月桂樹の歌

 音楽は人から神々への問いかけであり、歌は神より人へ与えられた慈愛なり。

 されど人々の歌声は時代と共に神へ届く力を失い、次第に人々の娯楽にまで成り果てん。

 哀れむ人々はこの世で一番の美声を誇る男女引き連れ、地上より天上の神々へと届くようにと、地上で最も神に誓い月桂樹にて作った冠を被せ、人々の祝詞を籠めて歌わせた。

 だが祝詞に籠められた人々の思いは身勝手な自己欲求ばかり。神々は酷く落胆し、月桂樹から人々の声が天へと届く力を奪い取った。

 それを知らぬ人々は神々に祈りを届けんと月桂樹の冠を被り、今も尚歌い続けん。

 人は、今も昔も滑稽な生き物なり――


 *  *  *  *  *


――歌は人の歴史そのものだ

 博士の発言は、この神話から来ているものだった。

 そして今回、マエストロが指揮する公演にて披露されるのも『月桂樹の歌』という名前で、神話を題材に昔の人が作詞作曲したものを、今回マエストロがアレンジを加えたらしい。

 神話を題材にしたこの曲は十年に一度、有名な作曲家や音楽家がアレンジを手掛け、公演することになっている。今年はマエストロが、その大役を果たすというわけだ。

 かのマエストロの音楽を演奏できるとあって、演奏者は皆気合が入り、緊張していた。

 十年に一度の催しに選ばれるなど、身に余る光栄と同時、身に余り過ぎる重責。

 マエストロでさえ声を掛けた半数に荷が重すぎると断られたくらいに、こんかいの公演には世界中から注目が集まっている。

 博士が作成したホムンクルスの原型となったエルフも、元は公演への出席を容認したものの、後に周囲からのプレッシャーに耐え切れず、かといって一度引き受けたからには改めて断ることもできず、自責に圧し潰された結果、自ら毒を飲んで自死したとされている。

 それでも、彼女の演奏技術をマエストロは高く評価していたのだろう。およそ常人が簡単に手放せないだけの大金をつぎ込んでまで、彼女の演奏を今回の公演に欲したのだから。

 彼女と同様にマエストロが欲し、世界中からかき集めた演奏者や歌手が、此度の公演にて演奏を披露する。

 一世一代の大イベントと言っても、過言ではない。

 一週間の公演で、初日からの三日間は世界でも有数のV.I.Pと称される大富豪や実業家ばかりが招待され、一般市民は四日目以降のチケットを購入する必要がある。

 この形式になったのは今回が初で、理由は確実にマエストロが携わっているからだろう。

 さらに言えば、四日目以降に販売される一般用チケットも決して安い額ではない。マエストロの公演とあって、値が張るのは当然だ。

 ただ、高額過ぎるのは否めない。一般販売チケットでも、そこらの音楽家とは比較にならないほどの値段だ。とは言い難い。

 ましてや博士がオーダーした王室専用席ともなれば、V.I.Pと呼ばれる富豪らとて眉根が動く値段になる。それこそ二枚もとなれば、一般市民なら破産するだろう。

 しかし決して、誰も文句を言うことはない。文句を言うものの、それはもっと安く見たいなという程度の話で、丈に見合った席でなら、チケットを買えば誰でも公演に行ける。

 理由は至極当然で、公演を手掛けるのがマエストロだから。

 世界中の誰もが認める音楽家が手掛けるから、誰も文句を言わない。文句を言ったとしても、それはただの愚痴でしかない。

 最悪公演に行かなくとも、後々販売される蓄音器を買えば演奏は聴ける。それでもチケットを求める人がいるのは、彼がそれだけ認められている証だ。

 そして今日、世界的に注目を浴びるマエストロの公演が開幕する。

「凄い、人……」

 王族専用席に、王族と呼ぶには質素な少女が入る。

 王族専用席とはいわゆる上階に設けられたボックスシートで、他人にパーソナルスペースを害されない空間でゆったりと音楽を楽しめる、王家の特権を具現化したような場所を言う。

 銃器や魔術による狙撃での暗殺を想定し、組み込まれた魔術式。一酸化炭素による窒息や毒ガスなどの気体に対しても、すぐさま開口する換気口。

 出入り口は内側から鍵を掛けることができ、扉の外にも屈強なリザードマンが見張りをしていて、警備に関しては徹底されている。

 そんな席に入るのに、少女はあまりにも質素に過ぎた。

 その席に座る王族らの衣装、装飾代が、備えられている防犯術式、防犯装置、ガードマンの費用を軽く超えるのが妥当だというのに、彼女が身にまとう衣装すべてを脱がせて丸裸にさせたところで、ガードマン一人雇うことすら叶わない。

 故にガードマンらは訝しんだものの、王族専用席のチケットは偽造が叶うような代物ではなく、チケットが本物であるのなら、意匠に文句など付けても意味はない。

 公演の部隊となる劇場も、おそらく初めてのことであろう。王族専用席に、王族どころか一個人さえ確立されていない少女を座らせるのは。世界中から恐怖を集め、と呼ばれる獣を招き入れたことは。

「あの、えっと……もう大丈夫、だと思います。外からは見えないようになっているそう、ですから」

 少女の後をついて、同じチケットで入って来たそれを差す表現は、人によって異なるだろう。

 若いと言う人もいれば、老齢だと言う人もいるだろう。

 長身かつ細身と言う人もいれば、背が低くて小太りと言う人もいるかと思われるし、女か男かでさえ意見が分かれる。

 だが誰も嘘は言っておらず、適当にも言っていない。皆が皆見たままに言えば、意見が合わなくなるはずだ。

 彼の瘴気は、周囲の人間からまともな感覚を奪う。

 どれだけ薄くして、毒気を抜いたところで、人体に有害であることに変わりなく、一種の睡眠薬でも飲んだかのような眠気と、一時的幻覚作用を与えてしまう。

 周囲の人々を巻き込む形であることはあまり好んだ展開とは言えないものの、それでも姿を偽れるという点では、この場では好都合と解釈するしかなかった。

 でなければ、彼が少女の懇願に折れて来てくれることは、多分なかっただろうから。

 抑えていた瘴気が一瞬、破裂したように溢れ出す。

 毒気を感知した換気口が大きな音を立てて急速で吸い込み、完全に除去された頃には、レキエムは災禍としての異形を暴露していた。

 唯一瘴気を発生させない場所。少女オレンジの隣へと、ゆっくりと座す。

 あらゆる種族に対応してのことだろうが、レキエムでも座れる大幅な椅子があった。

「あの、ごめんなさい……やっぱり嫌、でしたか?」

「否。ただ、戸惑っているのかもしれぬ。生物の一つも寄り付かぬ終結の霊峰に暮らす私が、またこうして人の社会に身を投じることなど、考えてはいなかった。こうしてまた、多くの人を目の前にする日が来るなどと――誰かを隣に『月桂樹の歌』を聴けるなどと、思ったこともなかったのだ」

「レキエムさんもご存じ、なのですね」

「『月桂樹の歌』ほど、世間に知れ渡った歌もない。悲しく憐れな神話より生まれ出でて、およそ千年。これまで百を超える音楽家によって、その者の流儀に変えられようと、決して色褪せず、むしろより一層の力強さを時代に残す歌であった。私の時代にも、色濃く残っていたよ」

 博士は特別何も言っていなかったが、単純に興味が薄かっただけか。

 確かに見える範囲にいる下の客席を埋めているのも、富豪やV.I.Pだけとはいえ、歳を召した人達が多い。若者はオレンジを含めても、本当に数えられる程度だ。

 それに気付くと、オレンジは猶更聞きたくなった。

 千年もの長い間、脈々と受け継がれる形で遺されてきた神話時代からの歌に。

 今や月桂樹の冠は意味を成さずとも、一度は天に届いたとされる歌に、オレンジは強い興味を持っていた。

 人から神々への問いかけとされる音楽、歌の根源。神話にも描かれる歌の実体を。

 そして一緒に聴くのなら、彼がいいと思っていた。災禍だからダメだと最初から除外していたものの、本音では彼と聴きたいと思っていた。

 歌から災禍へと変えられてしまったという彼に、音楽の公演なんて失礼だとさえ思ったものの、それでも我儘を突き通していいのなら、彼がいいと思っていた。

 理由を突き詰められると、オレンジ自身完璧な説明はできないのだけれど、彼と一緒がいいと思う自分がいることを、オレンジは否定しなかった。

 本当に、なんとなく。でも出来ることなら、叶うことなら、彼がいい。彼と一緒がいい。彼の隣がいい。彼と聴きたい。行きたい。話したい。

 そう考え、思う気持ちを理解できてはいないし、説明できないし、整理することもできないのだけれど、気持ちであることだけはわかった。

 青髪曰く、その気持ちはオレンジという少女の本音。

 赤髪曰く、ふと思い浮かんだ相手こそ、意中の相手。

 緑髪曰く、叱られた時に思い起こす人こそ、助けてほしい人。

 黒髪曰く、他人に理解させることが出来ない唯一の感情が好意。

 白髪曰く、説明できない感情を寄せる相手こそ隣に置くべきだという。

 金、銀、紫のホムンクルスからは何も教えて貰えなかったけれど、五人の言うことが自身にも該当するのなら、オレンジは確かめたかった。

 何も持たない自分という少女が、強く抱いた感情の正体を。

「私も昨今の俗世には疎い。しかし、かの歌が今も尚根強く残っていることを知り、安堵した。我――私はまだ、世界から切り離されてなかったのだと。この歌が今も尚、神のいる天に届くこと叶わずとも、我が耳に届いてくれることに、私は、安堵しているのだ。だから、私をこのような場所に呼び寄せてくれたこと、感謝する」

「私は、我儘を言っただけです。博士が色々と用意してくれた、からですし……」

「其方の我儘が、私を幸福にしているのだ。魔術師も、其方の頼みであったから、私をここに置く準備を整えてくれた。其方にしか、私をここに来させることはできなかったのだ。だからこそ、私は感謝を述べねばなるまい。だからこそ、私は感謝を述べるのだ。

 月桂樹の冠は、神へと歌を届ける力を失った。

 しかし時代を超え、災禍と少女を繋げるだけの力はまだ残っていたのかもしれない。

 それこそ、神に近しい所業を成し遂げるだけの神話の歌が今、披露されようとしていた。

 開幕と共に、マエストロが深々とお辞儀する。

 客席から送られる拍手を受けて、背を向けたマエストロが指揮棒を掲げた瞬間、一拍の刹那で以て作られた静寂を、世界屈指の奏者らが奏でる戦慄が突き破り、選ばれし二人の歌い手が、月桂樹の冠を頭に乗せて、歴史に刻まれる祝詞を天へと捧げた。

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