青年にとってのホーム
体が熱い。喉が痛い。
初めて龍族の血が体を巡った日よりもずっと、熱と激痛が全身を巡っている。
血と肉と骨、それらに組み込まれた無数のデオキシリボ核酸の総評に、エスタティード・オレンジは風邪と診断されていた。
夜の湖で、長らく語らっていたのが原因なのかどうかは置いておくとしても、体が酷く重くて指の一本を動かすだけでも億劫に感じるのだから、立ち上がる事なんて猶更億劫で、上半身を起こすだけでも重労働のようにさえ感じられる。
いつだったか、落ちて来た隕石を採取するために走り回って、熱にやられた時を思い出した。
「おぃっす! オレンジ大丈夫? お見舞い来たぞぉ」
さながら土砂崩れのような勢いで、扉が蹴破られたかと思った。
彼女の中では非常に軽いモーションから繰り出されたのだろうが、
故にオレンジの体に障ることはなかったのだが、誰もおらずに静まり返った部屋そのものが、喧騒の類を寄せ付けんとする空気を発して、静かにレッド・ディマーナを責め立てた。
「……ごめん、うるさくして。梨、食べる?」
耐え切れずに謝罪したディマーナは、青青しい果実が入ったバスケットを差し出しながら、遠近法を使って隠れようとする。
が、残念ながらバスケットを差し出した距離と自身の背丈とが合っておらず、オレンジの視界にははみ出した彼女の体躯がボヤけた視界ながらに見えていた。
とりあえず、その場は互いにそのまま収め、ディマーナが剥いた果実を食べる。
隣にアザミがいれば何かしら言われていただろう不格好な様だったが、青青しい皮の下に隠れていた白い果肉に滴る果汁は、オレンジの喉を潤すにも最適で、挫いた出鼻を取り戻す分には丁度いい代物だった。
ただ、オレンジは剥いて貰っただけでは喉を通らないので、剥いた上で擦り下ろして貰う。
「オレンジが風邪とか、みんなビックリしてたよ。あの子も人形じゃなくて、人間だったんだなぁって感じ? 失礼しちゃうよね」
「……仕方ない、かと。私の事を、裏で化け物と呼ぶ人も、いました、から」
「はぁ?!」
突如ディマーナが立ち上がった事に、オレンジは驚く。
果実を刺していたフォークを噛み千切って、両手の拳を甲高く鳴かせた時にはまた驚いて、熱が上がってしまったかと思わされた。
「何それ! どこのどいつ、それ?! あたしが一発ぶん殴って来るわ!」
「そ、そんな……構いません。ただ言われているだけですから」
「いいや黙らないわ! 黙ってなるものですか! いい?!」
ディマーナの指が、真っ直ぐにオレンジを差す。
「あんたはとにかく、自分の事で感情が動かなすぎるわ! もっと自分自身を大事にして! 自分自身に興味を持ちなさい! 誰かのために何かするのもいいけれど、あんたも自分自身のために動きなさいよね!?」
息継ぎをする事なく一息にまとめて全て言ったため、ディマーナはぜぇぜぇと息を切らす。
勢いに負けて、何より体の気怠さで抵抗する力がなかったオレンジは素直に頷く事しか出来ず、反論なんて元々するつもりもなかったけれど、とにかく何も言えなかった。
ただ、ディマーナが何故そこまで怒っているのかがいまいち理解出来てない顔をしていると、ディマーナは後頭部をグシャグシャに掻き混ぜてから、また真っ直ぐに指差した。
「あんた、私が誰かに悪口言われてたら怒るでしょう? この前だって、嫌な顔してたもの。それと同じよ。あたしだって、友達が悪く言われてたら気分が悪いのよ」
「な、るほど……でも、私の事ですから、別に」
「だぁかぁらぁ! 自分をもっと大事にしろって言ってんの! 私なんて別に……なんて自虐、二度と言わないで! あんただから、あたしは友達になりたいと思ったの! わかる!?」
「……は、い。わかり、ました」
「はい、よろしい! じゃあ食べて! さっさと元気になって、化け物とか言ってた連中見返してやるわよ!」
「うん……」
どこか懐かしい感覚。
初めて熱にやられた日にも自分を気遣ってくれた、あの優しい赤髪のホムンクルスは、今頃どうしているだろうか。
精霊族の王子の下へ行ったと手紙にあったが、と言う事は精霊族の王女様になったのか――と、そこまで想像して苦笑した。今まで出会った王女の像と比べると、彼女の性格とはあまりに合っているようには思えない。
だが理解ある
「何、なんか面白い事でもあった?」
「いえ。ありがたく、頂きますね」
その後、ディマーナは授業があるからとまた、扉を破壊しかねない勢いで開けて出て行った。
食べるから擦ってくれるかと頼んで果実を擦り下ろして貰ったのだが、擦り下ろした果実が山のように皿の上で堆積していて、食べやすさはともかく、食べきれるかという心配が強かった。
* * * * *
ディマーナが部屋を飛び出してから一時間と、三〇分くらいの時間が経った頃。こんこんこん、と扉が軽やかなリズムでノックされた。
喉が痛かったので、返事の代わりに三回拍手をして応えると、アザミ・ハイドが大量の実験用具をバッグに詰め込んで、一生懸命に引きずりながら入って来た。
部屋に入ると机の上に実験用具を広げ、テキパキとした手際の良さで持ち込んだ薬草から、簡単な風邪薬が量産されていく。
「あなたが風邪と聞いて、慌てて仕入れて来たの。どれも粗末な品だけれど、そこはそれ。私の腕の見せ所とするわ」
「あり、がと……」
「ま、こんな時に私ほど頼りになる友達もいないわよね。存分にありがたく思って頂戴」
とは言うものの、そこまで面倒にも億劫にも感じてないらしいことは、頭の天辺から生えている髪の束の跳ね具合が教えてくれていた。
本人に言うと、「犬の尻尾みたいに見ないで頂戴」と怒られてしまうが、彼女の喜怒哀楽は大体、頭の天辺から生えている髪の毛の跳ね具合でわかる。
嬉しい時は揺れ動くし、怒っている時は捻じ曲がる。落ち込んでいる時にはヘンナリしたりと、本人より正直だ。
「うん……三九度八分。まだ辛いでしょう。解熱剤を作るから、しんどい時に飲んで頂戴。ただし、五時間に一回が適量だから、飲み過ぎは禁物よ。いいわね?」
「わかった……」
「じゃあ、今飲んじゃいましょう。体、起こせるかしら」
小さな体に、一生懸命体を起こすのを手伝って貰う。
申し訳なく思っていると、「将来の予行演習よ」と心の中を読まれて突っ込まれた。
アザミは将来、薬を調合し処方する職に就きたいと言っていたから、直接の医療業務には当たらないはずだが、本人曰く、医療業務もこなせなければプロじゃないらしく、周囲より小さい体というハンデにも負けじと頑張っている。
自分の理想に負けないよう努力する姿は、どこか金髪のホムンクルスと重なった。
恥ずかしがり屋が高じて、全身鎧兜に身を包んだホムンクルス。しかし、原点は誰にも負けない騎士道への憧れであり、
彼女は今頃どうしているのだろうか。
かの国の騎士とは、その後も関係は続いているのだろうか。いい人そうだったから大丈夫だとは思うのだが、彼女は自分を卑下する癖があるので少し心配だ――などと、自分を棚上げにしてみる。
一度、博士に「『類は友を呼ぶ』んだネェ」と言われたことがあったが、ようやく意味がわかったような気がした。
「ホラ、少し苦いけれど飲みなさい? 良薬は苦いものよ」
赤く腫れた喉に、直接張り薬を張ったような刺激が襲って来る。
思わず
「お利口ね。偉い偉い」
背伸びしても届かないので、ベッドに両膝を乗せて頭を撫でられる。
初めて文字を覚え、本を読めるようになったとき、緑髪がそうして撫でてくれた光景が思い起こされて、彼女は元気かと思いを馳せる。
数人いたホムンクルスの中でも、一番しっかりしていた彼女に特別な不安要素はないのだが、自分が体調を崩したように、体調の変化はわからないものだ。不意の病魔にやられていないか、元気でやっているかが気になった。
「どうしたの。薬を飲んで、何か違和感でもあったかしら」
「……いえ。薬を頂き、気分が落ち着き、ました。老齢の医師が処方してくれた薬より、苦いので、多分効くかと、思います」
「嬉しいことを言ってくれるわね。褒めても薬しか出さないわよ」
そう言って、アザミは毒々しい色の薬を残して部屋を出て行った。
次は喉に効く薬を作ると意気込む彼女の頭で跳ねる髪は、やる気に満ちて逆立っていた。
* * * * *
それから更に二時間くらいして、日が傾き始めた頃合いだった。
「オレンジ、入って大丈夫?」
「……大丈、夫」
「具合どう? お見舞い持って来たよ」
いつだったか、青髪が一部の看護師が白衣の天使などと呼ばれているらしいと教えてくれたが、オレンジの部屋に本物の天使がやって来た。
広げる翼こそないものの、天使は救いの手を差し伸べてくれる。
具体的には、オレンジが貰えなかった授業のプリントと、宿題が記載されたメモ用紙である。ワルツェ・ダンティエリオは、それらに見舞いの品として、色鮮やかな花束を添えて持ってきてくれた。
窓際で空のまま置かれている花瓶を見つけて、早速部屋に色彩を齎してくれる。
部屋に入った最初は花瓶にも花があったのだが、時期じゃなくなって枯れてしまって以降は何も入れていなかった。
「ちょっと殺風景だったけれど、お花あるだけで変わるよね。オレンジの好みがわからなかったから、完全に私の趣味だけれど」
「とても、綺麗ですよ……ありがとう、ございます」
花は確か、咲いている土地の酸性かアルカリ性かで色を変える特異種だったはず。
品種改良で虹の七色が再現可能と聞いたことがあったけれど、本物は初めて見た。紫髪が見たら、喜んでずっと眺めていそうな美しさだった。
彼女の夢、虹の天輪には、いくらか近付けただろうか。
「ディマーナとアザミは来たんだね。あの二人らしいや」
バスケットに入った大量の果実と、大型のフラスコに入った大量の薬が、質素な部屋の中で凄まじい存在感を放っている。
ディマーナとアザミが来ましたと、堂々と語っていた。
「じゃあ、私からはこれ」
「それは……?」
「お香だよ。薬と果実はあの二人が持っていくだろうなぁと思ったから。そんなにいい代物じゃないけれど、いい匂いがするし、喉にもとっても良いんだよ」
皿の上に置かれた細い棒状の香から、青白い煙が昇る。天上に届く前に色彩を薄くして消えてしまうものの、甘く、少し酸っぱい匂いは感じられた。
香に火を点けた指先の炎を握り消して、ワルツェは残りの香が入った筒を花瓶の側に置く。
「一本で三時間も効くらしいから、これだけあれば足りるかな。オレンジ、普段から香水とか付ければいいと思うんだけど、こういう匂いってもしかして嫌いだったりするのかな。その、今更なんだけどさ……」
「そのようなことは……ただ、どのような香水を付ければ良いのか、わかりかねます、ので」
「そっか。じゃあ私が今度教えてあげるよ。オレンジだって年頃の女の子だもの、おめかしする事を覚えないと」
「おめかし……」
銀髪のホムンクルスには、一度も指摘された事がなかった。
オレンジも同調はしていなかったけれど、特別彼女の考え方を寂しいと思ったことはなかったし、軍人に憧れ、軍人の一挙手一投足を完璧にこなす彼女には、尊敬の念すら抱いていた。
だが白と黒はそれを寂しいと思っていたし、今のオレンジも似たような感情を感じるようになりつつあった。
それは果たして、オレンジという少女にも洒落っ気なるものが現れ始めた証拠なのか。それとも別の要因か。
いずれにせよ、今までならばおめかしなどと言われてもピンと来ることさえなかったが、今の少女の胸の内には、燻る何かがあった。
「……はい、教えて下さい。風邪を、治したら」
「うん。約束だよ、オレンジ」
約束の証に、小指同士を絡め合う。
こうして約束を交わす友達が出来たことを、ホムンクルスの姉達はどう思うだろうか。
風邪のせいで心が弱っているせいか、今日のこの日というだけは何もかもが彼女達へと結びついて、何だかとても寂しくて、会いたい気持ちでいっぱいになった。
この状況、状態を、世間ではホームシックと言うらしいが、果たして自分にとってのホームはそこなのか、ホームと言っていいのか、オレンジにはわからなかった。
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