凄いことだと思います」

 ここまでの俺の言葉を聞き、先輩は頬が少し赤くなり、顔を逸らした。それを見て、俺も身体が熱くなるのを感じた。かなり恥ずかしいことを言ってしまったことに、今さらながら気が付いた。俺も顔を逸らす。

「……ありがとう」

 先輩の声が届き、俺は小さく首を横に振った。ふーっと小さく息を吐いて、俺は先輩に告げる。

「分かりました。やれる範囲でやってみます」

「え、ほんと?協力してくれるの?」

 先輩の声のトーンが上がった。

「期待はしないでくださいよ」

 俺は保険をつけた。それでも石川先輩は嬉しかったようで、ニカッと笑顔をみせた。


 高校1年の1学期の全日程を終え、夏休みに入った。

 俺は自分の部屋の机に向かい、紙とにらめっこをしている。それには、写真同好会の夏休みの日程が書かれている。インターハイなど、各部の大きな大会が開催される夏休みは、この部としても大変忙しい時期となる。部員は俺一人なので、もちろん顧問の仲里先生をはじめ、数名の先生方が応援についてくれる。

 しかし日程表には、部活動以外の日程も記されている。それは、補習。期末テストでは、全体的に高得点を取ることができた。不安だった生物も、なかなかの点数だった。しかし、数学だけはうまくいかなかった。唯一の赤点。なので補習を受ける。充実したスケジュールやな。

 小さくため息をつくと紙を置き、カメラに手を伸ばした。それと同時に、携帯から音が聞こえた。メールの通知音だ。手の目的地をカメラから携帯に変更し、画面を見る。清果からだ。

『今日の午後、時間ある?大学病院に行くんやけど、よかったら一緒に行かへん?』

 俺は何度か目を瞬かせると、指を動かした。


 大学病院に入り、1階の待合ロビーを歩く。手を振って近づいてくる清果が目に入った。俺も手を振り返す。彼女はショルダーバックを肩から斜めにかけ、右手にはオーボエケースが提げられている。

「ごめんね。急だったのに」

「ううん。これから忙しくなるから、タイミングよかったよ」

「あ、写真同好会だもんね。大会回るから大変やね」

 俺は苦笑で頷いた。行こ、という言葉を聞き、清果の横に並んでエレベーターホールへと向かった。

「期末の数学、どうやった?」

 その質問にギクッとしてしまう。問われることは予想がついていた。ばつが悪くなり、清果の顔を一瞥して口を開く。

「あ、えっと……赤点だった」

「そっか。残念やね」

 俺は小さく頭を下げた。

「ごめん」

「なんで謝るん?」

「いや、教えてもらったのに、ちゃんと活かせなかったから……」

 俺は申し訳ない表情になり、頭を掻きながら再度頭を下げる。清果が首を横に振った。

「謝る必要なんかないよ。あ、でもそれだったら補習受けるってこと?」

 清果が首を傾げる。俺は、ハハッと投げやりな笑い声を上げ、小さく頷いた。

 俺たちが向かっているのは緩和ケア病棟。清果はよく訪れており、俺も一度だけ来たことがある。清果はこの病棟では人気者のようで、看護師や患者など、すれ違う人ほぼ全員に声をかけられている。時折、俺について尋ねる人もいたが、彼女は、友達です、とさらっと紹介してくれた。彼女の口から、友達、という言葉が聞けたので、嬉しさと安堵の気持ちが生まれた。

 ある病室に辿り着く。表には『新山にいやま明里あかり』と書かれたプレートがある。ドアは開け放たれている。

「こんにちは」

 清果は部屋に入りながら挨拶をする。ベッドに座っている女性がこちらを見た。

「清果お姉ちゃん!」

 その人は満面の笑みで、ブンブンと大きく手を振っている。俺はこの人に見覚えがあった。以前この病棟に来た時に目にとまった、中学生くらいの女の子だ。

 その子は俺の顔を見ると、首を傾げる。

「牛田幸くん。うちの学校の友達」

 そう聞いて、女の子はベッドの上で正座をした。

「新山明里ちゃん」

 清果の紹介に続いて、新山です、と発した女の子は頭を下げた。俺も慌てて下げ返す。礼儀正しい子だな。単純にそう思った。

「お兄さんも、何か楽器やってるんですか?」

「あ、いや」

 俺は首を横に振った。清果が口を開く。

「幸くんはカメラ。めっちゃうまいんやで」

「いや、それは言い過ぎ……」

 俺は少し恥ずかしくなって、目を伏せてしまった。へえ、と明里ちゃんの感嘆の声の後、俺に問いが投げかけられた。

「今、写真持ってますか?」

「あ、うん。カメラに保存されてる分なら」

「見せてもらえませんか?」

「あ、うん」

 俺はショルダーバッグからカメラを取り出す。

「じゃあうちは、飲み物買ってくる。何か欲しいのある?」

「カフェオレ!」

 明里ちゃんは手を挙げて嬉々とした声で答える。清果は笑顔で頷くと俺に視線を向けた。

「幸くんは?」

「あ、じゃあレモンティーで」

 清果は頷いて、病室を後にする。カメラを操作しながら、ベッド脇の椅子に腰掛けた。

「例えば……こんなのとか」

 俺は虹の写真を見せた。

「わあ!きれー!」

 明里ちゃんは目を輝かせている。こんな反応をされると、素直に嬉しくなる。いくつか写真を見せていく。

「俺のお気に入りがあってね……」

 以前撮影した、マンションとマンションを架けるように見える虹の写真。あれを液晶画面に表示させようと探していると、明里ちゃんが肩を叩いた。目を彼女に向ける。

「幸お兄さんって、もしかして……」

 俺は小首を傾げる。

「清果お姉ちゃんの、彼氏さん?」

 ビクッとした。どうしてもこの質問がきてしまうのか。首を横に振る。

「違うよ。ただの友達」

「そうなんですか?」

「そうなんです」

 しばらく俺を見ていた目が閉じられると、小さく息を吐かれる。

「……そっか。恋バナ聞きたかったな……」

 そう言って唇を尖らせた。

 この病棟の患者は、治療はしない。ここは、自分らしく死を迎える場所。つまり目の前にいる女の子も、いつ死んでもおかしくない。

「……明里ちゃんは、何歳なの?」

「14。中学2年生。だけど、ほとんど学校行けてなくて。だから学校の友達とかいないんだ」

 明里ちゃんは笑って答えたが、寂しさを隠しきれていない。

「……どういう病気か、聞いてもいい?」

 明里ちゃんは笑顔のまま頷いた。

「小児がん。小3の時に初めて発症してから、入院と退院を繰り返しているの。手術しても別のところにまたできて、手術して、またできて……」

 聞いてみたいことはもっとあった。でも、これ以上口を開くことができなかった。しばらく沈黙となる。清果が戻ってきたことで、この空間の静けさは解消された。

「清果お姉ちゃん。私の好きな曲、聞かせてくれない?」

「いいよ」

 清果は笑顔で答えると、オーボエの準備を始めた。


 夏の空は、青々としている。暑いのが苦手なので、寒い時期のほうが好きだ。でも空の色は、今の時期のほうが好きだ。

 病院の屋上に上り、空を見上げている俺は、さっき病室で会った女の子のことを思い返している。明里ちゃんは、俺より2つ年下の中学生。学校に行けなくて寂しかったり、恋の話をしたがったりと、年頃の普通の女の子だ。

 医学は確実に進歩している。だが、未来ある若い世代を確実に救えるような、そこまでの大きな変化はまだない。しょうがないことなのだが、もどかしさも感じてしまう。

「……治らんのかな……」

 無意識に口から零れた俺の言葉。

「……ほんまにね」

 俺の隣に並ぶ清果の声が聞こえた。俺の呟きへの返事のようだ。

「幸くんは……」

 俺の名前が出ただけで言葉が続かなかったため、俺は清果に顔を向ける。

「……病気を抱えている人と、一緒にいたいって思う?」

 質問の意味が分からず、目を瞬かせて疑問符をつける。

「病気を抱えている人であっても、友達でいたいって思う?」

 俺はなぜ、そんな質問をされたのか分からなかった。でも質問の答えは決まっている。

「友達が病気だったからって、友達やめたりはしないよ。病気が友達をやめる理由にはつながらない」

 俺の言葉を聞いた清果は、おもむろに微笑んだ。そして何も言わず、目線を前方の養老山に向けた。時折、風の音や鳥のさえずる声が聞こえるだけで、静かな空間となる。ふっと小さく吐いた清果の息が、沈黙を破るきっかけとなった。

「……うち、秘密があんねん」

 秘密、という言葉に反応した俺は、清果に顔を向けた。彼女は身体を俺に正対させる。小さく口角を上げた。

「うちの秘密、幸くんに教えてあげる」

 そう言うと、清果はシャツの一番下のボタンに指をかけた。俺は彼女が何をしようとしているのか分からず、怪訝な表情で見つめる。清果は指をかけていたボタンを外す。するとその一つ上のボタンも外した。

「……え?」

 なんなんだ?どういうこうと?清果は下から4つのボタンを外した。ロングスカートの中に入れていた、キャミソール?のようなものを外へ出す。そしてそれの裾を掴んだ。

「清果……何してんの?」

 少し狼狽してしまった俺に向けて、微笑で口を開いた。

「ちゃんと、ちゃんとうちの身体、見て」

 え、嘘?マジで脱ごうとしてる?いや、なんで?なんでここで脱ぐの?え……え?頭が混乱する。ぐるぐる思考を巡らすも、行動の意図が分からない。

 清果はゆっくりと、トップスを上へ上げていく。彼女のお腹が少し見え、ゴクリと唾を飲み込んだ。清果はそのまま上げていくと、お腹全体が見えるようにして手の動きを止めた。俺はさっきまで抱えていたドキドキが消え、清果のお腹のある一転に視線を向けた。そこには、管のようなものがついている。疑問の表情で彼女の顔に目を向けた。

「うちの身体の中には、カテーテルが入ってる」

 カテーテル。俺でも知っている。管状の医療器具だ。

「うち、人工透析受けててん」

「とう、せき……」

 一瞬、透析がなんのことなのか分からなくなってしまった。頭の中の、透析という言葉が入った引き出しを開く。

「透析って、腎臓が悪い人がやってる、あれのこと?」

 清果は頷いた。

「そう。小さい時から、腎臓が弱いんだ」

 腎臓の機能が弱い人にとって、透析は命を左右する重要なことであることは、俺も知っている。でも、俺が知っている透析は、お腹にカテーテルなんてつけていないはず。

「透析って、病院行って、点滴みたいなやつで時間かけてやるんじゃなかったっけ?」

「それは血液透析。透析にはもう一つ、腹膜透析っていうのがあるの」

 清果はトップスを下ろしてお腹を隠した。

「腹膜っていうところがあって、そこにカテーテルを通して透析液を入れるの。そこに老廃物が集まる。そしたら新しい液と交換する。それを繰り返すのが、腹膜透析」

 清果は服の上から、カテーテルがついているところを軽く触れる。

「血液透析だったら、1日4時間、週3日病院に通わないといけない。でもうちの場合は、お家に専用の機械を設置しているから、夜寝ている間に交換することができる。カテーテルのことを気にしないといけないけど、それ以外は日中生活にあまり影響は出ない。やから、うちは普通に生活できてる」

「そう、なんだ」

 知識の乏しい俺にしてみれば、難しい話だった。でも普通に生活できるのなら、俺が神経質になる必要はないのだろう。……それと、清果が変態じゃなかったので一安心……。

「ビックリした?」

「うん。……二重の意味で」

「もしかして、うちの秘密が露出癖があるってことって思った?」

 見透かされたような問い。ばつが悪かったが、小さく頷いてみせる。

「ちゃんと先に言ったで。病気があっても友達でいたいかって」

 あ、そういうことか。だから、あんな質問を……。そう思った時、緊張の糸が切れたようにしゃがみこんだ。

「え、大丈夫?」

 清果の心配そうな声が、頭上から降ってくる。

「うん。大丈夫。なんか力抜けちゃった……」

 苦笑いする。少し間が空いて、清果の声が聞こえてきた。

「……あんなふうに思ってたのに、止めようとしないで、目を離さず、うちの身体、見てたんやな……」

 一つ一つの言葉を強調するように、区切りながら話した清果の発言にギクッとする。たしかに混乱していたとはいえ、目を離さずにはいられなかった。恐る恐る顔を上げる。清果のからかいが混じったような笑みが見えた。

「幸くんも、年頃の男の子なんやね」

 俺は悔しい思いが沸き上がった。してやられた。でもそれ以上に、嬉しい気持ちにもなった。小さくため息を吐くと、ゆっくり立ち上がる。

「清果にも、そういうところがあるんやな」

「そういうところ?」

「人をからかったりするところ」

 清果は少し面食らったように目を丸くしたが、ふふっと微笑を浮かべた。

「うちだって、年頃の女の子やからね。人並みなことはするよ」

 この発言に、俺はハッとさせられた。どこかで俺は、清果は少し違った、少し特別な感じの人、そんなふうな考えがあった。でも、そんなことはない。彼女は俺と同じ、高校1年生だ。

「幸くん」

 名前を呼ばれて我に返る。清果がこちらを見据えている。

「これからも……友達でいてね」

 くしゃりと笑った清果を見て、俺の胸は強く突き上げられた。まただ。あいつの笑顔とそっくりな表情。それを見てしまうと、どうしても顔が赤くなってしまう。素早く目線を外した。

「……うん。もちろん……」

 声が小さかった。ちゃんと清果の耳に届いただろうか。横目で彼女を見遣る。微笑んだ表情で、山を見つめていた。

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