「初めての瞬間に楽しめるか否か」

 マエストロ、シャンクス・ディムート。

 幼少期より手に取った楽器すべてを巧みに演奏し、若干一三歳で大人も参加するピアノのコンクールにて優勝。以来、様々な分野で分野で活躍する音楽家。御年一五〇にもなる重鎮である。

 歳を聞けば、よぼよぼの老人を想像するだろうが、最長で三百年生きると言われるドワーフと人間の間に生まれたハーフである彼は、顔の皺こそ多いものの、その指は未だ若かりし頃にも劣らぬほど軽やかに旋律を描く。

 故に老齢ながら未だ現役であり、第一線で活躍するピアニスト。

 ただ、天才ならではというべきなのか、一癖も二癖もある老人らしく、人嫌いという噂もあって、周囲からは距離を置いた丘の上に住んでいる。

 そんな彼から仕事の依頼が来たときには、博士も驚いたと言っていたものの、オレンジにはその言葉が本気でないことはわかっていた。

 博士は仕事を選ぶものの、相手が誰であるかは、仕事を選ぶ理由の中に入っていないからだ。

 今までの仕事相手を見れば、語るまでもないだろう。

「それで、ホムンクルスは用意できているのだね」

「あぁ、問題なく。おまえの言っていた日には充分間に合うサ。今日は今までやってこなかった報酬について、話し合いに来た」

「フン、やはり金の話か。外道の魔術師とは、的を得た通り名だな」

 一五〇の老人に対してもおまえと呼び、タメ口で話す博士相手に、マエストロはあからさま機嫌が悪そうで、隠すつもりもない様子。

 眉間に刻まれた皺は深く、会った時からずっと寄っていたので、他の皺よりずっと深く刻まれているように思えたのはきっと、オレンジだけではあるまい。

 葉巻を吸うマエストロの眼光は鋭く、煙の奥から射殺さんとばかりに絶えず博士を睨んでいて、オレンジはずっと、怖くて博士の隣で袖を掴んでいた。

「まぁ、私のところに来る者など、公演の相談か金の相談かの二種類しかいないがね。こんな小高い丘の上にわざわざ来る奴など、そんな奴ばっかりで困る」

「だが今回はおまえが私を呼んだんダ。それも仕事の依頼デ。ならば報酬の話は必然ではないかネ? それとも老人なら無償でやりましょうなどと言ったかネェ。ついにマエストロもボケたか」

「はっ、言ってくれる。私にここまで噛み付いて来る奴は珍しい。同じ音楽家なら、手を回して潰してやったものだが」

「おぉ怖い怖い。そうやって自分を大きく見せようとして、必死じゃあないカ。先祖がドワーフだから、さぞコンプレックスだったのだろうネェ。可哀想ニ」

 マエストロはこれ以上なく腹立たしい様子だ。

 いつもなら誰もが敬語で話してきて、失礼のないように接して来るだろう。

 だがこの外道魔術師はこともあろうに、客を相手に人種差別をも織り交ぜた暴言さえ吐いておちょくってくる。例え同じ業界にいたとしても、おまえに蹴落とされることはなかったと言わんばかりに笑みを浮かべて。

 ただ博士は、単純に楽しんでいるようだった。

 普段恐れられたり、すでに見知られている友人におちょくられたりの博士に、こうして正面から口で勝負してくる人はほとんどいなかったから、久々に現れて嬉しいらしい。

 何より博士の方が何枚も上手の様子なので、音楽界の重鎮を言い負かすのが楽しい様子だ。オレンジもこのときばかりは、博士の性格の悪さを否定し切れなかった。

「貴様、それが客に対する態度か?」

「おまえこそ、それが物を頼む奴の態度かネ。音楽の世界でどれだけ重鎮だろうと、私には関係ナイ。そもそも音楽が出来ると言うだけで、おまえとそこの道を散歩してる老人と何が違う。才能に恵まれただけでふんぞり返ってる奴に、向ける誠意など持ち合わせていないヨ。持ち上げて欲しいなら他の奴に頼みナ」

「……やはり貴様になぞ頼むんじゃなかった」

「ならキャンセルするかネ? ま、困るのはおまえだが」

 マエストロは苦虫を嚙み潰したように歯を食いしばり、あからさまに悔しがる。

 仕事の内容は依然変わらずホムンクルスの作成なのだが、今回は花嫁ではなく奏者を作って欲しいとのことで、今回作ったホムンクルスが数日後のコンサートで演奏することになっていた。

 故にマエストロは博士に仕事を断られると非常に困るわけで、これ以上強く言えなくなっている様を見てますます面白がっている博士が楽しそうなのを見て、オレンジは申し訳なさが増していく。

 ただ、相手も相手で懲りずに返してくるものだから返り討ちに合うわけで、自分のプライドを優先して公演を台無しにし兼ねない辺り、普段どれだけ丁重に扱われているのか見えた気もした。

 まるで各国の貴族、王族のようであるとさえ思ったくらいだ。

 音楽の世界でどれだけこの老人が凄いのか、正直オレンジにはまだわかっていないものの、なんだか偉そうだなというのは、会ってからずっと思っていた。

 無垢なオレンジでさえそう思うのだから、博士からしてみれば大層気に食わないことだろう。

 だから彼のような人間を思い切り言い負かせるのは、博士にとってかなりの爽快感なのだろうが、博士の意地の悪さがこれ以上なく見えてしまって、オレンジの中では申し訳なさが勝っていた。

「まぁいい。金ならいくらでもある。報酬額は勝手に決め給え」

「そうかネ? では特別なホムンクルスでもないから、基本料金で構わないヨ。後、そうだネ。私のホムンクルスが出る公演のチケットを二枚、王室専用席で貰おうカ」

「馬鹿を言え! 王室専用席をそう簡単に用意できるものか!」

「おやおや、金ならいくらでもあるのだろう? それにまさか音楽界の重鎮、マエストロの称号をも貰った男が、まさか公演チケットも用意できないだなんて言わないよ、ネェ?」

 本当に楽しそうだ。

 言葉で勝つなら、普段から負けなしだろうに。

 まぁ例外的に、博士を良く知る相手にはどうにも調子が出ないようだが――とまで思って、以前亡くなった女性騎士を思い出し、胸の中にモヤがかかる感覚に襲われた。

 が、老人の怒号が一挙に掻き消す。

「三日待て! 二枚以上は出さないからな!」

「だろうから、二枚と言っているんだヨ。金が大量にあると言ったところで、たかが知れているからネェ」

「用が済んだらさっさと出ていけ! 金もチケットもくれてやる! さっさと出ていけ!」

 仕事で来ているのに、なんだか悪いことをしたかのように怒鳴られ、追い出される。

 だが博士は「うるさいジジイだネ」と悪態をつき、確実に聞こえるくらいの大きな舌打ちを打つくらいに、まったくもって動じていなかった。

 そんな博士が隣にいるものだから、オレンジもそこまで怖くはなかったのだけれど、それでも胸はなんだかドキドキしていて、ちょっとだけ高まった鼓動を感じられた。

「さてっと……オレンジ、おまえ誰か好きな奴と公演に行ってきナ」

「え――その、博士が行かれるの、では?」

「いいや? そんな話はしてないがネェ」

 てっきり、ホムンクルスの様子を見るために行くと思っていた。

 でもいきなり好きな相手と一緒に、と言われても困ってしまう。

 ホムンクルスの誰かと行くのが妥当だけれど、青髪や赤髪はこの話が出ているとき興味なさげだったし、黒髪と紫髪は未だ治療中。

 一番仲がいいのは金髪なのだが、素顔を晒すまいと甲冑を着てしまうだろう。さすがにコンサート会場に甲冑が来てしまうのはマズい――ということを、ここ最近知った。

 それに今は騎士王国の騎士と文通を楽しんでいるようだし、そっとしておこうと思う。

 緑髪は、誘っても遠慮されそうだ。多分、耳と尻尾が周囲の注目を集めるのが嫌なのだろう。

 それで言えば、白髪は王女様と同じ姿のホムンクルスだ。混乱を生むことは目に見えている。

 と、なれば、残るは銀髪ただ一人になるわけだが。

「銀髪はやめときナ。あれは音楽とかまったく興味ないヨ。唯一興味を示したのは軍歌だけダ」

「で、ですが一番節度があるかと……」

「まぁ礼儀はネ。だが、それはおまえの一番行きたい相手かネ?」

「で、でも、その……私、初めて、ですし……周囲の皆さんにご迷惑を掛けないためにも、常識のある方が一緒にいた、方が――!」

 降り注いできたのは、博士の拳骨だった。

 突然の衝撃でオレンジは訳も分からず、激痛に涙を流しながら殴られた頭を押さえる。

 見上げると、今の今まで愉快に笑っていた博士が、苛立った目で見降ろしていた。

「初めての癖にあれこれ考えてるんじゃあないヨ。初めての時は余計なくらいにはしゃいで、後先考えずにその場に行って恥かく程度の気持ちで行けばいいんだヨ。おまえの年頃なんてそれくらい愚かでい給エ、大人の真似してあれこれ考えるのは歳を食ってからにしナ」

 怒っているのではない。叱っている。

 でも叱られている理由が、よくわからない。

 首を傾げていると、博士はわざわざしゃがみ込んで目線を合わせ、合わせた目線の真ん中に指を突き付けた。

「いいかネ。初めての瞬間なんて誰にだっテ、どの生物にだってあるんダ。その際どれだけ心配し、策を弄したところでうまく行くはずなんかナイ。ならまずは、その瞬間に楽しめるか否かだけを重視しナ。考えるだけ考えて、徒労に終わって疲れただけ、なんて初体験の何がいい。命に直結しないなら、まずは何も考えず飛び込みナ。あれこれ考えるだけでなく、無謀に飛び込むことも覚えるんだヨ」

「無謀に、飛び、込む……?」

「私は好きな奴と行けと言ったんだ。あれこれ事情だなんだ考えず、好きな奴を誘えばいい。断られたなら、また別の奴を誘えばいいだけの話ダ。あれこれ考えるまえにまずは行動しナ。考えるのは、その後でも遅くはないヨ」

 好きな人と一緒に。

 行きたい人を、ただ一緒に行きたいという理由だけで誘う。

 つまりは自分の欲を優先し、他人を自分の欲に引き込むということ。自分の都合に、他人を振り回すということ。

 無知な少女には大きく欠落しており、これまでまったく育たなかった、生きるためには直接関係ないという感覚。

 博士から出てくるとは思わなかった理論は、オレンジの中で新鮮過ぎるくらいに響いて、同時、一緒に行きたい人は自然と思いついた。

 思いついたから、考えて、訊いてみる。自分の欲に従って。

「博士、私――」

 誰かとどこかに行きたい。

 そう考えたのはもしかして、初めてなのかもしれない。

 その初めてはあの人がいいと、オレンジの心は告げていた。

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