「いつか駄々を捏ねられる日すら、来なくなる」

 喉元を過ぎれば熱さを忘れ、峠を超えれば痛みを忘れる。

 オレンジの体も、三日という期間でようやく峠を越えられたらしく、熱の苦しさも体の痛みも忘れてしまったかのように消え去っていた。

「あ……」

 女子寮の大浴場へ髪を洗おうと向かう途中、丁度自分を世話してくれていた三人の家政婦メイドらと廊下で鉢合わせる。

 先頭を並んで歩いていた家政婦メイド二人が裾を持ち上げて軽やかに挨拶してみせたのに対し、オレンジは深々と頭を下げる。

 名前と同じオレンジ色の髪の毛がはらりと垂れ下がる様は、同じ女性でも息を呑む光景で、ジェメニーはつい、挨拶するのを忘れてしまった。

 代わりに、前にいた家政婦メイドが声を掛ける。

「お加減如何でしょう、オレンジ様」

「はい……お陰様で、大分回復致しました。今日は大事を取って休んで、明日、から……授業に復帰しようと、思います」

「そうですか。それは良かった。また何かありましたら、お申しつけくださいね」

「よろしく、お願いします」

 何かあれ、と思っている事だろう。

 家政婦メイドは基本的に給料制だが、チップは別で貰った人がそのまま貰う事が出来る。

 故に家政婦メイドが男子生徒をたぶらかして貢がせる、なんて話も珍しくなく、男子生徒は学内において、家政婦メイド以上に警戒している者もないと言われている程だ。

 例え女性でも、王族や皇族の生まれとなればチップが弾まれるため、過去には料理に毒を盛った王族を自ら手当てし、チップを貰おうとしたなんて例もあったらしい。

 家政婦メイドは外界に出ないので金など持ったところで意味はないだろう、と思われることが多いが、家政婦メイドだっていつかは首を切られる。

 年齢の高い順か、出来の悪い順か。とにかく学園も毎年やって来る女性を採用したままでいるわけにもいかず、ある程度の年齢を経て、経験を積んだ家政婦メイドは追い出さなければならない。

 そのとき家政婦メイドには、何かと金が要る。

 新天地を目指すにも、新たな拠点を購入するにも、生活物資を蓄えるのにも、とにかく金が要るため、皆必死なのだ。

 故に目の前のオレンジのような、多くのチップを出してくれる相手はもはや客で、家政婦メイドは皆、自分だけの顧客を掴もうと必死だったが、ジェメニーはその姿勢が醜く見えて嫌いだった。

 メアリリードとカルラネラ。

 二人も学園に来た当初は、とても優しい家政婦メイドで、働けること自体に喜びを感じているような人達だったのに、その後の顛末を知ってからは死に物狂いで働き、顧客を得ようと必死になってしまった。

 二人共、そこまで金を貯めて何をしたいのか、何処へ行きたいのかも定まっていないと言うのに、何故そんなにも必死になれるのか、ジェメニーは不思議を通り越して恐怖すら感じていた。

「では、私はこれで……」

「はい。どうぞお大事になさってくださいませ」

 裾を持ち上げて軽やかに頭を下げる二人より遅れて、ジェメニーも深く頭を下げる。

 オレンジが通りかかろうと横切ると、髪を拭う際に付けた柑橘系の甘酸っぱい匂いが漂ってきて、鼻孔の奥をくすぐった。

「ありがとうございました」

「へ……」

 通り過ぎざま、小さな声で呟かれた言葉の一言一句が聞き取れてしまって、思わず振り返る。

 オレンジが振り返る事はなく、この三日でまた伸びた髪が覆う背中しか見えなかったが、ジェメニーは確かに、オレンジの声を聞き取った。


  *  *  *  *  *


「オレンジ、また髪が伸びたわね」

「そうかな……」

「このまま伸ばしちゃえば? 髪結ばないで、下ろしたら似合うんじゃない?」

「そう、かな……」

「男の人は好きそうだね。オレンジ、切らないで伸ばしちゃいなよ」

 彼も、その方が好みだろうか。

 病気が一先ず落ち着いたことを知らせると、仲良し三人が揃って見舞いに来てくれた。

 その際、長くなった髪を切って貰おうと思っていたのだが、三人の強い推しもあってこのまま伸ばすことにした。

――もったいないなぁ。本当に切っちゃうの?

――本人が切りたいって言うんだから、切らせればいいじゃないの

――でもさぁ、オレンジの髪の毛すっごい綺麗なんだよぉ。もったいなくない?

――其方が駄々を捏ねたところで仕方あるまい。そら、切るぞ

 昔にも、ホムンクルスらと同じやり取りをした。

 そのときは、何故髪の毛なんかでそんな言い合いをしているのかよくわからなかったし、髪は女にとって命も同然だなんて言われても同意は難しかったけれど、今なら何となくわかる気もするし、惜しいと思えるようにもなった。

 今なら彼女達は、は、何と言ってくれるだろう。

 何も言ってくれないかもしれないけれど、何か言ってくれるかもしれないと期待するだけ、成長したと言うべきか。

 博士なら、もっと斜めの角度から切り込んでくれるかもしれないが、そんなことを質問しても「興味ナシ」の一言で一蹴されることは目に見えている。

 だから例の話も、次の手紙に書こうかどうか、正直に言って迷っていた。

 保護者参観。

 まぁ、かの外道魔術師を保護者とするかは難しいところであるが、ともかく数日前、とある授業を担当する教師から、一ヶ月後にそのような事をすると報告を受けていた。

 担任教師もいない制度の学園では比較的珍しい行事らしいが、どうやら学園入学からこれまでの期間で、生徒達がどれだけ成長できたかを見せ付け、学園の信頼を勝ち得るための物らしい。

 延いては、この先学園に入学する生徒を招くための宣伝代わりなのだとか。

 世界屈指の魔術師を相手に宣伝効果は見込めないだろうが、会いたいとは思う。博士はきっと来ないだろうから、ホムンクルスのみんなと。

 だが、公の場に余り出していいような人達ではないし、緑髪や白髪は嫌がるだろう。青髪は来たがるだろうが――

「みんな、保護者参観はどうする、の……?」

「うちはもう、前以て家族が知ってたからさ。いつやるんだいつやるんだって問い詰められて……結局、全員来ると思う」

 と、ディマーナは溜め息を漏らす。

 ディマーナの家は半血種ハーフの両親に兄が二人、姉が三人。弟四人に妹二人の大家族で、二人の兄と三人の姉もそれぞれ結婚して子供達がいるというし、規模だけで想像するともはや少数民族と変わらない。

 それだけの人数が来ると言うのだから、恥ずかしい気持ちはわからなくもなかった。

「私の家は来ないわ。元々、表にはあまり出て来ない種族だもの」

 アザミはいつものように淡々とした調子だった。

 寂しくはない様子だが、返って聞かされている側が寂しく感じてしまいそうなくらい淡泊な反応で、何となく、仕方ないと呑み込もうとしているようにも見受けられた。

 一度彼女の部屋に行ったことがあるが、大量の実験用具と薬草の中に隠れた家族との写真を見つけた事がある。

 彼女とて、家族が嫌いというわけではない証拠だろう。本当は来て欲しいのかもしれない。

「私も怪しい、かな。スライム程じゃないけれど、希少種だし……あまり外界に出て来ない種族だし、ね」

 ワルツェもまた、苦笑を浮かべて誤魔化そうとしていた。

 天使族は世界でも希少種で、ほとんど表に出た事のない種族だ。世界中回ったオレンジでさえ、天使族はワルツェ以外に会った事もないし、出会うまで存在を知らなかった程である。

 スライムのように世間を嫌っているわけではないそうだが、精霊族のように世俗から離れ、姿を隠して生きているらしい。

 そう聞くと、精霊族も普通に過ごしていれば、知る事もなかった種族だったのかもしれない。

 ともかく以上の理由から、ワルツェも一応家族に知らせてはいるものの、来る可能性は限りなくゼロに近いとのことだった。

 何だか各々の来て欲しさに比例して、来させる難易度が上がっているイメージ。

 それで行くと、オレンジは果たして駄々を捏ねていいのかどうか、判断が難しかった。

 久し振りに会いたい気もするけれど、そんな無理強いを言っていいものか。言える資格が、自分にはあるのだろうか――

「オレンジは呼ばないの? 今の見違えた姿、見せてあげなよ」

「……でも、その、お仕事が忙しいと、思うから」

「言うだけならタダよ。駄々だって、いつかは捏ねられる日すら来なくなるのだから、言える時に言っておいて損はないと思うわ」

「私だってあんな事言ったけどさ、いつも会いたい時に会えなくて寂しく感じる事だってあるし、会えるなら会いたいって気持ちを素直に伝えておいた方が……いいんじゃない?」

 ディマーナは照れた様子で、泳がせた視線を向こう側へと追いやりながら言う。

 彼女も先程は嫌がる素振りを見せていたが、会えないとなるとやはり寂しいのだ。何だかんだ言って結局会いたくて、会えないと寂しいのは他二人と変わらない。

 だからこそ、響いたのかもしれない。

 感情が口にしなければ伝わらないのと一緒で、心も伝えなければわからない。対面していないのだから猶更だ。

 だからこそ本当に思っているのなら伝えるべきだし、綴るべきだし、駄々を捏ねるべきだと、三人は言う。

 そして、自分の気持ちはもう、再度確認する必要もなかった。

「……今度、お手紙に書いてみます」

「うん。来たら紹介してね」

「オレンジの姉妹かぁ……何か萎縮しちゃいそうねぇ。美人揃いだったりする?」

「身内の評価なんて、一番難しい質問だと思うわ。何とも言い難いし」

 会えるかどうかわからない。

 けど、会いたいと思うことは罪ではないし、会いたいと言っちゃいけないなんて事はない。会いたいと伝える事もまた、どの国の法も犯さない。

 だから手紙に書く事は悪いことではないのだけれど、何と書けばいいのか、どんな言葉を綴ればいいのか、まったく思いつかなかった。

 口にするだけでも難しいのに、一度書いてしまうと訂正が効かない文章は、言葉選びがより難しい。

 普段の手紙でも悩みながら書いているのに、一体何と伝えれば会いに来てくれるのか。

 悩めば悩むほど、言語の沼に嵌っていく。語彙の壺へと入れた手が、どれを掴んでいいのか迷ったまま、戻せぬままだ。

 結局何と綴ればいいのかわからなくて、書けないまま机に伏して眠る日が、その日から連日続く事となった――


  *  *  *  *  *


 もしも私に両親がいたなら。

 もしも私に家族がいたなら。

 もしも私に兄弟、姉妹がいたのなら。

 私は祝福しただろう。私は殺すほど呪っただろう。幸せだっただろう。後悔しただろう。私は世界一不幸で、私は世界一幸せだっただろう。

 会いたい。会いたくない。知りたい。知りたくない。

 私は他の家族を羨むことなんてなかっただろうし、兄弟姉妹が欲しいだなんて羨むこともなかっただろうし、自身を孤独だなんて表現する必要さえ失う事もなかっただろう。

 戦争は私を一人にした。孤独にした。家族を羨み、妬む人にした。

 だからと言って敵国の兵士を怨むなんて事はしないし、国そのものを怨むなんて大それたことも出来ないし、怨んだところで家族も兄弟姉妹も手に入るわけではないので無駄なので、やっぱり怨んだりはしない。

 けれど、時折どこにぶつけていいのかわからない寂寥感を覚えて、苛立ちを覚えて、八つ当たりしたくなる。

 結局私は――ジェメニー・アリサは何がしたいのか、未だにわからない。

 どこか異邦へ行きたいとも思わない。誰かと一緒になりたいとも思えない。誰かを好きになる事も出来なければ、自分自身を好きにもなれない。

 だから私は淡々と、一日一日をただ過ごす。

 したい事もなく、やりたい事もなく、ただ食べて動いて眠って過ごす。

 無欲、無我の境地、だなんて聞こえのいい言い方はしたくないくらいに、何もない虚無の毎日を過ごして来た。

 そんなジェメニー・アリサが、初めて心を動かした。初めて欲しいと欲した人。

 その人は女性で、生徒で、自分など遠く及ばない美人で、相手になんてされそうになかったけれど、私は初めて感じた獣の衝動のような部分が満たされない感覚に恐ろしいくらいの渇きを感じて、我慢ならなかった。

 だから私はあの人を調べた。

 どこの生まれで、何をしてきてここに至ったのか。一から今までをすべて調べようとして、行き付いた。予想もしない角度、恐ろしい人へと辿り着いてしまった。

 けれどもしも会えたなら。もしも、願いを聞いて貰えたならば――欲しい。

 衝動はジェメニー・アリサを突き動かし、欲望を駆り立てて走らせた。

 私は家族が欲しい。

 私は兄弟姉妹が欲しい。

 私は彼女が――エスタティード・オレンジが欲しいのだから。

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