見覚えのある光景が、目の前に映し出される。俺が通っていた中学校の外階段。その踊り場に、中学の時の俺とあいつがいる。

 俺はカメラの液晶画面を見ており、あいつは今いる場所から一望できるグランドを眺めている。グラウンドから、野球部員の声とバットにボールが当たる音が聞こえてくる。

 コンクリート製の柵の上に頬杖をついているあいつは、俺に顔を向けた。

「他に友達できた?」

「できないよ」

 ぶっきらぼうに答える俺。

「どうして?」

「どうしてって、聞かなくても分かるだろ」

 俺は小さく息を吐いて、あいつに視線を移した。

「話しかけてみなよ」

 あいつが提案してくる。俺は首を横に振った。

「無理だよ。声をかけるのが怖い……」

 俺の声は沈んでいる。そうだった。あの時の俺は、他人に声をかけることに恐怖を覚えていた。今は恐怖こそ感じなくなったが、緊張してしまい積極的になれないのは、あのころの名残だろうか。

「私とは普通に話せてるよ」

「それはそっちから話しかけてくれたから、今こうやって話せるようになっただけ。きっかけがないと無理や」

 手元のカメラに視線を戻した。意味もなくボタンを押してみる。あいつは頬から手を離すと、頭を少し上げた。

「他の人とは話せない?」

「俺が話せるのは、お前だけ……」

 そう言い放った俺を、あいつはしばらく見つめていた。吹き付けた風が、あいつの長い髪を泳がせる。そして小さくため息をつき、あいつは柵の上に置いた手の上に顎をのせた。

「そっか。残念やな」

「ん?」

 俺は首を傾げる。

「牛田と話すのは楽しいってこと、誰とも共有できんのは」

「……楽しい?俺とが?」

 面食らった俺。あいつは背を伸ばすと、俺を見て、微笑を浮かべた。

「うん。楽しいよ」

 俺は、少し口を開けて驚いた。俺なんかといて楽しいなんて、言われるとは思ってもみなかった。何か言おうとしている俺。しかし言葉が出てこない。口をパクパクさせているだけの俺に代わって、別の声があいつを呼んだ。

 上の階の外廊下に、声の主である女子生徒がいる。あいつはその人へ顔を向けた。

「生徒会の人が呼んでたよー!」

「分かった。ありがとー!」

 あいつは女子生徒に手を振ると、俺に視線を戻した。

「じゃあ行くね。またね」

「あ、うん。また……」

 あいつは俺にも手を振り、颯爽と駆けて行った。何を言おうとしていたのか。俺は小さくため息をついた。あいつがそばからいなくなった途端、グラウンドからの声や音が鮮明に耳に届いた。


 けたたましい音が聞こえ、俺は目を覚ました。音の正体は、携帯のアラーム音。前に一度、アラームを設定していたのにも関わらず、それが聞こえず寝坊したことがあった。それ以来、絶対に耳に届くよう、音量を大きくしている。

 ベッドから離れ、携帯の画面を触って音を止める。その瞬間、俺のいる空間は静寂に包まれる。

「また、夢見たな……」

 そう呟いて、俺は部屋を後にした。

 あの日以来、俺は週に一度は必ずあいつとの夢を見る。多少は脚色がされているかもしれないが、基本的にはあいつと過ごした実在の記憶。おそらく今後も、あいつとの夢は見続けることになるだろう。


 市立瑞希高等学校。俺の通っている学校だ。今は数学の授業中。

俺は数学が苦手だ。小学校の算数の時から苦手である。公式がいまいち頭に入らない。公式を利用しての応用ができない。まあできないなりに、一生懸命先生の話を聞き、しっかりノートは取っている。

 しかし今日は、気はそぞろ。昨日病院で出会った、猿島清果のことで頭が一杯だった。机の下で洋型の封筒を開き、中から写真を取り出す。彼女から許可をもらい、何枚か撮影したなかの3枚。これを彼女に渡そうと考えていた。しかし、彼女のクラスが分からない。

 うちの学校は、1学年8クラスある。同じクラスではないことはたしかなので、残る7クラスのどこかにいるはず。しらみ潰しに探し回ってもいいのだが、休み時間に必ず会えるとは限らない。移動教室だったり、トイレだったり。それに、他クラスを見て回ることが恥ずかしかった。

 写真を撮った後に少し話をしたのに、なぜクラスを聞かなかったのか。俺はため息をついて、カメラを入れているショルダーバッグに写真を収めた。


 午前の授業が終わり、昼休みとなる。

「幸、早く昼飯買ってこいよ」

 根室の言葉に頷き、俺は財布を持って教室を出る。

 この学校には、食堂の中に購買部がある。700名を超える全校生徒のうち、弁当を持参しない者たちは、我先にと購買部へ群がる。ごったがえす食堂は、戦場へと化す。

 俺は昼飯を調達すると、教室に戻り根室たちと食べる。なので食堂の席に着いたことは一度もない。

 購買部へと歩みを進めるなかで、ある一つの声が、雑踏の中からしっかり耳に届いた。

「さやー!」

 俺は無意識に立ち止まる。さや……さやか……、もしかして、清果のことか?俺は声がした方向へ頭を向ける。彼女の顔は覚えている。何度も写真を眺めていたのだから。

 目を凝らして食堂を見渡す。……いた!女子生徒と席に着き、談笑している。その人が、さっき名前を呼んだ人だろうか。そして二人と対面して、男子生徒が座っている。

 楽しそうな雰囲気。そんな中になんてとても入れない。それに今、写真を持っていない。話しかける理由もないのだ。

 俺はため息をついて、教室に向かって歩き出した。


 自宅へ帰り自分の部屋に入った俺は、リュックを椅子の座面にのせ、ショルダーバッグは机の上に置いた。ふーっと息を吐くと、バッグからカメラを取り出しベッドの端に座った。

 俺のカメラは、コンパクトデジタルカメラと呼ばれる小型のカメラだ。一般的にはデジカメと呼ばれるが、よく見るそれとは違い、一眼レフのようにファインダーが付いているデジカメを所有している。画質がよく、高い性能を持つ、高価なタイプである。もちろん、購入したのは親だ。

 俺は子どものころ、両親におねだりしたことが全然なかった。今のところ最初で最後のおねだりが、このカメラだ。初おねだりが嬉しかったらしく、両親は二つ返事で高い買い物をしてくれた。感謝してもしきれない。手入れをしっかり行い、大事に愛用している。

 カメラの液晶画面に、撮りためた写真を表示させる。風景の写真、里緒都たちの写真と、ボタンを操作して写真を見ていく。ある写真が映し出されると、操作していた指が止まる。

 学ラン姿の俺とセーラー服姿のあいつ。俺の一番好きな写真だ。

 しばらくそれを眺め、小さく息を吐いて呟く。

「……猪野いの。俺には難しいな……」


 呆けながら校門をくぐると、大きなあくびが俺を襲った。人目もはばからず、口を大きく開ける。目尻を拭った時、おはよう!という元気のいい声と共に、背負ったリュックサックに小さな衝撃が走る。振り返った俺の目には、里緒都の姿があった。人懐っこい笑顔を俺に向けている。

 俺には友達が三人いる。紺谷こんたに里緒都、根室なお、福岡健太けんた。すでに仲良くなっていた三人の輪の中に、俺が加わってこの四人組が出来上がった。なぜ輪の中に入れたのか、いまいち分かっていない。だが友達がいるということだけで、俺は満足している。

「退院してすぐ登校しても大丈夫なの?」

「おう。ちゃんと医者の許可も出てるし。あんまり長いこといなかったら、クラスで浮いちまうかもしれないしな」

 里緒都はニカッと笑う。

「里緒都はその心配はいらんと思うけどな」

 俺は正直な気持ちを吐露した。それと同時に、楽器の音が聞こえてきた。これはたぶん、トランペットだと思う。

「吹奏楽部だろうな」

 里緒都の呟きが聞こえ、俺は彼の顔に視線を移す。

「うちの吹奏楽部、強いらしぞ。県で3本の指に入る強豪校やって」

 知らなかった。音楽に興味がないからだろうか。もしかしたら、今までも吹奏楽部の音を聞いていても右から左へ受け流していたのかもしれない。楽器の音に敏感になったのは、清果の笛の音を聞いてからだろう。……ん?……あ!

「里緒都、ありがと!」

 俺は思わずお礼を言った。なぜお礼を言われたのか分からない里緒都は、怪訝な顔をしている。

 清果は楽器を演奏している。もしかしたら吹奏楽部に所属しているかもしれない。今日の放課後、吹奏楽部の練習場所に行ってみよう。

 教室に向かって廊下を歩く。少し気になることがあり、里緒都の顔を見上げる。

「もしかして、背伸びた?」

 俺の問いに、里緒都が驚いた顔になる。

「お、おう。1センチ伸びて184になった」

 なんてこった。里緒都はまだ背が伸びているのか。俺には成長期があった気がしない。小さいなりに徐々に伸びていってはいたが、中学でぐんと背が伸びることはなかった。164センチで止まっている。人によって成長期の時期は違うらしい。俺の成長期もこれからくるのだろうか。しかし、たった1センチの変化に気付けるなんて、どれだけ身長に執着しているのだろうか。

 俺たちのクラスである1年4組のドアを開ける。教室内からは、紺谷くん、里緒都、などと歓迎の声が上がり、彼の周りにはあっという間に人だかりができた。やっぱり大丈夫だ。居場所がなくなったりしない。

 俺には誰も声をかけないのだから、里緒都との差を実感した。だが、悲観することはない。人気者になりたいわけじゃないし、自分にも周りにも変な期待はしていない。根室と福岡と挨拶を交わして、自分の席へ着いた。


 この日の日程が全て終了し、俺は荷物を担いで教室を後にする。教科書などを入れるリュックサックとカメラの入ったショルダーバッグ。いつもこの二つを持って学校へ通う。

 吹奏楽部を訪れて、初めて分かったことがある。同じ楽器や似たような?楽器に分かれて、それぞれ違う教室を利用して練習しているのだ。てっきり音楽室でみんなで練習するものだと思っていた。結局、音がする教室を一つずつ覗いていくこととなった。これじゃあクラスを見て回るのとさほど変わらない。

 笛を吹いている教室に辿り着いた。覗き見るが清果の姿はない。小さくため息をついて、昇降口を目指すこととした。


 学校からの足で向かったのは大学病院。ここで出会ったのだから、ここでならまた会えるかもしれない。そんな淡い期待を背負ってきた。だがそれは、見事に砕けた。屋上には清果の姿はない。やっぱりそううまくはいかないか。

 小さくため息をついて、柵に背を預ける。顔を上げると、目の先にあるベンチに座っている男の人と目が合った。遠目だが、自分と同じ制服に見える。相手もそれに気付いたのか、立ち上がってこちらへ向かって歩いてくる。顔がしっかり見えた時、俺は心の中で叫んだ。記憶力には自信がある。目の前にいるこの男性は、食堂で清果を見かけた時に、彼女と同じテーブルに座っていたあの人だ。まさかこんなとこで会うとは。少し冷や汗もかき始めた。

「瑞希高校ですか?」

「あ、はい」

 清果と出会った時の状況と酷似している。少しばかり目が泳いでしまう。しかし、これは好都合ではないかと考えた。この人を利用できるかもしれない。失礼な言い方なのだが。

「1年の牛田です」

 自ら名乗った。男性は微笑を浮かべる。

「俺も1年。淡路あわじです。俺は7組だけど、そっちは?」

「俺は4組」

「そっか。こんなとこで会うなんてな。よろしく」

 淡路は屈託ない笑顔で小さく頭を下げた。同じ学校の同学年とはいえ、初めて会った人相手にこんな笑顔をみせるのだから、彼は人がいいのかもしれない。清果と似ているように思える。

「受診しに来たの?」

「あ、いや、そういうわけじゃ……」

 正直なことを言ってみる。

「猿島清果に会いに来たんだ」

「え?さやちゃんに?」

「さやちゃん?知り合いなの?」

 そうであることは知っている。知らない体で話をする。

「おう。友達やけど。そっちも知っとるん?」

「あ、これを彼女に渡したくて……」

 俺はショルダーバッグから、写真の入った封筒を取り出し、淡路に渡す。中見てもいいか?と聞かれたので頷く。彼は、封筒から取り出した写真を見る。

「前にここで会って。写真撮っていいって言われて、いくつか撮ったんだ。で、それを渡したかったんだけど、クラス聞くの忘れてて……」

 俺は頭を掻いて淡路を見た。

「俺の代わりに渡してくれないかな?」

 写真を見ていた淡路は、俺に視線を移した。

「いや、これ、凄く綺麗に撮れてると思う。こういうのは、自分で渡したほうがいいよ。さやちゃんもそのほうが喜ぶだろうし」

 淡路は柔らかい表情で、写真を俺に返した。俺は小首を傾げた。

「いいの?」

「ん?いいって?」

 俺は、なんでもない、と首を横に振った。俺はてっきり、淡路は清果の恋人なんだと思っていた。もしくは彼女のことが好きなんだと。そうであるならば、俺の一連の行動を嫌がるはずだ。でもそうではないらしい。彼はそういう想いを抱いていないということなのだろうか。

 淡路の顔を横目で見ると、含み笑いを浮かべていた。

「牛田、携帯持ってるよな?」

「え?あ、うん」

「連絡先、交換しようぜ」

「え?」

「俺が協力してやるよ!」

 淡路はニカッと笑ってみせた。俺は言葉の意味が分からず、眉間に小さくしわを寄せて首を傾けた。


 昼食を終え、自分の席でパック飲料の紅茶を飲む。昨日、淡路から自分で渡したほうがいいと言われた。しかし、またしても清果のクラスを聞きそびれた。俺はバカなのか。てか淡路のほうから教えてくれてもいいのでは?頭の内側に集中しているため、ボーっと黒板を眺めてながらストローを咥えていると、里緒都が名前を呼んだ。

「淡路って奴が来てるけど、知り合いか?」

 淡路?俺は教室の後ろのドアへ視線を移す。淡路が手を振っていた。口に含んでいた紅茶を少し吹き出す。

 里緒都が少しのけぞる。俺はボックスティッシュを取り出すと、里緒都にそれを渡した。

「ごめんだけど、ここ、拭いといてもらえない?」

「え?まあいいけど。てかお前、引き出しにボックスティッシュ入れてんの?」

 里緒都の発言は無視した。淡路の元へ小走りで向かう。ニコニコの淡路。彼は何しに来たのか。

「ちょ、何?どうしたの?」

「言ったろ、協力するって」

 淡路はウインクしてみせる。俺は少し戸惑いながら、彼の隣にいる女性に目を向けた。俺よりも背が高い。

益城ましき結月ゆづき。俺の幼馴染み」

 どうも、と小さく頭を下げる益城。どうやら彼女は状況を把握していないようだ。俺は彼女の顔をよく見る。

「あ!」

 俺は思わず声を出した。この女性は、食堂で清果と淡路と一緒にいた人だ。益城は怪訝な顔をするが、なんでもない、と俺は首を横に振る。

「今からさやちゃんとこ行くぞ」

「え?今から?」

「そ。早く写真取ってこい」


「え!清果って8組なの?」

 俺は目を瞬かせて『8組』と書かれたプレートに目を向ける。

瑞希高校には、普通科と特進クラスの2コースが存在する。普通科の学力は中の上といったぐらいだが、特進クラスは県内有数の進学校に劣らないくらいの高いレベルを誇る。1から7組までが普通科で、特進クラスは8組のみとなっている。

 数学が大の苦手な俺だが、それ以外の教科については特進クラスに入れるくらいの学力はある。数学が平均的な点数さえ取れれば、合格していたかもしれない。でも数学ができていたからといって、特進クラスに行くつもりはなかった。たくさん勉強して、いい大学に行きたいわけではない。俺はごく普通の学校生活を味わいたかったのだ。

「じゃあ私、呼んでくるね」

 益城が教室の中へ入っていく。俺は淡路と並んで、中の様子を廊下から見る。益城の背中を目で追っていくと、清果の姿が見に入った。彼女はこちらを向くと、手を振ってきた。なので振り返す。益城と共に廊下までやって来た。

「幸くん。学校で会うのは初めてやね」

「あ、うん。そうだね……」

 病院の時以来の声を聞き、俺は少し緊張してしまう。

「用事って何?」

「あ、うん。写真渡そうと思って……」

 ショルダーバッグから、写真の入った封筒を取り出す。

「この前、病院で撮った写真。クラスがどこか聞きそびれてて、どうしようかと思ってたら、たまたま淡路と知り合って、教えてもらったんだ」

 清果は封筒を受け取ると、見てもええ?と聞いてきたので、頷いて答える。清果が封筒を開け写真を取り出す。益城は清果の後ろに回って写真を見る。清果の口元が綻んだのが見えた。なので俺は、少し安心する。

「へえ。綺麗に撮れとる」

 益城が感心の声を上げてくれた。少し嬉しくなった。でも恥ずかしいので顔には出さないように堪える。清果は顔を上げ、俺に視線を向けた。

「ほんまありがとう。大切にするね」

 清果は破顔した。顔をくしゃっとして笑う姿が、あいつと瓜二つだったため、思わず顔を背けた。

「あ、うん。もう休み時間終わるから、もう帰るよ」

 うん、との清果の声を聞き、俺は自分の教室へ向かって歩き出した。


 淡路の呼び止める声が聞こえるが、早歩きをやめない。まだ顔が火照っている。それを見せたくない。上履きが廊下との摩擦で、キュッキュと音を鳴らす。

 淡路と益城が俺に追い付いた。

「突然帰んなよ」

「突然じゃない。休み時間が終わるから帰るって言ったろ」

「そういうことじゃなくてさ」

 淡路は小さくため息をついた。俺は歩くのをやめない。

「連絡先、聞かなくてよかったのか?」

 淡路のその言葉が耳に届き、俺はようやく足を止めた。顔色は元に戻っていると思う。淡路の発言が引っかかり、怪訝な表情で彼を見る。

「どういう意味?」

「連絡先、知りたくないのか?」

 俺は何度か目を瞬かせて首を横に振る。

「いや、それはないよ。写真を渡せただけで充分だよ」

 そう言って、俺は二人に向き直った。

「お二人さん、協力してくれてありがと」

 頭を下げ、再び歩き始めた。


 教室へ戻ると自分の席に着く。隣に立っている里緒都が俺をじっと見ている。

「あ、拭いてくれてありがと」

 思い出してお礼を言った。別にいいけど、と里緒都は緑茶が入ったペットボトルを口へ運び、一口飲んだ。

「風邪でも引いたか?」

「え?」

 里緒都の顔へ素早く視線を移した。

「顔、赤いぞ」

 俺は両手で頬を触った。赤みは引いたと思っていたのだが、まだだったらしい。淡路たちにも見られたか。

 大仰なため息をつきながら、俺は背もたれに身体を預けた。

「マジで大丈夫か?」

「……なんか最近、いろいろあってさ……」

 里緒都はしゃがみ、俺の顔を見た。高身長の彼であっても、しゃがめば俺の目線より頭が下にくる。

「久々に、俺らの部活でも見に来るか?」

 里緒都の提案に、頬から手を離して頷いた。


 うちの高校のテニス部は、正直言って強くない。県大会の上位に入ったことがないのだから、全国は夢のまた夢だ。でも今年は強力な新入生が二人入部したことで、少し注目されている。その二人が今、コート上でラリーを繰り広げている。根室と福岡だ。

 二人は中学時代、互いに認め合うよきライバルだったらしい。全国大会の常連で、福岡はベスト8まで進んだ。二人の躍動している姿を、俺はファインダーに収めていく。根室を撮ったり、福岡を撮ったり、二人が写るアングルに移動したりと、コート内の二人のように、俺はコート外を動き回っている。

 ベストショットを求めて忙しなく動くことは、俺にとっては心地よかった。

 根室は積極的に強打を放っていき、早めに勝負を決める。福岡はとにかく粘ってボールを拾い続け、相手のミスを誘う。真逆のタイプのため、戦いづらいと前に二人は言っていた。

「しまった!」

 根室の声が響いた。彼の拾ったボールは高く空中に飛んでいる。くるぞ!俺はカメラを福岡に向けた。

 グラウンドスマッシュという、一度ボールをバウンドさせ、高く上がったところを上から強打する、テニスのショットの一つ。福岡のウイニングショットであり、これを止められる奴は全国でもそういないと、根室が話していた。

 福岡は左手を上げてラケットを担ぐ。右手を空中に向けて姿勢を安定させる。ベストなところまでボールがくると、左手を力強く振り下ろした。

 気が付いたら、カシャンという音と共に、ボールが根室の背後のフェンス際でテンテンとしていた。あまりに速くて打球を追えなかった。それは俺だけではないらしく、根室も、コート脇でラリーを見ていた他の部員たちもそのようだ。

「お前にあの打球で返しちゃダメだよな」

 根室の言葉に、笑顔で反応した福岡。二人はネットを挟んで、がっちり握手をした。

 凄かったな。福岡のショットに感心しながら、俺はカメラの画面を見つめる。明るい声で俺を呼んだ福岡が、小走りでこちらに向かってくる。その後ろから、汗をウェアで拭いながら根室が歩いてくる。

「どうだった?」

 少し興奮気味な福岡に、ショットの瞬間を押さえた写真をフェンス越しにみせた。

「おお、いい!かっこよく撮れてる!」

 福岡の声と共に、根室が頷いている。

「根室のもかっこいいのあるよ」

 ボタンを操作し、試合が終わった直後の根室の写真を見せた。

「お!この少し憂いがある感じ、渋くてかっこいいわ」

 根室は破顔した。二人が笑顔で写真を見てくれたので良かった。自分の撮った写真に喜んでくれる人がいることを知ってから、それは俺にとって何より嬉しい瞬間となった。


 辺りが暗くなったころ。部活が終わった里緒都と合流し、近場のコンビニへと向かう。

 カメラに収まっている、弓道着で弓を構える里緒都の姿それを眺める俺は、小声で呟いた。

「里緒都ってかっこいいよな」

 突然のこの発言に、里緒都は面食らった。

「やっぱお前、風邪引いてるだろ」

 里緒都は俺のおでこに手を当ててきた。彼の手は大きく、俺の顔を全て覆ってしまえそうだ。

「本音を言ったまでだよ。俺も里緒都みたいだったらよかったな」

「なんか悩みでもあんの?」

 おでこから手を離し、今度は顔を覗き込んできた。俺は何も答えられない。

「俺ら友達なんだし、俺でよかったら相談にのるよ」

 里緒都は他人思いだ。そこも彼の長所だ。でもそんな人を相手にしても、俺は正直になれない。ありがと、と笑顔でそれだけ答えた。


 夕食を済ませ、自分の部屋でしばらくボーっとしていた。ベッドに座り、目の前の木目模様の壁紙が貼られた壁を見つめる。呆けるようになったのは、今に始まったことではない。心を落ち着かせる時に、時々やっている。

 机に目を向けると、机上の携帯の通知ランプが光っている。操作すると、淡路からのメールだった。

『さやちゃんの連絡先、送っとくよ!』

 は?頼んでないのに!清果のものと思しき連絡先も、俺の元に届いている。余計なことを……。そう思いながらも、添付されたものを登録する。淡路が俺に教えるということを清果も知っているだろう。だとしたら、一通くらいは送っておかないとな……。

『淡路から教えてもらった。写真、受け取ってくれてありがと』

 携帯に打ち込んで送信ボタンを押した。そのまま待ち続けるのも落ち着かないので、一旦部屋を出た。

 台所に行き、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出し、コップに注ぐ。それを飲み干し部屋へ戻った。その時には、すでに返事がきていた。内容を確認する。

『うちも秀平しゅうへいくんから聞きました。写真ありがとう!自分が写ってるの見るのってちょっと恥ずかしいけど、めっちゃ嬉しかった!大切にするね!』

 淡路の下の名前は秀平というのか。頷きながら、日中直接お礼を言われた時の清果の表情を思い出す。それはあいつの笑顔に似ていた。

 机の引き出しから、1枚の写真を取り出す。中学の時の俺とあいつが写っている、あの写真。カメラに挿入されたSDカードにデータがあり、パソコンのハードディスクにも保存されており、携帯のフォルダにも入っており、L判サイズにプリントアウトした写真を手に持っている。俺の一番好きな写真であり、一番大切にしている写真。

 左手にカメラを持ち、レンズを自分に向けて、あいつはシャッターを切った。表情などを確認することはできるが、焦点が合っておらず少しピンボケした写真。満面の笑みでピースをしているあいつと、油断しており少し間抜けな顔をしている中学の俺。

 俺はふとした時に、この写真を眺める。心の拠り所を求めて。

 不思議な感覚だ。清果と病院の屋上で出会った時から、彼女をあいつと重ねている。

 俺は椅子に腰掛けると、どう返事をしようか考え始めた。


 昼食を買いに、あくびを噛み殺しながら購買部へと向かう。頭を掻きながら歩いていると、女性の声が俺の名前を呼んだ。

「牛田!」

 高校に入学してから、女性に呼び止められたのは初めてだ。足を止め、振り返る。俺よりも背の高い女子生徒が歩み寄ってくる。

「あ、益城、さん」

 俺の近くまで来た益城は、パック飲料を俺に差し出した。

「これ間違えて買っちゃったから、あげるよ」

 俺は何度か目を瞬かせ、それに目を落とした。

「ん?嫌いやった?」

「あ、いや……」

 パックの中身は紅茶。俺の好きなものだ。ありがと、と小さく頭を下げてからそれを受け取る。

「昼食はまだやろ?一緒に食べよ」

 益城は俺の返事を待たずに、こっち、と指差しながら食堂に歩いていく。勢いに押させてしまった俺は、ただ彼女の指示に従うのみだった。

 テーブルに着く。俺は食堂の椅子に腰掛けたことがなかったため、少し新鮮な感覚がした。益城は持っていたトートバッグから二つの弁当箱を出し、一つを俺のほうに置いた。

「……は?」

 さすがに意味が分からない。

「しゅうちゃんの分なんだけど、友達とどっか行くみたいやから」

 しゅうちゃん。淡路の下の名前は秀平だ。二人は幼馴染みと言っていた。幼馴染みの分まで弁当を用意しているのか。

「捨てるのももったいないし。気にせんで食べな」

 いや、気にするでしょ、と思ったが何も言えず、俺はその弁当を引き寄せた。

 ……うまい。益城が作ったのか、彼女の母親が作ったのかは分からないが、とにかくうまい!箸が進む。

「牛田は、さやとどこで知り合ったって言ってたんだっけ?」

「大学病院の屋上」

「そっか。……さやのこと、好きなの?」

 ぶふっと口の中にあった米粒をいくつかテーブルの上に吐き出した。

「ちょ、汚い」

「急に変なこと言うからやろ」

 ふーっと息を吐いて、視線を益城に戻す。

「で?」

「で?って、別に好きとかじゃないよ」

「ほんとに?」

「ほんとに」

「ふーん、あっそ……」

 なんとも気持ちの入っていない返事。益城は箸を動かす。

 ショートボブというのだろうか。彼女の髪は短く切り揃えられている。少し強引でサバサバしている。ご飯を食べるスピードが早い。俺なんかより全然。なので快活な印象を受ける。

「私が助けになったげるから、頼ってくれてもいいよ」

 益城が言っている意味が分からず、俺は曖昧な返事をした。


 中学1年になった時に、親に携帯を買ってもらった。中学の3年間で連絡先に登録されていたのは、父、母、養護教師の田中たなか先生、あいつの4件だけ。だが高校に入学して2ヶ月ほどで、里緒都、根室、福岡、淡路、清果、益城と6件増えた。驚くべきことだ。これは、俺の周りの環境が変わった証しだろうか。でも、俺自身は変われたようには思えない。

 帰りのホームルームが終わり、教室中が騒がしくなる。部活に向かう者、教室に残る者、図書室など別教室に向かう者、家路に就く者。

 俺は荷物を持って席を立つ。それと同時に、ポケットに入れた携帯が震えた。益城からのメールだ。

『さや、放課後は病院に行くらしいよ!』

 何度か目を瞬かせる。そして、お昼の時の益城の言葉の意味が分かった。助けになるって、そういうことか。いや、頼んでないし、余計なお世話だよ、と思ったのだが、ありがと、と返事を打って教室を出た。


 屋上で出会ったものだから、てっきり今日も屋上だと思っていた。だが、そこに清果の姿はなかった。淡路と会うこともなく、同じ学校の誰かと遭遇することもなかった。清果の連絡先を知っているのだから、居場所を直接聞くこともできた。益城に聞いてもよかった。でも、なんだか躊躇してしまった。

 屋上を後にし、案内図に目をやる。この前ぶらついた時には気付かなかった文字に目がとまった。

「緩和ケア病棟……」

 初めて聞いた言葉だった。

 エレベーターを降り、案内の矢印に従って歩いていくと、楽器の音が耳に届いた。聞き覚えのある音色。清果が吹いていた笛の音だ。自然と早足になる。

 少し開けた場所に着いた。談話室となっており、入院着を着用した人を中心に、人が集まっている。高齢者や中年の人が多いなか、中学生くらいに見える子どもの姿もある。彼らの目線を追うと、清果が笛を演奏している。屋上で出会った時以来の、彼女の演奏している姿。黙って彼女を見続ける。

「どなたかのお見舞いですか?」

 横から声をかけられ顔を向けると、女性が歩み寄ってきた。白衣を着ているということは女医さんだろうか。

「あ、いや。彼女と同じ学校なんです」

 俺は清果に手を向ける。

「ああ。猿島さんの」

 女性は小さく頷いた。

「あの、先生にお聞きしたいことがあるんですが」

「え、先生?いや、私は医師ではないんです……」

 女性は手を横に振ると、首から提げられた職員証を顔の高さまで持ち上げた。『医療ソーシャルワーカー 大宮おおみや弥生やよい』とある。

「医療ソーシャルワーカー?」

「患者さんやご家族の悩み事などの相談に応じる福祉職なんです」

 そういう職種があったのか。俺は何度か頷いた。

「聞きたいことってなんですか?」

「あ、はい。彼女はよく演奏しているんですか?」

「ええ。猿島さんにはボランティアでたびたび来ていただいています。音楽療法の一環ですね」

 音楽は心を癒す効果がある。清果が奏でるような綺麗や音であれば、効果は大きそうだ。

「あと、緩和ケア病棟というのは、どういうところなんですか?」

 大宮さんは、小さく笑みを浮かべた。

「緩和ケアといって、末期のがんなど治癒の見込みのない患者さんが、積極的な治療を行わず自分らしく生きていくことを支援するケアの考え方があって。ここはそのような患者さんが入院する場所ですね」

「それって、治療をやめるってことですか?」

「人によって違いはあります。点滴などの最低限必要な処置は行い、例えば抗がん剤など、身体的、精神的に大きな苦痛を伴う治療は行わない方もいます。残りの命を、自分の好きなことややりたいことをやって、最期を迎える。ここのスタッフは、患者さんが自分らしく最期を迎えられるように支援する、といったところでしょうか」

 俺は何も言葉を発することができなかった。ここにいる人たちは、残った時間が少ないのだ。まだ子どももいるのに。視線を患者たちに向ける。みんな生き生きとした表情に見える。とても余命が短い人には思えなかった。


 小さな演奏会を終えた清果に声をかけ、二人で屋上へ向かった。ちゃんと話をするのは、初めてここで会った時以来だ。けど正直、前はなんの話をしたか覚えていない。

 中学生の時は吹奏楽部に入っていたが、今は所属していないらしい。なのであの時の俺の行動は、無駄足だったことが判明した。

 俺は彼女が演奏している楽器を、ただ笛とだけ呼んでいる。クラリネットとかフルートとか、名前はちゃんとあるはずだ。

「清果の使ってる笛、なんていうの?」

「これは、オーボエっていうの」

 楽器については全然知識がない。初めて聞いた名だ。

「ぱっと見はクラリネットに似てるし、一般的に有名ってわけやないから、知らんくても当然かな」

 彼女はオーボエの入ったケースの表面を優しく撫でた。西に傾いた日光が反射し、ケースが黒光りしている。

「有名じゃないのに、選んだ理由があるの?」

 清果は俺に目線を向けると、小さく笑みを浮かべた。

「小学生の時、社会人楽団の演奏会に行って、初めてオケを観たの。その時のオーボエソロがめっちゃかっこよくて。それで始めたの。それからオーボエ一筋」

 清果はオーボエケースを太ももの上に置く。ぽんぽんと軽く叩いた。

「うちの生きがいかな」

「そっか」

「幸くんは、いつもカメラ持ち歩いてはるよね」

「あ、うん」

「幸くんの生きがいだったりするん?」

 うーん、と小さく声を出し、俺は目線を宙に向けた。生きがい、か……。

「生きがいかどうかは分からんけど、大切な存在であることは間違いないかな」

 目を清果に戻す。彼女は笑みを浮かべた。人差し指を俺のカメラに向ける。

「よかったら、写真見せてくれへん?」

「あ、いいよ」

 俺は首から提げていたカメラを清果に手渡す。

「ここ押せば写真が変わっていくから」

 清果は頷くと、目をカメラの液晶画面に向けた。

「どの写真も綺麗」

 俺は思わず口元を綻ばす。褒められると恥ずかしくなる。褒められ慣れていないからかもしれない。

 風景の写真を中心に、里緒都らを写したものも出てくる。

「あ……」

 清果はある写真を見ると、指を止めた。なんの写真を見ているのか。俺は彼女の横から盗み見るように、画面に目を向けた。

「あ……」

 俺も思わず声が漏れる。あいつと写った、俺の大切な写真だった。

「学ラン着てるってことは、中学生の時の?」

 清果は視線を画面から俺の顔に移す。

「あ、うん……」

「かわいい子やね」

「うん。かわいかったよ」

「この子も友達?」

 俺は少し間を置いた。

「……友達だったよ」

「だった?」

 その言葉に引っかかったのか、画面に戻っていた清果の視線が、また俺の顔に向けられる。無意識に過去形で答えてしまった。俺は視線を養老山に向けた。

「……俺、長い間友達がいなかったんだ」

 勝手に言葉が口から出てくる。

「昔から今みたいに、背が低くて、声が高くて、中性的な顔してたから、オンナ男って言われてからかわれてて。気にしてるつもりはなかったんだけど、気が付いたら保健室登校になっとった……」

 俺は清果に、自分の過去について話そうとしている。友達がいなかったことは、里緒都たちにも話した。けど今の俺は、もっと深い部分を話そうとしている。いい思い出であり、引きずっている重みでもある。

 今まで誰にも話してこなかった過去の一つ。なぜだか、清果には話してみたい、聞いてほしいと思っている自分がいる。


 中学に進学したら教室に通うつもりだった。でもほぼ6年間保健室登校だったため、教室に通うことは身体が許してくれなかった。

 養護教諭がカメラ好きで、使い捨てカメラをもらった。写真を撮ると世界が変わる。先生はそう言った。なんとなく撮り始めると、カメラの世界にどんどん引き込まれていった。俺にとっては、新しい世界ができたように感じた。楽しみを感じない現実とワクワクがどんどん湧き出るカメラの世界。心の拠り所ができただけでも俺にとっては大きな一歩だ。

 2年に上がった時、俺を『保健室くん』と呼ぶ女性が目の前に現れた。あいつは……猪野は、顔がかわいく、頭がよくて、生徒会の役員をやっていて、誰もが知っている人気者だった。

 他の人に見られたくなくて俺は早い時間に登校していた。猪野は役員の活動の都合で、時々早めに登校していたらしく、俺のことを目撃していたらしい。なので少し気になっていたと言っていた。

 俺は驚きと共に嬉しさも感じた。こんな人に声をかけられるなんて、思ってもみなかったから……。

「牛田って写真上手やね。まあ上手下手の線引きがどこなのか分からんけど」

「ありがと」

「虹の写真が多いね」

「好きなんだよ。虹」

「へえ。……風景とか物の写真が多くて、人が写っとらんね。なんで?」

「あー。友達いなかったから、写す相手がいなかったんだよ」

「そっか。……じゃあ、はい!」

「ん?」

「私を撮ってよ」

「は?」

「私が被写体になったげる。私、けっこう写真写りいいと思うんだ。……なんてね!」

 くるっと回ってみせたあいつの姿を、俺は今でも鮮明に覚えている。風になびく二つ結びの長い黒髪。翻る濃紺の冬服のセーラー服。日光に反射し鈍く光る青緑色のハーフリムの眼鏡。うっすら頬が赤らんだとぼけ顔。

 あいつを好きになった瞬間だった。

 卒業式の前日の夜。猪野からメールがきた。お願い事がある、と書かれていたので、内容を聞いた。

『高校に進学してもカメラ続けて。私がいなくても、新しい友達を作って高校生活を楽しんで。これがお願い。きいてくれる?』

 俺は、分かった、と答えた。ありがとう、と返事がきた。この時は、このメールの内容について気にしていなかった。

 卒業式に、猪野は現れなかった。メールを送っても電話をしても、反応はなかった。

 翌日、変わり果てた姿で、あいつは見つかった。通学路の途中にある雑木林に、横たわっていたらしい。不自然な外傷はなく、遺書も残されていなかった。前日は大雪が降って、当日も弱まってはいたが降り続いていて、現場付近は雪が積もっていて滑りやすかった。不用意に道端に近づき、足をとられて滑落した、という事故で警察の捜査は終了した。

 だけど俺は、自殺だったんじゃないかと考えている。

 あの夜のメール。あれが俺宛ての遺書だったように思える。


「……俺は、あいつのおかげで、現実の世界が少し明るくなった。だけど、あいつの悩みには気付かなかった……」

 俺はため息をついて項垂れ、頭を掻いた。ここまでの長い話を清果は黙って聞き続けてくれた。

「猪野の話は、誰にもしてこなかったことなんだ」

 なんとか苦笑いを作ることはできた。清果は、口をぐっと結ぶ。そして小さく首を横に振った。

「幸くんは、何も悪くない。自分を責める必要なんかないよ」

 清果の優しい声が耳に届いた。俺はゆっくり顔を上げる。

「それに、猪野さんとの約束も実行できてるんやから、猪野さんも笑ってくれてはるんやない?」

 作り笑顔を少しだけ崩し、視線を落とす。

「カメラは続けてるし、友達もできた。けど……」

 小さく息を吐く。

「……罪滅ぼしって面もあるんだ」

「罪滅ぼし?」

「あんなによくしてもらったのに、何もしてあげられなかった。……だからせめて、最後のお願いを、しっかりとって思ってて……」

 俺はもう一度、息を吐いた。

「人を好きになれないんだ。男でも女でも。……好きになった人が、またいなくなったらどうしよう。そう思ってて……。怖いんだ。誰かを好きになることが……」

 俺は目を瞑った。ふーっと息を吐く。顔を上げて苦笑を浮かべる。

「ごめん。清果に言ったって、困らせるだけやな」

 清果は首を振る。そして少しだけ口角を上げ目を細めた。

「幸くんの気持ち、少し理解できるよ」

「え?」

 俺は小首を傾げた。

「うちも、似たような経験してるから……」

 清果の顔も、笑顔であるが寂しさが滲んでいる。似たような経験。ということは、彼女も大切な人を失ったことがあるのだろうか。

 俺の頬を風が優しく撫でると、俺と清果の間を吹き抜けていく。それは生温いものであった。もうすぐ梅雨がやってくるのであろうと肌で感じた。

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